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自分史作成サービス「親の雑誌」ご利用実績

富田オリヱさんの自分史インタビュー中の写真

大変なことがあったから、今があるって思っています

平成29年11月発行

富田オリヱ

東京都・昭和12年生まれ

  人物紹介

  富田オリヱさんの自分史の表紙写真

豊島区雑司ヶ谷に生まれ、3人きょうだいの長女として明るく育った富田オリヱさん。日本橋の喫茶店「さっぽろや」に勤めたことがきっかけとなり、ご主人と結婚。3人の子育てをしながら、神田の地で卸肉店「愛知屋」を経営する主人を支え続けた。

自分史本文より

富田オリヱさんの自分史の中身写真

■夫との出会い

学校をやめたころ、近所の1級先輩の女の子が、日本橋の「さっぽろや」という喫茶店にお勤めしていたんです。その先輩に、「何もしてないなら、うちで働けば」と誘われて、働くようになりました。お店には、高島屋のお客さんがよく来ていましたね。メニューは、サンドイッチ、トースト、コーヒーくらいで、50円均一だったんですよ。テーブルが3つ4つの、入っても15人くらいの狭いお店でした。店員は3人くらいでしたね。

日本橋の白木屋に下駄を納めている主人の友達が「さっぽろやに女の子がいるよ」と言ったそうで、それから主人がお店に来るようになったんです。主人は、会うときにはお風呂に入って、きちんと背広を着て来るから、肉屋だとは知りませんでした。1年くらい知らなかったですよ。付き合うことになったきっかけは、あまり覚えていないけど、「たまには遊びに行かない?」なんて話になったんですよ(笑)。

デートでは、よくオートバイで遠乗りをしました。車がそんなに走ってないときだったから、目立ちましたね。バイク仲間は20人くらいいて、みんな、女の子を後ろに乗せて走っていました。当時、ヤマハの250は珍しくて、バイクを停めると子どもが寄って来て見てました。道が今みたいに良くなかったから、バイクに乗ったあとは、髪の毛がゴワゴワになってとかせないくらいでしたよ。鼻の中まで真っ黒でしたね。新潟まで行ったあと、春日町辺りで転倒したこともあります。私は大したことなかったけど、主人はけがをして田代外科まで行きましたね。

新潟、江の島、鎌倉、いろんな場所に行きました。新潟のスキー場に行ったときに初めてスキー板を履いたら、ずるずる滑っていって、気付いたら馬の下ってこともありました(笑)。主人の友達と写っていた写真があったんだけど、主人がやきもち焼いて、その人の顔のところを切り抜いちゃってました(笑)。

さっぽろやを辞めてからは、三共製薬の地下にある三共グリルに勤めました。三共の従業員向けのお店です。お店にはお姉さんが2人、男性が1人いたんだけど、みんな優しかったですよ。宣伝部の部長さんにカニのコキールを配達したり、社長さんのお家に材料を持って行ってパーティーしたり、いろんなことがあったわね。それから、帰りにはよく銀ブラをしましたよ。三共のすぐそばにあった「ブラジル」が、私が最初にお茶をしたお店です。地下鉄の丸の内線ができたばかりのころで、銀座には有名人がいっぱいいましたね。

■結婚、3人の子に恵まれて

主人とは、2年くらい付き合って、20歳になって結婚しました。主人から「結婚してくれ」と言われた覚えはないですけど、周りの人たちは結婚するものだと思っていたみたいですね。

結婚式は、昭和34年3月に紅葉館で挙げました。本当は、自分の家で結婚式をしたかったんです。だから、式の当日に直井の家の近所を一回り、車で富田の家に行って周りにも挨拶しました。それから車で芝の増上寺のすぐそばにある結婚式場に行きました。お色直しでは、自分で持っていた留め袖を着たんですよ。仲人が2組いて、式には40人くらい来ましたね。新婚旅行は、京都、奈良、南紀白浜、瀞八丁、宝塚も回りました。周りには、「ご主人、優しくて良かったわね。あんたの方が強いから気を付けなさいね」って言われてたんです。何かというと私の方がババッと言っちゃって、主人は、私が何か言うと黙っちゃう。だから、あとで悪かったなと思うんですけどね。

結婚してからは神田に住んでたんですけど、2人目が生まれるときに狭いからということで亀有に越しました。本当はその亀有の家を買おうとしてたんですけど、家の前にあった川に長男坊が落ちちゃったのね。「どぶ川があったんじゃ危ない」とおばあちゃんに言われて、草加の公団住宅に入ったの。

長男は幼稚園に行くと泣いて泣いて、大変でした。次男は逆にやんちゃ坊主で、4歳くらいのときに工事現場に落ちて、いまだに足に傷があります。長女は朝・夕車の中で、お兄ちゃんが掛け算してると、横にいて暗算できるようになっちゃうし、けがもしなかったし、育てるのが全然苦じゃなかったですね。3歳から日舞を始めたり、全部私にそっくりですよ。今では、よく似てるなとハッとするときがあります。育てるときは夢中だったから気付かなかったけどね。

私は、子どもたちが小さいときは、けっこう厳しかったですね。その分旦那さんが優しかったから、次男坊がいまだに「おふくろが一番怖かったな」って言いますよ。子どもたちは、きょうだい間ではけんかをしたことがないですね。野球をしたときに、久徳がこめかみにバットをぶつけられたって帰ってきたのですけど、誰にやられたかを言わなかったんです。そのうちに、友達が「大丈夫?」と心配して来たから、その友達に事情を聞いてぶつけた子の家に怒鳴りに行ったりしましたね。反対に、次男坊はよくけんかしてきました。「けんかしたら負けてくるな」って言って育てたから、次男はガンガン行きます。次男がポンポン言うのを、長男が止める感じですね。

取材担当者のコメント

初めてお会いしたときの第一印象は、ちゃきちゃきとした「頼れるお母ちゃん」でした。妻であり、母であり、家業の担い手であり、そして地域で関わる方を引っ張る存在であり…多くの顔を持ち、時にはご苦労もあったと思われます。大変なことも経験してなお輝き、懐が広く厳しくも優しい。だから、今もって多くの人に慕われ、頼りにされているのだとお孫さんやお嫁さん、息子さんとお話しされる姿を見て、そう感じました。

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