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親の雑誌ブログ

戦争や空襲や疎開を体験された親御様から伺ったお話~5名様の取材記事をお届けします

世界の平和を祈る白い折り鶴とpeaceの文字

1945年に太平洋戦争が終わってから77年が過ぎます。
しかし、世界では戦争や紛争がなくなっていません。今この瞬間も恐怖の中で命の危機に直面している罪のない人々がいるのが現実です。

私たちは『親の雑誌』を通じて、たくさんの親御様のお話を伺い、お一人お一人の想いをまとめてきました。
その中には、戦争体験をお話してくださった方々もいらっしゃいます。原爆投下に巻き込まれた方々。東京大空襲のお話。沖縄本島での悲惨な状況。特攻隊の候補に選ばれた方、戦後の苦しい生活や、シベリア抑留のお話もお聞きしました。

そこで、今回は、戦争や空襲や疎開を体験された親御様から伺ったお話の中から、5名様のインタビュー記事を一部抜粋してお届けします。

私たちは『親の雑誌』取材から学んだ悲劇や悲劇を生んだ歴史、そして戦争の記憶と、平和を願う親御様の強い思いを発信し続けます。

毎日のようにB29やグラマンが飛んできた

親の雑誌インタビュー取材御園様

御園次雄さま
令和3年12月発行 / 福岡県在住・昭和3年生まれ

 昭和19年になると、毎日のようにB29やグラマンが飛んでくるんです。格納庫にあった飛行機は機銃操作でやられました。それで、飛行場にいたら危ないということになり、山の中に掩体壕(えんたいごう)という大きな豪を作ったんです。防衛隊といって、軍役が終わった高齢の人たちが、飛行機をその豪の中に引っ張っていってたんです。知覧には、今も掩体壕が残っています。

 飛行場で仕事しようとしても、朝10時くらいから機銃操作が始まるんですよ。飛行場には寄り付かないようになり、山の掩体壕の中で200人くらいが整備や事務の仕事をしていました。私は通信班でしたから、山の中に通信機を設置して、大刀洗などとやり取りをしていました。整備の人たちは、飛行機を整備する部品が必要なんですけど、ものがないんですよ。だから、自動車の部品などから再生していましたね。

 あるとき、お昼ごろ山の中で食事をしていたら煙が見えました。そこに爆弾が落とされて、挺身隊と言われていた高校生が10人くらい被害に遭いました。私がいた場所から近かったので、そこに行ってみたんです。木にスカートや着物の切れ端が引っかかっていてね。まだ目の前にそのときの絵が残っています。
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大阪空襲に遭うも一命をとりとめた

親の雑誌インタビュー取材金子様

金子徹さま
平成29年8月発行 / 静岡県在住・昭和6年生まれ

 大阪にいたのは私が中学1年生までです。中学校1年の3月15日に大阪大空襲があって、大阪は焼け野原になりました。お寺にはもちろん防空壕が掘ってあって、母親と子ども3人で入っていました。父親は他に用事があっていなかったのですが、慌てて帰ってきて、ここにいたら丸焼きになるからと出ろと言われました。そうしたら周りは火の海なんですよ。ずっと入っていたら、お寺が倒壊して下敷きになったかもしれません。父親が急ぎ帰ってきたから助かったんですね。

 近くの小学校が避難所になっていたので、そこで夜を明かしました。翌朝戻ってみたら家は跡かたもなく焼けていました。でも、隣の食料品店の倉庫が焼け残っていて、そこで缶詰などを見つけたんですよ。1日2日は食いつなげるなあと思いました。近くに親戚のお寺があって、幸いそこは焼けなかったので、しばらく家族ぐるみで生活させてもらいました。
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赤ん坊と子育てと戦争の記憶

親の雑誌インタビュー取材三浦様

三浦榮子さま
平成30年11月発行 / 埼玉県在住・大正6年生まれ

 長女の鈴子がまだ赤ん坊のころに戦争が激しくなってきて、石巻でも空襲警報がしょっちゅう鳴っていました。空襲警報が鳴ると、そのたびに鈴子をおぶってずっと田舎のほうに逃げるんです。知らない農家のうちに勝手に入って隠れたりしてね。それで、大丈夫だと分かると帰ってくる。明かりは全部消えていて真っ暗だったから、本当に大変でしたよ。それに、防空壕に入っているときに鈴子が泣くと、周りのみんなに「敵に聞こえる。泣かせるな」って言われてね。赤ん坊なんだから、「泣かせるな」って言われたってねえ。しょうがないから外に出て空を見てたら、飛行機がずっと向こうへ飛んでいくんです。秋田空襲があった日でしたから、秋田に向かっていたんでしょうね。そのとき、外の風が涼しくて気持ちよかったのをよく覚えています。

 東京のほうでは、空襲に遭って赤ん坊の手が知らないうちに焼けていたという話もあったんです。それで、綿入れの袖を縫って鈴子の手が出ないようにしていたから、それを暑がって余計泣いたのかもしれないですね。食べ物にはそこまで困らなかったけど、それでも着物だとかいろんなものを田舎のほうに持っていって、食べ物と交換してなんとかしのぎました。とにかく戦争は大変でした。戦争が終わったときは、「やれやれ、やっと逃げなくていい」と思ってほっとしたものです。
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戦争が激しくなって山形へ疎開

親の雑誌インタビュー取材藤田様

藤田美保子さま
令和2年3月発行 / 東京都在住・昭和4年生まれ

 女学校2年生のときに父が亡くなり、3年生で動員です。戦争が始まったときは、日本の旗を持って町を歩く旗行列を練習しました。姉と一緒に参加したんだと思います。動員は、中島飛行機でボルトを作っていました。丸い棒にギザギザを入れて切るんですよね。女学生が油にまみれて作っていたんです。場所は、三鷹の国際基督教大学があるあたりです。動員だから、いや応なしに行くんですよ。だから、そのときは全然勉強してないんですよね。

 だんだん戦争が激しくなって、疎開することになりました。疎開先は山形の鶴岡にある湯野浜温泉でした。母方の祖父である太田政弘の出身が十文字だったので、その関係なんですけどね。兄たちは、兵隊に取られていましたので、母と姉と3人で行きました。私たちはそこで終戦を迎えましたが、玉音放送の記憶はないんです。おじとお風呂に入っていたら、ねえやさんが飛び込んできて、玉音放送がこんなだったと教えてくれました。
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学徒動員で鹿屋航空隊へ

親の雑誌インタビュー取材梅北様

梅北四郎さま
令和2年1月発行 / 鹿児島県在住・昭和4年生まれ

 中学校4年になると、学徒動員に行くんですよ。私は鹿屋航空隊でした。海軍航空隊です。空襲のないときは外で仕事して、空襲になると防空壕に入って英単語の勉強をしました。戦争中の思い出は、爆弾でやられた航空隊の屋根をトラックに積んで片づけたりしたことです。あれは終戦の前、6月でした。自転車で航空隊の中を走りましたが、爆弾がいっぱい転がっていて走るところがなかったです。当時ここの航空隊で通門権をもらっていたのですが、おそらく民間では私を含め2人くらいしかいなかったです。

 戦争中は政治については何も考えなかったですね。日本が勝つとも思ってなかったし。今の鹿屋の航空隊の会議室で、あのハワイ真珠湾攻撃の案を練ったと聞いています。桜島をハワイに見立てて訓練したらしいです。その会議室は今もそのままあります。私はその会議室にしょっちゅう行ってはコーヒーを飲んでいました。私は戦時中もあまり不自由はしませんでしたね。地元の鹿屋航空隊にいたから。うちは農業していたから、米もありました。

 中学校4年生のときに終戦です。終戦は航空隊で迎えました。みんな涙を流していました。私は訳がわからんかったですね。終戦になって、航空隊からスコップを1本もらってきました。戦争が終わった日に家に帰ってきましたよ。そして、みんなまた学校に復帰しました。1級先輩の人たちも一緒に勉強しました。予科練から帰ってきた人が多かったですね。あと1カ月早かったら特攻隊に行ってた、という連中もいました。
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『親の雑誌』は平和への願いを発信し続けます

私たち『親の雑誌』は、一刻も早く戦争状態が終結することを願っています。
そして平和を願う、その思いを発信し続けます。

公園を散歩する高齢者夫婦

『親の雑誌 電子版』は、家族のための自分史作成サービス『親の雑誌』から生まれた、人々の人生を綴った人生メディアです。全ての人にはかけがえのない価値があり、その人が歩んできた人生は、たくさんの出会いで誰かの人生とつながり、この時代を織りなしています。お一人お一人が生きてきた人生にぜひふれてみてください。

投稿日:2022年03月23日