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自衛隊は本当に楽しかったですよ。悔いはないですね。

平成28年5月発行

兼光 進

岡山県・昭和13年生まれ

人物紹介

兼光さんの自分史の表紙

8人兄弟の末っ子として生まれ、父を早くになくし、兄弟とともに多くの苦労を経験。高校卒業後に入った海上自衛隊では、単身でアメリカに留学。以来、潜水の専門家として活躍。機雷処理、潜水艦沈没時の救助訓練など、52歳の定年まで厳しい仕事を堅実に勤めてきた。「海上自衛隊が好きだから、頑張れた」と語る兼光進さん。

海上自衛隊でアメリカへ

兼光さんの自分史の本文。自衛隊のこと、潜水のこと。

海上自衛隊でね、セーラーから始めて下士官になって。アメリカの海軍に1人で留学したんですよ。昭和38年、25、6歳の時かな。アメリカ海軍深海潜水学校というところ。ホワイトハウスまで10分くらいのところにありましたね。 このときに、ケネディ大統領が暗殺されてね。ケネディさんの葬儀に出たんですよね。「オーバーシースチューデント」ということでね、いちばん前に参列しましたね。 この留学では深水潜水課程の技術を持ち帰ったんです。150~160メートルも潜る訓練をしました。日本は当時、技術はもちろん、設備もなくてね。年に1人か2人、留学していましたかね。アメリカ留学中では、ハワイの学校にも行きましたね。ハワイでは、スキューバもやりました。スキューバで、空気で潜るのは、40メートルくらいまでね。深く潜るのは、ヘルメットでね。アメリカから帰ってからも、潜水の専門家としての仕事がほとんどでしたね。

 海上自衛隊では呉、佐世保、横須賀、神戸、大湊、基地のあるところは回りましたね。アメリカに行った経験があって、その後幹部にもなったので、全国を回ったんですよ。基地があるのは、どこも港町でね。夜しか自由時間がないこともあって、よく飲みましたね。飲むくらいしか、することないしね。

海上自衛隊は、全国で部隊が5~6つに分かれていてね、その全部に行ったけど、水中のことばかりでした。第二次大戦中にアメリカが落とした機雷の処理をしていましたね。危険手当が出たので、お金も儲かりました。こういう機雷はね、掃海艇のレーダーに引っかからないのがあって、目こぼれ、というんだけどね。最後は人間の目で見て、確認するんですよ。機雷というのは、細長くてね。火薬を仕掛けて、海の中で爆発させるんです。すると、周囲の魚が死んで浮かんでくる。地元の漁協との交渉なんかもあるしね、なかなかキツい仕事でしたね。兼光さんの自分史の本文。アメリカへの留学について

もう一つ、自衛隊でしていた仕事はね。潜水艦が沈没した時に救助する訓練をしていたんですね。深さ140~150メートルまで潜ってね、外からバルブを操作して、まずはエアーを送る。そんな訓練です。冬は寒くてたまらなかったですね。あとは、江田島の海軍学校で教官もしていました。海上自衛隊の中では、転勤は多かったですね。

ご本人のコメント(アンケートより)

この度は本当にありがとうございました。後になっていろいろ記憶がもどりああいう事もこういうこともあったなァと思いだして大変楽しい一時を過ごすことができ本当にありがとうございました。

みなさんの「こころみ」がみんなを喜ばせてくださりいいお仕事をしてくださり感謝感激しています。本当にありがとうございました。近くにこられたらぜひお電話なりお立ち寄りくださいませ。

担当者コメント

ご苦労の多かった幼少期や海上自衛隊でのご活躍、今も変わらず続く自衛隊時代のご友人関係と、進様の貴重な思い出やお人柄が詰まった1冊になったかと思います。海上自衛隊時代のアメリカ留学のお話や潜水のお話など、とても興味深く身を乗り出しながらお聞きしました。

そして、世界で活躍される娘様やそのご家族を温かく、優しく見守る思いを、言葉の端々に感じる時間でした。この雑誌を、ご家族みなさまに笑顔でお手にとっていただければ幸いです。

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