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THE御園次雄

令和3年12月発行 / 福岡県在住・昭和3年生まれ

同じ会社で仕事をやりとげたことが、自分の幸せ

御園次雄として生きてきて

令和3年7月2日。
「THE御園次雄」創刊号発行にあたり、福岡県糸田町に暮らす彼にインタビューを行った。鹿児島県知覧町で生まれ、6歳で父が他界、母ときょうだいで協力し合って生計を立ててきた。菓子職人となるため福岡へ移り、松尾製菓へ入社。チロルチョコの開発に携わる。 「同じ会社で仕事をやりとげたことが、自分の幸せ」と語る彼の思いに迫る―。

幼少期

 昭和3年8月7日に鹿児島県の知覧町で生まれました。生まれた家は四間しかなくて、その一間で生まれたと聞いています。昔は家で出産することが多かったですから。

 家は、藁ぶき屋根で出入りできるところが2カ所ありましたね。私たちは勝手口を使っていました。そこから、学校にも仕事にも行っていましたよ。前も後ろも山に囲まれたところで、田舎でも一番山の方に住んでいたので、田んぼまで10分くらいかかりました。そのころは馬や牛を飼っているのが一般的でね。私も牛を引っ張って行って田んぼを耕していました。長男、次男、私、準繰りで男きょうだいは手伝うんですよ。うちだけじゃなく、村中そうでした。

 父は6つのときに亡くなったから、ほとんど覚えていないんですよ。大工だったんですが、棟上げのときに屋根から落ちて、頭を打って脳膜炎になったんです。それから1年くらい寝たきりでした。父が私に用事を頼むんですけど、小さかったのでやりたくなくてね。わざと草履を脱いで、「今、裸足やから行かれん」とか言っていました。のどが渇くから、水を持ってきてくれと言われることが多かったですね。家から300メートルくらい離れたところに井戸があって、水汲みも子どもの仕事でした。

 父が亡くなったあと、母には働く場所がありませんでした。田舎ですから、今みたいに会社があるわけじゃないですからね。イモやコメを作っていました。コメは供出しないといけないから、作ったら国に出していました。

 小さいころは羽板(はねいた)やハマケリをして遊んでいました。ハマケリっていうのは、丸太を打ち合いっこして遠くに飛ばした方が勝ちっていうゲーム。何もないから、遊ぶものも自分たちで作るんです。手先はわりと器用でした。近所の友達と遊ぶことが多かったです。

小学校~陸軍飛行学校

 昔は子どもが多かったから、小学校では、ひとクラス60人で4クラスありました。私は勉強が嫌いやったから、クラスでも最下位に近かったです。悪いことをして、1日校長室に立たされたことがあります。女生徒の筆箱を下駄箱に隠すとか、いたずらしたんですよ。それがばれてしまって(笑)。必ず犯人がわかるまで追求しよったからね。

 クラブ活動はなかったですが、鼓笛隊に入っていました。運動会のときに笛とか太鼓とか、いろんな楽器を演奏しながら、100メートルのグラウンドを1周するんですよ。わりと歌とか芸事が好きだったから、鼓笛隊に入ったんです。戦時中のことやから、戦争に負けないように、勇気づけるような曲をやっていました。

 今は小学校は6年間ですが、私たちのころは尋常高等小学校といって、6年終わったあとに、高等科っていうのが3年間あったんです。今でいう中学校ですね。高等科のときは、卒業したら大刀洗の陸軍飛行学校に志願しようと思っていました。私たちが若いころは、みんな飛行機へ憧れを持っていたんですよ。操縦士になれなくてもいいから、受けてみようかと、ちょっと勉強しました。そしたら、前から10番目くらいの成績になったんです。試験には見事合格して太刀洗の通信班に従属しました。

 九州は各県に飛行場があって、その飛行場から5人ずつ大刀洗の本校に集まり、半年間、教育を受けるんです。本校では、分校にモールス信号で連絡を入れることなどを覚えましたね。卒業後は、知覧の飛行場で働き始めました。給料は1カ月に5円です。当時は、1銭あれば大きなお菓子が3つ4つ買えたと思います。父が亡くなってしまい、母は苦労して私たちを育ててくれていたので、給料は全部渡してましたね。

戦時中の記憶

 昭和19年になると、毎日のようにB29やグラマンが飛んでくるんです。格納庫にあった飛行機は機銃操作でやられました。それで、飛行場にいたら危ないということになり、山の中に掩体壕(えんたいごう)という大きな豪を作ったんです。防衛隊といって、軍役が終わった高齢の人たちが、飛行機をその豪の中に引っ張っていってたんです。知覧には、今も掩体壕が残っています。

 飛行場で仕事しようとしても、朝10時くらいから機銃操作が始まるんですよ。飛行場には寄り付かないようになり、山の掩体壕の中で200人くらいが整備や事務の仕事をしていました。私は通信班でしたから、山の中に通信機を設置して、大刀洗などとやり取りをしていました。整備の人たちは、飛行機を整備する部品が必要なんですけど、ものがないんですよ。だから、自動車の部品などから再生していましたね。

 あるとき、お昼ごろ山の中で食事をしていたら煙が見えました。そこに爆弾が落とされて、挺身隊と言われていた高校生が10人くらい被害に遭いました。私がいた場所から近かったので、そこに行ってみたんです。木にスカートや着物の切れ端が引っかかっていてね。まだ目の前にそのときの絵が残っています。

 通信は裏方の仕事ですから、私自身は怖い目に遭ったことはありませんでした。いつでも逃げられるような防空壕の中などでの仕事が多かったから、危なくはなかったですね。兄貴は兵隊に行って、姉さんも妹も、知覧の飛行場で働いていました。知覧の住民は、ほとんど軍事関係の仕事をやっていました。そうじゃないと仕事がなかったんです。

 昭和20年になると、知覧の飛行場が危ないということで、熊本の飛行場に引っ越したんです。熊本の宇土まで貨車で部品を運んで、そこから、熊本の飛行場までトラックで運ぶんですけど、私たちは歩いて移動しました。部品をトラックに積まないといけないので、人は乗れないんですよ。熊本で終戦を迎え、その後、鹿児島に帰りました。九州の汽車や道路はほとんど爆弾でやられてしまったから、歩いてね。1週間くらいかかりましたよ。鹿児島の本駅(現 鹿児島駅)に着いたら、街が焼けてしまっているので遠くの西駅(現 鹿児島中央駅)が見えました。そこから知覧までも歩いて帰りました。

左官屋をへて松尾製菓へ

 戦後は左官屋になりました。そのころは、左官屋と大工にニーズがあったんです。母親からも左官屋になってほしいと言われました。壊れた家も修理できるから、ってね。

 知覧の役場に左官の仕事をやりに行ったんです。当時は、職業安定所なんてないから、役場に求人が行くんですね。役場にいた同級生から「御園さん、福岡の田川でお菓子屋を募集してるから行かんか? こんな田舎におってもしょうがない。そこでお菓子作りを学んで、知覧に帰ってお菓子屋を始めようじゃないか」と誘われまして。左官屋はあと半年経てば、職人の免許をもらえることになっていましたが、免許は取らず、田川の秋山製菓で働くことにしました。

 秋山製菓は、飴をメインに作っていましたね。飴の仕事はそこで覚えました。秋山製菓でしばらく働いているときに、松尾製菓が駄菓子を何種類も作っているという話を聞きました。どうにかして、そこで働きたいと思いました。知覧に帰って飴屋をやろうと思っていたけど、飴だけでは商売にならないという考えもあってね。松尾製菓では、鹿児島出身の人が専務をしていたので、その人を頼って松尾製菓に入ったんです。

 松尾製菓では、飴の経験があるということで、キャラメルを作ることになりました。バナナ味とか、オレンジ味とか5種類くらい作っていましたかね。そこで4年間頑張りました。キャラメルも、その4年くらいはよく売れてました。でも、日本が経済成長していくと、アメリカから入ってきたコーラ等が売れて、駄菓子の売れ行きはどんどん下がっていく。昭和31年になると、どこも赤字だらけで、銀行も手を引く、問屋さんも原料を卸してくれない。倒産寸前でした。

 初代の社長は会社をたたもうと言ったんですが、2代目が、「これからチョコレートが売れるようになる。それに賭けよう」と言いだしてね。そのころ、子どもの小遣いが10円だったんですが、2代目が「チョコレートは高根の花だから10円じゃ作れん。ヌガーにチョコレートを塗って売ろう。御園君、君は飴を作れるから、ヌガーを任せる。チョコレートは俺がモロゾフから職人を雇ってくる」と。それがチロルチョコの始まりです。

 10円で売るんだったら、原材料含めて7円50銭くらいで卸さないといけない。でも、1本15円かかりました。これじゃ商売にはならないが、作ったものを捨てるわけにもいかない。駄菓子屋に持って行って、タダで置いてもらうことにしました。最初は全然でしたけど、1カ月くらいしたら売れるようになったんです。味の良さを分かってもらえたんでしょうね。売れる見通しがついたので、モロゾフから来た職人がチョコレートを、私がヌガーを担当して作るようになりました。

 2代目がチロルチョコを作る、と言ったとき、最初は反対しました。初代も反対していましたよ。10人くらいいた職人が、どんどん抜けて2人しか残らなかった。私は渋々賛成して、ヌガーの研究をしました。チョコレートを薄く塗る技術も開発しましたね。チョコレートは1キロ1200円するのに、水あめは1キロ100円だったので、チョコレートの量をどうやって減らすかが課題でした。やりだした以上は、倒産させたくない。当時は若かったから、朝から夜まで2代目と相談しながらやりました。

 4年目にやっと7円20銭くらいで売れるようになりました。それまでは、お金を貸してくれるところはありましたが、なかなか貸してもらえず、全部会社で払わないといけなかったんです。そうすると小ロットになるから高い。売れる見通しがつくと、原料も1トンとかで買えるようになって、単価がものすごく安くなりましたね。

 石油が高騰した昭和48年ごろ、原価が上がって、10円では売れなくなりました。三ツ山をひと山に切り替えたのが、石油ショックのときですね。三ツ山一つが10円。三ツ山を30円にしたら売れない。だからひと山を少し大きめにして10円で売ることにしました。それが定着して今のチロルチョコになりました。オイルショックのときから、今でも同じような値段で販売しています。

 日本の経済が発展して食料事情が良くなると、衛生面が厳しくなってくる。製造に関わる人が300人くらいいたんですが、その人たちへ衛生についての教育が重要になってきます。お菓子屋ですから、チョコレートから虫が出たとかが新聞に載ると、売り上げが下がるんですよ。製造自体は流れ作業ですから、安定させられます。でも手作業ですから、手洗いなどの衛生面には気を使いましたね。

定年なく働く

 昭和60年に定年で一度辞めたんですが、そのとき78億円までチロルチョコが売れるようになりました。当初は倒産しかかった会社が今では東京、北海道にまで商品を売るようになった。その功労者ということで今年(令和3年)の3月16日まで働かせてもらいました。2代目が「御園、お前は松尾製菓を再建してチロルチョコを完成させてくれた。普通は60歳で定年だが、工場に食堂をつくったから体が続く限り働いてほしい」と言ってくれたんです。最初は「食堂は素人だから、そこで働く人に嫌われたらできない」と断ったんです。そしたら、2代目の同級生の食堂で3カ月研修をやってくれることになりました。そこで、うどんやちゃんぽんなどの作り方を覚えました。

 最後のほうは、食堂は人に任せて、会社の芝生の手入れや、植木の手入れをやっていました。以前、事務で働く総務の部屋の空気が悪くて結核とか胃潰瘍になってしまったことがありました。観葉植物をおけば、空気をきれいにしてくれるということを聞いて、観葉植物の鉢を作るようになりました。挿し木で観葉植物を増やしていくんですけど、辞めるときに後輩にやり方を教えました。

 まだ辞めたくなかったですね。だけど去年(令和2年)、倒れて死にかかったんです。半年くらい入院してました。それもあり、さすがにここまでだろうということになりました。それまで1日も休んだことはなかったです。一度死にかけたから、長生きしますよ。

家族のこと

 家内とは社内結婚です。家内は18歳のときに松尾製菓に入ってきました。その当時、若い人が入ってくるのが珍しくて、ものすごくかわいく見えたんですよ。半年から1年モーションかけて、なんとか結婚しました。映画館にアベックで入ると周りからいろいろ言われるので、職人さんを連れて行って、一番見やすいところにあったアベック席に誘ったりしてね。

 昭和30年の3月21日に結婚式を挙げて、そのあと鹿児島の知覧、指宿に行きました。指宿は知覧から1時間くらいのところなので、私の家をねぐらにして。ホテルなんかに行くような時代じゃなかったですからね。家族からは、べっぴんさんを見つけたと言われました。若いとき、家内はきれいだったんですよ。今、家内は3年くらい入院しています。家内も松尾製菓の食堂で働いてたんですよ。景気が良くなかったときに、赤字を広げたくないということで、食堂を一度閉じたんです。私が定年になったころに従業員から食堂がほしいと要望がでましてね。

 家内はツワリが酷くて、初めの3人はおろしたんです。ツワリになると食べることもできず、血を吐くくらい酷かったので、本人の命が危ないということで。4人目のときに跡継ぎが必要だから我慢してほしいと言いました。1週間我慢したらケロっとしましてね。5番目のときは、ツワリもなかったです。初めて子どもが生まれたときは、やっと自分の二世ができた、とうれしかったですね。2人目は男の子で、女の子と男の子でちょうどいいなと思いました。

 私は遊び好きでもあったので、自家用車を買う人がほとんどいなかった昭和40年代に、トヨタのコロナを買いました。松尾製菓でも私が初めてでしたね。それを見せびらかすために、あっちこっちに子どもを連れて行きました。鹿児島に行ったり、海水浴に行ったりね。仕事が忙しかったので日頃の子どもの面倒は見られませんでしたね。家内がいろいろやってくれました。もうちょっと考えたらよかったと思うけど、忙しくて、考える余裕がありませんでした。

 今でも笑い話になってるんですが、長女の結婚式で私が泣いて、祝辞を読めなかったんです。子どものころを思い出してしまってね。家具屋に行って、タンスからなにからそろえるでしょう。そのときにいろいろなこと考えてしまって。この家具と一緒に行ってしまったら帰ってこないんだなと思うとね。結婚が決まったときはうれしかったですよ。長男のときは、嫁が来るからさみしくない。娘が増えるわけですから、うれしいだけですよ。

 孫は5人です。初孫のときは、向こうもこっちもにぎやかにお祝いしました。今でも初孫の写真は寝室に飾ってあります。ほかの孫は飾ってないんですけどね(笑)。孫たちには、早くひ孫を見せてほしいと思っています。

 孫が家に来てくれるのはうれしいです。私は会社一筋で生きてきたので、近所にあんまり友達がおらんのですよ。だから孫がくるのは楽しみですね。孫も小さいころは鹿児島や遊園地に連れて行きました。いろんなところに連れて行けた、そこは思い残すことはないですね。

振り返って思うこと

 終戦になって、鹿児島にいたのは22歳まで。23歳から福岡にきて、それからは会社一筋、松尾製菓一筋にやってきました。他のことはしていないとつくづく思います。4代目の社長までかわいがってもらいました。3代目にも、辞めたときに温かい言葉をもらいました。それに、私の功績を書いたものを幹部の前で読んで、みんなが私の功績を理解してくれたのは、うれしかったです。当たり前のことをしてきただけですけど、分かってくれたんだと思うとジーンとしましたね。

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