藤田美保子として生きてきて
平成30年10月18日
「THE藤田美保子」の創刊号発行にあたり、東京都八王子市にある彼女の自宅を訪ねた。厳しくも頼もしい父と優しい母の元で豊かな幼少期を過ごした藤田美保子さん。戦争をくぐり抜けた後、東京で就職。職場で出会ったご主人と周囲の反対を押し切り結婚、2人の子どもを育て上げた。家族のために尽力しつつ、自分を確かめながら生きてきた、彼女の半生に迫る―。
生い立ち
昭和4年に荻窪で生まれました。兄3人と姉1人がいて、私は末っ子です。母の袖をいつも持っているような子どもで、姉にもベッタリしがみついておりました。姉とは3つ違いで、姉は静岡で生まれましたので、富士子といいます。私は父の故郷、島根の美保から取って、美保子です。一番上の兄とは11歳離れています。次兄とは8つ、その下の兄さんとは5つ違うくらいかしら。兄と姉は大正生まれで、私が唯一の昭和生まれです。
父は、島根県浜田市にある月光院というお寺の三男でした。長男が継いだのですが早くに亡くなり、その息子は医者になってしまったので、寺は譲りました。次男の晃道おじさんはハワイに渡って、浄土真宗の総長となりました。戦争中はアメリカに連れていかれたので、大変だったそうです。その息子の晃明さんが2代目となり、親子共に総長を務めました。聞くところによると、父の方が次男のおじよりも頭が良かったので、学者の家である横山家に養子に行ったのだそうです。父の旧姓は藤谷でした。
厳しい父でしたが、私は末っ子なものですからかわいがられました。マントに私と姉をくるんだりして、遊んでくれました。女の子には優しかったんでしょうかね。姉は甘ったれで、怒られたときも「お父さまぁ」とすり寄るタイプで、私はすねてしまうタイプでした。父のことで覚えているのは、新潟時代に、家に5段の引き出しがあって50銭を見つけたんです。それで私は毬を買って、父の目の前でついていたんですよ。そうしたら、「そんなことすると感化院に入れるよ」と怒られましてね。布団の中で泣きました。怖くて、それ以降はやらなくなりましたね。父は新潟では助役をやっていました。
新潟の前は、千葉にいました。新潟では、信濃川の花火を家の2階で家族そろって見ていたときに泥棒に入られて、お金を取られてしまったことがありましたね。ほかにも、父が泥棒を捕まえたこともありました。千葉の官舎の応接間にあったマントルピースに隠れていた泥棒を捕まえたんです。周りの同僚はおっかながってたというのにね。それが週刊読売に載りましてね。父はそんなに体格が大きかったわけではないのですが、助役になるまではもともと警察官でしたからね。母の父は警視総監ですので、両親が結婚したのもそういう関係ではないかと思うんです。つまり父は、横山家に入って学業を修めてから、警察官になって結婚したんです。
私は千葉からの話しか知りませんけれど、三男が母のおなかにいたときには四日市の警察署にいたと聞きました。もともとは内務省にいたそうなので、警察官というよりは国家公務員として警視庁にいた、ということかしら。
母は、優しかったです。代々木にあった母の実家の写真が残っていますが、今そこはどうなっているのでしょうね。母は、結婚したのは熊本だと言っていました。父は島根県で1年繰り上げの飛び級をして、なんでかは知りませんけど、熊本の五高に行ったそうなんですよ。
新潟時代の思い出
父の転勤で、幼少期には引っ越しが多かったんです。まず荻窪から千葉に移って、警察官舎にいたのを覚えています。当時、内閣が替わると官僚は浪人するという感じだったので、それから父は浪人して荻窪に戻りました。そのときに、小柳さんという新潟市長に呼ばれて、助役をすることになったんです。新潟には、5年くらいいたかな。新潟に行って、私は幼稚園には行かず小学校の試験を受けて、付属に入りました。新潟師範付属小学校です。それから4年生の3学期に東京に戻って、下北沢の荏原第三小学校に入りました。荻窪に家が建つまでは、下北沢におりました。
新潟にいた期間は短かったのですが、思い出は多いんです。オペラ歌手の三浦環と一緒に写真を撮ったこともあるんですよ。新潟に何かで招待された三浦環と、助役の娘さんってことで私たちは記念写真を撮りました。それから、中島飛行士だったかしら。新潟に飛来したときに飛行機に乗せてもらいました。新潟上空を飛んで、新潟山下公園のチューリップが折り紙みたいに見えたのをよく覚えています。飛行機は怖くなかったですよ。私、今も昔も好奇心旺盛なんですよ。だから、今はあまり自由に動けなくなったのが残念なんです。
新潟は、それはそれは雪国でね。わらでできた雪用の靴を履いて、30分以上歩いて学校に行きましたよ。そのときはまだ戦争の足音も聞こえなかったですね。
家の近くには菜の花畑がありまして、ずっと原っぱが広がっていて、牧場もありましたね。砂山を1つ越えると海なんです。私もそこで泳ぎましたよ。姉は遠泳をやってました。あのころは泳げるところでしたが、今はテトラポットがあってダメらしいのですけどね。それと、家の先に競馬場があって、助役だった父は何かのお役目だったんでしょうか、お馬さんの首をポンポンとたたいていたのを覚えています。その競馬場は、今はもうないんですよね。
私は新潟の小学校を卒業しておりませんが、卒業50周年の同窓会のはがきが来たので、恩師の月橋先生に会えました。月橋先生は、新潟師範付属小学校の3、4年で担任だった先生です。先生に作文を褒めていただいて、自信が付いたんです。ですから、同窓会で先生にお会いできて本当にうれしかったんですよ。それから3、4年後に亡くなったとお聞きしました。そのときにお会いできてよかったなと思います。新潟時代はとてもいい思い出がたくさんありますね。
父との突然の別れ
小学校を出てからは、父に言われて西本願寺系の武蔵野女子学院に進みました。こちらに入って、人間が変わったようにしっかりいたしました。私はそれまではジクジクしていましたけど、しっかりしたんです。なんででしょう、女学校だからかしら。
昭和18年の5月に、突然父が亡くなったんです。脳溢血でした。このころ、校長先生は高楠先生から鷹谷先生になってたのかしら。初めは副校長だったんですけどね。その鷹谷先生が、荻窪の家に父のお悔やみに来てくださったんです。
荻窪では家の庭を畑にしていて、その畑で父は三男と働いて、井戸で手を洗った後、座敷で倒れたんです。お酒が手に入らないときだったのに、1升いただいて、父はとても楽しみにしていたんですよ。それも飲まずに、倒れて4時間後に亡くなりました。日曜日で、お医者さんもいなくて。6時ころ、夕飯のときで外はまだ明るかったですね。私も家にいて、一部始終を見ていましたからよく覚えています。
父は、そのころは家にいました。実は新潟市長の小柳さんが収賄で辞めさせられて。その後、父は当選するわけないのに市長に立候補して落ちたんです。それで大塚にある敬正舎という傷痍(しょうい)軍人の会社に勤めて、その長をやりつつ家で畑なんかをしておりました。亡くなったのは数えの55歳。まだ53、54歳ですからね、若かったですよね。
疎開を経験
女学校2年生のときに父が亡くなり、3年生で動員です。戦争が始まったときは、日本の旗を持って町を歩く旗行列を練習しました。姉と一緒に参加したんだと思います。動員は、中島飛行機でボルトを作っていました。丸い棒にギザギザを入れて切るんですよね。女学生が油にまみれて作っていたんです。場所は、三鷹の国際基督教大学があるあたりです。動員だから、いや応なしに行くんですよ。だから、そのときは全然勉強してないんですよね。
だんだん戦争が激しくなって、疎開することになりました。疎開先は山形の鶴岡にある湯野浜温泉でした。母方の祖父である太田政弘の出身が十文字だったので、その関係なんですけどね。兄たちは、兵隊に取られていましたので、母と姉と3人で行きました。私たちはそこで終戦を迎えましたが、玉音放送の記憶はないんです。おじとお風呂に入っていたら、ねえやさんが飛び込んできて、玉音放送がこんなだったと教えてくれました。
疎開の間、私は鶴岡の代用教員を1学期だけしたんです。それがもう嫌でね。小学4年生の受け持ちだったんで、教科は全部教えました。体操と音楽は苦手でしたけど、私の得意な教科は何だったんでしょう。かわいそうですよ、私に教わった生徒さんは(笑)。
そこから十文字に移動しました。そこで兄が帰ってくるのを待って、東京に戻ることになりました。鶴岡から十文字まではバスがなくて、歩いたんです。そのときに母が熱射病になって、注射をしたのを覚えています。注射痕が残って、見るたびにかわいそうと思いました。それと、イナゴ採りを隣の畑でしましたよ。油で炒めて食べました。玄米を一升瓶に詰めて、ついたりもしましたね。母の才覚もあったのか、おじいさんからもらったのか、食べるのには困らなかったです。だから、ひもじいという経験はないですね。
千代田火災海上保険に入社
それから東京へ帰って武蔵野女子学院に戻りますが、4年で卒業させられて、千代田女専の被服科に行きました。文化服装学院から先生が来ていてね、私は洋裁の先生にかわいがられました。裁縫は上手じゃないけど、先生に褒められたくて頑張りましたね。
そのころ、ハワイのいとこの晃明お兄さんとてるこお姉さんが軍属で日本に来ていたのですが、アメリカナイズされていて、かっこよかったんです。チョコレートやお肉をもらったり、晃明さんにはジープに乗せてもらったりしたんです。てるこさんに呼ばれて宿舎に行くとジャズが流れていて、ジャズが好きになりました。かっこよかったですよ。姉は晃明さんに恋してました。私はまだ幼かったのかな、憧れることもなかったですね(笑)。
私は、2番目の兄の奥さん満子さんの関係で、保険会社に入りました。保険に興味はなかったのですが、人には褒められたいので一生懸命やりました。事務の仕事です。そのころには荻窪の家を売って、一番上の兄は結婚して千歳船橋、2番目は成宗に引っ越しました。姉は結婚して出ていましたので、兄夫婦と母、三男、私の5人で千歳船橋に引っ越しました。私はそこから銀座の職場に電車で通っていました。銀座4丁目から通り1つ入ったところが職場だったんです。銀座の職場といっても、派手ではありませんよ。当時は、洋服なんかは自分で作ってたんじゃないかしら。あまり寄り道もせず、ときどき若松であんみつを食べたくらいですね。
結婚、2人の子に恵まれて
昭和28年に、藤田茂一と社内結婚しました。8歳年上です。同じ会社でしたが、課が違ったんです。私は1課で、彼は3課。結婚の1年くらい前に、一緒にご飯を食べたのかな。それがきっかけでした。箱根に旅行にも行きましたよ。私は見初められた、ということなんでしょうね。声をかけられたんです。主人の第一印象は、ないんですよね。
実は、会社関係にも家の人にも、結婚を反対されました。会社の先輩はみんな反対でした。母も兄たちもみんな反対で。でも、反対されると燃えるじゃないですか。言ってしまえば、私たちは家柄が違ったんですよ。それに、主人の家にはお嫁に行かないお姉さんたちがいたので、心配されたのでしょう。でも結局、明治記念館で式を挙げました。結婚式の日は、母が寒いからと襟元にハンカチを入れてくれた記憶があります。私たち、新婚旅行には行かなかったんです。主人は実家の姉たちのことを考えて旅行には行けず、私たちの家族は駅まで見送ってくれて、旅行に行くふりだけをしました。
新居は品川不動前にある主人の友達の家でした。その人が引っ越しした後に入ったんです。安養院という寺の敷地内でした。子どもたちは2人とも、そこで生まれました。
長男は、無事に生まれましたけど難産でしてね、額の長い子でした。でもうれしかったです。2番目の陽子は、昼の3時15分に足をそろえて出てきたくらい安産でした。2人ともかわいかったですよ。男の子と女の子の子どもで、良かったんじゃないですか。名前は、浩之は主人が、陽子は主人の父親が付けました。今思えば、私の子育ては子どもにはかわいそうだったと思います。いろんなことに気を使わせちゃって。もうちょっと上手に育てられればよかったなと思います。上の子が死んじゃったけれど、陽子が倍、親孝行してくれますよ。陽子がいると元気になります。
主人は転勤が多かったですね。神戸、静岡に行って東京、福岡。福岡に行ったときは、言葉がわからなかったですが、なんとかやりました。あのころは若かったもんね。主人は外面の良い人だったから、人をよく家に連れてきたものです。福岡では、一度大変なことがありました。東京に戻る前に、最後に九州を知っておこうと九州旅行をしたんです。そうしたら、旅行をしてる間に家に泥棒が入りまして、お金をたくさん取られました。少年院の子たちが泥棒してたんです。あのときはひどい目に遭いました。
それから東京に戻ってきて、八王子片倉町に住みました。主人の家族がいる南平に近いところということで、ここにしたんです。長男が高校3年生くらいのときですね。ここから成蹊大学に通いました。長女もここから短大に通ったんです。今まで社宅でしたから、建て売りでしたけど新築の家に住むことになりましてほっとしましたね。ここを買うのを断った人がいて、渋谷の東急に抽選の申し込みに行きました。36倍の競争率でしたけど、それに当たったんです。
自分に向き合い、見つけたこと
東京に戻りましてから、私は趣味やボランティアと、いろいろ自分探しをしまして。心理学で交流分析という学会があるのですが、そこに参加して自分を見つめるようになりました。東京セルフというところでも、池見先生に指導を受けたんです。そこで「自分がOK、人がOK」と、そういう意識を教えていただきました。いのちの電話もいたしました。私たちは1期生だったんですよ。
そして、将棋。将棋は夢中になりました。自分で勉強したんですよ。NHKの将棋の先生でもある内田昭吉棋士のお宅に伺って、習っていました。先生から「女性も教室に来ていますよ」とお手紙をいただいたのがきっかけです。先生からは、今でも年賀状をいただいています。羽生善治さんと写真を撮ったりもしましたね。私、結構腕を上げて、女流棋士になった方とも対局したんですよ。
人生を振り返って
子どもたちは自分の求める相手と結婚しましたので、ほっとしました。その後、主人の具合が悪くなり、入院していた館町の八王子医療センターに7カ月半、私は毎日通いましてね。9月に一度、私の具合が悪くなって倒れたときには孫がピンチヒッターで行ってくれましたけど、それ以外は毎日病室へ通いました。家に帰ると、いつも息子のお嫁さんが食事を用意してくれていて助かりました。主人は肺が悪くて、人工呼吸器を着けておりましたから、声が出ないんですね。その状態で7カ月半。管に拘束されるのはかわいそうでした。偶然でしたけど、主人が亡くなったのは日曜日で、ちょうどみんなが集まれる日でした。ですから、みんなで見送ることができたんですね。
私は、主人が亡くなってから旅行をしているんです。一人旅です。一人旅の方が、認知症対策にいいんですって(笑)。旅行会社に行って、宿だけ取ってもらって、1人でバスとかに乗って行くんです。歴史が好きなので、そういうところを探しながら。会津にも行きました。NHKの大河ドラマ「篤姫」を見てから歴史にハマってしまって、古代の歴史を尋ね歩いたんです。青森の方まで行きましたよ。出掛けるようになったのは主人が亡くなってからで、主人とは旅行にあまり行ってないんです。それでも、私の名前の由来である美保神社には一緒に行きました。立派なお社でね、大国主神のお話のところです。思えば、結婚前に2人で箱根に旅行に行ったのはすごいことでしたね。
振り返ってみると、これまであっという間でしたよ。嫌なことはもう思い出さないですからね。今日はこれからの人生で一番若いですし。今が幸せです。
Family’s Photo
お申込者様からのお便り
母は、施設を出て、様々な人に支えられながら、現在も独り暮らしを継続中です。サポートしてくださる方が「親の雑誌」を読んで、母の生きてきた道程、人柄を知って下さいます。「親の雑誌」は、母らしく暮らすのを後押ししてくれる役目もしてくれています。
コメント欄
一気に読みました。丁度母親の世代、懐かしくて、胸が締めつけられるけど、淡々と語られる貴重な体験談に、藤田さんの颯爽と生きる姿勢が目に浮かびます。そして何より、超人的記憶力の良さ!
貴重な体験を読ませていただき、感謝です。
志村さん、感想を寄せていただき誠にありがとうございます。
そうなんです、まさに「颯爽と」という言葉がぴったりな素敵な貴重な体験を私たちも聞かせていただきました。
たしかに、記憶の中のお気持ちや映像がとてもはっきりされているので、とてもリアルに感じられるお話でした。
とても素敵な感想をお聞かせいただきまして誠にありがとうございました。
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