私、今までの写真を見るとみんな笑ってるんですよね
平成30年4月発行
横山クニ子
茨城県・昭和19年生まれ
人物紹介
日立に生まれ、辛抱強く愛情深い両親に育てられる。必要から選んだ看護師という仕事が、日々の中で天職となっていった。優しいご主人と出会い、3人の子どもたちを2人で育て上げた。「人と関わったことで、人生を明るく前向きに乗り越えてこれた」と語る横山クニ子さん。
自分史 本文より
働きながら学校へ
私が17歳の時に、父が定年になりました。まだ妹たちが義務教育真っ最中だったので、引き続き仕事には就いたのですが、慣れない工場勤めで体調を崩し、それで12年間も闘病生活を送ることになるんです。母も働き始めました。私も、本当は学校に行きたかったけど、奨学金をもらいながら通信教育で水戸一高に行くことにしました。父が定年で日本鉱業所を辞めることになったら社宅にいられなくなるので、私は中学を卒業すると日本鉱業所中央病院付属看護婦養成所に入ることになりました。鉱業所付属の看護婦養成所に入って病院に就職することになれば、社宅に残れると思ったからです。それで日本鉱業所の入社試験を受けたんですけど、落ちてしまって。でも、住むところなくなると困るでしょう。私が総務に理由を聞きに行ったところ、「勉強で落ちたんじゃないよ、体じゃないの」と言われました。それでそのまま身体検査をした病院に行ったんです。担当の医師からは「身体検査で悪いところはないよ」と言われ、すぐに会社に交渉してくださいました。それで私は看護婦養成所に入れたんです。
養成所は地方から来る子たちが多くて、日立からは5人くらいでした。私も寮に入ったんですけど、なじめないんです。みんなは外出の日には友達と遊びに行きましたが、私は実家に戻っていました。だから、友達もできなくってね。私が寮に入ったので、家はいらないだろうと言われたんですけど、交渉して残してもらいました。それも、長屋から庭付き一軒家の社宅に移ることができたんです。私たちの生活を案じて、母の兄が栃木からバイクでよく様子を見に来てくれました。幼いころから、伯父が来てくれるのがとても楽しみだったのを覚えています。私はこうして働きながら、週に一度学校のある水戸に通いました。レポートをまとめて、病院の仕事が終わったら行ってましたね。水戸一高に通っている時、NHKのラジオ番組の人が来て学校代表として番組に出たことがあるんです。それを聞いた職場の人たちが応援してくれるようになって。働きながら「仕事が終わったら学校に行ける。みんなと会える」というのが楽しみでした。自分1人で勉強しているとやっぱり分からないことがたくさん出てくるんです。でも、学校に行けばみんなに会える、相談できる。それが励みになっていたんです。
水戸一高には、歩く会というのがあるんですよ。私たちは上野から水戸まで、泊まりながら2泊3日歩きました。有志50人くらいで歩いて、伴走してくれる人もいましたね。私たちは、卒業式の前日に歩き出して、卒業式に出ました。約100キロを完歩しました。途中の宿泊先が2階だったんですけど、もう足の裏が痛くて、とても上にあがれないの。水戸に着く時にはあまりに疲れてて、前から来る人を避けられなかったほどですから。でも、あの時一緒に歩いた人は、今でも友達です。
取材担当のコメント
クニ子さんに、ご詠歌は仏様の教えや生涯を唄い込んだものだと教えていただきました。今回、私は「クニ子さんのご詠歌」を聴かせていただいたということになるのではないでしょうか。クニ子さんのご詠歌は常に感謝と愛情に溢れたものですね。とても素敵なお歌でした。
ご本人の感想(お手紙から)
他の人と同じことができなかった記憶からつらく感じたこともあったが、「親の雑誌」を読み返すことで周りの人たちへの感謝の気持ちが芽生えた。
今私にできることを、今感謝しながら相手の気持ちに寄り添っていきたいと思います。
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