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親の雑誌ブログ

終戦記念日にあたって2024年 4名の戦争体験をご紹介いたします

カテゴリー:ブログ

投稿日:2024年08月09日(最終更新:2024年12月06)

今年ももうすぐ8月15日ですね。この時期になると、多くの親御様がお話になった戦争体験を思い出します。今回は「親の雑誌」のサービス提供を開始した2015年に取材させていただいた4名の方の戦争体験をご紹介いたします。

K.U様 取材当時82歳

終戦は中学1年の時です。3つ下の弟は学童疎開で大津に行きました。土、日は帰ってくるんですけど、迎えにいくのも送っていくのも僕の役目でした。弟は「頭が痛い、お腹が痛い」と言って疎開先に戻りたがらないんですよ。それが本当に辛かったです。
8つ上の兄は招集されていました。ある時、その兄が南方に行くことになったと面会通知が来ました。おふくろがたくさんの着物と交換で手に入れたお米と小豆でおはぎを作って持っていこうとしていたら、近所の人が「戦争終わったよ」って言いにきたんです。僕ら家族はラジオで天皇陛下の御詔勅は聞いたんだけど、もうひと頑張りしてくださいよってことだと思っていました。兄は出征するって通知も来ていましたから。本当に戦争が終わったのかと思いながら兄の面会に行きました。その時、軍隊の人には「最後だから心おきなく会ってください」と言われました。結局、終戦になり軍隊は解散しましたが、後始末をしないといけませんよね。兄はその役割を担ったようです。家に戻ってくるまで4~5カ月かかりました。当時、母は「男兄弟だとみんな鉄砲玉やね、かわいそうに」と言われていたようです。

M.A様 取材当時89歳

いよいよ6月に召集令状がきて、入隊するために実家のある長野に戻ることになりました。福井県出身の後輩が「ついて行きたい」と言うので、長野に連れて帰りました。実家に戻ると、兄たちはすでに出征していたので、家の中が以前より静かでしたね。僕と後輩は中房温泉の旅館に泊まり、次の日、燕岳に登りました。玉砕部隊に行くと思っていたので、最後に高い山に登ってみたいと思ったんです。入営前夜は長野の善光寺門前の宿坊に泊まりました。
その後、入営しましたが、そのころにはもう銃もほとんどなくダイナマイトの箱を一つだけ支給されました。工兵として橋を架ける訓練をすることもなく、ただ河原でほふく訓練をする日々でした。そうしているうちに8月15日になったんです。玉音放送は聞いていません。どうしていいか分からないし、お腹が減るしでね。それで信濃川の土手にみんなで並んで、支給されたダイナマイトに火をつけて川の中に落としました。そうして浮かび上がってきた魚を食べました。そうこうしていたら将校が来て、「みんなうちに帰れ」と言われました。家に戻ったのは8月末でしたね。

K.T様 取材当時78歳

昭和19年に縁故疎開をして、知り合いの農家の離れを借りて住んでいました。そこで玉音放送を聞きました。何を言ってるのかは分かりませんでしたね。一緒に聞いていた親の雰囲気で負けたと感じたんです。兄は「戦争に負けたんや」と言って外に飛び出していきました。じっとしていられなかったんでしょう。他のことはあまり覚えていないです。空が晴れわたっていて、多分B29だと思うんですけど、ブーンと飛んでいきました。戦争が終わったんだから、空襲はもうないんだと思いました。
戦争中は小学校であっても長靴をはいた軍人さんがいて軍人訓練させられました。ちょっとミスすると頭を棒で叩かれましたよ。あとは食べるものがないから、校庭を畑にしてサツマイモをつくったり。とにかくひもじい生活でした。学校へ持っていくお弁当は母が煎って茶筒にいれてくれた大豆でした。お昼になると疎開児童はその大豆をポリポリだべるんです。いつの時代でもそうだと思いますが、学校では弱い子どもがいじめられます。私たち疎開児童は弱い立場でしたから、よくいじめられました。いじめられても力を振るうことはできないので、ずっとがまんしていました。

A.M様 取材当時91歳

4月13日の空襲で家が焼けてしまいました。焼夷弾が落ちると火が地面に広がるので、なかなか前に進めませんでした。河原に行きたいんですがなかなかたどりつけなくて。もんぺに火がつくので、消しながら逃げたのを覚えています。河原について、そこに伏せていたのですが、明け方にそこで機銃掃射も受けました。
空襲が終わった後、もしかしたら家は残っているかもしれないと思い戻ったんです。柱の落ちる音を聞きながら逃げたんですが、家が焼けるのは見ていなかったので、もしかしたらと思ってね。でも、何も残っていませんでした。防空壕の中の食料は大丈夫でしたので、炊き出しをしてご近所の方にふるまいました。空襲で火を見続けたせいか、3日くらい明るい場所に目を向けることができず、暗いところにばかりいました。東京は空襲で上野から浅草まで一望千里の状態でしたよ。
4月20日ころに満員の汽車に窓から乗り込んで、大田原にある知り合いの寺に行きました。そこで、しばらく疎開生活をおくりました。玉音放送は寺で近所の人たちと一緒に聞きました。戦争が終わったということだけは分かりました。ホッとしたという気持ちでしたね。駄目だってことは何となく分かっていたんです。東京にいたころも、どういうふうに負けるのかって話をしていたくらいですから。ああいう思いは2度としたくないですね。
戦争が終わって大田原の街に街灯がついた時には感激しました。戦時中は明かりがもれないようにと電灯も布で囲ってたんです。この明るさが普通の生活なんだとしみじみ思いました。戦争中は普通のことが普通ではなくなってしまうんですよ。

『親の雑誌 電子版』の紹介

『親の雑誌 電子版』は、家族のための自分史作成サービス『親の雑誌』から生まれた、人々の人生を綴ったデジタルメディアです。親の雑誌電子版には戦争を体験した方たちのインタビューも掲載させていただいております。よろしければこちらもご覧ください。

 

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