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自分史のインタビュー中の写真

どんな形でも生きているっていうのはいいことですよ

平成28年11月発行

小口康人

長野県・昭和15年生まれ

  人物紹介

   自分史の表紙写真

長野県で生まれ、複雑な家庭環境の中で親戚の“おじいさん“に育てられた小口康人さん。専門学校で無線を学び、大手メーカー等に勤務。家庭では父として2人の子どもたちを育て上げた。

自分史本文より

自分史の中身

⬛幼少期の記憶

うちの家は本当に複雑な環境でしたね。私の実の母親は亡くなって聞かされてたんですけど、実は生きてて、しかも小学校2年生くらいのときに一度復縁したんですよ。でも2、3カ月で出て行っちゃったんですよ。その復縁のことは少し記憶があります。たぶん農業が合わなかったんでしょうね。農家だから身体が弱いといっぱい嫌味を言われるんですよ。それに耐えられなかったんでしょうね。それでまた離婚したあとに、後妻が来たんですね。その人は弟と妹を生んだあとに27歳くらいで亡くなっちゃいましたけどね。

僕が生まれ育ったところは、狸とか狐とかが出るような本当に山奥のところなんですよ。だから動物性のたんぱく質も取れないんで、トンボでもセミでも何でも食べましたよ。足ついてるものは机以外は全部食べましたね(笑)。トンボ、セミ、カマキリ、魚、ひき蛙とかね。ひき蛙は春先になったら10匹くらい捕まえてきて皮を剥いで食べました。蛙は皮を剥いでもまだ飛び跳ねるんですよ。たんぱく質はそれくらいしかないんです。そういう時代でした。それに犬や猫を食べたこともありましたね。鶏なんかは庭に出て、なたで頭をちょん切るんですよ。そしたらそのあと体だけ飛んで行ったことがありましたね。山の中にいたから戦争の被害はなかったけど、B29が飛んでいくのを見たことはあります。それに電球にじゃばら傘みたいのを付けて、B29が来たらそれを下して部屋を暗くしたり、ろうそくもたいまつを使ったりしてました。

■専門学校へ

小学校は初めて行った次の日から不登校になりました。何でかというと体が弱いから行かなくていいっておじいさんが言うもんだからそれに甘えてしまってね。学校まで4キロもありましたから。それで半年くらい行きませんでしたね。当時は現金収入ってほとんどないんですよ。お蚕くらいですね。春夏秋と3回。桑の葉を取りに行ったり、お手伝いはしましたよ。そのお蚕を売った現金収入はどうなるかというと、地元のお店で売掛け帳を使って買ってたものの支払いに全部使っちゃうんですよ。ツケで買ってるからね。田舎ではそれを竹の子生活っていうんです。竹の子って芽が出るとすぐ刈って食べちゃうでしょ。そういう生活が高校までは続いてましたね。実の父親は野菜を作ったりキノコを採ったりして売りに行ってましたけどね。

当時はお金もなかったのに、東京の専門学校に私が行きたいって言って行ったんですよ。無線関係が好きだったからね。きっかけは兄と親戚の人が電気関係のことがすごく好きだったことです。これからはテレビも出てくるし、そういう道に進みたいなと思ったんです。それで専門学校に行きたいって言ったら最初、おじいさんは反対したんですけど、最終的には行ってもいいってなったんです。おじいさんは私のことをすごいかわいがってたから、何とかしようと思ってくれたんだろうね。財産としては森林があったんで、専門学校に行かせるためにその山を全部売っちゃったんですよ。それでお金を作って行かせてくれました。働いてから返そうと思ってたけど、自分の生活でいっぱいいっぱいで、返せなかったからそれはジレンマだったね。生まれ育った場所は、今はもう故郷の廃家という感じで、誰も住んでないからね。

■母との再会

今から10年くらい前に母親探しをしたんですよ。62、3のころだね。高校生くらいのときに、育ての母からもう亡くなってると聞いていたんだけど、線香だけでもあげたい、もしかしたらまだどっかで生きてるんじゃないかと思ってね。そしたら本当に生きてました。戸籍謄本とかから探しましてね。御殿場の特養ホームにいたんです。認知症だったけど涙ぐんでたんで、たぶん覚えてくれていたと思います。本当に感動しましたね。でも認知症はどんどん進むんで、もっと早く見つけてあげられたらと後悔しましたね。生まれた環境はどうしようもないけど、自分で判断できることをできなかったことっていうのは、人生の中でやっぱ少し問題だったのかなとは思いますね。

第一の後悔はおじいさんに恩返しができていない。第二の後悔は母親を早く探せなかった。この2つは反省だね。母のことで言えば兄ものんびり構えてたからね。特養ホームにいるってことが分かって妻と2人で飛んで行ったけどね。でも、そのときも大ショックがあったんですよ。母は男が5人いるところに後妻として入ったんですよ。でも特養ホームのお金はその息子たちは出してないし、ほとんど来てもないってことが分かったんです。特養のホームのお金は生活保護のお金から出してたんですよ。5人も男がいるのにお金を出してないなんて信じられなかったね。その2年後に亡くなって、葬式に行ったらその息子たちは誰も来てなかった。でも生きていたうちに会えたのは本当に良かったね。どんな形でも生きているっていうのはいいことですよ。探すときは女房も協力して探してくれましたよ。どこかにいるんじゃないかってね。

取材担当者のコメント

「複雑な家庭環境でした」と語る小口さんでしたが、実のお母様を探したこと、モトローラで情熱を注いだことなどが心に残っています。

ご本人の感想(お手紙から)

インタビューの仕方が良く、私の言いたいことをうまく聞いてくれた。

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