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幻の特年兵なんていわれてました

平成28年8月発行

大野 正行

島根県・昭和4年生まれ

人物紹介

 

大野さんの自分史の表紙

国民学校を卒業後、大竹海兵団に入隊し、15 歳で海軍特別年少兵となった大野正行さん。終戦後に大工見習いとなり、その後も建築技術者、建築士、現場監督として数々の仕事に従事。昭和56 年に株式会社大発を設立し、社長として社員を守り、会社を育ててきた。

■海軍特別年少兵

大野さんの自分史の本文。海軍特別少年兵

 

国民学校の高等科2年、14歳のときに、先生が私ともう1人の生徒に海軍を受けろって言ったんです。それで5月25日に大竹海兵団に入りました。他の人はまだ14歳でしたけど、私は4月生まれだったから15歳になっていました。第一志望が少年飛行兵でね、一次には受かったんだけど二次の身体審査で落ちました。それで第二志望の機関兵になったんです。機関士になれるとか、ボイラーの知識があると潰しがきくと言われてね。

私は第三期海軍特別年少兵で1年間特別教育受けた後に横須賀の機関学校に行くんです。そこで習ったのが特攻兵器の海龍です。回天の一つ前だね。いわゆる人間魚雷。終戦があと半年遅かったら生きてなかったと思います。8月15日が卒業式だったから、その日の夜、各所轄に帰れと特別列車を編成して帰りました。

その途中、広島駅で足止めを食らったときに被爆しました。被爆認定には原爆投下から2週間以内に8時間以上いたことが条件で、第三者で2人以上の証明が必要なんですよ。でも証明なんてできる人、誰もいないでしょ。そんなときに広島のほうからお呼びがかかって、私が作った戦友会、大竹三紫会で作った写真集がものをいうんです。それをもとに話をしたら、オッケーが出たんです。仲間同士で証明し合って、認定されました。だから会を作ったのは一生のうちの大事業だったと思ってますよ。

私は15歳で特別年少兵になりましたけど、他の人は14歳がほとんどでした。国際規約違反なんですね。だから、資料は全部燃やされたそうです。幻の特年兵なんていわれてました。それを本にまとめた人は貴重なんです。

 

特別年少兵のときは、ハンモックを吊って寝ました。起きたら45秒以内に着替えて、片付けるのに1分です。それに間に合わないと樫の棒で叩かれました。午前は普通学で、午後は軍事学の勉強。夜も電気の下で勉強しましたよ。根性が育ったね。それと、「5分前」の精神が身についたよ。

■戦後の生活

戦争が終わってから実家に帰りました。そこで親父にくっついて大工の見習いになった。昭和20年に復員したんですけど、何とかここを出る機会がないかと考えていました。それで、たまたま親父の知り合いの人にくっついて昭和22年に東京に出てきたんです。戸田建設とかの下請をやってる大工の親方で大工が200人くらいいましたよ。

 

3年くらいやったんですけど、このままじゃダメだと思った。資金が少なくて独立ができるのは何かと考えてクリーニング屋の見習いになったんですね。でも、朝が早くて3カ月でお手上げ。それでいったん田舎に帰って半年後に再上京しました。

取材担当のコメント

長い間、建設業に関わってきた大野さん。お仕事はもちろんのこと、戦友会や趣味にも全力で取り組まれているお話を聞いて圧倒されるばかりでした。今も周りの人のために尽力されているのは、本当に素敵なことだと思いました。そんな大野さんの素晴らしさが、たくさん詰まった雑誌になっていると思います。私にとっても、とても貴重な経験になりました。本当ににありがとうございました。

ご本人の感想(アンケートから)

創刊号とはしゃれた事をするなと思った。自分史と言うから自分の生きざまを自分の言葉で表現するのかと思ったが、インタビュー形式だったから気も楽になった。

 

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