知久進として生きてきて
令和5年7月6日。
「THE知久進」創刊号発行にあたり、ホテルラウンジで取材を行った。小学生だったある日、突然現れた父に連れられ、家族と共に満州へ渡った知久氏。かの地での経験により知ったのは、軍国主義の厳しさと、平等と平和の大切さだった。
強い正義感を持ち成長した彼は、大手非金属メーカーに入社。アイスホッケーの選手として躍進し、引退後は、労働者の権利を守ることに邁進する。常に誠実であろうとした知久氏の、その半生に迫る―。
PROFILE●知久 進
生まれ年:昭和10年
趣味:若い頃 登山、アイスホッケー
現在 読書、新聞切り抜き、畑仕事、料理
好きなテレビ番組:NHKの朝ドラ 大河ドラマ
好きな食べ物:お肉 果物
好きな本:歴史本 人生論
尊敬する人:入社当時の幾何学の先生・職場の上司
座右の銘:忍耐 努力
母と姉と暮らした幼少期
昭和10年に、今の鹿沼市に生まれました。5歳のときには、日光町の4軒長屋に住んでましたね。親父は物心ついたときにはいなかったので、おふくろが、私と2つ上の姉を育てるために働いていました。砂利や耐熱レンガを運ぶ仕事をやっていたと思います。
ところが小学校3年生のある日、学校から帰ったら家に見知らぬ男がいるんです。そして、それが親父だっていうんですよ。何事かっていう話ですよ。
事情を聞いてみたら、音沙汰がない間、親父は満州鉄道に勤めてたんですね。もともと東武鉄道に勤めていたけれども、あるときひと旗あげようということで満州へ渡ったんだとか。つまり親父はずっと生きていたのに、私たちはそれを知らずに苦労して生活していたわけ。その悔しさは、ずっとあとを引きましたね。
親父が突然家に帰ってきたのは、家族を満州に連れていくためでした。昭和19年で、ちょうど大東亜戦争が厳しくなってきた時期でしたね。日本は空襲が始まっていたから、日本より満州の方が平和で安全だろうと思ったそうです。それで、3年生の3月末に、満州へ出国しました。
満州へ
満州鉄道には、昌図という駅がありました。そこの日本人社宅に、家族4人で引っ越しました。移動にはぜんぶで1日半くらいかかったと思いますね。なにぶん私は小学生でしたから、「どこに行くんだろうか」と思いながら、リュックを背負って親についていってました。
社宅は、鉄筋コンクリートでできていて、窓は鉄格子の入っている2重窓になっていました。匪賊に襲われる可能性があるからということで、日本人の社宅は頑丈に作られていたそうです。
冬になると、零下何十度まで下がるんですよ。それくらいの気温だと、外のお風呂から帰ってきて手拭いをぱっとやるだけで凍ってましたね。ドアを素手で触ると、ぴたっとくっついて皮まではげちゃう。そんな寒さでした。
学校は、日本人学校に通いました。制服は、兵隊さんと同じようなカーキ色です。巻脚半もつけて、帽子は戦闘帽でした。毎朝の朝礼では男は木銃、女は薙刀を持ちます。そして、軍人五箇条を唱和するんです。「一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし!」ってね。
軍国教育ですよね。教科書は修身教科書だったんですが、1ページ目は教育勅語でした。当時は、教科書を開く前に一礼していました。修身の教科書を汚そうもんならビンタです。だから修身教科書だけはきれいでしたね。
子どものころの遊び
私は、根性の悪い子どもでしたよ。お父ちゃんがいなくて貧しい生活をしていたから、学校ではいじめられるんです。初めのうちは泣いて帰ってきてました。でもそうすると親に「やっつけろ」って怒られるから、学年が上がるにつれてやり返すようになりました。負けたくないっていう気持ちが芽生えたんだね。だから、喧嘩は負けなかったです。そのころは、大きくなったらやくざの親分になって、弱いものを助けて、いじめる奴らはやっつけてやると思ってました。
満州に行く前までは、遊ぶのに忙しかったですね。学校から帰ってきたら、ランドセルを放り投げてどろじん(泥棒と巡査)ごっこや馬乗り、川遊びなんかをして遊んでました。親がうちにいると怒ったんです。子どもも多かったし、暗くなるまで遊んでました。
ただ、満州に行ったら遊ぶことはなくなりました。軍国教育が徹底していて、上下関係が厳しかったんです。だから、遊ぶ感じではなかったですね。
親父という人
満州に渡ってから初めて親父と暮らす生活になったわけだけど、会話はあまりなかったです。明治の人なので、ご飯を食べるときは正座です。その上お箸の持ち方までうるさいんですよ。いきなり現れてそんなことを言われても腹がたつでしょう。だからずっと気に入らなかったですね。
小学校4年生くらいのときかな。親父が私を中国人の居酒屋に連れていって、「これは俺の位牌持ちだ」って紹介したんですよ。「何言ってんだか」って思いました。
私にとってはそんなんでしたが、他の人に言わせると面倒見のいい人だったみたいです。戦争中も戦後も、いろんな人が親父を頼ってきてましたから。
私が21歳の正月に、初めて「酒飲むか」って誘われました。それからは、実家に帰るたびに一緒に飲みました。親父とは、それくらいでしたね。
終戦後の1年間
親父が戻ってきてからきょうだいが下に3人生まれたんですが、すぐ下の弟は、昭和20年に満州で生まれです。その後、8月に終戦となりました。
戦争が終わったときは、ラジオを持っている家が「臨時ニュースがあるんだよ」というので、そちらの玄関先で聞かせてもらいました。私は小学校5年生になる年でしたが、「これなんだ」って思いましたね。「戦争やめるのか?」と。
われわれは、終戦になっても親父の仕事があったので、満州に残っていたんです。そうしたら、ソ連軍が満州鉄道に乗って進駐してきました。われわれが住んでいた昌図駅は、給水や給炭をやる駅でした。だからソ連兵が乗った列車も、30分くらい止まるんですね。その30分で、ソ連兵は略奪にやってくるんです。
汽笛の回数によって、列車が入ってきたがわかるので、それを聞いたら窓、玄関、勝手口のドアにかんぬきをしました。じっとしていると、ソ連兵が走ってくる靴音が聞こえるんですよ。
あるとき、親父の知り合いが訪ねてきていて、夜、酒盛りをしていたんです。そしたらソ連兵がきて、ドアをだんだんと蹴られました。私と姉は奥のトイレに逃げたんですが、そこに、それまでいばってた復員の人までついてきたので、一緒に隠れました。親父と、弟を抱いたおふくろがいる中にソ連兵が入ってきて、略奪されたというわけです。乱暴はされませんでしたけど、石鹸と親父の長靴を取られました。
昭和21年になり、ソ連が引き上げると、中国共産党の八路軍が進出してきました。その後に国府軍(蒋介石軍)が鉄道沿いに北上して来て、新京に達するころに、それを受けて同年6月に、日本人引き揚げ命令が出たというわけです。
満州からの引き揚げ
日本へ戻るときの条件は、荷物は1人30キロまで。貴金属はだめでした。布団袋を寸胴で背負えるような形に改造するのに、夜なべしましたよ。そこに荷物を押し込んで、翌朝広場に集合しました。
荷物検査して、計量して、翌日の引き揚げ汽車に乗るために、大きな穀物倉庫に100人くらいで1泊しました。そうしたら、夜、満州人が懐中電灯を持って女あさりにくるんですよ。それがわかってたから、女の人は丸坊主にして男の服を着てましたね。
翌朝汽車に乗るために待ってたら、中国人のご老体が、若い人を何人か連れて親父のところにあいさつに来ました。その人は親父のことを「大人(たいじん)」って目上の人に対する呼び方で呼んでいましたね。それで言うんです。「大人、何か必要なものはないか」って。そのとき身に染みて思いましたね。どんなときでも、異国人でも、平和に協力関係を作ることが必要なんだなと。
引き揚げ船に乗って佐世保へ着いたときは、全員しらみだらけだったので、殺虫剤(DDT)を撒かれて真っ白になりました。風呂には入らずにそのまま入国して、親父の弟のいる埼玉県の栗橋へ行きました。
そこで1泊して茨城県の親父の実家へ帰ったんですが、親父の実家は居心地が悪くて、数日しかいませんでしたね。それで、おふくろの実家である栃木県鹿沼町に引っ越したんです。
鹿沼での生活の始まり
昭和21年に、鹿沼北小学校の5年生に編入しました。本当は6年生の年だったんですが、終戦後1年間はほぼ勉強してなかったので、5年生に入ったんです。
そのころから、私はガキ大将でした。軍国教育を受けていたし、体も態度も大きくて、周囲より1歳年上だったわけですから。喧嘩が始まったら呼ばれて、仲裁に入ってました。やくざの親分ですね(笑)。
当時の鹿沼は野球が盛んだったこともあって、私も小学校のときは野球をやっていました。だから中学校に入っても野球部に入ったんです。でも小学校と違ってグローブなんかの道具は自分たちで買わないといけないんですが、親父は買ってくれないというんですよ。それで、野球部はやめました。代わりに入ったのは、道具を貸してくれる庭球部でしたね。あとは足が速かったので、県の駅伝大会に駆り出されることもありました。
2年の終わりに中学校が西と東に分かれることになって、私は西中学校になりました。3年生になったら自分の椅子や机をかついで西中に移った記憶があります。私は立候補して生徒会の副会長も務めて、西中学校の第一期卒業生として卒業しました。
卒業後は、大手非金属メーカーの従業員養成所に入りました。親父が、2人を高校に行かせる金はないと言ったからですね。私が高校に行くなら姉は女学校をやめさせると言うので、養成所の入所を決めました。
従業員養成所での日々
昭和26年4月から家を出て、養成所の生徒たちの寮で暮らし始めました。当時は食べ物がないので、大きなさつまいもを輪切りにしたものに、ご飯粒をつけたようなのが毎日の食事でしたね。昼はお弁当。中身は同じさつまいもですよ。腹が減ってしょうがないから、昼前に食べちゃうんです。そうすると、「お昼どうすんだー!」と怒られましたね。
朝は、6時半にベルが鳴ります。そうしたら、「起床ー!」という声と一緒に起きて、布団を畳むんです。表に出て、ラジオ体操をやって、グラウンドまでランニングです。そのあと食事当番が食事を取りにいって、残りはトイレや部屋を掃除。当番は1週間交代で、それを毎日やりました。
われわれのときは先輩はいなかったけれど、翌年後輩が入ってくると、当番は後輩たちがやってくれるようになりました。先輩後輩の伝統が厳しかったですね。
養成所では、普通の工業高校では3年で終わらせる科目を2年で終わらせないといけないんです。その上、1年生は10月から工場実習が入ります。2年生になると、午前中は授業ですが、午後は毎日実習になりました。
2年生が終わると職場配置です。私は研究課の配属になって、材料試験室に入りました。金属などの材料の強度や疲労試験をやるところです。会社が製造する伸銅品の製品カタログの基礎資料の作成も、その後の大きな力になりました。
昭和33年には研究所ができて、研究課もそこに統合されました。昭和36年に新入社員(高卒)が配属され、その段階で私は、材料試験室から研究部門に異動になったんです。
結婚と労働組合
昭和37年3月に結婚しました。同時に、昭和29年に正式入部していたアイスホッケー部を引退して、翌月には研究課から鋳造課銅合金職場に転籍になりました。そんなんで公私ともに大きな環境の変化があったせいか、うつ病になっちゃってね。半年くらい休んで研究課に戻してもらいました。そして昭和39年に、研究課の労働組合の代議員になりました。
代議員というのは労働組合の会議があると職場代表で説明を聞いてくるんです。こちらがどんなに賃上げを訴えても、執行部は「スト権をたててやりましょう」と決まり文句を言うだけで、何もしないんですよ。私は、やくざの親分になりたいくらいの正義感があったから、「なんでできねぇんだ」という思いが強かった。だから自分でやろうと思って、昭和40年8月に立候補して、専従執行委員になりました。
労使交渉の場でも物怖じしないで発言しながら、執行委員を3年やりました。そして連合会中央書記長を1年間やって、翌年の昭和44年に委員長になりました。私が立候補したときは、35歳ですね。対抗馬もでなかったんですよ。委員長の任期は2年でした。
そのあと私は1回千葉に転勤になったんですが、2年で戻ってきて再度委員長になりました。そこで、組織改正をやって、スト権ができるような体制を作ったというわけです。このときに、私の人生は変わりましたね。
そして日光支部の委員長を2期4年やって、昭和54年に、原籍の研究所に戻りました。
転籍と出向
でも研究課の担当者だって、40代の助手なんて使いづらいんですよ。そうしたらある日突然、製造職場の特殊材料課が乱れてしまっているから立て直してくれ、と言われました。それで、まずは3年という約束で、特殊材料課の職場長に転籍になりました。昭和57年のことですね。
特殊材料課というのは、年中無休で劇毒を扱う職場なんですよ。昼も夜も働いて、帰る前には必ずお風呂に入らないといけないような劇毒物を扱う。そうするとやっぱり、だんだん乱れていってしまうんですよね。だから私がまず現場に入れたのは、しっかりとした規律でした。
そのころの私は、朝6時40分に家を出ました。職場に着いたらまず工場内を一回りして確認してから、毎朝朝礼をしっかりとやるんです。8時の開始に合わせてね。
一度、面白いことがあったんですよ。特材職場では、銀張り条屑を捨てる専用の鉄箱があったんです。その運搬・回収は下請けがやるんですけど、私が月曜日に出勤して見回りをしていると、鉄箱がどこにもないわけです。それがないと作業ができないから、私が探し回って見つけました。みんなびっくりしてましたね。就業時間前に職場長がフォークリフトを運転して鉄箱を運んでいるわけですから。
転籍当初はみんなお手並み拝見というふうでしたが、そういうところを見てくれていたんでしょうね。半年も経たないうちに言うことを聞くようになってくれて、1年で現場は立て直りました。
そうしたらまた、私に労働組合に入りませんかっていう話が同志たちからきたんです。私はやるぞという気持ちはあったんですが、会社に止められて入れなかったんです。それで、頭を丸めて誘ってくれた同志たちに懺悔しました。会社もびっくりしてましたよ。翌朝、私が丸坊主にしてきたからね。結局、最初の3年に3年足して計6年間、職場長をやりました。その後、また労働組合の役員として活動しようと思っていました。
でも、会社は6年後に知久が労働組合に入ったらいよいよやばいなと思っていたみたいでね。それで、昭和60年に西ドイツに出張ですよ。戻ってくると役員選挙は終わっていました。そして設備導入する前に出向の話がくるとは、これ如何にでした。
その後、部長補佐という肩書きで、銅箔を作る会社へ出向して、はじめは銅箔を作るためのドラム研磨用バフの研究をしましたね。
昭和62年に、旧知の人間がその会社の新社長でやってきたとき、私に業績を上げたいんだけどどうしたらいいかと相談してきたわけ。それで私は、「目標を達成したら金一封出すと号令かけろ」と言いました。結果、作業者の意識が上がって、数カ月しないうちに目標を達成したんですよ。でも誰も、私がそう言ったっていうことは知らないですね。
退職と、大切にしてきたこと
そうやって、平成7年3月に60歳で定年退職しました。今思えばね、よく定年まで大手非金属メーカーである会社にいられたなと思いますよ。労働組合に行ったときは、最悪の場合責任とって会社を辞める覚悟でいましたから。
これまで私は、いろんなことをやりました。一貫して大切にしていたのは、決まりをきちんと守るということ、それに誠実であることだったと思います。
それは、親父から学んだことかもしれないですね。親父は異国人であっても平等に平和に、そして誠実に付き合っていましたから。家族に対しては明治時代の男だったし、気に入らなかったけど、それだけは、親父から学びましたね。
コメント欄
コメントを書く