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THE 山地章夫

令和7年12月発行 / 北海道・昭和30年生まれ

仕事と人生をとことん楽しむ

山地章夫として生きてきて

令和7年6月。
「THE 山地章夫」創刊号発行にあたり、3時間に及ぶオンラインインタビューを行った。
札幌市琴似町に生まれ、自由な幼少期を過ごした山地氏。
充実した学生生活の間で経験した海外での1人旅が、人生の転機となった。
経営者としての道を歩み始めてからは数々の新規事業を手掛け、今なお、現役経営者として活躍している。
そんな山地氏の、遊びを愛し、仕事を愛し、家族を愛したその半生に迫る―。

 

   PROFILE●山地章夫
   生まれ年:昭和30年
   趣味:旅行 ゴルフ(ホールインワン達成) サウナ 車 温泉
      SNS発信(17年継続中) 音楽 スキー アート 執筆(7冊出版)
      投資 麻雀
   好きなテレビ番組:スポーツ中継 経済情報番組 大河ドラマ 朝ドラ
   好きな食べ物:蕎麦 BBQ フレンチ スープカレー ハンバーガー
   好きな本:ビジネス書『ビジョナリーカンパニーゼロ』 雑誌『カーサブルータス』
   尊敬する人:本田宗一郎 大橋巨泉 桑田佳祐
   座右の銘:仕事と人生をとことん楽しむ


生まれたころと両親

 1955年4月、札幌市の琴似で生まれました。当時住んでいたのは、木造2階建てで瓦屋根の家です。周囲は平屋やトタン屋根が多かったので、目立っていましたね。

 父は、家の近くで家具工場を経営していました。最初から家具屋だったわけではなくて、学校を出たあとは小樽の大手酒造会社に就職したそうです。そこの経理として頭角を現し、若くして樺太の出先の経理責任者になったのです。そんな父が事業経営をやることになったのは、伯父(父の兄)に呼ばれて、祖父の仕事を手伝うようになったことがきっかけです。

 祖父は、伊達で木材を加工して売る商売をしていました。でも新しくセメントの瓦屋根を作る仕事をすることになり、父はその責任者として呼ばれたようです。

 父は戦地で捕虜になり3年のシベリア抑留から生還して伯父の事業を手伝うようになりました。伯父も最初は、セメント瓦の商売をしていたのですよ。北海道っていうのは、戦前はトタン屋根が主流でした。でも戦争で鉄を持って行かれるので、セメントで瓦屋根を作る商売が成り立つようになったんですね。ところが戦後はセメント瓦の需要がなくなり、仕事がなくなってしまいました。他の商売もやったけどうまくいかなくて、元々やっていた木材業に戻りました。その延長で、住宅建築や家具作りを始めたそうです。父と伯父で山地木材店を経営していましたが、私が3歳のときに父は伯父から独立して建材問屋の山地商事㈱を作りました。

 父はすごく真面目で勉強熱心でしたよ。何でもすぐメモしていました。経理屋なので計算が得意で、論理的。遊びも大好きで、囲碁や将棋をしていました。50代からはゴルフもしていたな。その他にも母と一緒に社交ダンスをしたり、カラオケの練習をしてスナックに行ったりしていました。お酒は飲めないけど多趣味で、仕事に遊びに忙しい人でした。小学校のPTA会長もしていましたね。

 母は嫁いできた以前からいけばなをしていたそうです。結婚してから建てた家の1階で雑貨などの商店を始めました。家の前に家具工場があってそこで働く人たちが買いに来てくれるんですよ。お金をためてもっと自立したかったようです。お手伝いさんも家に来ていましたね。

 母は、すばらしい人でした。褒める達人で、いつも私の味方でいてくれましたから。いけばなをやっていて人脈があったので、良い評判を聞いた絵画教室や書道教室、英語塾に私を入れてくれました。そのおかげで私は絵が好きになったんですよ。英語塾はスパルタ式でしたが、そこで英語が得意になったのは後の人生に活きましたね。

 2人とも忙しくて子育ては放任主義でしたが、私は放っておかれるのが嫌ではなかったので良かったです。親と遊びに行った記憶はほとんどないですが、不満はなかったですよ。

3人きょうだい

 きょうだいは2人で、姉と弟がいます。姉と弟とはそれぞれ年が4つも離れていたので、あまり遊んだ記憶はないかな。2人とも足が速くて、運動会ではリレーの選手に選ばれていました。

 父は真面目な人なので、姉は厳しくしつけられたそうです。一方で私は2番目だったからか、特に厳しくなかったんですよ。怒られる空気を察したら、さっと逃げていましたしね。「あなたは要領がいいから、私ばかり怒られる」とよく姉に言われていました。

 私と姉は文系ですが、弟は理系で勉強も出来て歯科医になりました。スポーツも万能で、人気があり、バレンタインデーにはチョコをたくさんもらっていました。私の方がチョコが少なくてちょっといじけましたけど(笑)、基本的にはさすがだなと思っていました。歳の離れた弟ですからね。

幼少期

 幼稚園のころは、クラスを勝手に移動するくらい自由な子どもでした。おとなしい子ではなかったみたいですね。先生の上げ足取りばかりして扱いにくかったと思います。

 近所の悪ガキ仲間と手裏剣を作って工場の壁に飛ばしたり、釘さしっていう陣地取りゲームをしたりしていました。ゴムで石を飛ばすパチンコでも遊んだな。飛び道具が好きだったんでしょうね(笑)。

 家にはお手伝いさんがいたので、私が家事の手伝いをするということはありませんでした。でも冬には、瓦屋根に上って雪をおろしたり、屋根についた氷をツルハシで割ったりということはしましたよ。間違って、氷ごと瓦も割ってしまったこともあります。親には何も言わないで、黙っていました(笑)。

 食事は母が作ってくれていたと思います。好き嫌いもあまりなかったし、何でもおいしかったですね。特に好きだったのはじゃがいもを厚めにスライスして、焼きながら卵でとじたものです。ペッパーをかけて辛くするんですが、それがおいしくて、しょっちゅう食べていました。

小中学生時代

 琴似小学校は家から歩いて5分ぐらいのところのマンモス校でした。12クラスぐらいあったかな。好きな科目は図画工作です。体育も好きでしたね。足は遅かったけど、球技とかは得意だったんですよ。小学校に嫌な思い出はまったくなくて、3年間担任だった先生からは特に可愛がられていた記憶があります。理科が得意な先生で、先生と鉱物の話をしたり、水晶の結晶や化石をもらったりしました。

 高学年のころから、剣道を習い始めました。同じころからプラモデルにはまって、よく作っていたのも覚えています。お年玉をもらったらプラモデルを買っていましたから。

 1968年に琴似中学校に入学しました。中学校は家から徒歩10分ほどで、クラスは10ぐらいありましたね。塾のおかげで、英語は得意科目でした。

 中学校生活もとても楽しかったんですよ。休み時間は色んな遊びを考えたり、帰り道は仲のいい友達と馬鹿話をしたりしていました。学校に行くのが好きだったんです。

 部活は吹奏楽部に入って、トランペットとホルンを吹いていました。楽器を演奏している人への憧れもあったし、小学生のときに鼓笛隊で太鼓をやっていた延長、というのもあったのかもしれません。トランペットは、家でもよく練習しました。

 練習をしないときは、家でプラモデルばかり作っていましたね。かなり本格的に戦闘機や戦車を作りました。あとは、ラジオの深夜放送にもはまりした。学校でリクエストはがきを書いて毎日出していました。学校ではない、違う世界に行きたかったのかもしれません。映画の試写会の券もラジオの抽選でもらって、よく見に行っていました。それで映画も好きになったんですよ。受験生のときもラジオを聞いていたので、受験勉強に集中していなかったですね。

高校生時代

 札幌西高校に合格できたときはうれしかったです。ボーダーラインにいて、落ちたら私立だな、と思っていましたから。「自由、自律、叡智、創造」の校訓を実践する、自由な高校でした。生徒の自主性に任せる校風だったから、いろいろ育まれましたね。

 高校では剣道部に入ったものの、情熱が湧かなくて1年でやめたんです。成績が良くなかったので、高1のころは図書館へ行って真面目に勉強していました。でも、高2のころから勉強より色んな遊びが面白くなって、親友とジャズ喫茶に入り浸るなど、街遊びに夢中になりました。そして、高3でますます不真面目になりました(笑)。

 実は高2のときの学生運動により、高3から制服自由化を実現したんです。大学の学生運動の流れが高校にまで来ていて、先生と団体交渉で制服が無くなったんです。そのおかげで、卒業式では卒業生がウェディングドレスを着たり、コスプレ大会みたいになりました(笑)。私は正統派のおしゃれで、ジャケットとか着こなしていましたね。すごく大人びていたんです。

 おしゃれに凝っていて、『メンズクラブ』というファッション雑誌をずっと愛読していました。アメリカントラディショナルと呼ばれるジャンルのファッションが大好きだったな。白デニムに白のロゴ入りトレーナーで、ちょっとかっこつけて学校に行っていました。おしゃれ系で攻めていましたね。

 服を買うのはバーゲンセールで、札幌のメンズショップです。今でいうビームスみたいなセレクトショップに入り浸って、店員さんと仲良くなることもありました。雑誌を読み漁って、アメリカの大学生のスタイルの勉強をして、ファッション業界に行きたいぐらい詳しくなっていたんです。

 午後は学校から直行で街に出て遊んでばかりでした。でも夜の7時とか8時には帰っていました。部活をしている人も同じぐらいの帰宅時間なので、両親は特に気にしていなかったと思います。単なる遊び人だっただけで、悪い不良にはなっていなかったですね。

浪人時代

 高校生のころ、勉強ができる子は北海道大学、そうでもない子たちは浪人して東京の私立大に行くという先輩たちの流れがあったので、私も私立に行くと決めていました。浪人を決めていたことは両親には言っていなかったです。もしかしたら1割ぐらいの確率で現役合格できるかもしれないと思っていたのですが、やはり落ちました。試験は結構できたと思ったんだけどな。

 浪人先は札幌と東京ですごく迷いました。東京に決めたのは、札幌にいるとだらけると思ったからです。東京で下宿して自分を追い込んだ方がいいと判断したんですね。それで、「予備校受験のために明日東京に行ってくる」と親に言って上京しました。唐突だったから、親は驚いていました。でも予備校に受かって、東京で下宿すると伝えたときは、「おお、そうか。がんばれ」と送り出してくれました。

 そのころ姉が東京に嫁いでいたので、姉がいる葛飾区の近くでアパートを借りて、高田馬場の予備校に通いました。私は学ランに下駄履きで歩く「バンカラ」イメージの早稲田、明治、法政に憧れがありました。

 浪人時代は勉強ばかりしていたので、人生で一番暗い1年だったと思います。でも、大学に行ったら思い切り遊ぼう、部活は何部に入ろうか、とバラ色の大学生活を思い浮かべながら、乗り切ったんです。西高の浪人仲間も大勢東京にいて孤独ではなかったですね。

大学生活

 大学に4カ所受かったときは安心しました。落ちたら2浪でもいいと思っていましたし、滑り止めも受けていたので、あまり心配はしていなかったんですけどね。

 最初は、早稲田大学の社会科学部に入りました。しかし入学式で、なんか違うなと思ったので入学をやめて、明治大学の経営学部に行くことにしました。父が経営者だったので、経営者になりたいと思ったんです。早稲田と明治の両方に入学金を払っていたから、そういうことができたんですね。当時は入学金も安かったのかもしれませんが、もったいないことをしたなと思いますよ。

 大学時代、夜は麻雀ばかりしていました。西高時代の友達や、大学の友達と学校帰りにも遊んでとても楽しかったです。美術部に入って、1年生のときは民間の絵画教室にも通っていました。そして英語部にも所属していました。

 大学にも真面目に行っていましたが、成績は優や良が多くて、それなりにやっていましたよ。3、4年のときは経営学とかビジネスに役に立ちそうな講義を選択していたので充実した学生生活でした。

 アルバイトは浜松町の竹芝桟橋付近の蕎麦屋でしていました。そこは西高の同級生のおじさんの店でした。大学の後半には「好きなときにきていいよ」と言われていたので、結局、大学4年間ずっとそのお店に所属していました。そのお蕎麦屋さんは西高OBのたまり場みたいになっていて、2階の休憩室で麻雀したり、まかない食で飲んだりしていました。3、4年生のときはアパレルのセンターで商品のデリバリーをする仕事や、寿司屋のバイトもやりました。3年で単位をほとんど取れたので、4年目はバイトに力を入れることができたんですね。

アメリカ1人冒険旅行

 大学3年生のとき、人生の転機がありました。1人でアメリカ大陸を冒険旅行したんです。大学の夏休みとその前後の、3カ月ほど行きました。そこで、私は人格形成されちゃいましたね。それまではただの遊び人で、今日楽しければいいと思っていたんですが、変わりました。

 1人で旅をすると、自分と向き合うことになります。本当は何をしたいのか、どう生きたいのかを考えるようになるんです。それに毎日、1人で決断する必要が出てきます。行き先もやることもすべて自己決断に迫られて逃げられない。結果、人間的にすごく成長しました。数々のトラブルがあったけど、全部乗り切ってきたから、大きな自信になりました。もうどんなことをしても生きていける、どういうときでも乗り切れるという気持ちになったんです。

 アメリカは、とても居心地が良かったです。出会った人の家に1週間ほど泊めてもらったことが10回近くありました。初めて会った人を泊めてくれるなんてアメリカ、カナダ人はとても親切だと思いましたよ。困っている人に対して当たり前によくしてくれることに、衝撃を受けました。このころから、アメリカ人とビジネスをしたい、外国と貿易したいと思うようになりました。

就職活動

 アメリカから帰ったあと、リクルート社から就活のための企業情報ブックが送られてきました。でもブックで東京や北海道の企業を見ていても、興味があるものがなくて、就活がめんどうになったんです。私にとってワクワクする仕事がなくて、働いている姿が想像できなかったんですよね。それで、経営者になるにはどうしたらいいかなと思って父に相談しました。そこで紹介されたのが、㈱田辺経営という経営コンサル企業だったんです。

 父に「うちが指導を受けている会社で、経営者の子息を面接しているらしいから、受けてみたらどうか」と言われました。これは経営者の近道だと思いましたね。それで、3年生が終わった春休みごろに面接を受けに行きました。そこで面接官の専務に、「うちの会社では、1人何役もやらされる。厳しいけど、うちの会社の3年は、9年分の価値があるぞ」と言われたんです。その言葉には、ぐっと来ましたね。こんなタイムパフォーマンスのいいところはないと思いました。私は成長意識が高くて、とにかく人より早く成長したかったんです。そこで内定をもらえたので、前から考えていた就活は一切やめました。その後は、卒業までテニスとバイト三昧です(笑)。あと、就職してから役に立つかと思って、夜間の簿記の学校にも入りました。

 親に跡を継げと言われたことはなかったですね。経営者になりたいというのは、父を見ていたからですが、親の会社に入る必要はないなと思っていました。東京に出たので、東京で一旗揚げたかったんです。なので、まずは東京で仕事を見つけました。家業はいずれ継ぐかもと、ふわっとは思っていましたが、頭の片隅にあったぐらいでした。

田辺経営に就職

 田辺経営では、いろんな企業にビジネス手帳を売る仕事をメインにしていました。営業業務やセミナー教育担当応援など、本当に1人何役もしましたね。セミナーの仕事をしていると、経営セミナーの内容も聞かせてもらえます。そうやって田辺経営の社長の講演を何度も聞かせてもらっているうちに、経営とはどういうものか、ということが少しだけ分かってきました。

 田辺経営に勤めていろいろな経営者と交わったり、コンサルタントと仕事をしているうちに、経営はやりがいがあるけどそんなに簡単なものじゃないな、ということが分かってきました。田辺経営では、経営者のスタンスは学べるけど、ノウハウは学べなかったんです。というのも、私がいた営業や社員教育の部署っていうのは、経営の一部でしかないんですよね。労務や財務、経営管理やマーケティングなどもわからないと、本当の良い経営はできない。そういうことは、大学では学べなかったことなので、もう1度、専門の学校に行かないといけないと思いました。

 そんなときに、、通商産業省の中小企業大学校が経営後継者コースを始めるというのを新聞で知ったんです。今でいうとMBAみたいなものですね。国の支援もあって、良いカリキュラムを受けられる、という話でした。第1期生には間に合わなかったんですが、第2期生に応募受験したら受かったんです。会社には、「申し訳ないけど、経営の勉強を本格的にしたいので辞めたいです」と言ったら、快く了承してくれました。入社3年目でしたね。

経営後継者コース

 田辺経営を退職後、実家の山地商事㈱に入社しました。というのも、経営後継者コースは、どこかの会社の派遣でないと入れなかったんです。習ったことを現場で実践できる環境でないと身に付かないからですね。それで父に「山地商事から派遣という形で大学校に行かせてほしい」と頼んだら、「それはいいね」と言ってもらえました。

 中小企業大学校に入学したときには、これから山地商事でやっていこうということは決めていました。自分のやりたい事業かどうかはわかりませんでしたが、経営者になる近道だとは思っていたからです。

 起業するには、その分野でエキスパートになっていないといけないですよね。実績や人脈、そして自信も大事。それには何年もかかります。いつか起業してやろうと夢を見るんじゃなくて、今自分の持っている経営資源に目を向けて、そこで自分のやりたいことをやったらいいじゃないか、と戦略的に考えたんです。大学校で知識をつけて帰ったら、会社を大変革してやろうと決めていました(それは傲慢で甘い考えでしたが)。

 経営後継者コースは10月始まりで、翌年の9月まででした。1年間楽しかったですね。学校は府中にあって、早稲田や慶應のビジネススクールの先生たちが講義やゼミを持ってくれていました。実践的で、ケーススタディなど面白い授業ばかりでした。

 寮もすばらしかったんですよ。テニスコートがあったので、いつもテニスをしていました。学生寮は東大和市にあるのです。土日は休みなので、毎週のように六本木に繰り出してディスコで踊りました。楽しかったな。春休みには、ヨーロッパへ旅行に行きました。1カ月半の1人冒険旅だったので、また自分を鍛えることができましたね。

山地商事に入社

 大学校を卒業後、10月に実家に帰り、山地商事で働き始めました。当時の山地商事は、建築資材の卸しをしていて、合板や断熱材、床材なども扱っていました。いかに安く仕入れて多く売るか、という仕事なので、企画力があまり必要ないんですよ。経営はアイデア勝負だと学んできたのに、面白くないなと思いました。

 売り上げが大きい割に利益率は低いし、代金回収は約束手形なのです。手形は、現金化されるのに約5カ月かかるんですが、その間に支払ってくれた会社が倒産すると手形は紙切れになります。そういう不良債権を、何度もいやというほど経験しましたね。

 父は、冷静に数字で仕事をする人でした。会社で昼食中とか関係なしに、四六時中、月次決算書、バランスシートを見ていましたね。それで、私が入社してすぐのころ、「会社が債務超過になりそうになったら会社が倒産する前に廃業する」と言われました。倒産すると、社員や得意先、仕入先に迷惑かかりますからね。後を継ごうと思って入社したのでこの言葉にびっくりしました。でも私にとってみれば、渡りに船でした。それでどんどん、新規事業にチャレンジしていったというわけです。

 私は、父に人生や進路についての相談をした記憶はありません。進学、就職の方向性を伝えて確認を取ったりはしましたが、反対はされませんでした。山地商事でいろいろな新規事業を始めるときも同じ反応だったので、晩年に「あのときはいつも反対しなかったね」と聞いてみたんです。そうしたら「単にお前の言うことに説得力があったからだ」と言われました。「まあやってみなはれ」精神です。それで自由にのびのびと失敗や成功を繰り返せたと、とても感謝しています。

様々な新規事業に着手

 入社して半年から1年は配送センター勤務、それと仕入れ担当でした。その間に私の叔父がホテルの新規事業をすることになり、元木材店の琴似の土地にシティホテルが建てられたんです。そこの開業準備の応援要員として、私が出向することになりました。備品調達やツールデザインなど、いろいろなことをやって勉強になりましたね。

 ホテル開業後に山地商事に戻ると、ホームセンターの新規事業企画が始まっていました。BtoCの事業なら現金回収だし、ホームセンターでは建材も売れますからね。そこで私は店長をすることになり、開業前研修のために仕入れ先が経営する埼玉県にあるホームセンターで3、4カ月修行しました。修行から戻って開業したんですが、うまくいかず、悔しくも3年半で廃業してしまいました。私の第1号の新規事業は、失敗に終わってしまったんです。

 ホームセンターの店長をしていたころ、妻に出会って結婚しました。当時、建材の仕入課リーダーもしていたんですが、そこで出会ったのが、貿易です。夢に見ていたアメリカとの取引チャンスが来たんですよ。1986年に毎年恒例の山地商事の建材展示商談会を行いました。そのとき物は試しということで、北米の輸入建材も並べていたんですよ。それが、私がアメリカに行ったときに見た家に使われているような建材でね。これはいい、と思いました。展示会での反応は悪かったけど、私はアメリカンハウスが面白いと思っていたんです。貿易もしたいし、アメリカにも行きたいから、これを本格的に扱うぞと決めました。それで、北米の建材を扱うザ・ジョンソングループというアメリカ法人に交渉をして出資させてもらい、貿易事業の仲間に入れてもらいました。これが、結果的に当たりました。よくシアトルに行って、後にジョンソングループの役員にもなったんです。ビジネスの世界がどんどん広がっていきましたね。1987年にはアメリカンハウスを建てる㈱ジョンソンホームズを設立して順調に事業拡大していきました。

1997年の金融危機

 突然顕在化した金融危機で、山一証券や北海道拓殖銀行が倒産したころは大変でしたよ。北海道の企業が連鎖的に倒産して経済が冷え込んでしまい、うちの会社も2年間で売り上げが半減したんです。

 次年度の経営計画を立てる際、各部署にいくら売り上げられるか聞くと、来年は大赤字だと言われました。建材の売り先が多数倒産しているので、どう考えても赤字だったんですよね。考えに考えて、経営規模を大胆に縮小することにしました。ほとんどの支店や店舗を閉店して、人員も半分にしなければなりません。そのときはきつかったですよ。当時は3社を経営していたんですが、すべて半分の規模にしました。

 会社を残し、残った人員の生活を守る、そういった責任感で乗り切りました。のちに飛躍するために、一度重心を下げて踏ん張ろうと思ったんです。当時、リストラのあと、さらにつらかったのが、規模縮小のあとに新しく成長するシナリオが描けなかったことですね。自分が未熟で、ゲームチェンジとなるような新戦略や新規事業のアイデアがないのです。それが私にとってはとても苦しかったです。

新しい価値を創造する

 苦しみぬいた2年後、輸入住宅のフランチャイズ事業(インターデコハウスFC)を立ち上げて全国に打って出るという大きなビジョンがひらめいたのです。そのときは神様がおりてきたと思いました。

 ヨーロッパ風の輸入住宅を、家具と照明器具もセットにして、1500万円ほどで売ろうという考えです。いわゆるローコスト輸入住宅というジャンルの発明ですね。一大プロジェクトにして、1年ぐらいかけてフランチャイズシステムを作りました。2000年にスタートして、2年目ぐらいに順調に業績拡大しV字回復を果たしました。楽しすぎて、寝ないで仕事をしていましたよ。

 私はね、せっかく私がやるなら、ビジネスはかっこよくやりたいと思っています。それまでなかった価値を創造して、どの業界もかっこよくしていきたいのです。住宅事業、リフォーム、リノベーション事業、不動産事業、イベント事業、インテリア事業、飲食事業、デイサービス事業、スポーツジム事業、フランチャイズ事業、建材輸入や流通事業、経営コンサル事業、警備事業、FM放送局事業等々すべて、うちはかっこよくやるぞ、という気持ちでここまできました。

PTAでの新規事業

 2003年に、札幌西高のPTA会長になりました。長女が西高に入ったんですが、そのころにPTA会長をやりませんかと声をかけてもらったんです。仕事も忙しいけど、PTAも革命を起こそうと思って引き受けました。課題を見つけてばんばん解決し始めたのですが、学校に予算つまり、お金がない、ということがわかったんですよね。だから、できないことも多かったんです。それなら学校が簡単にお金を稼ぐ方法はないかなと考えて、「札幌西高サポーターズカード」というクレジットカード事業を作りました。

 加入者がカードを使うたびに、利用料が利益として学校に入る仕組みを作ったんです。そのお金は、部活動の補助金にしました。いろいろな部活が要望する物の中から優先順位をつけて、毎年買っていってあげました。それで、西高の部活動はとても潤ったんですよ。累計で2000万円を超えています。空き教室にマシーンを入れて、トレーニングジムまで作っちゃいましたからね。冬の間に雪で満足にトレーニングできなかった部活が、ジムで筋トレをするおかげで強くなったという報告もありました。あとで役員のみんなからもすごく感謝されたんですよ。こんなに面白いPTA会長についていけて本当に良かったと言われました。私も娘のおかげで、いい経験ができましたね。

 「札幌西高サポーターズカード」は、発行から20年経ってもまだ続いていて、みんなに喜んでもらっています。そんなことをやっているのは、全国でも、西高のたった1校しかないんです。みんな真似しようと思ってもできないんでしょうね。やりたくても、強烈な旗振り役がいないと無理だと思います。

 後ろばかりふり返っていたら、新しいことができません。でも私は極端で、先ばかり見てふり返らないので、後始末ができないんです。昔からそうでした。母からもよく注意されましたから。PTAでも新規事業をするときは、役員の方たちが教育委員会への根回しなどいろいろと細かいフォローをしてくれて助かりました。PTAも会社経営もずっと、周囲の人に助けてもらいながら進めてきたように思います。

仕事のやりがい

 私にとっての仕事のやりがいは、世の中のためになっていると感じられることです。仕事で多少は苦労はしますが、その分成長したり業績がうまくいくと、とってもうれしいのです。たくさん売れているというのは顧客に喜ばれている、たくさんのお客様を幸せにしているということですから。

 50才のころ、自分の太い背骨(揺るがない自信や考えかた)を作るために成功コーチングというのを学んだのですが、その中で、自分の人生のミッションは何かと深夜まで考え抜く機会がありました。そうしたら、「世の中に幸せをばらまく」というのが下りてきたんです。そのためには、社員も幸せで仕事を楽しんでもらわないと、と思っています。社員が楽しくないと、お客様も楽しくないですからね。今は、私たちじゃないとできないもっと多くのことで、みんなが幸せになれることをしたいと思って、仕事をしているところです。

 新規事業を始めるときも「それはやって楽しいの?」とまず考えます。それは、やっていて楽しい「やりたいことか?」だけでなく、世の中を良くしたり幸せにする「やるべきことか?」そして、自分たちならきっと成功させられる「やれることか?」をよくかんがえて、それらの交わるところに、私のビジョンがあるのだと考えています。

振り返って

 充実していて、最高に楽しい人生ですよ。自分で想像していた以上に理想的な人生です。今考えているのは、これをどれだけ持続させるかということですね。ピークアウトするのがもったいないぐらい、面白すぎる人生ですから。

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