インタビュー

小俣文宣として生きてきて

平成29年3月発行 / 千葉県在住・昭和21年生まれ

小俣文宣として生きてきて 幸せってね、どこにでもあるんだよ

2016年10月31日。
「THE小俣文宣」創刊号の発行にあたり、千葉県野田市にある彼の自宅を訪ねた。新潟県の中郷村で生まれ、大自然の中でたくましく育った小俣文宣氏。東京で父が始めた店を継いだこともあり、地域の様々な活動に積極的に参加。平成8年に市議会議員選挙に初めて立候補し、見事当選。地域の発展に貢献してきた。地域のため、愛する家族のため、全力で生き抜いてきた彼の半生に今、迫る―。

生い立ち

 生まれは昭和21年。雪深い、新潟県中頸城郡中郷村の出身です。現在の上越市中郷区。隣が妙高市の山の村です。自宅で産婆さんに取り上げられたけど、2月か3月に生まれて体が小さくてかわいそうだということで、暖かくなった4月に出生届を出したんです。だから本当の誕生日は違うんですよ。

 そのころ、雪は4、5メートル降るのは当たり前で、朝2階の部屋から外を見ると、目の前を人が歩いている。電線をまたいで歩いて行くの。子どもの仕事は、朝外に出るときに、家の1階の玄関の前から道路までの階段を作ること。具合悪くしても近くに病院はないから、体が丈夫になったね。

 父は、昔は学校で美術の教師をしていたけど、体を壊して、日本ソーダという会社に移って、技士をしていました。そのときに、母と見合いしたんです。父の出身は、下越。自宅から工場に通えないので下宿していて、下宿先にいたのが母。父は温厚で、怒られたことがない。「ああせい、こうせい」と言うのではなく、のびのびと育ててくれて優しかった。それでいて、合理的。おふくろがイヤだと言っていたのは2回衆議院選挙に出たことですね。選挙に金がかかるからね。組合の役員で、会社をレッドパージになったです。その後は、その当時の質流れ品や米軍放出物資を仕入れて売っていました。村で2番目に電話と車を入れましたよ。おふくろにも仕事を手伝わせていて忙しいから、朝の連続ドラマの、「ととねえちゃん」に出ていた洗濯機を買ったりもしました。

 母は、農家の7人きょうだいの長女でした。とても美人です。なんでも父の言うことを「はいはい」と言って聞いていました。おふくろなんて、おやじよりもっと優しいけど、もっと厳しい。女親だからね。なにかすると、すぐに「ダメ」と。子どものころに妹とけんかをして、2人でヤギの小屋に閉じ込められたことがある。臭いし今みたいにまわりに電気なんてないから暗いしね。泣いても叫んでも出してくれない。お向かいに住んでいたおばさんが助けてくれて、出してもらえた。それで母を怖いと思うようになりました。

 きょうだいは、妹と弟がおります。妹は学年が1年違い、弟は6つ違う。おふくろの実家は農家で、おふくろはいつも手伝いに行っていたから、一緒に行って、いとこと合わせて9人で遊んでた。年がみんな近かった。遊びに行くのは、村の中。夏は川に行くの。きれいな水でね。子どもたちが遊べるように、大人たちが川をせき止めてくれていた。岩から飛び込んだり、ヤスデで川の中で魚を捕ったり、サワガニを採ったりして、楽しかった。大自然は無限の倉庫。行き帰りには、山ぶどう、栗、あけび。蜂の巣があったから蜂の子も食べてたね。冬はスキー。うちのすぐ裏がなだらかな段々畑で、子どものスキー場だった。子どもは歩けるようになると、すぐスキーをしましたよ。でないと、移動できないからね。でもスキーは、ずっと苦手だった。でも商工会のスキー同好会に行ったとき、ほかの人の方が下手だなと思ったね。

東京への引っ越し

 小学校は中郷小学校。成績は優秀でしたよ。運動はからっきしダメだと思ってた。入学したとき、背は前から2番目。幼なじみと「ちび3トリオ」と言われていて、次の学年では誰が前になるかと競ってた。3年生まではしょっちゅう風邪をひいたり、体が弱かったんだけど、4年から学校休まなくなった。それは、おふくろのおかげ。一升瓶のまむし酒を、杯いっぱい飲まされて、4年生から6年生までは皆勤賞。かけっこも、4年から6年まで一等。成績は1年から6年まで筆頭。本が好きだったから図書室の本を片っ端から読んでいましたね。図書室があるから、学校に行くのがうれしかった。読むのは伝記もの。本を読むと字を覚えるし、分からなければ辞書を引けば分かるからね。

 中学3年のときに転校しました。おやじが、仕入れで東京に出ると片道7時間かかって大変だからということで東京に移ってきたけど住まいが狭かった。2畳と4畳半に、台所とトイレ。東京の知り合いに予算を伝えて家を探してもらったけど、予算が足りなくてね。4畳半に、おやじとおふくろ、妹。2畳に僕と弟。机とミシン、畳の残り1畳で寝てた。玄関開けたら、すぐに僕が寝てる(笑)。隣の人が引っ越してから、壁を壊してつなげました。

 東京の子は勉強ができると先生に言われていたけど、教科書を開いたら簡単だった。英語なんて、1週間で教科書の内容が終わった。中3のときに、アチーブメントテストを初めて受けたの。易しいテストだったんで、とにかく全部に答えを書いたんだよ。工業、商業、農業の中で一つ選択だったのだけど、時間があったから、三つやっちゃった。そしたら、テストが帰ってきたら740点くらいだった。840点くらいは取れたはずだからおかしいなと思って先生に聞いてみたら、職業科目が0点だった。一つ選択というのに全部書いたから。受験のときにこうしちゃいかんってことでね。でも、職業科目の農業なんて、都会の子は全然分からないのに、僕は100点取ってた。結果として、学年で2番。1番のやつは810点だった。ほんとは840点で僕が一番だった。数学は1学期のうちに先に全部やっちゃった。なので、遊んじゃうよね。陸上部は入学試験の直前までやってましたよ。

演劇に打ち込んだ青春時代

 高校は、忍ケ岡高校。「学区一番の上野高校に行く力はあるけど、君には合わないよ。いい学校紹介してやるよ」と先生に言われて入った。6クラス中2クラスが女子クラス、4クラスが共学。人を蹴落とすこと、もまれることがない。先生のこの言葉が、今後の人生を決める第1歩、大きな転換となった。親も「先生が言うならいいんじゃない」と言ってましたよ。先生には、とても感謝してる。先生に、「榊原先生がいる。その先生を訪ねるように」と言われた。榊原政常先生は、高校演劇の権威。学校は高校演劇が盛んで、東京大会優勝の常連。学校に入ったら、榊原先生は、ほかの高校に校長として転勤していたけど、演劇指導で来てたりとかしてた。演劇で、発声練習でなまりを治しましたよ。初めは裏方、そのうち舞台に出て、卒業時には脚本を書いてた。高校ではずっと演劇やってて、勉強してなかったですね。

 大学は早稲田を受けました。吉永小百合さんがいたから。小百合さん文学部ですけど、僕は政経。でも、落ちました。そこで世の中甘くないことを学んで、早稲田予備校に入った。予備校に通いながら「DEMON」という同人誌を作りました。次の年にも受験しましたが、また落ちた。本番に弱いですね。さすがに2浪はまずいと思い、2次募集している成城と成蹊を受けた。ほかのやつは、上智、早稲田、学習院などに受かってましたね。そのうちの1人が持っていた「蛍雪時代」という受験雑誌を見て、成蹊の政経学部を受けようとしたら、「終わってる」と言われ、確認してみたら雑誌が去年のだったの。文学部で2次試験があるというから受けてみました。問題は3問だけで論文だった。これはもうダメだと思い込んで、上越市直江津に行ってたら、おふくろから「成蹊に合格したから手続きするよ」と連絡があった。2次募集は5人しか受かってなかった。どうやら早慶レベルだったらしいね。この時期に同人誌を一緒にやっていた友人の鈴木賢太郎が一つの分岐点。その大学の後輩が、私のかみさん。

結婚

 かみさんと知り合ったのは、同窓会。同窓会の役員で、役員会終わったあとにみんなで飲みに行って、かみさんの前に座った。みんなが飲んでる中で、私は古事記を読んでたの。なんだか変わった人だと思ったのが、かみさんの第一印象。かみさんは研究室の助手。かみさんは、私が言うことにけらけら笑ってくれるし気が楽。人の話を聞いてくれる人で、この人おもしろいなと思って、お付き合いを始めた。その決断は間違ってなかったね。結婚してから苦労させちゃったけどね。商売が下り坂になって。いいときは従業員が7人くらいいたけど、1人また1人と辞めてもらって、続けるのが非常に苦しくなりました。その間やり繰りをしてくれた。仕入れにお金がいるからね。かみさんのお母さんに頭下げて金借りたこともあるよ。かみさんは嫌がってたけどね。結婚してすぐに上の子が生まれて、北越谷で6畳と4畳半のアパートを借りて、そこからスタートです。商売はね、服を扱っていた。今は中古ブランドバッグとジュエリー、時計が主。扱うものを変えたのではなく増やしたんです。おやじが60年に引退して、一切合切をお前に任せるということでね。

 かみさんは、亡くなる3年前に脳出血になったんです。リハビリしたけど、最後は僕がみとれて良かった。そこのソファで、朝のドラマを2人で見てたら「頭が痛い」って。しばらく休んでも「頭が痛い」と言うから救急車で病院に行ったんですよ。

2度目の幸せ

 この街に来てから、劇団「はぐるま」に入った。劇団の人が衣装を探しに、たまたまうちの店に来た。でもお金がないからということで、お金の心配はしなくていいと言って、衣装を提供して、後援しました。常設テントでお芝居みたいなことをしていましたよ。いろんな付き合いでつながって、それから私も入ったの。100人芝居の講演のときに、文化会館で後ろまで声が届くからということで、セリフももらった。そこで現在の妻と出会いました。劇団のお客だったの。かみさんは踊りの師匠で、もともと顔見知り。商工会議所のスキー旅行で、遅くに行って、彼女の隣の席しかすいてなくて、確認して座らせてもらった。「マルコさん、夕飯は?」と聞かれて、まだと言ったら「おなかがすいていたらどうぞ」って。梅干しとシャケのおにぎりだった。その後、彼女に「やりたいことがあるんだけど手伝ってくれない?」と言われて。それが平成2年からやっていて、今年26回目の、サンスマイルの発表会。

 9年前に前のかみさんが亡くなって、「この年になると心配なんだよね。施設に入って誰かにおしめを取り換えてもらうなら、家で取り換えてほしい」と言ったら、「私がするよ」と言ってくれてね。

母の介護

 おふくろがアルツハイマーになるとはね。品川で実家に独りで住んでたんだけど、妹の子たちが下宿したりとかで入れ替わり立ち代わりで入ってた。それが、ある日「ばあちゃん帰ってこないんだけど」って電話が入って。あまりに帰ってこないので、みんなで集まって探してたら2日たってヒョコッと帰ってきた。「新潟に行こうと思ったんだけど、どこ通ったか分からない」って。そこから徘徊が始まってね。ある日交通事故にあって、そこから施設に入りました。それまでは、ヘルパーさんには1年ほど来ていただいた。自宅で介護できるように非常に優れたスタッフでチームを組んで面倒をみました。介護スタッフの派遣さんと保健所、区役所担当者と私とヘルパーさん。だけど、「財布がない」と言ったり、商品の入った買い物かごが3つも4つもうちにあったりして、これはもうダメだと思った。チームを組んで介護をしているということが斬新ということで、東京都からビデオを撮らせてくれって依頼があってOKしましたよ。アルツハイマーの人は役者ではできないから、24時間張り付いて、おふくろと私の行動を撮ってた。そこで、金がなくなる理由が分かったの。神社に行って、お財布の中身を全部入れちゃう。そのビデオのおかげで品川区の特養に入れてもらえました。私じゃないとダメだったね。嫁だと分からない。私のことも分からないだろうけど、なんか安心できる人と思うようでね。

議員活動

 平成8年に補欠選挙に出ました。商業協同組合専務のときです。家を買ったばかりでローンがあるし金がないと言ったけど、みんなで200万円集めてくれた。当選しましたよ。平成9年にヨーロッパの福祉施設を巡る研修があってテレビ朝日が、議員の海外研修について批判的な番組を作っていて、研修中ずっとついて来てたんです。その研修は行程がものすごくきつくって講習受けて、レポートも書く。資料は全部フランス語。大学のときにフランス語やっていて、わかるけど、でもきつい。「どうして自分の金で来ないんですか」と聞かれてね。ほかのベテラン議員は慣れていて、サラッと対応していたんだろうけど、私は「くっついてまわるんじゃない。自分の金なら、こんなきついの来ない」って言ったら「自分の金なら来ない」ってテレビで放送された。顔も名前も出てしまって翌年の選挙に落ちた。

 この研修のレポート30枚を、自分の選挙のときに応援してくれた人にコピーして配ってあやまりましたよ。分かってくれる人たちがいて、それで平成14年に再選。世の中を恨んだけど、全部自分のしたことが巡り巡ってくるんだよね。選挙に落ちたときに、地域振興券を作るという話が出て、市長に「小俣、お前やれ」と言われた。商業協同組合のときに共通商品券の立ち上げをしていたからね。「日本で一番早く作れよ」って。市民15万人もいて大変だった。凸版印刷に電話して「いつまでに持っていくから」とローラー空けてもらって。銀行と折衝して、券を使える店をリストアップして、説明会をして。もう盆暮れなかったよ。発行したのは2月半ば。2月1日に島根県の人口1万何千万の町が全国一番で発行した。市として、東日本としては私たちが一番。商工会議所の山本さんが良い働きをしてくれました。

 いろいろあるけど、満足ですね。庁舎を建て直したとき、前の庁舎のあった商店街に人がいなくなって、さびしくなって。市長に「フリマがはやっているからやれ」と言われ100回やりました。実行委員長だったので、各地区から「フリマのやり方教えて」って来ましたね。フリマの草分けです。フリマは続かないから、市長に「箱物行政はいけないと言われているけど、ここに建物を」と言ったら「考えろよ。5階までラフで設計図をつけて」って言われました。全国のそういう施設を、議員じゃないから、自分の金で見に行きました。建物の方は、検討委員会を作って。それで作ったのが「欅のホール」。

家族と趣味と

 特にないけど「はたち過ぎたら、君たちの責任は取らない。自分でできることは自分で責任を取れ」って言ってる。それがポリシー。子どもには仲良くやってほしい。孫がほしいとは思わない。いたらうれしいけど。仲良くすることが幸せの近道。どんなに金があっても仲が悪ければ、幸せではない。

 趣味は釣り。毎月必ず行きます。海は銚子から鹿島沖。外房だと海が荒いから、魚が大きい。野田市釣会連合会の会長をやってます。あと、「酒塾」。いろんな酒を持ち寄って、目隠しをして当てるの。ただ飲むだけじゃおもしろくないからね。器によって味も変わるから盃もたくさんあるよ。息子には「毎週1回は休肝日を作りなさいよ」って言われてる。息子もそう言いながら、一緒に酒の会に行くけどね。

 DVDの鬼平犯科帳全巻見なくちゃならないの。あと、釣りの本も。映画はかみさんが好きで、月に1回2人で見に行く。役者の友人も多くて観に行くから、金かかる。でも、死んでいくのに財産残してもしょうがないじゃん。自分で使おうって思ってる。子どもはちゃんと自分で稼いでいるし、かみさんもお弟子さんがいてちゃんと働いているしね。

Family’s Photo

小俣文宣として生きてきて家族写真

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編集後記

小俣文宣さんのオリジナルの雑誌がついに完成しました。ユーモアたっぷりにお話になる小俣さんらしい、雑誌に出来上がったのではないかと思います。初めてお会いしてから、お電話で数回お話をお聞きするうちに、どんどんその話の面白さ、奥深さに惹きつけられていきました。この雑誌を手に取った方も小俣文宣さんワールドを感じていただけたら幸いです。ありがとうございました。

「小俣文宣として生きてきて」取材担当 コミュニケーター 色川美千代

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