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新しい情報をしっかり取り入れ患者様 達が足をむけてくれる薬局にしていきた いと思います

平成27年10月発行

比留間榮子

東京都・大正12年生まれ

人物紹介

比留間さまの自分史カバー写真大正12年に生まれ、昭和の戦前・戦中・戦後の激動期を、しなやかに生き抜いてきた比留間榮子さん。昭和19年に東京女子薬学専門学校(現:明治薬科大学)を卒業後、戦時中から多くの方の命と健康を守ってきた「榮子先生」です。現役の薬剤師として、74年間、今でも活躍されています。

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94歳の現役薬剤師。栄子先生の生涯を称えるために世界記録に挑戦

インタビュー記事より

昭和の歴史とともに

  私が生まれた頃は薬局をやっていたと思います。それから九十六年、今は四代目です。四代目が孫です。孫は池袋で薬局しています。孫の両親が薬剤師です。私の姉妹は女ばかり四人。今は三人になりました。 比留間さま自分史の本文その1 二.二六事件聞いたことあるでしょう?私の小六の時でした。あのころ皇居あたりを銃を乱射してたと聞きました。若い将校が。銃殺されたんじゃないかな。その日は東京では珍しい大雪で。小学校は休みでした。流れ弾が当たってはいけないと。その時分はラジオしかなかった。 私が女子高に行ったときに中国と戦争になりました。盧溝橋事件、日本がしかけた日支事変。その頃は日本が優勢で、南方陥落、万歳万歳で。旗行列、夜は提灯行列やらありました。それでもだんだん厳しくなって、昭和十六年に大東亜戦争、私が薬専に入ったとき。十二月八日は真珠湾攻撃。男子大学生は徴兵検査をまぬかれているのだけど、希望してその場で決めてしまいます。 私のいとこも大学二年生で自分だけですぐ決めて、海軍にひっぱられて呉に行って一、二ヶ月でフィリピンへ行き人間魚雷になったんでしょうか、帰ってこなかったです。昭和十八年か十九年には、B 29 も日 本を偵察に来ました。昼のサイレンが鳴ると防空壕へ逃げるんだけれど。東京には(その時分には)おとされなかった。

空襲、疎開

昭和十九年頃にはあっちこっちに焼夷弾が落ちてきて。昭和二十年にはいってから東京にも落とされました。三月十日に下町、四月に山の手に。東京も水平線が見えたんです。焼夷弾だから全部燃えちゃって。住んでいたところからも、東京駅や皇居が黒い建物として見えました。それから昭和二十年頃、婦女子は進駐軍が来るかもしれないと、両親は東京に残って、私らは田舎の方に疎開しました。家も畑もあったし。 小作の人に作ってもらってお米で貰っていた。田植えもしました。供出もしました。食べ物の売っているところがないんです。自分が食べる分だけ作って、買えるところがないから。(その時分は)百姓してました。東京にいたんではだめだと、一回目の荷物を三月の空襲前に信州に送りました。一回目の荷物は信州についたんです。小学校の時にお習字を習っていて上野美術館に出さないかと言われたものが残りました。今でもあります。いよいよダメかと四月に信州へ行こうかという前日に空襲があって。 二回目の荷物はダメでした。信州からも見えました、東京の空が赤く明るかったこと。何時間もかかる遠いところなのに。あくる日両親がひょこっと帰ってきた。鈴なりですって汽車が。煤けて真っ黒な顔して。それからは皆で百姓をしていました。八月に広島と長崎に原爆が落ちたでしょう。両親は空襲の夜に逃げて逃げて。目の前に焼夷弾が落ちた人を見たと言っていました。担架に乗せられた人も。人波に乗って逃げたときいています。音羽に東大病院の分院があって、たくさんの人が担架に乗せられて。でもどれだけの処置ができたかはわからないです。両親は弾の中をくぐって。子どもだけでも疎開させてあげて良かったと言っていました。信越線も当時は何本も出ないでしょうけど、汽車に乗れた細かいいきさつは聞いていないです。今は新幹線だけど当時は六時間かかって。高崎すぎると軽井沢まで二十六のトンネルがあるんです。小学生の時にトンネルを一つ一つ数えて、乗ってました。 戦争が激しくなって配給制度になって。隣近所で同じものを食べてました。米だけじゃ足りないのでサツマイモや大根をまぜたりふかしたり。小麦粉をまぜたり。今じゃトリの餌だけどふすま、アワ、ヒエ、それも配給されました。足りないと物々交換もして。お百姓さんは綺麗な物を喜んだ。お金は要らない。家にはサッカリンがあったので、お米と交換もしました。商売していると食物には困らかった。お金があっても物がない時代だった。毎月銀行で一人一万円しかおろせない、そういう時代もあって。昭和二十三年に、貨幣価値が変わった。銀行が封鎖されて。一万円で何が買える?買うものもなかったけれど。そうされても文句言う人もいなくて。どういう生活していたのか。仕方無かった、皆と一緒でした。 戦争は絶対にやってはいけない。あの時は命令で仕方なかったです。天皇のためにと。戦争は上からの命令で嫌だとはいってはいられなかったです。

終戦、その後

比留間さま自分史インタビュー本文その2 八月に玉音放送がありました。私は気がつかなかった。山の中ですから。隣から隣へうわさで。終戦を本気にはなれなかった。山の中には攻めてこなかったけど、とにかくB29が。 戦後は信州からやってきて池袋で土地を見つけて。それぞれ妹も大学を卒業して。田舎にも百姓をして、行ったり来たりしながら。池袋の薬局を手っていました。主人と一緒に。そこに住まいもあって。にぎやかでした、父、母、主人、私、妹たち、皆家族一緒ですから。妹は順次結婚して出ていきました。私が薬剤師となったのも自然。当時は薬専は東京にほとんど集中していた。昔は男女共学ではなかった。空襲警報のサイレンの音を聞きながら学校に通っていました。当時はまだ、偵察のみで飛行機の音が聞こえていたのが耳に残っています。

薬局の成り立ちと変遷

比留間さま自分史インタビュー本文その3 薬局を開いたきっかけは、父が信州長窪町で生まれました。父は三男で山の中で、やっぱりどうしても東京に出て勉強したいと。父は兄と一緒に東京に出て、兄は現東京歯科大学、父は薬学校に二人は分かれて東京で暮らしていたようです。卒業後薬局を開き、そして店も順調にいって。 薬局は支店と本店があって。本店は母の兄がやっていて。支店は父と母でです。春日通りで。昔は薬局は大塚の停留所のそばにありました。都電も昔は王子電車といっていました。三ノ輪と早稲田間で。軌道(路面電車)だったんです。昔は都電が主力で。銀座行くにも都電でした。春日町で乗り換えて。切符の値段が七銭でした。七銭でどこでも行けたんです。乗換の切符さえもらえば。第二次大戦の終戦直前まで昭和二十年頃まで通っていました。

ヒルマ薬局への思い

毎日毎日が仕事との戦いです。お客様 を笑顔でおむかえして、1 つ 1 つ処方箋 を見守りながら患者様の要諦をお聞き し、納得のいくお話をし、理解していた だき、喜んでお帰りになるのは大変うれ しく思います。   ―お店への今後の期待は?  新しい情報をしっかり取り入れ患者様 達が足をむけてくれる薬局にしていきた いと思います。若い人達の考えを尊重し、医療制度なども変わってくると思います。 今の目まぐるしい世の中と向き合って ゆく事は大変です。併し、それらに遅れ をとらず常に先進のみです。 何事も先へ先へと新しい考えをとり入 れみんなと相談し合ってお客様に喜ばれる 薬局作りをしてゆきたいと思っています。   ―薬局とは、どんなものであるべきで しょうか?  薬剤師として患者様の体の調子具合の 悪い事、悩んでいる事などその方の身に なって一緒に相談に乗ってあげ、薬の重要 性など幅広く見聞を広め、気軽に薬局へ足 が向くようになって欲しいと思います。

取材担当のコメント

数回お話をお聞きするうちに、榮子様のお話の内容だけではなく、穏やかな 中にも凛としたお人柄にも惹きつけられました。そして、戦前戦中戦後を生き てこられた人生の大先輩として尊敬申し上げます。この雑誌を手に取る方々にも、それを感じていただければ幸いです。ありがとうございました。

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