運に生かされた人生
山地庸夫として生きてきて
2016年10月6日。
「THE山地庸夫」創刊号の発行にあたり、札幌市にある彼の自宅を訪ねた。
北海道・伊達の長流で幼少期を過ごし、勉強でもスポーツでも常に優秀だった山地庸夫氏。大戦時に召集され、終戦後にシベリアで抑留生活を送るも、語学と経理の才覚により難を逃れた。
帰国後にきょうだいで事業を再開。44歳のとき山地商事の社長に就任し、会社を発展させてきた庸夫氏の生きざまを追う―。
PROFILE●山地庸夫
生まれ年:大正10年
趣味:囲碁 カラオケ
好きなテレビ番組:ニュース
尊敬する人:父 母 兄
生い立ち
壮瞥村のホロトという洞爺湖の湖畔で生まれて、そのあとに壮瞥村滝の上に移って、1年間くらい仮に住んでました。それから、まだ小学校に入る前に父の仕事で伊達の長流(おさる)ってところの小学校の校門の真ん前に、家を建てて移ったんですよ。同じころ、近くの400坪くらいの土地で製材工場を始めたんだよね。そこに1年くらい住んでいたんだけど、室蘭本線が通るということで、長流駅予定地の近くで、国道沿いに住宅兼材木店を建て引っ越したんですよ。そこでずっと幼少期を過ごしたんです。長流はあとで長和(ながわ)に名前が変わったんだけど、修学旅行のころかな、「おいおい、お猿だとよ!」って誰か聞いてた人からばかにされた記憶がありますねぇ。
僕の父親の郷里は山形県鶴岡で、おじいちゃんが最上川の上流の山で木を切っていかだに組んで流して港で売る仕事をやっていました。父もそれを手伝ってたんだけど、戦争が始まって18歳のとき、造材の仕事を始めるために、そのとき山で働いてた人たちを十何名連れて、北海道に渡ってきた。父のきょうだいが洞爺湖の湖畔にいたから、頼って移り住んだのがホロトでね。洞爺の山で鉄道の枕木を採ったりして、造材の仕事を始めたんですよ。
全部で10人きょうだいなんだけど、僕が物心つくまでに結核や不幸な事故で亡くなって、残ったきょうだいは姉、兄、僕、弟、妹の5人だった。兄とは特に仲良かったねぇ。毎晩隣で寝てる兄から学校の話を聞いては、「それで?それで?」って。一緒に、2キロくらい離れた海に行って原っぱで遊んだり泳いだりね。将棋は兄が93歳で亡くなるまで、2人でよくやったもんです。
僕の父親は頭が相当優秀だったんだね、小学校2年生から4年生に飛び級ということをしてね。それまでずっと成績1番だったのが、最初は3番に落ちたんだけど翌年にはすぐ1番になったっていうの。昔は飛び級があって、僕のときにはもうその制度はなかったんだけど、そんな話を子どものころに聞いたことがあるんですよね。父親は何でも厳しかったね。教育パパだった。だいたいね、毎日学校に行くとき親の前で手をついて「行ってまいります」、帰ってきたらまた手をついて「ただいま帰りました」ってさせられてて、同級生でそんなことやってる人いないのさ(笑)。家の居間の黒板に子どもたちの名前を書いて、褒められるようないいことしたら○、悪いことしたら×を書くようにしてたりね。それをお客さんが来たら見える場所に貼ってあるの。そんな教育パパだから、新聞読むのも将棋するのもダメって怒られる。だけど、父の仕事中に母にもばれないように、こっそり兄と一緒に押し入れに入って細~く隙間を開けて将棋したり、家の裏にあった誰もいない木材倉庫の中に入ってよく将棋やったもんだよ。
母親は小学校の2年生くらいのころに四国から北海道に移り住んだらしいけど、そのとき学校に入ったら小学校1年生になる妹と同学年になるのが姉として嫌だったから、学校に行かなかったんだって。だから字はあんまり書けなかったんだけど、すごく記憶力のいい人で、優しいお母さんだった。使用人と一緒に野菜畑を作って、農家みたいことをやってたよ。作った野菜を近所に配って、皆さんの喜ぶ顔が見たいと、よく言ってましたね。僕は小さいときによく胃が痛くなっては、母を呼んでおなかをさすってもらっていたんですけど、さすってもらうと治るけど、しばらくするとまた痛くなってね。次からは呼んでもなかなか来てくれないんです。だけど、来るまでずっと母を呼んでましたね。それから母は、「上見て励め、下見て暮らせ」とよく言ってました。1人ぼっちで困ってる人をひと冬泊めたり、そんな優しい母でしたね。
勉強にスポーツに大活躍
成績は、小学校4年生のとき優等っていう制度がなくなったんだけど、最初の方は僕は優等の下の方だった。でも、3年生のときある同級生の家に遊びに行ったときに、去年は同級生の方が成績が上だったのに、次の年には僕が抜かしたっていうのをその子の父親に褒められてね。それが一つの動機になって、順位ってものにこだわるようになったんだよね。高等科になってからは1番、そこからず~っと1番。100点の答案用紙が返ってきて、答えが間違ってるのに先生が「○」をつけてるのを自分で見つけてわざわざ先生に言って、その分だけ点数が下がったなんて記憶もあるよ。
大阪の新聞社の「国旗」って題で先生に出すように言われた「つづり方」のコンクールで、メダルをもらったこともあるんだよ。かけっこでも1番だったから、胆振の10校近くの学校が集まって洞爺湖で陸上競技大会やったときにも、400メートルやリレーを走ってメダルをもらいましたし、マラソンでもメダルをもらいました。スキーでも速かったね。今と違ってレースみたいに走るスキーで、10何校集まってやる大会では選手になった。3年連続でうちの学校が最優秀になって、カップもらって学校に飾ってありましたよ。ところがね、そのときたくさんもらったメダルなんだけど、僕が戦争で兵隊に行ってる間に供出してしまって、僕が帰ってきたら箱だけしか残ってなかったの。がっかりだったよ。戦争中に知人からは軍需品の工場で作った物をプレゼントされたことがあったのに、自分のメダルが軍需品のために供出されてたなんてね。これはとっても皮肉に感じたなあ。
高等科のあとには、伊達実業専修学校商業科に進学して、首席で卒業しました。級長もしたことがありますよ。ここでも成績はずっと1位でしたね。通知箋は全部取ってあるんだよ。
野口商店から瓦工場へ
卒業後は、小樽の「マルヨ野口商店」という「北の誉」の酒屋に、親元離れて住み込みで就職しました。北の誉は北海道では当時千歳鶴と二大名酒といわれて、本店の従業員は100人くらいいました。入って1カ月くらいたったとき盲腸になって手術して、退院してからは事務に回って1年くらい経理みたいなことをやってた。だけど、仕事ぶりが見込まれたのか、野口商店が樺太に作った樺太庁員購買会っていうところに経理の責任者で行くことになってね。1年半くらいいたのかな。庁の職員や裁判所、刑務所、学校の職員とか2千人くらいの職員たちの購買部で、倉庫の責任者と経理の責任者の2人が派遣されたんですよ。
ここでも仕事ぶりが評価されて、18歳のとき、樺太庁の、あるところからスカウトされて。当時の私の給料が18円50銭だったんですけど、150円出すからうちの役所に来てくれないか?と言われてね。びっくりしたよ。そんなの定年になる人くらいの給料なのに、20歳前の人間に払うって言うんだもん。でも、行きたいって気持ちにはならなかった。給料が安くても野口にいたかったからね。野口でも、大学にも行かせてあげるから、東京に転勤して社長の近くで仕事しないか?と、人事課長から言われてたんですよ。ちょうどそのころ、兄がわざわざ樺太までやって来て「父が瓦工場を立ち上げるから辞めて帰ってこい」と言うもんだから北海道に帰ることになったの。スカウトも断ってまで野口にいたかったのに、どうして辞めたのかって?だって、そのころは父親が言うことは絶対だったもの。
それで戻ってきて、鷲別の父の瓦工場の責任者になったんです。そのとき私は19だったんですよ。戦時中は鉄は軍用に使ってて、一般材に使えないから、屋根はセメント瓦でやっていたんですよ。僕がけっこう業績を上げてね。兄がそれを見ていて、自分も瓦工場をやることにしたんです。伊達にあった兄の木材工場が、戦争の影響で民間材が回らなくなってたから、当時パッとしなくなってたんですよね。兄は、工場をどこに出すかを探すのが簡単じゃなかったけど、岩見沢の方から駅を一つづつ降りて苗穂や桑園やあちこち見て回って。琴似がにぎやかでいいんじゃないかってことで、琴似駅の近くに瓦工場を作って、僕と同じように業績を上げたんですよ。
戦争を生き抜いて
瓦工場をやって1年半くらいして、21歳のとき兵隊に取られて、3年間樺太にいたんです。僕は食事をゆっくりとしか食べられないから、周りのみんなが早食いで大変だったねぇ。
通信兵だったとき、一般の兵隊に付いて樺太の一番南のルタカから真岡まで北上していくのに、手前の逢坂まで行軍したの。途中の道に集まって玉音放送を聞いてる人たちがいてみんな泣いてるんだけど、僕はこれで戦争終わるんだと思うとうれしくてうれしくてしょうがなかったですよ。だって僕は下士官だったから、何日か前に中隊長が本部から「アメリカ軍が攻めてきたら頑強に抵抗し、ロシアに近づいて逃げ場がなくなったら自決しろ」って言われたっていうのを聞いてたんだからね。天皇陛下の声なんてこのとき初めて聞いたけど、「俺、これで死ななくて済むんだ」って思いましたよ。
次の日くらいにもう戦争が終わりだってことを大隊長が話されて、欄泊(らんどまり)に行ってロシア軍が来るんじゃないかって1日待っててね。来なかったから夕方に逢坂の連隊本部に戻ってきて、そこで通信兵だけがトラックを降ろされたんです。あとの一般兵の人たちはみんな真岡に行っちゃったんだけど、戦争は終わったはずなのに真岡にロシア軍が攻めてきてね。激戦になったから、みんなその日のうちに前線について、翌朝には全滅してしまったんですよ。僕は「トラックから降ろされたから、命が助かったな」と思いましたよ。
他にも逢坂で連隊本部のそばにいたときに、ロシアの飛行機に狙い撃ちされて伏せたんだけど、すぐそばにダンダンダンって弾がかすめたこともあってね。戦争中には何度か命拾いしてますね。現地で見て分かったのが、日本兵はみんなが腕時計持ってたり、ロシア兵よりはるかに生活は豊かだった。でも、日本軍の銃は1発ずつ撃つような銃ですよ。ロシアは一般の兵隊がみんな自動小銃(機関銃)を持ってて、兵器に関しては日本はなんと遅れた装備なんだろうと思いましたね。ロシアは、自動照準器まで持ってたんですよ。
シベリア抑留生活
そこから終戦後に捕虜になって、シベリアのナホトカに連れて行かれて3年くらいいたんですよ。最初の収容所は半年くらいは寒くて寒くて。北海道と違いますよ、シベリアの寒さは。零下30度ですよ。そんな寒い中で、ダイナマイトで崖を崩して、落ちた物を貨車に積んで。鉄道の路盤構築の土方をやらされてね。対日本戦のために引いた長い鉄道を、強化する作業だよね。食べる物もないし、みんな痩せて衰弱していって、亡くなる人もいっぱいいた。
半年くらいして、ロシアもこんなに人が死んだらまずいと思ったのか、検査官が来て健康状態でA・B・C・オッペの4つに分けられたんですよ。この検査というのが、おなかの皮を引っ張ってどれだけ伸びるかっていうやり方なんですよね。Cだと軽作業くらいなんだけど、オッペだと病人扱いで病院みたいな収容所に行かされるの。僕は痩せておなかの皮がすごい伸びたから、何にも具合悪くないのにオッペになってね。半年くらい、そこで第4小隊の小隊長をやってましたよ。オッペは半病人ですから、ただ寝てるだけで何もすることがないんですよ。それで第2小隊の小隊長がロシア語の本を持ってたから、自分の本と交換で借りてロシア語の勉強したんですよ。包装紙みたいなのを切って束ねたものに全部書き写して、毎日寝ながら暗記しました。このときは、まさかロシア語がすぐに次の仕事に役立つことになるとは思わなかったよねぇ。
ひと冬くらいたってまた検査して体が回復していたから、港の作業場に出されました。道路の構築だとか、船が来たら荷揚げして鉄道に積み替える仕事だったんだけど、そこで風邪引いて熱出して入院して。退院してすぐには作業に出されないで、ガマンダっていう病院の作業班にいたんですよ。一般の病院じゃなくて、日本人だけが来る病院でね。そこで「ロシア語が少ししゃべれて少し書ける者はいないか?」と作業長に言われて、たまたま僕がロシア語できたから食糧倉庫の責任者になれってことになったの。倉庫の在庫管理とか、小麦粉をパン工場に運んで焼いたパンを病院の患者に切って配るような仕事です。最初はロシア人女性がやっていたんだけど、女だからばかにして甘く見られて倉庫の物を盗む人がいたんですよね。毎月在庫検査が終わる度に、その女性は泣いていたって。いつも在庫が合わなくて、合わないと弁償するみたいなんだよ。その仕事を僕が代ったんです。僕はずっと経理の仕事してたから、会計を分かってるし要領がいいからね。それに日本人同士だから言葉が分かるでしょ。取りに来る人をちゃんと指名して、帰りにお菓子だとかお土産を持たせたりしてうまくやったから、盗む人がいなくなったの。僕が責任者になってからは、在庫がピタッと合うようになった。
そのうち収容所の職員の医者や看護師に「バリショイ・ナチャリーク」って、ロシア語で「偉大な隊長」って意味の言葉で呼ばれて、ロシアのお金(ルーブル)で給料ももらってたんだよ(笑)。でもお金があっても店もないし使えないから、日本の作業班の人たちに全部あげてた。だから、みんなからは嫌われなかったよ。僕は責任者だから、寝る部屋もみんなと違う。特別扱いだったから、捕虜は捕虜なんだけど全然つらいことなんてなかったよ。楽しくやってたよ。丸々太って帰ってきたくらいなの(笑)。
帰国、兄弟で仕事再開
それから、順番に日本に帰れることになってね。そりゃあ、うれしかったさ。ナホトカから復員船に乗って、舞鶴に着いたんですよ。汽車に乗って東京回って、伊達の長和まで帰ってきました。舞鶴と函館で電報を打って帰ることを知らせてたから、駅に誰かが迎えに来てくれてると思ったの。それが電報が間に合わなくて誰も知らないし、洞爺の親戚の法事に母は行ってて、駅には誰もいないの。家に帰って「ただいま帰りました!」って言ったら、その声で父が「おお~っ!」って驚いて。そのあと戻ってきた母に会ったら、「おお、帰ってきたか、おお、帰ってきたか」って言ってね。やっとうちに帰ってきたんだもの。そりゃあ、うれしかったねぇ。そして何日かうちで休んでから、兄と仕事するために琴似に出てきたんですよ。
兄は琴似の瓦工場で2年くらいたったときに兵隊になって、北方領土の千島に渡って帰ってきてた。だから、僕が戻ったときには琴似で商売再開していたんだ。兄が千島から釧路に戻るときにね、先に出た大きい船が2隻撃沈されちゃって、もう大きい船がないからって小舟に分乗して帰ってきたおかげで、狙われずに無事に帰れたんだって。みんな南方に行って全滅だったのに、北に行ったのも運が良かったよね。僕より少しあとに弟も帰ってきてね。満州に行ってから教育隊に入って台湾に行かされて、原隊は沖縄に行かされて全滅したけど、弟は教育隊だったから助かったの。三兄弟みんな、運が良かったんだよね。それで、きょうだい一緒に琴似で商売ができるようになったんですよ。
戦後はトタンが出てきて瓦工場がダメになったので、これから何をやろうかって、兄はいろんなことをやってたみたいだけど、どれもうまくいってなかった。父の工場はもうやめてましてね。そんなときに僕が戻ってきて、兄から「これから元の材木屋に戻ろう」と言われました。それで、兄が北見に行って材木を仕入れてきたら、ひどい目にあったの。外からは分からなかったんだけど、束ねてある内側は使い物にならない木材だったの。それで自分で木材を作ろうということになって、昭和23年に山地建材店を始めたんです。看板は、僕が字を書きましたよ。
最初の1年くらいはうまくいかなくて、自分で木材売る自信がなくなった時期もあって落ち込んだりしたんですよ。接客してても、兄のときはお客さんが「また来ます」って言ってちゃんとまた来てくれるんだけど、僕のときは「また来ます」ってもう来なかったりしてね。しばらくして兄が発寒に土地を買って家具工場を建てたから、僕が材木屋の方をやったんです。それが、10年間で琴似で一番売れる建材店になりました。琴似に他の建材屋もあったけど、どこよりも売れるようになったんだよ。そのお金で、投資目的じゃなく将来の事業用地にという思いで不動産・土地を4260坪買って、それが今の基礎になったんですね。社員用に野球場を買ったり、新さっぽろに買った土地を社員に安く分譲したり、ずいぶん土地を買ったんですよ。
木材から建材へ。山地商事創業
何で成功したか分かんないけどねぇ。そのころ、僕は自分の家を建てた経験から、木材を見る目があってね。適材適所が分かるようになってたんですよ。それで柱用、小屋材、土台用とかって紙をそれぞれの木材に貼って、大工さんが用途別に選べるように分類して売っていたんです。自分で木材を分ける手間が省けるし、分かりやすいから売れたんでしょうかね。それと、店内に「お買い上げは現金にてお願いいたします」「掛け売りは口座のあるところに限ります」「口座の開設は店員全員で相談の上、口座を作ります」という張り紙をしてたんだよね。値段は正規の値段で、安くしたりはしなかったですよ。最初は文句言ってくる人もいたけど、そのうちに山地との取引口座ができることが、その人の信用になるようになっていったんだよね。建材店のときに、結婚もしましたよ。
昭和33年、木材から建材に移る時代になると見越して、卸部門を作ろうということになって。山地商事株式会社を設立、創業しました。木材屋同士だったら買ってくれないから、建材の専門店となって木材屋をお客さんにしようと思って卸問屋を作ったの。工務店には一切売らずに、木材店だけを相手に売るようにしてね。山地建材店は社員に任せてしまって、昭和40年には山地商事の社長になりました。ここまではずっと兄を社長に立てて、僕は実質社長なんだけど専務になってました。弟は常務でね。昭和40年からは自分で社長をやることにしました。
初めは売る物があまりなくて、社員が木材店に営業に行ったら「なに?ベニヤ買ってくれって?俺の方から売ってやるわい」と言われて、すごすご帰ってきたりしてね。でも、旭川の北海道林業という国策パルプの子会社が、紙に使う木材の中から、良い木材はもったいないから加工して化粧合板のような建材を作り始めて、建具メーカーになったんですよ。うちは木材のときからここと取引があって信用もできていたから、北海道林業からすぐ「ホクリンボード」という繊維板やフローリングを仕入れることができて、それを売ってました。それがねぇ、あるとき社員があいさつ回り先での問屋同士の会話で、「ホクリンボード売るの苦労しますなぁ」と話していたら、ちょうど店の横で北海道林業の社長が聞いていて、「そんなに苦労するなら売らなくてもいいです」と言われて、契約が取り消しになっちゃってね。僕が慌てて旭川まで謝りに行ったんだけど、「あなたのところで卸はまだ早い。ちゃんとなったらまた代理店にしますから」って断られました。
そんなことはあったんですが、他に秋田木材からも木材を買っていたから代理店になれて、「アキモクボード」というハードボードを仕入れたり、小西木材の紹介でソフトボードも買えるようになってね。戦後の建築ブームもありましたし、ハウスメーカーもできて、扱えるメーカーが増えていったりして、会社はどんどん大きくなっていきました。営業も、まずは最初から広い範囲に広げるんじゃなく、近い地域からお得意さまを確実に増やしていき、そのあとに範囲を広げていくようにと戦略を決めて、社員に言ってましたね。
経営者としての苦悩と喜び
昭和43年に、兄の会社の西札幌木材の赤字立て直しのために、3年間私が社長として入ることになったんです。それが、山地商事を部下に任せてるうちに赤字になってしまい、また僕が戻ってね。田中角栄の『列島改造論』の波に乗って1年で赤字を解消して、会社を立て直しました。振り返ってみて思うのは、そんなに深刻ではないんですけどね。建材の世界は取引の金額が大きいもんですから手形取引になっていったんですが、それにつれて社員の売り方が甘くなって。3カ月を超す手形は断固としてダメだと言ってたのに、いつの間にか長い手形を承知するようになってましてね。5カ月先の回収とかもあって、「われわれは金融業者ではない。われわれの使命は建材業者である」と僕は譲らなかったんだけど、社員たちはだんだん、いかに社長を説得するかに明け暮れるようになって、もう、社員との闘いになってましたよ。
息子の章夫が20代後半で入社したときに、僕が息子に「こんなに手形で苦労している会社はダメになる」「この商売は将来長くない」「新しい事業を考えてくれ」と会う度に言ってたらしいですね。忘れちゃったけどね。それが、山地商事を章夫に任せてからものすごく改善されたんです。すごくうまくいくようになったんですよ!10億くらい、手形が引っかかってたのが、章夫が「多角化」「手形をやめる」というふうに取り組んだおかげでね。今では手形は、99%から1%になりましたからね。私が他の家具工場の仕事に没頭している間に、章夫のおかげですっかり健全化していました。うれしいですよ。私はもともと経理屋だから、回収がうまくいったのがとても安心したんですよ。
人生振り返ってみるとね。幸せな人生でしたよ。今、僕は96歳でしょう。これで毎日自分で地下鉄乗って会社行ってますからねぇ。雨の日に娘が車で送ってくれることもあるんですけどね。会社の他に、毎週1回、ロータリークラブにも行ってるんですけど、ロータリークラブは50年間皆勤なんですから。
本当に、私の人生は幸せです。その中でもやっぱり、妻と一緒になったのが一番良かったですね。
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