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THE金子徹

平成29年8月発行 / 静岡県在住・昭和6年生まれ

一所懸命に今を生きる

金子徹として生きてきて

平成29年4月20日。
「THE金子徹」創刊号の発行にあたり、彼が住む静岡県富士市を訪ねた。大阪府天王寺で生まれ、空襲に遭うも一命をとりとめ、丹波へ移住したという金子徹氏。静岡大学を卒業したのち、中学教諭として子どもたちの教育に力を注ぎ、校長としても活躍。私生活では、最愛の妻とともに2人の子どもを立派に育て上げた。2時間に及ぶインタビューから、常に真摯に生きてきた彼の半生に迫る―。

幼少期~大阪大空襲

 生まれは昭和6年、出身は大阪です。天王寺区のお寺で生まれて父親はそこの住職でした。兄弟は3人、私が長男で、下は、次男と三男、みんな男です。

 小学校のころはいたずらっ子だったから、その辺を飛び回っていました。寺の屋根のてっぺんに登って、屋根の上でいい気分でいたら父が帰ってきて見つかっちゃった。お仕置きとして、仏様を祀ってある下の広い物置に閉じ込められたんですよ。でも軽いほうでした。すぐ下の弟などは、お墓にくくりつけられ一晩過ごせと言われたこともありましたね。

 僕が5歳ぐらいのとき、寺に泥棒が入ったことがあるんです。庫裡に寝ていたんですけど、カタンと音がしたので、母が鍵をかけてなかったかもしれないと言ったんですよ。それで父親が様子を見に行こうとして障子を開けたら、その真ん前に泥棒が居たんですよ。父親が「何だ、お前は」と話をしていましたね。話をしている間に、母親の姪で行儀見習いに来ていた娘が交番に駆け込んだんですよ。警察官がガチャガチャ入ってきたらさっと逃げたね。翌日の新聞には、『豪傑和尚、説教和尚』と載りました。そんな思い出があります。母親は優しい人でした。しかし芯は強く根気強い人でした。

 大阪にいたのは私が中学1年生までです。中学校1年の3月15日に大阪大空襲があって、大阪は焼け野原になりました。お寺にはもちろん防空壕が掘ってあって、母親と子ども3人で入っていました。父親は他に用事があっていなかったのですが、慌てて帰ってきて、ここにいたら丸焼きになるからと出ろと言われました。そうしたら周りは火の海なんですよ。ずっと入っていたら、お寺が倒壊して下敷きになったかもしれません。父親が急ぎ帰ってきたから助かったんですね。

 近くの小学校が避難所になっていたので、そこで夜を明かしました。翌朝戻ってみたら家は跡かたもなく焼けていました。でも、隣の食料品店の倉庫が焼け残っていて、そこで缶詰などを見つけたんですよ。1日2日は食いつなげるなあと思いました。近くに親戚のお寺があって、幸いそこは焼けなかったので、しばらく家族ぐるみで生活させてもらいました。

寄宿舎生活

 しばらくして、兵庫県丹波の山奥に住職のいないお寺があって、来てほしいと言われたので、父は大阪の永元寺と兼務という形で行きました。中学2年のときに転校になって、私と下の弟は寄宿舎に入りましたけど、大変でしたね。中学校は1年生から5年生まであるんですけど、寄宿舎の各部屋にも1年生から5年生までいるんです。終戦前後ですから厳しくてね。起きるとまず上級生の洗面器に水を入れて、歯ブラシに歯磨きをつけて、どうぞと渡します。軍隊生活のようでした。下級生が掃除もやるんですけど、80メートルぐらいある廊下にずらっと並ばされて、上級生がそれっと掛け声をかけたら一斉に雑巾がけです。

 寄宿舎の消灯時間が9時ですから、テストのときの勉強は廊下の電気の下で上級生はやるんですけど、下級生はトイレの電気がついているところで勉強しました。食料事情も大変なころですから、朝はお粥みたいなのが出ます。イモご飯だってイモの中にご飯粒が入っているようなものだし、味噌汁にはイモの葉っぱが入ってました。唯一楽しみにしていたのは、月に1度か2度両親のもとに帰ることでした。母親の優しさを感じるんですよ。戻るときも食べ物を持たせてくれるんですけど、寄宿舎に戻ると上級生に取られてしまうんです。上級生が、これはこっち、これはかわいそうだから残しておいてやる、なんて言うんですが、おいしそうなものからなくなっていきましたね。僕らは上級生から散々いじめられて大変な思いをしましたから、自分たちが上級生になってからはやめようということで、僕が上級生になったときはそういう風潮はなくなりました。

 本を読むことが好きだったから、勉強も文学系が好きでした。僕たちの寄宿舎のすぐ近くに女学校の寄宿舎があったんですけど、上級生に「おい金子、彼女に出す手紙を書け」と、よくラブレターを書かされましたよ。「これじゃあ駄目だから、書き直せ」なんて言われてました。国語の教師になれたのも、上級生に鍛えられたからなのかもしれませんね。

静岡大学教育学部

 大学は京大を受けろと言われて、一応受けましたが、不合格でね。静岡市にある臨済寺はおやじの兄弟弟子が住職をやっていて、下宿させてくれるというので静岡大学教育学部国語科に入りました。すぐ下の弟も静岡大でね。バラバラに下宿するとお金がかかるので、同じ大学同じ下宿じゃないと、大学に行けなかったんですよ。下宿するには条件がありました。夏休みや冬休みには、頭を丸めろと。お寺の掃除や座禅、托鉢もさせられ、修行中のお坊さんと同じことをやりましたよ。お寺は学校のすぐそばにあったから、近くをよく学生が歩いているんですね。僕は休みの日には寺の草取りなんかをしていたので、同級生が女の子を連れて歩いているのを見かけると、羨ましかったですね(笑)。

 大学時代の思い出深いことのひとつは、芭蕉の研究をしたこと。卒論も芭蕉です。その流れから、弟と一緒に静大俳句会という、句会を作りました。もうひとつは、大学の学生食堂の事務長を任せられたこと。メニューの打ち合わせや、食費をいくらぐらいにするかなども話し合いましたね。お寺の食事が質素だから、それだけだとつらいんですよ。食堂でご飯を食べないともたないんです。

 教育学部で勉強するなら、教師になるのもいいかなと思っていました。おやじたちもそれを願っていましたし、教師をしながら住職もやれますからね。大学を卒業したら大阪に戻るつもりでしたが、こちらで就職することになりました。兄弟の誰かがお寺をやればいいと思ったんですよ。結局、一番下の弟がお寺を継ぎました。

中学教校員として

 教員免許は中学校と高校の両方取りましたが、採用が決まったのは中学校でした。国語の教師になって苦労したのは、大阪弁ですね。発音には気を付けたので、学校で指導しているときに「大阪弁じゃないんですね」と言われたぐらいです。

 一番初めの赴任は清水市の近くの興津川の上流にある、小島中学校です。初めの年は、中学校3年の学級外担任になりました。ラッキーだなと思ったのは、修学旅行で京都に行けたことですね。担任外だと責任もないから気楽でしたね。

 担任外であっても国語は3年生を全部受け持っていました。初任給が9600円でしたが、学校に行くには背広が必要なんですけど、背広が2万円ぐらいしたんです。給料を貯めてやっと買いました。地域の人は純朴な方たちで2年間下宿させてもらっていましたが、そこを出るときに「先生、下宿代は貯金していましたから、お渡しします」と言われたんですよ。近所の女子学生が「やることありませんか」と、掃除や洗濯にも来てくれていましたしね。一番最初に教えた子どもたちは今じゃ喜寿になっています。同窓会に呼んでもらうことがあるんですが、「先生、あのころは毛がふさふさしてましたよね」と言われます(笑)。

 中学校の異動に決まりはないですね。同じ学校に10年いる人もいるけど、私は4、5年ぐらいで替わりました。小島中の次は富士宮の先にある白糸中学です。転任先を決めるとき、友人は熱海や修善寺なんかの観光地に行きたいと言っていましたけど、私はどこでも良かったです。ここでは学校の中に寝泊まりできる部屋がありました。1人暮らしなんですけど、学校だから小使いさんがいて、いろいろ面倒を見てくれましたね。

 教師として工夫したことは、本を読んで聞かせて、本に親しませることでしたね。新しい本をお昼休みに生徒たちに読み聞かせをやったりしました。あとは、漢字を面白く覚えてもらうために工夫しました。相撲の取組表をまねて番付表を作ったんです。横綱、大関、関脇を決めて、戦う相手を決めて。勝てば番付が上がる、負ければ下がる。楽しみながら覚えてもらうように工夫しました。

 父兄も理解があって、生徒にげんこつ落としても、子どもが悪いと言ってくれてね。父兄とは信頼関係があって、僕たちを大切に思ってくれていたので、それは良かったなと思います。大切にしてくれるのはいいんだけれど、家庭訪問先で、「よく来てくれた一杯やろう」と言われたので断ったら、「わしのつぐ酒が飲めんのか」と言われて困ったこともありました。

 学校が地域と連携していた時代です。運動会でも、教員チームと青年団チームで競争したり、宿直していると、読書会や合唱会をやりたいと地域の方が来られたり。新しくできた家庭科室でフォークダンスをやったら、校長先生に、昨晩は何をやっていたのかと叱られました。ちょうど、家庭科室の下が校長先生の住宅だったんですよ。そんな青年たちとの付き合いがありまして、楽しい反面、長くいると根付いてしまわないかという恐れはありました。

 33歳ぐらいから学年主任をやるようになりました。学年主任の役割は、学年の足並みをそろえることです。落ちこぼれる学級がないようにね。40歳になったとき、教職員組合の富士地区の支部長をやりました。日本教職員組合の末端組織ですね。闘争の一番盛んなときで、学力テストの反対運動をやっていました。なぜ反対したかというと、学力テストは力がつく部分もあるんですけど、問題もあるんですよ。ある学力テストの日、生徒が2人いないんです。何で逃げたんだと聞くと、僕らは成績が悪いから、クラスの平均点を下げてしまうと。その2人はクラスで1番できが悪い生徒でした。僕は2人を叱れませんでした。そのような、クラスに気を遣わせてしまうほうがよくないですよ。

 先生の勤務評定の反対運動もやりましたね。闘争というと、やることはストライキです。勤務時間29分食い込みのストライキです。8時から8時29分までしかストライキはしませんでした。8時半から授業ですから、子どもたちに迷惑をかけないようにね。授業に支障をきたすと父兄が心配するので、29分間だけやらせてくださいと話をしてね。4、5回をやって、訓告処分を受けました。訓告処分は履歴書に載るんです。話し合いで履歴書から抹消されましたけどね。抹消されたので校長になれました。

校長として勤め上げる

 校長は、2つの学校でやりました。校長になるには推薦が必要です。試験もあって、校長先生や教育委員会からそろそろ試験を受けてもいいんじゃないかと打診があり、試験を受けます。校長になってから一番困ったことは、 不良のグループがあったんですけど、学校全体が影響されましてね、モノを壊されたり、授業を中断させたりしました。教師だけでは改善できないので、PTA役員会を開いて、地域の人たちや父兄たちと話し合いました。立て直しに3年かかりました。というのは、一番上の学年がまずいと、2年生、1年生に影響するでしょう。その影響を受けた1年生が、卒業するまで直らないんですよ。

 退職するまでに『長』と名の付くものは、校長、教職員組合の支部長、それと富士市青少年相談所長の3つやりました。少年相談所は、学校と違って地区の問題などを青少年補導員と一緒に取り組んでいくところでした。私は、登校拒否の子どもに関わっていましたね。

 定年退職をしたのは60歳です。 よく退職校長は「大過なく」と口にしますが、自分がその立場になると本当だなあと実感しました。校長の責任は重大です。言葉は悪いですが、学校焼くな、生徒殺すな、ということですからね。

 退職した後は住友信託銀行の参与として2年勤めました。なぜ、銀行かと言うと、教師仲間が参与にいると、先生方に、よりお金を預けてもらえるということなんですね。もうひとつ、住宅建設工業株式会社の参与も4年間やりました。これも先生方に合う家を建ててもらおうということです。2年で辞めてもよかったんだけれど、富士教育会館を作ることになったので、私も協力したいと思いましてね。教育会館の内容がわかる者がいたほうがいいということで、しばらくやりました。

なれそめ、子どもたち

 学校には研究授業というのがあって、教育事務所で授業を指導する主事の先生が見に来ることがあるんです。白糸中学にいるとき、研究授業をやって、しばらくたったあと、家に遊びに来ないかと主事の先生に誘われました。そこで、家内に妹がいるんだけど、見合いしてみないかと言われて。それが縁ですね。家内はそのころ東京で幼稚園の先生をしていました。覚えているのは、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』という歌がはやっていたころで、有楽町で会おうということになって。有楽町で落ち合って、家内の家へ行きました。見合いしようと思ったのは、姉さん見て綺麗な人だったから、妹も綺麗なんじゃないかなと思ったから(笑)。 結婚したのは27歳のときです。

 子どもは娘と息子の2人、孫は4人です。結婚した孫に子どもができたので、ひ孫も1人います。ささやかな幸せかもしれませんが、夫婦そろって元気だし、子ども、孫、ひ孫も健康なことに感謝しています。

俳句の道をまい進

 後は余生だということで、学生時代にやっていた俳句を再開しました。不器用なので2つ合わせてやるのは、できないんですよ。教師時代には教育に熱中していましたから、ほとんどやりませんでした。38年間の空白がありましたから、まずは先生を探したんですけど、いい出会いがありました。先生に大変かわいがっていただきました。 2年後には俳句会の編集長をやるようになったんです。先生を支えて会を盛り立てることができたと思います。先生は平成14年に亡くなりましたが、俳句会を引き継いでほしいということで、今は私がやっています。

―俳句 金子徹作―

元旦の全き富士に会う果報

戦などなくて七草七日粥

新緑をゆっくり回す太極拳

籐椅子も父も戦後も遠き揺れ

湯豆腐を隔てて戦火を放映す

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