
三浦榮子として生きてきて
平成30年7月27日。
「THE三浦榮子」の発行にあたり、彼女が暮らす埼玉県越谷市を訪ねた。石巻の大きな商家に生まれ、恵まれた幼少期を送った榮子さん。大恋愛を経て最初の結婚をするも、幼な子を残して離婚。その後、再婚して2人の娘を授かり、夫の仕事を全面的に支え続けた。父母の思い出、戦争の記憶、子育てのこと、生き別れた息子との再会……2時間を超えるインタビューから、彼女の人生を追う―。
石巻に生まれて
大正6年に宮城県の石巻で生まれました。生家は、石巻駅の駅前でお酒やたばこ、塩など当時の専売品を扱う「石川屋」という大きな商店を営んでいました。町中の人が知っているようなお店で、お蔵も母屋もある大きな家でした。
父は民生委員をしていて、町の中のことをいろいろやっていたから、役所にしょっちゅう行ってましたね。学校の役員もしていたから、学校の朝礼にも時々軍服姿で来てましたよ。町で父を知らない人はなかったわね。父のお葬式には、のちのちまでの語り草になるほどのすごい列ができたんです。それくらい町に尽くした人でした。
母はおとなしい人でしたけど、自分の着物を貧しい人たちにあげたり、やっぱり町の人のために尽くすようなところがありましたね。それから、料理が上手でした。あの当時まだ珍しかったカレーライスなんかを作ってくれたりしてね。店の番頭さんたちから「おいしい、おいしい」って喜ばれてました。いろんなものを作ってくれたけど、得意だったのはちらし寿司。とてもおいしかったから、妹たちはあとで食べる分をこっそり別に作っておいて、夜中にまた食べたりしていたんですよ。
私は9人きょうだいの6番目です。男は兄が1人だけなんですよ。自分で言うのもなんだけど、私はすごくおとなしかったの。でも、好奇心はあったみたい。当時は女の人は自転車には乗らなかったんだけど、小学生のときに友達の弟が乗ってるのを見て、私も乗りたくなってね。自転車を借りて練習して、覚えたんですよ。
父は、それがうれしかったみたいでね。あるとき、うちの蔵に私のために買ってくれた自転車が置いてあって、びっくりしましたね。それに乗って父の実家まで行ったこともあったんですよ。いつもは人力車に乗せられて行ったりしてたんですけどね。父の実家は福村の旧家で、杉がたくさんあるから「杉屋敷」と呼ばれていました。かつて伊達政宗公が狩りに来たときに休んだところで、そのときに「杉屋敷」と名付けられたんだそうです。私は他のきょうだいに比べると言うことをよく聞くほうでしたから、父からはかわいがられていたかもしれませんね。
小学校は、家の近くの石巻尋常高等小学校でした。小学校のことはあまりよく覚えていないけど、石巻小は周りにお寺が多かったから、子どもたちからは「らんば(お墓)学校」って呼ばれていましたね。周りに米蔵が多かった住吉小は、ネズミが多いから「ネズミ学校」とか、そんなふうに学校にあだ名が付いていたんですよ。
女学校は、家から歩いて20分くらいのところにあった石巻高等女学校に通っていました。通学のときは帽子をかぶることになっていたのですが、帽子が嫌な人は折ってかばんに入れるんです。たまに服装検査があったのですが、かばんに入れている人は帽子に折り目が付いているから、かぶってないことがすぐ分かって先生に叱られるの。でも、私は帽子が大好きで、いつもちゃんとかぶって通学していましたから、叱られることは全然なかったんです。帽子は今でも大好きですよ。
女学校のころは、最初はテニスをやってたんだけど、先生に言われてバレーボール部に移ったの。でも、後衛だったから面白くなくて、途中でやめちゃったわね。私は計算が得意だったから、夜は父を手伝ってよく帳簿付けをやりました。父は、子どもたちの性格をよく見ていて、それぞれの子に合うような手伝いをさせていましたね。
京都時代
女学校を出て和裁の学校に通ってから、京都に行くことになりました。京都に嫁いだ姉の家からタイピスト学校に通うことになったんです。京都へは女学校の修学旅行で一度行ったことがあったけど、みんなの憧れの場所だったし、京都で暮らせるのはうれしかったわね。タイピストの勉強は、英文より和文のほうが文字が多いから難しかったかな。
タイピスト学校を卒業して、西京極にあった日本クロス工業という会社で働くことになりました。学校に募集がきたんです。そこではタイピストの仕事はなかったから、経理の仕事をしていました。計算は好きだから、仕事は面白かったですね。計算が合わないことがあると、間違いを見つけてすぐに指摘していました。取引先の人は、私がいつもしっかり指摘するものだから、顔を合わせる前はどんなベテランだろうと思っていたらしいんです。ところが、いざ会ってみたらまだ20歳そこそこの娘だったから、びっくりされてましたよ。
お給料は、お小遣いを少しだけもらって、ほとんど姉に渡していました。姉のうちにお世話になっていましたからね。会社では佐藤さんっていう仲のいい友達もできて、休みの日にはその方のうちに呼ばれたり、仕事帰りに丸物(マルブツ)っていうデパートに一緒に寄り道したりしたこともあったの。だけど、ずっとあとになって京都に行ったときに佐藤さんのうちに寄ってみたら、結核か何かで亡くなっていたんです。そのときはお母さんといろんな話をしましたね。
姉に子どもが生まれて、姉の子の面倒を見るために私が会社を辞めることになりました。会社勤めは面白かったから辞めたくはなかったんだけど、しょうがないからね。姉はもともと日赤の本社を卒業して聖路加病院で看護婦の仕事をしていて、京都で看護婦の仕事に復帰することになったんです。姉の子を連れて市場へ買い物に行くと、よく私の子だと思われましたよ。
最初の結婚
最初の結婚は23歳のときです。お相手の亀田誠一さんは日本クロス工業にいた方で、会社で知り合いました。亀田さんは、花街として知られる町の会長の息子でしたから、結婚を申し込まれたとき、義兄が「そういうところに妹はやれない」と反対してね。でも、亀田さんは「諦められない」と必死に食い下がったようです。姉の家で一緒にお世話になっていた妹の冨美子が「2人が出掛けるときには自分が一緒に行って、変なことはないという証人になるから」と私たちの間を取り持ってくれて、嵐山にお花見に行ったり、彦根城に行ったり、3人であちこち行きましたね。そして、結局は義兄の反対を押し切る形で結婚したんです。
結婚してからは、今までとは生活がまるで変わってしまいました。大きな家だから、いつも誰か人がいて、2人きりになることはほとんどないんです。「何もしなくていいから」と言われて、毎日美容院に行って髪をきれいに結ってもらって、着付けも全部男衆(おとこし)さんがやってくれるような生活でした。南座や宝塚なんかに行くと、すぐに貴賓席に案内されたりして。ちょっと普通の生活ではなかったですね。
結婚して2年目に長男の正明が生まれましたが、正明が生後4カ月のころに離婚することになったんです。亀田さんには、結婚する前から言い寄られていた芸者がいてね。亀田さんが私と結婚して一旦は諦めたようですが、私が石巻に少し帰ったりしていた間にまた何かあったのか、亀田さんがその芸者を身請けするということになったんです。その世界ではよくある話なのでしょうが、私は絶対に嫌でした。それで離婚したんです。まだ生後4カ月の正明とは生き別れとなりました。
東京時代
離婚してからは、一度石巻の実家に帰りました。でも、戦争が始まったころだったので、独り身でぶらぶらしていると徴用をかけられて軍需工場に行かされてしまうんです。それを避けるため、一番下の妹の久米子と一緒に、埼玉の浦和にいた妹の冨美子を頼って上京することになりました。それで、冨美子の旦那さんの紹介で有楽町にあった第一銀行に勤めることになったんです、久米子も一緒にね。第一銀行でも私は経理で、久米子は普通預金の部署にいました。久米子の部署はいつも計算がなかなか合わなくて、合うまでは帰れなかったから、いつも久米子の部署の仕事を手伝って、終わると2人で一緒に浦和まで帰っていましたね。
そんな生活を送っていたある日、立派な羽織を着た老婦人が突然訪ねてきて、私を嫁にもらいたいと言ってきたんです。その人はのちの夫のおばで、大森に住んでいました。石巻の実家の向かいには三浦金物店という金物屋があったんですが、夫はそこの弟なんです。私が離婚して石巻に帰っているとき、夫は金物屋を手伝っていて、うちの店にもしょっちゅう顔を出していました。私が早く片付かないと妹たちの結婚の妨げになるという気持ちもありましたから、夫との結婚を決意して、また石巻に戻りました。
石巻に戻って
昭和19年に夫と再婚して、その年のうちに長女の鈴子が生まれました。夫は、まあ普通の人ですね。遊んだりすることもない真面目な人。魚を食べるのが好きだったから、魚をさばくのがすごくうまくてね。なんでもさばいて、魚屋さん以上だって言われてました。アンコウまでさばけるんですから。器用だったんですね。テーラーの仕事をするために東京で修行していたのですが、兄が兵隊に取られて金物屋の人手が足りなくなり、石巻に戻っていました。夫は足が悪かったから、兵隊には取られなかったんです。
あとで京都の姉から聞いた話ですが、鈴子が生まれたばかりのころ、姉のところに亀田さんが訪ねてきたことがあったそうです。3歳くらいの正明を連れてね。亀田さんは「榮子さんともう一度やり直したい」と言ったそうですが、私が石巻で新たな家庭を築いたことを姉が伝えると、悲しそうに帰っていったということです。芸者を身請けした亀田さんは実家から勘当され、正明とその芸者を連れて東京に移ったのですが、結局芸者とは別れることになり、そのころは男手一つで正明を育てていたようです。その後、正明が病気になり、育てられなくなった亀田さんは、正明を常磐津の師匠をされている方のところへ養子に出すことになったそうです。
鈴子がまだ赤ん坊のころに戦争が激しくなってきて、石巻でも空襲警報がしょっちゅう鳴っていました。空襲警報が鳴ると、そのたびに鈴子をおぶってずっと田舎のほうに逃げるんです。知らない農家のうちに勝手に入って隠れたりしてね。それで、大丈夫だと分かると帰ってくる。明かりは全部消えていて真っ暗だったから、本当に大変でしたよ。それに、防空壕に入っているときに鈴子が泣くと、周りのみんなに「敵に聞こえる。泣かせるな」って言われてね。赤ん坊なんだから、「泣かせるな」って言われたってねえ。しょうがないから外に出て空を見てたら、飛行機がずっと向こうへ飛んでいくんです。秋田空襲があった日でしたから、秋田に向かっていたんでしょうね。そのとき、外の風が涼しくて気持ちよかったのをよく覚えています。
東京のほうでは、空襲に遭って赤ん坊の手が知らないうちに焼けていたという話もあったんです。それで、綿入れの袖を縫って鈴子の手が出ないようにしていたから、それを暑がって余計泣いたのかもしれないですね。食べ物にはそこまで困らなかったけど、それでも着物だとかいろんなものを田舎のほうに持っていって、食べ物と交換してなんとかしのぎました。とにかく戦争は大変でした。戦争が終わったときは、「やれやれ、やっと逃げなくていい」と思ってほっとしたものです。
昭和22年には、次女の暁子が生まれました。鈴子のときはお産婆さんのうちで産んだけど、暁子のときは自宅でした。暁子が生まれたのはちょうどお祭りの日でね。ちらし寿司とかいろいろ作ってたんだけど、お産になってしまって私は全然食べられなかったわね。
テーラーの仕事
戦後、夫は石巻でテーラーを始めました。でも、夫は体が悪くてしょっちゅう寝てばかりいたから、私も仕入れに行ったり、いろいろやりましたね。戦後で物がないから、洋服の生地は東京や名古屋まで仕入れに行かないと手に入らないんですよ。仕入れに行くと、汽車がすごく混んでいて大変でした。子どもたちも一緒に連れていって、東京にいた姉に預けたりしてね。買いに行っても、お金を出せばすぐに買えるというわけではなくて、ずっと待ってやっと売ってくれるような感じでした。生地を買ったら、それを肩に掛けて持って帰るんです。洋服じゃなくて着物を着ていたから、動きづらくて本当に大変でしたよ。
でも、生地を見て、どれがいいかを選ぶのは得意でした。わりと目が利くんですね。「いいものを買ってこないと」といつも思っていたし、生地を選ぶのはけっこう楽しかったわね。お客さんからも「榮子さんが選んだものはセンスがいい」と喜ばれていました。うちのテーラーは舶来のいい生地を扱っていたから、いいお客さんが付いてくれましたよ。
それから帳簿付けもやりましたし、掃除をしたり、店で働く職人さんたちのご飯の用意をしたりという仕事もありました。職人さんは縫製の仕事をするだけで、掃除とかは何もしませんからね。職人さんは多いときで4、5人、少ないときで2人ぐらいだったかしら。住み込みの人もいましたね。
子育てのこと
店の仕事もこなしながらの子育てでしたけど、子どもだけは立派にしなきゃといつも思っていましたね。石巻は習い事が盛んな地域だったこともあって、鈴子にはお琴を、暁子にはピアノを習わせました。暁子はバレエをやりたがったけど、「音楽なら年を取ってもずっと続けられるでしょ」ってピアノにさせたんです。子どもの将来を考えて、ずっと長く、年を取ってからも自分のためにできることを身に付けさせたいと思ったの。一つのことを始めたら、それを一生懸命やりなさいと子どもたちにはいつも言っていました。それで、鈴子は栄養士の資格を取り、暁子は音大の教官になったんです。すごいでしょう(笑)。
子どもたちには、ハンバーグやコロッケ、チキンライスなんかをよく作ったわね。あの当時としてはハイカラだったかもしれません。あとは蒸しパンもよく作ったかな。近所でお肉屋さんを始めた人がいて、そこの人がコロッケを売りたいって私に作り方を聞いてきたこともありましたよ。それで教えたら、その店のコロッケはうちとすっかりおんなじ味になったわね。
それから子どもたちの服は、私が生地を選んでデザインを決めて、職人さんに作ってもらってましたよ。だから、子どもたちは小さいころから英国製の生地のコートなんかを着てましたね。当時は既製服がまだありませんでしたから。
石巻から館林へ
昭和36年には、石巻の町の真ん中に家を建てたんです。建築職人も全部別々にこちらで指定してね。棟梁さんがよかったから、立派な家ができました。周りの人からは「旅館でも建つのか」って言われたりしましたよ。私は帳簿付けが好きだから、貯めるときは貯めなきゃと思ってしっかり蓄えて現金で建てたんですよ。
家ができたら、私の案で貸家も始めました。夫は病気で寝てばかりいるし、貸家をやればそっちの収入も入るからいいと思ってね。兄からは「旦那は寝てばっかりなのに、家まで建てて大したもんだ」って言われたけど、とにかく女の人がなんでもやんなきゃだめだと思うのよね。
昭和57年には鈴子に長男の真之介が生まれました。石巻に帰っての出産だったから、私も一緒に病院に泊まってね。生まれたのは4月だったけど、とても寒かったのをよく覚えています。4カ月ぐらい一緒に過ごして、毎日赤ん坊をお風呂に入れましたよ。孫はやっぱりかわいかったですね。鈴子はその後、夫の転勤で日光に行くことが決まって、私も一緒に送っていきました。2、3日日光にいて別れるとき、孫に「真之介」と呼びかけてもこっちを向かなかったの。それがどうも気になって、日光をあとにするとき体の中を風が吹くような感じがしてね。それから眠れなくなって、うつ病のようになってしまったんです。長男の正明と生き別れたときもちょうど4カ月のころでしたから、あのときのことがよみがえったということもあるかもしれませんね。
昭和58年に鈴子が館林に引っ越して、その手伝いに行ったときに「館林っていいところだな」と思ってね。東京にもわりと近いし、物価も安くていいなと思ったんですよ。そしたら、ちょうど石巻の家を買いたいという人が現れたので、すぐに売ることに決めました。そのころには石巻の家には夫と私しかいなかったし、ずっとこの家を持っていてもしょうがない、いずれはなんとかしないといけないと思っていましたからね。鈴子に「石巻の家は売って館林に行くからね」と電話をしたら、急な話にびっくりしていましたよ。私はやると決めたらすっと動くほうなんです。
石巻の家を売ったタイミングでテーラーも畳み、館林に移りました。鈴子と同じマンションに入ったから、孫の近くにいられるのはうれしかったわね。翌年には2人目の孫の宜哉も生まれたから、孫は2人ともよく面倒を見ましたよ。それから、私は出掛けることが大好きだから、しょっちゅう東京へ出てはデパート巡りをしていました。デパートでは、食器や飾り物を見て回るのが楽しいんですよ。あとは帽子も好きですね。帽子のコレクションはすごいですよ。出掛けるときには必ず帽子をかぶります。それから、歌舞伎座にも毎月行ったし、暁子と一緒に音楽会へもよく行きました。ピアソラまで聴きましたから。暁子はそのころ府中に住んでいたので、暁子のところに泊まることもしょっちゅうでしたね。
長男との再会
館林に移って数年たったころ、生き別れた長男の正明が館林まで訪ねてきたことがあったんです。突然電話がかかってきて、橋のたもとで待ち合わせて会うことになりました。その少し前に、京都の姉から正明が訪ねてきたという電話があったから、もしかして、とは思っていたんですけどね。
橋のたもとに立っていた正明は亀田さんにそっくりで、どきっとしました。正明は、小さいころは自分の母は芸者さんだと思っていたそうですが、あるとき京都の喫茶店で「あなたのお母さんは東北の色の白いきれいな人だった」とちらっと聞いたそうです。その芸者さんは色の黒い人だったから「あれ?」と思い、人をたどって聞いて回ったり戸籍を調べたりして私の存在を知り、住所を突き止めて石巻に行ったそうです。そうしたら石巻の家の隣に住む人から「引っ越して、今は館林にいる」と教えられて、館林まで訪ねてきたようです。
実は、別れてから一度だけ亀田さんと再会したこともありました。昭和41、42年ごろのことです。市会議員をやっていた京都の義兄のつながりで、25年ぶりの再会でした。亀田さんは「自分のせいで家庭を壊してしまい、本当に申し訳なかった」と詫びてくれました。そのときに、正明を養子に出したいきさつや、その相手先の常磐津の師匠のことは聞いていたんです。
正明とは生後4カ月のころに生き別れて以来40数年ぶりの再会でしたから、赤ちゃんのころの正明と目の前に現れた立派な大人の正明がうまくつながらなくてね。でも、まさか生きているうちに会えるなんて思ってもみなかったから、うれしかったです。それ以来、娘たちも正明ときょうだいとして付き合うようになりました。正明は、常磐津都㐂蔵の名で関西常磐津会の理事長として活躍しています。毎年東京の紀尾井ホールで主催している常磐津の会のときには、娘たちが手伝いに行ったり、ここ数年は年に1回は親子4人で食事会も開いたり、仲良くしているんですよ。
これまでを振り返って
今年で101歳になりましたけど、あまり実感はないですね。まさか100歳を超えて生きるなんて考えてもみなかったです。98ぐらいになるまでは自分の年なんて考えたこともなかったんですから。
10年ほど前から、越谷の今のマンションで暁子と共に暮らすようになりました。鈴子も同じマンションにいるし、娘たちが近くにいてくれるのはいいものです。1人だったら大変ですから。いい人たちに囲まれて、娘たちにもよくしてもらって、うれしいですね。
コメント欄
育児や家庭のことで気持ちが沈んでいたところ、三浦様の記事に出会いました。
ご家族とのご関係がとても素敵で、ご旅行に行かれた話はその光景が目に浮かぶようで楽しく拝読させていただきました。また、三浦様の行動力には励まされる思いです。私も将来周りの人達には笑っていてほしい。そのためにどう行動すべきか。
とても前向きになれるお話でした。
三浦様の波乱万丈の一代記もさることながら その行動力とお洒落センスに感動しました。
私も 幾つになってもお洒落心を忘れず 百歳目指して生きてみようかと思いました。
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