fbpx

自分史作成サービス「親の雑誌」ご利用実績

大岩様の自分史のインタビュー写真

無我夢中だったから先行きどうなるかとか、今どうなのかなんて考えなかったわ。

平成29年4月発行

大岩 律子

千葉県・大正14年生まれ

人物紹介

大岩さんの自分史の表紙

上総湊で生まれ、幼いころから周囲の人たちにかわいがられたという。保健婦、助産婦の資格を取得し、役場で働いているときに出会ったご主人と結婚。ご主人の病気を契機としてホテル経営を始め、無我夢中で働いてきたという大岩律子さん。

小学校

小学校はうちの近くの天神山尋常高等小学校ってところに通ってました。学校では勉強は二番目くらいでした。1人優秀な子がいたから、勝てなかったわ。お金持ちの子が少年倶楽部なんて雑誌を買ってもらって、学校に持ってくるのよ。自分じゃうまく読めないから、「りっちゃん読んで」って頼まれるんです。読めばこっちも得ですから、読んであげるんだけど、私が読んでるとみんなが集まってくるんですよ。みんな頭を寄せてくるんだけど、その頭を見てるとシラミが髪の毛の綱渡りしてるの。それでみんなにうつっちゃう。だから私は家に帰ったら毎日のように梳き櫛で髪の毛をといてましたね。シーツを干してもノミのウンコだらけでしたよ。アメリカから白い粉が入ってきて、それからシラミはいなくなりましたね。

私は、お手玉も上手でしたよ。たかーく上げるの。お手玉は作るのが大変で小さなきれが貴重品でしたよ。親戚のうちなんかでもらってきたら、大事にとってました。中身も普通は小豆を入れるんだけど勝手に使ったら怒られちゃいますから、数珠玉っていう丸くて固い実ができる植物からいっぱいとってきて、それを使うの。先生もすごくかわいがってくれたから、写真を撮るときも無意識にそばに寄ってました。みんなかわいがってくれたんですね。小学生のころは、女の子の髪はみんな長かったんだけど、それは床屋さんに行かれないからなの。今みたいにおしゃれで伸ばしてるわけじゃないのよ。お金持ちのうちの子はおかっぱなんだけどね。小学校のころは威張ってました。私の許可がないと遊びに入れないの。だって「りっちゃん入れて」って言ってくるんだもの。だけど悪く威張るわけじゃないのよ。人気者だったんじゃないのかしら。

戦争のこと

私は田舎に住んでましたから戦争で大変な目に遭ったってことはないんですけど、東京はひどかったらしいですね。焼けた新聞が風に乗って飛んできたことはありました。終戦の1年後くらいに東京に行ったんですね。おにぎり持って行ってたんだけど、そのおにぎりを上野の公園で食べてたら、いつの間にか、汚れた男の子が3人、後ろ立ってのぞいてたの。どうしようもないから、少しずつあげましたけど、それからは、ああいうところで食べるんじゃないなって思いました。兄は、ビルマに行ってラングーン作戦に参加しました。川でお米を研いでると、球が飛んで来たって言ってましたね。それほど向こうの兵隊さんの整備が精巧だったんですよ。もう1人は中国に行きましたが、おかげさまで、無事に戻ってきました。

戦時中はうちの部屋を軍人さんに貸していました。少尉、大尉、中尉って住んでましたね。真ん中の部屋にその軍人さんの女中さんが3人も寝泊まりしてたよ。炊事班の人もいて料理を作って朝昼晩、お膳に乗せて持ってくるんですよ。それで、頭の上に捧げて、当番兵に渡すんです。農家だから食べるものは苦労しなかったです。野菜もお米もあるし、味噌や醤油も自分とこで作ってるでしょう。あとは魚を売りに来れば買うしね。でも、サバとイワシくらいしか知らなかったわ。姉が嫁に行ったところからもいろいろもらいました。お米は供出っていってどれくらい出すか決められてるから、雑炊にして食べたりしましたね。

大岩さんの自分史本文。保健婦として働く。

保健婦として働く

高等小学校を出てしばらくしてから、保健婦の学校に行きました。看護婦学校と併設されていたから、午前中は看護婦の授業で、午後からが保健婦の授業でした。そこには2年通って、そのあと1年、助産婦さんの学校に行ったから3年くらい勉強しました。寮生活でしたから、夜になると寂しくて涙がこぼれたりもしましたね。

卒業後はうちに戻って役場に勤めました。農家のお母さんが赤ちゃん連れて相談に来たりするんですよ。聞きかじりで栄養のことも少しは知ってますからアドバイスしたり、あとは婦人会に行って話したり。あのころ、婦人会がいろんなところで結成されたから、よく呼ばれたんですよ。ろくな話もできないのに、普段はどういうことしたらいいか、どんな食べ物を食べたらいいかとか話してました。あっちこっち引っ張りだこですよ。村にはそういう衛生的な知識を持ってる人が誰もいなかったから、ほかの人たちよりは、いくらかましですよね。お医者さんはいましたけど、お医者さんも忙しいからそんなところまで手が回らないでしょう。学校にも1週間に1回くらい行って、養護教員みたいなこともしてました。

取材担当のコメント

楽しそうな幼少期から、保健婦、助産婦として働き、さらにはご自身でホテルまで経営されたお話に、ただただ圧倒されていました。お仕事に、趣味にとまい進されてきた、律子さん。そんな律子さんのお話を私も楽しくお伺いしました。

ご利用者様の許諾をいただいて掲載しております