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THE知久 進

令和5年12月発行 / 茨城県・昭和10年生まれ

知久進の“幸せ”に迫る

 今、少なくともこうやって人と話ができることは幸せだよね。物を読んだり、書いたりできて、頭が健全であることは幸せだと思います。自分の身の回りのことだけじゃなくて、地域のためにやるべきことをやる。足は痛いし、大変なこともあるけど、人のために動くという性格なんでしょうね。私利私欲なく、役割を一生懸命果たすと言うことです。だから、今も人に声をかけてもらえたり、歓迎されたりするんだと思います。やりたいことも、言いたいことも、人のため。大事なのはやる気ですね。

子どもたちへの思い

 子どもが生まれたときはうれしかったですよ。長男が生まれたのは、50センチくらい積もる大雪の日で、病室に石油ストーブを持っていって暖を取りました。1歳の頃はアパートに住んでいたので、6時半に起きて、出勤前に社宅の周りを抱っこしたり肩車したりして散歩していました。

 長女が生まれた翌年、東京に単身赴任になってしまって、その後次女も生まれましたが、子どもはお母ちゃん任せっきりです。一緒にいることはできなかったけど、女の子もかわいかったね。単身赴任のときは、1月に1度、東武ロマンスカーで帰るんです。そのとき、浅草松屋デパートでお土産を買って帰るのが楽しみでした。

 私は中卒で就職して、研究課では大卒の人の助手でした。労働組合に入ってわかったのは、学歴によって賃金の格差があることです。働いて優秀でも関係ない。だから、子どもは少なくとも大学までは行かせてやりたいと思ったんです。

 子どもたちには「どんな世の中になっても役に立つように、手に職をつけろ」と言っていました。資格を持っていれば食いっぱぐれませんからね。私も、会社で必要な危険物第四類やボイラー技士、高圧ガスに関する資格、クレーンやフォークリフトの資格を取りました。子どもたちにそれが伝わったのか、幸いにして3人とも国立大学を出ることができました。うちの子どもたちはよくやったと思いますよ。財産分けはないけど、大学を出すことが財産だと伝えていました。

 91歳で大学を卒業した人を紹介した新聞記事に「人生は最後が大事。最後の数年間が幸福であれば、人生は勝利である」と文章があったんです。人生とはそういうものかと思いました。死ぬ前に幸福だと思えれば、幸福かもしれないですよね。これまで苦しみがあっても、一生懸命生きてきました。今幸せだと思えれば幸せなんです。私は子どもたちに恵まれました。お母ちゃんがもう少し生きていればこういう話ができたかもしれないですけど、お互いに暗黙のうちにわかっていたんじゃないかと思っています。

子どもたち、孫たちへ

 子どもたちは、何かあったときはすぐに対応してくれます。この物語(『親の雑誌』)をつくってくれたのも、ありがたいことです。きょうだい仲良くやっているし、いい家族だな、と思いますよ。

 孫たちは、みんなかわいい。孫は生きがいだよね。8月に帰ってくる上の孫には、「じいちゃんが餃子をつくって待っているから、一杯やろう」という話になっています。孫も「じいちゃんの餃子はうまい」孫も言ってくれるんですよ。1番下の孫はまだ小学生ですが、飲める歳になったら孫たちと一杯やりたいですね。

 孫たちには、ガツガツする必要はないけど、自立して、人に迷惑をかけないようにと伝えたいです。場合によっては人の面倒を見たり、助けたりすることもあるでしょう。そのためには、知識、経験、実行力を持たないといけない。行動を起こすことは勇気のいることだからね。特に、関係ない人を助ける必要があるとき、見ているだけか、行動に出られるか、それは意思なんです。行動と意思はつながっています。行動できる力を持ってほしいです。

 今88歳で、戦中戦後を生きて、就職して、結婚して……大体、10年区切りでいろいろありました。波乱に富んだ人生だと思います。そういう話を今、少しずつ書いてまとめているので、子どもたち、孫たちに機会があったら聞かせたいですね。

Family’s Photo

ご家族メッセージ

お父さんありがとう

「息子から見た父親とかけて 静岡県焼津市で駿河湾に注ぐ河と解く。その心は? 越すに越されぬ。末長く元気で」
 

 

①スケートで膝の間に抱えてもらって超高速で滑ったこと。
②テニスの乱打の相手をしたもらったこと。
忘れられない思い出です! 
 律子

 

苦労にめげず努力し続けてきた偉大なお父さんと、添い遂げたお母さんを心から尊敬しています。2人の娘として生きていることが誇りです。
悦子

 

子どもたちより

 

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