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親の雑誌ブログ

終戦記念日にあたって-2021年 シベリア抑留のエピソード

カテゴリー:ブログ

投稿日:2021年08月13日(最終更新:2021年08月13)

夏の空

今年も8月15日が近づいてきました。
今までお話を伺った方たちのことを、強く思い出す時期でもあります。

親の雑誌はサービス開始当初より、空襲、原爆投下、玉音放送など、多くの戦争体験もお伺いしてきました。最近は戦後生まれの親御様も増えてきたので、戦争体験のお話をお伺いする機会が減ってきていると感じています。特に、シベリア抑留を経験された方のお話をお伺いできたのは、サービス開始から3年くらいまでだったと記憶しています。

そこで今回は、シベリア抑留を経験された方のお話を一部抜粋、簡略化してお伝えしたいと思います。4名の方のお話です。よろしければご一読ください。

雪の写真

Iさんのお話

シベリアは寒いのですが、私は寒がりでないので防寒服だけで大丈夫でした。仕事をやらねばいけませんでしたが、もともと体力がなかったので最低限で済まそうと思いました。ノルマがあり、給料が決まっていました。最低60%やらないと食事がもらえない。ノルマを多くこなせば食事も多くもらえるけど、やりすぎて体力を消耗し亡くなる方もいた。私は生きて帰るために、食事は60%で十分だと判断しました。

成り行きに任せる。体に気をつけてよくばりはらない。仕事のノルマは最低限とし、うまいものを食べようとしない。そういう気持ちでいました。仕事ができるときつい仕事に回されますが、病気をしたらお終いです。無理をせず、ひと通りの食事がもらえるだけの仕事をして、やり過ごしました。

Nさんのお話

作業は厳しいかったですよ。ノルマがありますから。1日仕事をして、ノルマを達成したら決まった量のパンがもらえる。足りないと削られるんです。食べ物は黒パンとスープだけ。テンサイと羊が入ってたね。スープの中に羊の頭とか爪の欠片が入ってる。出汁が出るからおいしいけど、見ちゃうとね。私らがいた区域は食べ物は割と不自由しなかった。テンサイっていう砂糖の原料になる大きい大根がゴロゴロ採れたんですね。石炭を燃やして大地に穴を開けて、テンサイを並べてその上から土を被せて翌日の朝まで置いておく。芯まで火が通ったころで掘り出すとゼリー状になって甘くておいしかったね。

仕事は分担制でした。5時までなので、そのあとは自由時間。何にもすることないから退屈だった。手に職がある人は待遇もよかったようです。たとえば靴職人は引っ張りだこでしたよ。私もノルマも少ない作業隊にいたから、運が良かったほうじゃないですかね。

Oさんのお話

収容所で1日にもらえる黒パンの量はごくわずか。3回出ましたが、全部合わせても1食分くらいの量しかない。スープは塩で味付けしただけのお湯の中に、キャベツの葉が1枚浮かんでいるだけ。そういう生活の中で考えることといったら、どうやって命をつなぐかです。食べ物がないですから、どうやって空腹を満たすかしか考えられなかった。でもこれが生きる気力になったと思います。

最初のころは伐採作業をやりました。よく凍傷になりましたね。作業所に温度計があるんですけど、零下30度より下がると作業が中止になって、上がると再開されていました。慣れない生活の中、生き残った私は本当に運が良かったと思います。

捕虜になった人たちの合言葉に「スコーラダモイ(そのうち帰れるよ)」というロシア語がありました。ロシア人にいつ帰してくれるのか聞くと、決まってその言葉が返ってくるんです。

Yさんのお話

シベリアは零下30度になりますから、寒くて寒くて。食べる物がなくて、衰弱して亡くなる人がいっぱいいた。ロシア側もまずいと思ったのか、半年くらいすると健康状態でA、B、C、オッペの4つに分けられたんですよ。その検査方法が、おなかの皮を引っ張ってどれだけ伸びるかっていうやり方なんですよね。オッペだと病人扱いになります。僕は痩せておなかの皮がすごい伸びたから、具合が悪くないのにオッペになってね。半年くらい病院のようなところにいました。オッペは半病人ですから、ただ寝てるだけで何もすることがない。それでロシア語の本を持っていた人に借りて、ロシア語の勉強したんですよ。毎日寝ながら暗記しました。

ひと冬経つと健康状態もBになったので、収容所で作業していました。でも風邪を引いて入院したんです。体調が戻っても病院の作業班にいたんですが、「ロシア語がわかるなら、食糧倉庫の責任者になれ」と言われてね。うまく管理することができたので、最終的にルーブルで給与をもらうようになりました。使うところはなかったですけど。

〜  *  〜  *  〜  *  〜

いかがでしたでしょうか。ご自身の置かれている状況を冷静に判断し行動された方や、そんな仕事があるの?と驚かされた方がいらっしゃいました。なかでも、皆さんが共通しておっしゃっていた「運がよかった」、「目の前の1日、1日を過ごすことに注力し、先のことは考えなかった」という言葉が心に残っています。

また、今回は一部抜粋したものをご紹介させていただきましたが、親の雑誌電子版には戦争を体験した方たちのインタビューも掲載させていただいております。よろしければご覧ください。

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私たちは、これからも一人でも多くの親御様の経験やお言葉を、ご家族にお伝えしていくお手伝いをしていきたいと思っています。