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吉野芳郎さんの自分史のインタビュー中の写真

必要としてくれるもののために生きたい

平成28年6月発行

吉野芳郎

東京都・昭和20年生まれ

 人物紹介

  吉野芳郎さんの自分史の表紙写真

東京・赤羽で生まれ、東京大空襲の直前に群馬に疎開し命拾いしたという吉野芳郎さん。大学卒業後は福祉の世界に入り、群馬県職員として様々な施設で活躍する。退職後は専門学校で教鞭をとり、「福祉の心」を多くの学生に伝えてきた。

自分史本文より

吉野芳郎さんの自分史の中身写真

■東京大空襲直前に生まれて

昭和20年2月24日、東京の赤羽で生まれました。東京大空襲が3月10日。そのまま東京にいれば死んでいたと思うんですけど、親の機転で母の実家の群馬に疎開してきたんですね。拾われた命、このときから自分の人生はおのずと何かに導かれてきた気がします。母親がいっさい戦争の話はしなかったんですよね。だから自分の原風景は、このふるさとの青い空と白い雲、そして緑の大地なんです。

小さいときはおとなしくて、女の子と遊ぶほうが多かった。敗戦直後の何もない時代、自然を相手に遊ぶきりなかった。兄はひたすら勉強していて、中学卒業後、東京の高校、大学へ行きました。私も中学のときに東京の父親が声をかけてくれましたけど、母を誰が見るのかって田舎にとどまった。貧しくて、高校へ行かせてもらえる状態ではなかったけれど、桐生の商業高校を内緒で受験しました。

母親はそのころ郵便局で働きながら農業もやり、本当にいつ寝ているんだろうかと思うくらい働いていました。何でも欲しいものを買ってあげるから農業をやれと言われたけど、やりたくなかった。お蚕様が苦手で、桑のアレルギーもあって。あの当時は人間よりお蚕様がえらかったんです。一緒の部屋で寝ていたんですけど、人間は端っこに寝ていました。

■福祉の世界へ

短大時代、障害児の施設に勤めていた高校の同級生から、働かないかと誘われて、生まれて初めて面接に行きました。教育実習先は山の分校だったので、就職はそういうイメージを持っていたんですけど、面接が終わって帰るとき、ある子が「先生いつ泊まり?」って声をかけたんですね。先生なんて言われたら、気分が良くなってね。それで勤めることにしました。知的障害児の施設です。ここが福祉の出発の場所だったんですね。

2年勤めると内情も見えてきて、疑問を感じ始めた。本来の福祉とは、について施設長や職員と議論しました。というのは、比較的能力の高い子がいたんですけど、親御さんが知的障害で施設に入れたんです。そういう子に社会参加させる必要があるんじゃないかと言ったら、その必要はないと言われてね。これはもっと上を目指さなくてはいけないと思いました。

ある研究発表会が茨城であって、私は施設の子への差別感について発表しました。当時、施設の子は坊主頭、地域の子は坊ちゃん刈りでした。坊主をやめようという嘆願をしたら、施設長が、施設の子だとわからなくなるからそのままでいいという考え方だった。それはおかしいと思った。この研究会で群馬県の職員の人に出会って話をするうちに、職員採用試験を受けなよと。その人が久保田稔という、群馬県心身障害者福祉センターの所長をしていた人で、詩人で画家の星野富弘を世に出した人。採用試験には見事合格しました。

不思議ですよね。自分がこうしたい、ああしたいというよりも、人に声をかけられて、それでどんどん展開してきたような人生です。

■地域での活動

65歳からは週3日の非常勤になりましたけど、今度は地域で副区長と区長をやることに。それが終わったら民生委員の依頼がきちゃって。地域の子育て家庭や、生活困窮者、高齢者、障がい者の支援をしています。福祉の世界にいたから苦にはならないんですけど、手が抜けないことばかりで、思った以上に大変でね。これは2足のわらじじゃ無理だと思って、68歳のときに専門学校はやめました。群馬医療福祉大学でも講義を持っていて、こちらはそのまま続けています。私の専門は「障害児保育と社会的養護内容」。虐待などを受けて親が育てられない子どもたちをどう支援するかという講義で、二コマを持っています。今年の4月から専門学校からまた声がかかって、再び行くことになりました。

今まで外にばかり向いていた自分がいるので、恩返しができたらいいかなと、70歳になったら食事処をつくろうと思っていました。年金で自分は生活できるわけですから、材料費だけが出ればいい。50代のころから食べ歩きしたり、食品衛生管理者の講習を受けたり、準備してね。保健所の許可を得るために、かなり改修費がかかりましたけど。ここがノーマライゼーションの場であり、癒しの場。翼を休める場所にしたいんです。ただし民生委員や学校の評議委員もあるし、お寺の檀家の世話もあるし、地域活動のためにこの店は完全予約制にしています。おかげさまでいい状況でお客様が来てくれています。68歳のときに前立腺がんの宣告を受けたので、「もし私の身に何かあったときには、予約は自動的にキャンセルとなりますので、ご了解ください」と宣言しています。いつなんどきお迎えがくるか分かりませんから。

自分の人生を振り返るとね、必要とするもののために生きたいと思ってきました。こんな自分でも必要としてくれるんだと。だから私は、ある意味、自分がないですね。自分の意志ではなくて、目に見えないいろいろな糸に導かれていったと思います。青い空、白い雲、緑の大地……教え子には、その中にある物語を自由に描いてみて、と言っているんですよ。

取材担当のコメント

ご自宅をお訪ねしたとき、吉野さんはちょうど「食事処 芳埜」ののれんを出していらっしゃるところでした。そしてお話を伺う間、お年寄りのみなさんが三々五々集まって歓談される声が隣の部屋から聞こえてきました。どんな方も立ち寄れる、温かな場所。70歳になって新たなチャレンジをされている吉野さん。その人生をお聞きしていると、人との出会いや偶然に導かれながらも、福祉という一本のまっすぐな道を歩まれてきたのだと感動いたします。

ご本人の感想(お手紙から)

インタビューは、忙しい中での自分の憧憬を思い浮かべる良い時間でした。

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