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THE 畑良道

令和4年7月発行 / 三重県・昭和28年生まれ

大事なのは、自分で考えること

畑良道として生きてきて

令和4年3月16日。
「THE畑 良道」創刊号の発行にあたり、畑良道氏にインタビューを行った。 小学生のころから自身の意志を強く持ち、行動してきた畑氏。「自分はどうしたいのか」「何をすることで、より良く生きられるのか」を考え、進学、就職、結婚、人生の岐路での決断をしてきた。強さとしなやかさを持ち、人生を駆け抜けてきた彼の半生に迫る―。

  PROFILE●畑良道
  生まれ年:昭和28年
  趣味:釣り ゴルフスキー マリンスポーツ レコード鑑賞 PCゲームソリティア
  好きなテレビ番組:時代劇 チャンバラ
  尊敬する人:(歴史上の人物の)アインシュタイン
  座右の銘:なるようになる

 


子ども時代

 昭和28年に三重県伊勢市で生まれました。母は、長女、長男、次女、そして次男の僕、三男と5人生んでいるんですが、全員産婆さんに取り上げてもらっています。長女は生まれてすぐに亡くなり、死産として届けたと聞いています。長男は未熟児で産まれ、1週間ちょっと元気だったので出産届をだしたのですが、その何日か後に亡くなりました。だから僕は、長男を知らない次男なんです。次女の姉と、僕の3つ下に三男がいますので、実質的には3人きょうだいですね。

 父は、母と結婚するときに婿養子として、畑家に入りました。母の男兄弟は、若くして亡くなったので、母が婿を取ったんですよ。父は運搬船で砂利などを運ぶ仕事をしていました。そのころは裕福だったようですが、立て続けに船が2隻沈んだそうです。1隻は座礁、もう1隻は戦艦大和級の大きな船とぶつかって沈んでしまいました。その船には金型がたくさん積まれており、昔は船舶保険がなかったので、自分でその金型を返さないといけなかったのです。業者に「沈んだ船を1000円で引き揚げる」と言われて依頼したのですが揚がらなくて。その後も「あと1000円で揚がる」と何回か言われて、結局揚がらず、費用は1万円近くになったそうです。500円で家が建つ時代なので、相当大金だったんでしょう。その費用は、高利貸をしていた祖父が払い、父は金型代をすべて弁償して、船舶業を廃業しました。高利貸をしていた祖父も人がよいというか、何の証文もとらずにお金を貸していたもので、返しにこなかった人も多くて、それもあって家は貧しかったですね。

 その後、おやじはサラリーマンになったんですが続かず、鍋の底や傘の修理の仕事をしたのち、船大工に落ちつきました。その後、伊勢神宮の宮大工として働くようになりました。伊勢神宮は20年に1度、式年遷宮といって神楽殿を新しく建て替えます。その10年前に宮大工として入って仕事をして、建て替えが終われば終了という、契約社員のような大工でした。そのころからだんだん生活も楽になっていったのかな。定年になってからも、伊勢神宮からちょこちょこと仕事をもらっていましたね。

 小学校のころは一番貧しかったですね。あれが欲しい、これが欲しいって言っても、買ってもらえなかった。色鉛筆や絵の具のセットとか、みんなは立派なものを持っていたんですが、自分は貧相なセットしか買ってもらえなくて。中学に入ってからは自分で新聞配達をして、稼いだお金でやっと欲しいものが買えるようになりました。

勉強をする意味

 小学生のころから勉強はあまり好きじゃなかったですね。国語の漢字を読んだり、書いたりするのは、辞書を見たら解るのに、なんで覚えなあかんのかと思っていました。算数も昔はソロバンでしたが、僕らのころはすでに電卓があったので、なんでこんな珠を弾かなあかんのかと思っていました。歴史も、昔のことを覚えてどうすんねんって思っていましたよ。何代将軍が何をしたとか、全然覚える気がなかったです。興味のないことは、したくなかったんですね。小学校のときにそう思ってしまったもので、まったくやる気がなかったんです。

 でも、理科は好きでした。リトマス試験紙の色が変わったり、プラスとマイナスをつなぐと電気がついたりとか、変化があって、そういうのには興味があったんです。特に、あれとこれを混ぜるとこうなるみたいな実験が好きで、率先してやっていました。カエルの解剖では、どぶや池にいたカエルをみんな持参していましたよ。女の子たちは捕ってこられなかったので、男の子が2、3匹捕って持ってきていましたね。そういうときも僕が解剖していたな。これが肺で、これが心臓でって、先生に説明してもらって。心臓がピクッピクッって動いていたのを覚えています。

 中学になると英語の授業が始まり、先生が面白い人だったんで興味を持ってやっていましたが、2年で先生が変わってからは、英語があまり好きじゃなくなってね。人生でそれだけは後悔しています。というのも、仕事で海外に行くことも多かったので、なんであのときに英語をちゃんと勉強しなかったのかって、すごく後悔しました。

 辞書と計算機は正解でした。今はスマホやパソコンが当たり前になって、なんでも調べたらでてくる、計算もエクセルがあればちゃんと計算してくれる。そういう時代じゃないですか。機械ができることを必死で勉強するのは違うんじゃないかなと。僕は、時代の先を見越していたんですよ(笑)。

印象に残る先生

 小学生のときに強く印象に残っている先生が2人いました。1人は、詩をつくりなさいって言われてつくったら、叱られた先生。その先生は、僕が本を写しただろうって言うんです。頭にきたね。自分で考えて書いたのに、何も聞かずに決めつけられました。この先生は、生徒を教える能力がないなって思いましたね。雲の詩だったんですが、本の詩を見せてもらうと確かによく似ていたので、これは僕に才能があるのかなと思ったけど、まぁ、違いましたね(笑)。本当に才能があったら、その方面で活躍してただろうし。

 もう1人は、僕のために補習をしてくれた先生です。小学5年生のときに集団赤痢にかかったんですよ。どうやら、新築祝いに配られた寿司が原因だったらしく、それを食べた姉や親戚がみんな赤痢にかかってね。僕より4つか5つ下の女の子は亡くなりました。その次に僕が重症で、口から泡をはいて意識がなくなって、気が付いたら入院していました。体温計は42度をずっと振り切っていて、2週間ぐらい入院していましたね。次の年にまた赤痢にかかって、5年生、6年生のときは本当に大変でした。

 それで担任の先生が、このままでは勉強がみんなより遅れるから夏休みに学校においでって言ってくれました。先生がマンツーマンで教えてくださってね。僕1人のために先生も学校に出てきてくれて、やさしい先生でした。そのことがありがたくて、強く印象に残っていたんでしょうね。卒業文集に、将来は学校の先生になりたいって書いていました。今思えば、先生の接し方によって、子どもの人生を左右することも大いにあるということですよね。

トヨタ工業学園へ

 中学生になっても、まだ家は貧しかったですね。姉は高校に行ったんですが、家計は相当苦しかったと感じていました。僕も高校に行きたかったけど、親に負担がかかるのがわかっていたので、愛知県のトヨタ工業学園に進みました。働きながら勉強ができるし、学費がいらないし、それに車が好きだったしね。地元を離れるときは、車のことを学べるワクワクした気持ちと、親や友達と別れる寂しさや、不安な気持ち、両方ありました。

 トヨタ工業学園では、週に4日学校に行って、週に2日は職場へ実習に行ってました。毎週同じ現場に行って、実習をしながら仕事を覚えていく。2年生になると、学校と仕事が3日ずつになって、3年生になると学校が2日で仕事が4日になりました。土曜日も半ドンじゃなかったですね。

 近隣の子は自宅から通い、僕みたいに地方から来ている子は寮生活でした。寮生は、秋田、青森、九州、四国の子が多かったです。そのころ自動車は花形だったから、全国各地から人が集まってきて、ここで学んでトヨタに入りたいっていう子も多かったんでしょうね。一部屋に1年から3年生が5、6人で生活してましたから、上下の関係は厳しかったですね。当時1クラス50人で11クラスありました。1学年550人ぐらいいましたね。それが卒業するときには、200人ぐらいが辞めていて、350人ぐらいに減っていました。理由は、先輩にいじめられたり、故郷恋しさに辞めていったりでした。

 寮では、先輩の言うことはなんでも聞かないといけませんでした。使いっ走りは当たり前。1年生は白と黒の服しか着てはいけないという決まりもあって、ずっと制服でした。自宅通学の子は、家に帰ったら自由な服が着られましたが、僕らは、私服を着る機会がなかったんです。だから、盆と正月、あと連休で伊勢に帰るときは、豊田市内で洋服を買うんです。普段着られないから、余計に欲しくなるんですよ。帰るときは、見つからないように着替えるんですけど、電車で先輩に出会うんですよ。そしたら、寮で「お前、エライ派手な服着とったな」と殴られましたね。

 2年生になるとだんだんゆるくなってきて、3年になると天下です。でも、僕は3年になっても後輩に厳しく言ったりはしませんでした。1年生のときに、そんなにいじめられなかったし、僕はええ子やったしさ(笑)。部屋の先輩に好かれていたんです。その先輩が、他の部屋の人に「俺とこの1年生をいじめたらあかんぞ」って言ってくれていたので、いじめられませんでした。そのころに、相手の心を読む力が養われたましたね。先輩のことをよく観察して、こういうことしたら怒られる、こういうことしたら喜ばれるっていうのを見て、聞いて、感じていました。

 今のトヨタ工業学園は入るのが非常に難しく、国立大学に行けるぐらいの能力が必要らしいです。僕らのころと違って、今はエリート校ですね。

トヨタでの仕事

 トヨタ工業学園を卒業したら、トヨタ自動車に就職することは決まっていました。トヨタ本社で研修を受けて、2カ月ほどして辞令がでて、静岡県の東富士研究所に行くことになりました。東富士研究所では、試作部品をつくる工作課に配属されました。排ガスを少なくするための部品試作の仕事です。エンジン内部や車体などいろいろな部品をつくっていました。

 車が好きでトヨタに入ったのですが、働くうちに車のことがわかってくると、だんだん興味がなくなってきてしまったんです。車に乗っても、仕事で乗らされている感がありました。趣味は趣味、仕事は仕事。それを一緒にしたら、どちらかがなくなる。だから僕は、趣味と仕事は別々の方がいいと思いました。それだけ趣味として、車を楽しんで乗ることが好きだったんですね。

 それに、会社が大きすぎて、僕が働きたい場所とは異なるというか、僕の器には合わないかもしれないとなんとなく感じていました。何よりも、男女問わず親身に相談にのってくれる友人が、ここではできなかったんです。それで、故郷恋しさが募り、2年で辞めて、地元の伊勢に帰りました。両親は特に反対することもなく「そうか」という感じで迎えてくれましたね。

伊勢での仕事

 伊勢に戻ってから、友達の紹介で電気工事の会社に入りました。仲良くしていた友達がそこの従業員で、一緒に働かないかと誘われて、休む間もなくすぐに働き始めましたね。

 ここでの仕事は、家を建てるときの電気配線全般で、電柱に上っての配線や、高所作業が多かったですね。トヨタでの仕事とはまったく違っていたので、働きながら覚えていきました。配線をして、スイッチとコンセントをつけて、エアコンなどの電化製品を設置して、全部が正常に動くのを確認したら、お客さんに引き渡す。これでひとつの工程が終わり、また新しい仕事を一から始めるという流れです。トヨタ時代は、車の一部分だけしかかかわれなかったのが、電気工事の仕事では、全体を把握して進めることができ、それが楽しさにつながっていました。

 でもその会社は事業に手を広げ過ぎて経営不振になり、倒産してしまったんです。倒産していなかったら、僕はそのまま電気工事の仕事をしていたんじゃないかな。この仕事が好きだったんですよ。その後、先輩に誘われて、1年ちょっと2人で電気工事の仕事をやっていました。

 当時、お客さまの家にモーターボートが置いてあって、興味があったので、安く譲ってもらったことがあったんです。しばらくそのボートに乗っていたんですが、だんだん大きいボートが欲しくなってきました。新しいボートを見に行った会社が、次の就職先のダイイチです。ダイイチは、ヤマハのディーラーをやっている会社で、そこでヤマハのモーターボートを買って、持っていた小さいボートを下取りしてもらいました。水上スキー教室や、ダイビングなどのイベントをやっていて、無料だったので何回か参加していたら「お前、なかなかええ子やな」と社員の方と仲良くなって、「うちの会社に来ないか」と誘われました。僕は当時彼女がいて、それが今の女房なんですが、来年結婚することが決まっていたので、将来のことを考えて、ダイイチに就職しました。

 会社には、ヤマハのボートとバイクを販売する部門がありました。あいにくボート部門は人員がいっぱいで、バイク部門に配属され、バイクの営業として働き始めたんです。営業といえば聞こえがいいのですが、どちらかというとバイクの配達屋に近く、注文をもらって、自分でトラックに積み込んで届けるという仕事でした。それで小売店の方に顔を覚えてもらって、仲良くなってという、まぁ御用聞きですね。当時はちょくちょく顔を出してくれる人、親しみのある人に注文することが多かったんですよ。

 営業の仕事をしていくうちに、僕なりの営業の極意ができました。例えば、同じものを買うのなら、自分が好きな人から買いませんか? だからまず、商品を売る前に、自分を売り込むんです。「私がお届けしますから」「私におまかせください」というふうに「私」を信頼できる人だと思ってもらうことが大切です。また、自分がちょっと苦手と思っている人は、相手も苦手と思っています。同じ人間なんで、顔にでるものなんですよ。なので、まずは自分が相手を好きになることも極意ですね。

 あと、買うか買わないか、相手がどう思っているかということを推測できるかということも大事な能力です。そういう能力はあったと思いますよ。寮生活の経験が活かされたのかもしれません(笑)。買う気のない人にいくら勧めても絶対に買わない。買うか、買わないか、迷っている人に勧める。相手との付き合いの中で、「これはいけるぞ」というのは、勘です。その場の空気を読まないと売れませんね。

ホンダとのシェア争い

 ダイイチで営業をしていた80年代はもの凄いバイクブームが起きて、メーカーもどんどんバイクをつくっていて、熾烈な競争の時代でした。俗にいうHY戦争といって、ホンダとヤマハがシェア争いをしていました。僕も「なんとしてでもホンダを倒すんだ」と、そんな意気込みで営業をしていました。

 特に三重県はホンダのお膝元です。鈴鹿サーキットや鈴鹿工場があり、そこに従事している人や下請け会社は、やはりホンダしか買いません。それを崩していくのは容易なことではなかったですね。結局、ホンダには勝てませんでしたが、その中でも生き残り、営業成績はトップになりました。仕事は、人生の中でこの時期が一番楽しかった気がします。どうやったら売れるかを一生懸命考えて、お客さんのところに日参していました。つまるところ、商売は人とのつながり、信頼関係を築いていくしかないということです。

 営業成績をあげて、4、5年して伊勢支店の責任者になり、そのうち本社の四日市も見てほしいということで、営業部長になりました。その後、45歳で取締役になり、55歳で取締役は定年になって、平社員に戻りました。部下の育成と指導、市場回りなどの業務を担当していましが、お客さんのところに顔を見せに行くことは、ずっとやっていましたね。60歳で定年退職したときは、すべてやりきった感はありました。

 退職後は、後継者がいないお客さんのバイクショップを、ぜひやってくれということで引き継ぎ、現在も働いています。これも何かの縁かなと思いましたね。

今、思うこと

 69年生きて思うのは、いろんなことを考えたところでなるようにしかならないということです。人にはそれぞれ器があり、その器を理解して、その中で一生懸命やれば、満足できる人生が送れるのではないでしょうか。

 人生の岐路に立ったとき、誰にでもチャンスが訪れます。それをつかんで成功するか、つかみ損ねてピンチにするかは自分次第。困難な道でも楽しい、おもしろいと思えれば進めばいいし、平坦な道でも、つらい、苦しいと思うのならやめた方がいい。楽だから、我慢すればいいなんて考えると、結局、自分自身に嘘をつくことになります。何をすれば楽しくなるかだけを考えていれば、おのずと、いい人生を歩めるんですよ。

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