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THE御園次雄

令和3年12月発行 / 福岡県在住・昭和3年生まれ

大切にしている思い出

 昭和24年に就職してから40年間、盆と正月にボーナスの一部を母に送っていたことが親孝行かなと思っています。お金を受け取ったときに母は電話してきてくれましてね。「ありがとうね。お前も給料をあんまりもらわないのに、送ってくれてありがとうね」と涙をこぼすような声で、お礼を言ってくれたことを覚えています。母は83歳まで生きましたが、そのお金をずっと使わなかったようです。亡くなって何年か経ったときに、母をみていた兄が、「次雄、お前が盆と正月に送ってきたボーナスを、母は使いきらんで、ずーっと貯金して50万円貯まっていたよ」と。昭和50年代の50万円は相当な額ですから、それを聞いたときは、うれし涙というか、送ってよかったという気持ちになりました。

 母との思い出といえば、昭和43年ごろから、毎年盆正月に鹿児島に帰っていたことです。母と妻と子どもと、指宿や桜島とかに行って遊んでいたことですね。ほかには、昭和45年ごろに車を買ったとき、鹿児島から私の住む田川に母を連れてきて、北九州や下関の水族館を連れて回ったことです。母は田舎暮らしで、外に出たことがあまりなかったから、とても喜んでくれました。

 私が母を田川に引きとって、少しでも楽をさせてあげたかったのですが、それができなかったことが心残りですね。今思うと、人生というのは思うように行かないものだなと思います。

 嫁さんとの思い出は、結婚の報告のために鹿児島に連れて行ったときのことですかね。昭和30年の3月20日、彼岸の中日に嫁を紹介しました。その3日前から鹿児島には連れて行ってたんですよ。当時、鹿児島の家はまだ小さかったので、おじさんの家でひと晩過ごして、次の日、「これが私の嫁よ」と紹介して、みんなで指宿に行きました。母は、「いい嫁さん探したね。べっぴんさんで、お前よかったじゃないか」と、だいぶ喜んでくれました。一生自分と暮らしていく人なので、ずっと大事にしようと思って連れて行きました。

 妻は9人きょうだいだったこともあり、早く嫁にいった方がよいと向こうの両親もよろこんでいました。結婚前から、私は妻の家に行くときに大きな肉を必ず1キロくらい持って行っていたんですよ。9人きょうだいだとなかなか肉や魚が食べられない時代でね。だから「ああ、松尾製菓のおじちゃんが来た」とみんな喜んでくれました。妻の母も、私の性格がわかっているから喜んでくれましたよ。手土産を持って行ったことだけで気に入ってくれたのではなく、昔の人は相手の性格を見るのがうまかったんですよ。妻のきょうだいに結婚の報告をするときは「幸子を幸せにするから見ちょって」と伝えたのを覚えています。大事にして、今まで連れ添ってきました。

 誇りに思っていることは、2人の子どもが、素直に育ってきてくれたこと。それぞれが仕事を持ち、働いています。それをありがたく思っています。娘は地元の大型スーパーに就職しました。成人式に振袖を着た写真を撮ったことが一番思い出に残っています。当時、私は40代で若かったから、「自分の娘もこんなに立派に育ったか」と心の中で涙ぐむと言うか、感無量でした。息子は九州にあるお菓子屋に就職しました。私と同じ松尾製菓に一緒に入ったら困るから、「お菓子がつくりたいなら飯塚のお菓子屋で働いている友達がいるから、紹介してやろう」って。今もそこに勤めていますが、役付きまでいきました。真面目によく頑張っていると思います。

 私は、会社人間だったから、子どもにアドバイスをするというようなことはありませんでした。もし今、子どもに働く上でのメッセージを贈るならば、「自分の健康だけは気をつけてほしい」「健康で頑張れよ」ということです。孫たち5人にも、「健康第一」ということを話しています。加えて、「人様に迷惑をかけるような人生を過ごさないように」と伝えたいですね。

 健康が大事というのは、70歳のときに強く感じました。会社の健康診断で胸の病気が見つかり、飯塚病院に1カ月入院して、肺を切ったんです。肺病になって肺が3分の1になってしまったので、その経験から、健康が一番大事だと思うようになりました。

 人様に迷惑をかけないようにと伝えたい理由は、食堂を経営していたときに感じました。人に任せすぎたり、人を信用しすぎたりすると、誰かに迷惑をかけてしまうこともあるんですよね。会社には、300人くらいの社員がいて付き合いがありましたが、家族は家族でまた違った楽しみや思いがありました。社員もそうですけれども、自分の家族は不幸にしないよう、大事にしたいと思っています。

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