インタビュー

梅北四郎として生きてきて

令和2年1月発行 / 鹿児島県在住・昭和4年生まれ

梅北四郎として生きてきて 他人に泣かされても他人を泣かせない

令和元年10月8日
「親の雑誌」創刊号の発行にあたり、鹿児島県鹿屋市にある彼の自宅を訪ねた。由緒ある旧家の跡継ぎとして、さまざまな事業を成功させてきた梅北四郎氏。先人からの教え「他人のため、地域のために」を大切にして生きてきた。忙しい中で決して手を抜かなかった子どもたちとのふれあいは、生きた証の珠玉の賜物。「みんなに助けられた」という、その豊かな人生の軌跡をたどる。

生い立ち

 昭和4年に生まれました。男4人、女4人、8人きょうだいの4番目です。生まれた梅北家は代々続いた旧家で、250年前の墓もあります。墓は6基あったんですが、3年ほど前に私が1つにまとめました。今は墓石だけ残して、その上に「祖先の墓」と銘を打ちました。古い史料などを見ると高山に肝付公というのがいて、その子ども1人1人に違った名前を付けています。その1人が梅北です。金谷とか梅北とかいろいろあったみたいです。肝付公は各集落に梅北を1軒ずつ残しました。肝付公は島津支配以前にこの辺りを治めていたのですが、島津にやられて山越えして逃げたようです。

 家業は代々焼酎を作っていました。おやじは明治11年か12年生まれで、仕事が好きな人でした。もともと獣医師で、それ以外にも焼酎を作ったりいろんなことをしていました。昔は電気がないので水車を回してものを作ったり、帆掛け船でここから釜山まで行ったりもしていたようです。通訳もしていたみたいですが、2~3年で辞めたようです。おやじは養子だったんです。養子をもらったらその家はつぶれると言われていましたので、養子が来て家が大きくなったというのはちょっと珍しいですよね。

 隣家は高利貸だったんですけど、おやじが買い取って土地を増やしていきました。高利貸から借金を買い取って人助けもしてきましたね。厳しい人だったけど、私には自由にさせてくれました。

 母は明治29年生まれで、梅北の家の跡取り娘です。母のお母さん、私の祖母が教育熱心で母も昔の高等科まで出ています。ここから高等科がある鹿屋まで7キロの道を歩いて通っていました。当時は今のようにちゃんとした道はなく、木が茂って暗いところもあったようです。優しい母でした。親の代は焼酎でも結構儲かったみたいです。私も大学に行かせてもらったりとぜいたくさせてもらいました。

 私は小さいころ、おとなしくて体の大きい子どもでした。当時は相撲が盛んだったので、相撲を取ったりしていましたね。

 昭和12年、支那事変が始まったとき小学校2年生でした。靴を履くとぜいたくだということで、藁草履にお尻が破けたズボンをはくのが普通だった時代です。小学校5年、尋常高等小学校のときに海洋少年団というのができて、ボートが2艇ほどありましたね。学校で手旗信号の訓練もしました。船と船とで手旗信号を出して走っていくんです。

旧制・鹿屋中学へ

 旧制中学校1年の12月8日に、アメリカとの大戦が始まりました。鹿屋中学、今の県立鹿屋高校です。中学校の帽子も戦闘帽に変わりました。中学1年のときは国語とか数学とか昔の本だったんですが、2年になると数学Ⅰ・Ⅱとかになって、薄っぺらい本になりました。時代が変わりましたね。2年のときは兵隊の留守家族の家の農作業にちょくちょく行かされました。田んぼにはヒルが多くて嫌でしたね。

 遊ぶことは好きでしたが、勉強は嫌いでしたね(笑)。中学校では柔道部に入っていました。練習でうさぎ跳びをやりすぎて、足が痛くて学校の2階から手すりをつたって降りたりしました。

 3年のころ、当時三八式歩兵銃という鉄砲があって、それは今の自衛隊の鉄砲よりわずかに重く、弾は5発しか入らないのですが、それを使って実弾で訓練していました。私は体が大きいもので、傘型編隊の一番前で機関銃を使ってました。やられるときは一番先です。日本の飛行機がやられんように、航空隊の掩体壕も作りました。

 中学校4年になると、学徒動員に行くんですよ。私は鹿屋航空隊でした。海軍航空隊です。空襲のないときは外で仕事して、空襲になると防空壕に入って英単語の勉強をしました。

戦争、そして終戦

 戦争中の思い出は、爆弾でやられた航空隊の屋根をトラックに積んで片づけたりしたことです。あれは終戦の前、6月でした。自転車で航空隊の中を走りましたが、爆弾がいっぱい転がっていて走るところがなかったです。当時ここの航空隊で通門権をもらっていたのですが、おそらく民間では私を含め2人くらいしかいなかったです。

 戦争中は政治については何も考えなかったですね。日本が勝つとも思ってなかったし。今の鹿屋の航空隊の会議室で、あのハワイ真珠湾攻撃の案を練ったと聞いています。桜島をハワイに見立てて訓練したらしいです。その会議室は今もそのままあります。私はその会議室にしょっちゅう行ってはコーヒーを飲んでいました。私は戦時中もあまり不自由はしませんでしたね。地元の鹿屋航空隊にいたから。うちは農業していたから、米もありました。

 中学校4年生のときに終戦です。終戦は航空隊で迎えました。みんな涙を流していました。私は訳がわからんかったですね。終戦になって、航空隊からスコップを1本もらってきました。戦争が終わった日に家に帰ってきましたよ。そして、みんなまた学校に復帰しました。1級先輩の人たちも一緒に勉強しました。予科練から帰ってきた人が多かったですね。あと1カ月早かったら特攻隊に行ってた、という連中もいました。

大学進学

 中学を出て、何かせないかんということで、取りあえず東京に行きさえすればどうにかなると、東京の大学に行きました。商売をしていたので日本大学経済学部に入りました。うちの兄から「戦争に負けて奴隷になっても、奴隷の中でも上と下があるから大学までは行け」と言われていたんです。勉強は好きな方ではなかったのですが。あのころもうちょっと勉強しとったら、もっとどうにかなってたかもしれません。東京には長いキセルを1本持っていきました。当時は中学を出て大学進学する人は1割もいなかったです。

 初めて東京に出たとき、東大の前に島津公が建てた学生寮というかアパートがあるんですが、そこに泊まりました。その夜、疲れていたのかもしれませんが、足の先から幽霊が入ってきて、スーッと抜けるのを感じました。1人で寝てて気持ち悪かったのを覚えています。今はその寮は日野市にあります。東京まで、汽車で2泊3日かかりました。ずっと座席に腰かけていましたね。鼻なんか真っ黒になりましたよ。大学での部活は空手部でした。

 中学校の4年に終戦になって5年までいて、それから日大の予科に行って。予科の3年になるときに新制大学ができて、2年に編入しました。だから大学には5年いたことになります。

 東京は人口が多いだけに商売しても面白いですね。たまたま名古屋の繊維会社の息子が友達だったので、ズボンを作らせて儲けたこともありました。

故郷で結婚、商売の道へ

 私は東京に住みたいと思っていたんですが、おやじが帰ってこいというので戻って跡を継ぎました。昭和30 年、26歳のときです。帰ってきたらすぐ、おやじが私の膝の上に金と帳面をパッと投げて「明日からやってくれ」と言いました。私もそこまで言われるのなら「やりましょう」ということになりました。跡を継ぐのが私しかいなかったんです。兄は名古屋大学を出て医者になりました。うちの長男が結核で亡くなったので、結核専門医になったんです。

 そのころ、家は焼酎を作っていました。焼酎はすべて手作業です。麹を発酵させたりして難儀しましたよ。少人数でこぢんまりとしていました。税務署が1週間に一度検定に来て、そのやり取りなんかも忙しいんです。

 でも焼酎だけやっていては飯が食えないから、昭和32年の結婚と同時に澱粉製造を手がけることにしました。これは儲けさせてもらいました。

 結婚と同時に始めたので、うちの家内はきっと「結婚てこんなものか」と感じたと思います。家内とはお見合いです。私の同級生の友達の妹でした。私と5つ違うんです。結婚式はこの家の座敷で。新婚旅行は1週間、九州を巡りました。大分に行って別府に行って、ぐるっと回って帰ってきました。結婚後も仕事を始めたばかりなので忙しくて、3年ほど会ってなかったですね。夜は2時ころまで、朝は6時には起きて出て行く。会う暇がありませんでした。新婚らしさは1つもなかったです。

 澱粉工場は350万円ほどかかりました。生コンとかも全然なかったので、自分で砂利を持ってきてコンクリートを作って。モーターも、直径と円周率で計算して回転数を自分で決めました。6畳くらいの広さのところに手でコンクリートを打つんですから、それは大変でした。今のサツマイモの50キロ入りを2000~3000俵使ってました。澱粉工場は従業員を25人ほど雇っていました。

 販路は問屋です。鹿屋に問屋がいて、船に積んで大阪まで持っていくんです。船の一番上のナマ澱粉はうちのものと決まっていました。うちのが白くて一番品質がいいからです。船が何時何分に出るからそれまでに持っていかないといけない。最後に持っていかないかんのです。私も何回か車に乗せて走りました。昔の車は、荷物をたくさん載せるとブレーキがきかなくて大変でしたよ。

 昭和42年か43年に砂糖が自由化されて澱粉の需要がなくなったので、44年に辞めました。澱粉は砂糖の代用品でしたから。それから茶工場やタクシー会社をやりました。タクシーは5年で辞めましたが、茶は今では人に貸しています。4ヘクタールあります。工場は去年取り壊してきれいな畑にして、また茶を植えました。取り壊すのに850万円かかりましたね。タクシー会社を作るのも、福岡の陸運局にいかな免許をもらえんのです。私はそんなときでも政治家の助けは一切借りませんでした。なんでも自分でしましたね。

小鹿酒造協業組合設立

 昭和46年に小鹿酒造協業組合を作り、他のものは全部辞めました。小鹿の落成式には、自衛隊の司令が副官を連れてきてお祝いの言葉を制服姿で述べてくれました。これは珍しいことなんです。私は自衛隊のパスポートをもらっています。

 小鹿は200万円ずつ出資して4人で800万円でしたから、苦労しました。初年度設備に1億2000~3000万円かかったんです。売掛金は3カ月で3000万円でした。それを計算してなかったので大変でした。最初の2、3年は苦労しましたが、その後は順調です。毎年1億円ずつ設備投資もしました。設備には25億円かけてるんです。帳簿価格でも22億です。今の焼酎の在庫は3億円からあります。売掛金も3億円。今の小鹿は55名いますが、平成15年に全部コンピューターにしました。今は機械なので重いものは一切持たないです。

 小鹿ができたとき、県内の卸販売は南鹿児島で1本ということに絞りました。それはよい判断だったと思います。そのとき、小鹿の三原則というのを作りました。工場内は整理整頓がやかましくて、ホースなんかもきれいに巻いてキチッとそろえなくてはいけません。これを怠ると事故を起こすんです。工場内の作業は原則2人でしなければなりません。

 小鹿を作ったのは、小さな会社を合併させようという税務署の方針でした。すべての支払いは月末締めの10日払いで、48年間1回も狂ったことはありません。だから信用があるんですね。行動で示さなくては信用されませんよね。

 とはいうものの、経営はずっと大変ですね。最近は酒造業界は良くないんです。県全体で毎年10%ずつ売り上げが落ちてます。先はあまり明るくないですね。最近は若者があまり酒を飲まないし、大きな宴会も少なくなりましたしね。

 私は酒は全然飲めません。酒造組合の理事長していたので宴会は毎晩あるんですが。猪口で対応していました。でも少しずつ飲んでも数があるので結構酔います。おやじもあまり飲めませんでした。昔は酒の場に、なんこ棒というのがあって、その棒を後ろ手に隠し当てっこをする酒の席の遊びがあったんです。そこら中でしよったですね。それに負けたら飲まないかんのです。付き合いもありますし、商売だからしょうがないです。今でも、なんこはロータリーでやっています。ロータリーは今年6月に辞めて特別会員になりました。特別会員はロータリーでは初めてのことです。

 70歳を機に、いろんな役職を辞めました。組合の理事長とか県の酒造組合連合会の理事とか。辞める時機を失うと、企業というのはつぶれてしまいますからね。

教育方針は「自由に」

 子どもはみんな焼酎と関係ないとこに行ってしまいました。子どもたちには「人生は短いから自分の好きなことをやれ」と言ってあります。長く生きても100年です。自分の好きなことできるのは50年くらいしかないんですから。

 長女は犬猫が好きだから獣医師になりました。天真爛漫でまっすぐな子です。姉が良かったから、下の子も切磋琢磨して勉強したのかもしれません。みんな長女の言うことをよく聞くんです。

 次女は公認会計士になりました。合格率の低い難しい試験ですが、通信講座で全部自分で勉強していたようです。

 3番目、ひとり息子は宇宙の勉強をしたいと言っていましたが、どうやって飯を食べるんだと言っていたら、高校3年になって医者を目指すようになりました。一般的な医者にはならず、病理学者になりました。現在では医学部病理の教授で、癌の研究などをしています。長男はなんでも全部自分でしましたね。彼女も自分で見つけて連れてきました。何の問題もない子でした。おとなしくかったので手を焼いたということもありません。

 子どもはみんな「自由に」という教育方針で育てました。でも全部の子の入試にも付いていくし、卒業式、入学式もみんな行きました。子どもは、仕事のあとにみんな私が風呂に入れていました。サラリーマンではないからできたことかもしれません。

 子どもたちはみんな家の廊下で勉強していました。私はその横の部屋でテレビを見ていました。騒音に慣れていますから、子供たちはどこででも勉強できたらしいです。PTAの活動は長女が小学校1年に入ってから、3番目の息子が小学校卒業するまで9年間会長をしました

家族について

 私が88歳のときには、結婚60周年ということで、3人で話し合って私ら夫婦を別府まで招待してくれました。別府は新婚旅行に行った思い出の地です。元の家族5人だけで同じ部屋に泊まったんです。3人で金を出し合ってくれたんですよ。

 妻は62年間ずっと一緒にいます。彼女は毎日お花とか琴とかの習い事に行ってます。認知症にならんように、お互いに自分で好きなことしています。妻は子育てと焼酎の小売り販売の方もやっておりました。一昨年がダイヤモンド婚でした。

 孫たちにも好きなことをしろと言ってあります。小鹿に入れとは言えんですね。孫は9人のうち4人が医学部に入りました。

人生を振り返って

 今、趣味はあまりありません。ゴルフもしなくなったし。謡もしてましたが、一緒にやってた人が亡くなってからあまりしなくなりました。

 座右の銘は、「他人に泣かされても他人を泣かせない」。これはおやじの口癖でした。わが家の家訓です。だから従業員も大事にしたいと思っています。

 特にこれといったことはない、平凡な人生だと思っています。私は運が良かったと思います。いつもいろんな人から助けてもらって、澱粉を始めるときも、全くの他人が保証人になってくれたし。当時2000万円といえば大金でした。鹿屋の支店長レベルですと20万円の決済がやっとの時代でしたから。

 3人の子どもを自立できるようにしたのが、一番の自慢ですね。

Family’s Photo

梅北四郎として生きてきて家族写真

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編集後記

梅北四郎さんのオリジナル雑誌が完成しました。少年時代のご苦労のお話や戦争体験、そしてお仕事でのエピソードの数々、心に残っております。何事にも真摯に向き合われる生き様に尊敬の思いです。「他人に泣かされても他人を泣かさない」。素晴らしい言葉と感銘を受けました。四郎さんの素敵なお人柄が随所に感じられる1冊になったかと思います。ご家族・ご親族のみなさまに、笑顔でお手に取っていただければ幸いです。この度はありがとうございました。

「梅北四郎として生きてきて」取材担当 コミュニケーター 伊東まゆみ

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