戦争の期間が、私にとって一番大変で怖かった
平成30年2月発行
松浦みち子
福岡県・昭和5年生まれ
人物紹介
北九州で生まれ、女学生時代には学徒動員も経験したという松浦みち子さん。結婚後はご主人の転勤に伴い、東京、浦和、高松と様々な土地で生活してきた。「総決算としては、いい人生だった」と語る松浦みち子さん。
戦争中の生活
一番上の兄が大学を卒業してから中国に渡って、製塩工場で働いていたんですよ。でも、がんになって帰ってきたんですね。療養していたんだけど、28歳の若さで亡くなってしまいました。私たちも育ち盛りだったし、両親も長男を頼りしてたのに死んじゃったでしょう。それが相当つらかったらしく、1カ月もたたないうちに、今度は父が肺炎で亡くなってしまってね。当時はいい薬もあまりなかったですから、そのことはすごくショックでした。それからはさらに生活が大変になりましたしね。
私の住んでたところは空襲はなかったんですけど、山の方にB29が落ちたり、爆弾が落ちたりというのはありましたね。直接の被害を受けたわけではなかったですけど、音がすごかったです。空襲警報が出ると、防空壕に避難したりしてました。女学校に通っていたときのことですが、学校からの帰り道を母親と歩いていたら機銃掃射に遭って。バチバチバチーッて音が聞こえてきました。怖かったので石橋の下に2人で逃げ込んだんですけど、今考えたらゾッとするような体験ですよね。
私が通っていた女学校は4年制で、女学校の2年生から4年生の夏の終戦まで、繭から糸を取る仕事を工場でしていました。勤労奉仕ですね。4年生の夏に終戦になって、そのあと9月からまた女学校に戻ることになりました。終戦の8月15日のときは、みんな仕事をお休みして放送を聞いたんですよ。でも、何を言ってるかよく分からない。その日はわけが分からない気持ちでしたよ。だけども、灯火管制が取れてほっとしましたね。繭の糸を取りながら、「もう死ぬ」って思ってましたから。そのころ、沖縄はもう駄目らしいって情報は入ってきてて、次に来るのは九州だって言われてたんですよ。海岸から敵が攻めてきたら、私たちは竹やりを持って立ち向かって死ぬんだってみんな思ってました。そういう切羽詰まった状況だったので、死を覚悟してましたね。そんな中でも、普通に日常生活を送ってましたけどね。
取材担当のコメント
戦時中の体験や、ご主人と共に歩んでこられたエピソードが心に残っています。何回もご経験された転勤でも、その土地ならではのエピソードを披露してくださり、とてもワクワクしながらお話をお伺いしました。ご主人の介護など、ご苦労もおありになっただろうに、ご自身で一歩一歩進んでいかれる姿には力強さを感じました。
ご家族の感想(お手紙から)
本になると時代背景を頭の中で整理することができました。
家族だからこそ分かり合える部分があり、温かいぬくもりみたいなものを感じながら読ませてもらいました。これから、この本を開くたびに新たな気持ちを創り出してくれそうな、それでいて心の道標のように寄り添ってくれそうな気がします。
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