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THE知久 進

令和5年12月発行 / 茨城県・昭和10年生まれ

全盛期を支えた氷漬けの日々

 アイスホッケーを始めるきっかけとなったのは、会社の従業員養成所の、体育の先生でした。水野先生ですね。

 実はその水野先生が、当時アイスホッケー強豪校だった大学OBのアイスホッケー選手だったんですね。そして授業中に、アイスホッケーについて熱く語られるんですよ。そこで「いや先生。そうは言うけどわれわれは、スケートなんて滑ったこともないんだ」と言いました。そうしたら先生が、生徒監に相談して、われわれ12人全員にスケート靴をあつらえてくれたんです。

 12月初めに靴が届きました。それがもう、うれしかったですね。とにかく早く氷の上に立ってみたくて、寮の廊下をスケート靴でばたばたと歩きました。

 昭和28年の2月に、全日本アイスホッケーで初めて優勝しました。その試合に水野先生も出ていたので、日光東照宮の天然氷のリンクへ応援しに行きました。そうするとやっぱり、われわれもやりたくなりますよね。先生にも、「これから一生懸命やれば、オリンピックにも出られるかもしれないぞ」と発破をかけられて、がむしゃらにやるようになったというわけです。

 その年の冬に、アイスホッケー部に2軍ができました。養成所の生徒は全員そこに入れということで、とりあえず入ったんですが、2軍から1軍へ上がるのは本当に大変なことでした。

 私は、氷上では負けても陸上では1軍選手に負けまいと、猛烈にトレーニングをやりましたね。午後4時に終業するといろは坂へ行って、中腹の茶屋まで駆け上がって駆け降りるということを毎日やっていました。時には観光バスと競争したりしてね。だから私は、陸上トレーニングでは負けませんでしたよ。

 大阪での合宿のとき、水野先生が自分の履いていたスケート靴を私に貸してくださったんです。それまでは、養成所であつらえてもらったスケート靴を履いて練習していたけど、先生の靴を履いて滑ってみたら、飛ぶようにスピードが出た。それで、東京三田の今井靴店で新しい靴を買いました。それからですね。伸びてきたのは。

 昭和32年ころに1軍に登録されました。でもいきなりレギュラーというわけではないので、小間使いをしていましたね。部室の清掃とか道具の管理、先輩のスケート靴のエッジを研ぐということもやっていました。当時はとにかく、先輩後輩の区別がはっきりしていました。そういうことには養成所で鍛えられていましたし、とにかく私はレギュラーになりたい一心でしたから、嫌だとも思わなかったですね。

 普通のスケートだと、よたよたでも滑れるようになったら滑れた、となるでしょう。でもアイスホッケーでは違うんですよ。試合をやるというレベルになると、スケーティングの技術にはキリがないんです。これでもか、これでもか、となるから、滑れるようになった瞬間というのはないんです。だから、私の青春時代というのは本当にスケート漬けというか、氷漬けでしたね(笑)。

 昭和35年に、私を含めたチームで日本選手権で優勝しました。実は当時、アメリカのオリンピックに主要メンバーが出場していたので、日本選手権に出たのは残留軍だったんですよ。

 オリンピックが終わってアメリカから主要チームが帰ってきたら、マネージャーをやれと言われました。ちょうど監督が交代する時期で、新監督にはまだ若い選手が就任予定だったんです。そこを私にサポートをさせたかったみたいですね。でも私だってまだ24歳くらいなんですよ。「俺はまだ発展途上だからもっと選手やりたいよ」となりますよね。それでマネージャーになった最初のころは、プレーヤー兼マネージャーでやっていました。

 でもマネージャーっていうのは忙しいんですよ。遠征するときの旅館や切符、合宿所の手配までぜんぶやるわけですから、大変でしたね。

 昭和36年の全日本は準優勝でしたが、翌年はまた優勝できました。その年に結婚もしたので、いい機会だから引退、ということになりました。私自身は、まだまだ発展途上だと思っていたけど、やっぱり結婚しちゃうと、しゃあねぇかと思いましたね。優秀な選手は次々と入ってきて、あともつかえちゃいますからね。

 引退後は、従業員養成所のスケートのコーチをやりました。というのも昭和32年に、会社が養成所の近くにスケートリンクを作ったんですよ。一般滑走が終わる夜9時になると、養成所の生徒全員が、清掃のかたわら練習をしにリンクへやってくるんです。だから私も、毎晩9時過ぎたら社宅から自転車でリンクへ通って、清掃して教えて、夜11時に帰って、ということをしていました。

 アイスホッケーを始めて引退するまで、10年少し。我ながら、一生懸命やりました。私の誇りは、会社のアイスホッケーの全盛期を現役とマネージャーとして支えたことです。私が引退したあとは勝てていないわけですから、縁の下の力持ちとして力を発揮できていたんだと思いますよ。上から下へ目を光らせて、きちんと管理してきたということですね。青春悔いなしです。よくやったと思いますよ。

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