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100歳を超えて生きるなんて

平成30年11月発行

三浦榮子

宮城県・大正6年生まれ

  人物紹介

  三浦榮子さんの自分史の表紙写真

石巻の大きな商家に生まれ、恵まれた幼少期を送った榮子さん。大恋愛を経て最初の結婚をするも、幼な子を残して離婚。その後、再婚して2人の娘を授かり、夫の仕事を全面的に支え続けた。100歳を超えた今は、娘たちに囲まれて穏やかな日々を送っている。

自分史本文より

自分史の紙面

■戦争の記憶

 長女がまだ赤ん坊のころに戦争が激しくなってきて、石巻でも空襲警報がしょっちゅう鳴っていました。空襲警報が鳴ると、そのたびに長女をおぶってずっと田舎のほうに逃げるんです。知らない農家のうちに勝手に入って隠れたりしてね。それで、大丈夫だと分かると帰ってくる。明かりは全部消えていて真っ暗だったから、本当に大変でしたよ。それに、防空壕に入っているときに長女が泣くと、周りのみんなに「敵に聞こえる。泣かせるな」って言われてね。赤ん坊なんだから、「泣かせるな」って言われたってねえ。しょうがないから外に出て空を見てたら、飛行機がずっと向こうへ飛んでいくんです。秋田空襲があった日でしたから、秋田に向かっていたんでしょうね。そのとき、外の風が涼しくて気持ちよかったのをよく覚えています。

 東京のほうでは、空襲に遭って赤ん坊の手が知らないうちに焼けていたという話もあったんです。それで、綿入れの袖を縫って長女の手が出ないようにしていたから、それを暑がって余計泣いたのかもしれないですね。食べ物にはそこまで困らなかったけど、それでも着物だとかいろんなものを田舎のほうに持っていって、食べ物と交換してなんとかしのぎました。とにかく戦争は大変でした。戦争が終わったときは、「やれやれ、やっと逃げなくていい」と思ってほっとしたものです。

■テーラーの仕事

 戦後、夫は石巻でテーラーを始めました。でも、夫は体が悪くてしょっちゅう寝てばかりいたから、私も仕入れに行ったり、いろいろやりましたね。戦後で物がないから、洋服の生地は東京や名古屋まで仕入れに行かないと手に入らないんですよ。仕入れに行くと、汽車がすごく混んでいて大変でした。子どもたちも一緒に連れていって、東京にいた姉に預けたりしてね。買いに行っても、お金を出せばすぐに買えるというわけではなくて、ずっと待ってやっと売ってくれるような感じでした。生地を買ったら、それを肩に掛けて持って帰るんです。洋服じゃなくて着物を着ていたから、動きづらくて本当に大変でしたよ。

 でも、生地を見て、どれがいいかを選ぶのは得意でした。わりと目が利くんですね。「いいものを買ってこないと」といつも思っていたし、生地を選ぶのはけっこう楽しかったわね。お客さんからも「榮子さんが選んだものはセンスがいい」と喜ばれていました。うちのテーラーは舶来のいい生地を扱っていたから、いいお客さんが付いてくれましたよ。

 それから帳簿付けもやりましたし、掃除をしたり、店で働く職人さんたちのご飯の用意をしたりという仕事もありました。職人さんは縫製の仕事をするだけで、掃除とかは何もしませんからね。職人さんは多いときで4、5人、少ないときで2人ぐらいだったかしら。住み込みの人もいましたね。

取材担当者のコメント

今も色鮮やかな帽子がよくお似合いで、とてもすてきなご婦人でした。「98歳まではほとんど年齢を意識しなかった」、「とにかく女の人がなんでもやんなきゃだめだと思うのよ」というお言葉が強く心に残っております。

ご家族の感想(お手紙から)

真面目で親切な取材で、とてもいい感じを受けました。母も楽しかったと言っていました。出来上がりも思った以上に立派に仕上がっていて満足しています。母にとって、完成した雑誌は新たな生きがいになっているようで、毎日手に取ってはうれしそうに見ています。

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