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山田茂さんの自分史のインタビュー中の写真

家内には「あんた世界一や」とよう言った

平成29年12月発行

山田茂

愛知県・大正15年生まれ

 人物紹介

  山田茂さんの自分史の表紙写真

大戦中は陸軍少年戦車兵学校を卒業し、陸軍船舶部隊では事故で九死に一生を得た山田茂さん。復員後に専門学校で学び、京都市消防局に入り、昭和45年からは消防署長として活躍。退職後も精力的に働いたのち、15年間にわたり妻の介護に力を尽くした。

自分史本文より

山田茂さんの自分史の中身写真

■船舶部隊で迎えた終戦

陸軍の元歩兵部隊の兵舎が空き家になっていて、20人の戦車兵出身の船舶兵が行きました。また一から勉強の3カ月で、まず手旗からですよ。何回やっても上手にならん。小さな子どもに見られて「兵隊さん下手ですねえ」って言われたのをよう覚えてます。船のエンジンの調子を見る仕事で、瀬戸内海をあちこち回りました。金毘羅さん行ったり、鞆の浦の仙酔島行ったり。陸路で大阪へ行き、船を受け取る回送の仕事もありました。船の中で台風が通り過ぎるのを待ったこともありましたね。

その後部隊の移動で山口県徳山市へ。海岸沿いの山に手掘りで横穴の洞窟を掘る仕事をしました。物資を収納するための穴だったと思います。掘ってるときに落盤事故に遭い、埋まって死にかけました。「これで終わりや」と思ったけど、足の骨折だけで助かった。気が付いたら自分の足が「何であんな方向にむいてるんだ?」という、下腿の開放骨折でした。女学校の講堂に担架で運び込まれて、骨が出て見えてました。内科の軍医が骨が見えてるところを縫うてね。広島へ転送されました。汽車の二等車の座席の手すりの上に担架を乗せて、4人分の座席を占有するような感じでしたね。入院先では軍医が「縫うたらあかん」と怒っていてね。レントゲンもない時代、骨に穴開けてボルトでつないで、20日間重りをぶら下げてじっとしてなきゃならなくて。それで骨と骨が付くやろうということでした。しばらくして、立てるようになったら軍医が「両足の長さがそう違わないし、多少びっこひくくらいだから、骨はくっついてるから、別府へリハビリへ行け」と。毎日山登りをして温泉につかれ、と。あのころはもう、あちこち爆撃受けてるのに、毎日山登りと温泉なんて、結構なことやったけど。それが昭和20年の4月、5月のことです。

治ってからは、傷痍軍人として銃後の仕事に就くかと言われたけれど、志願までしたのだからと「原隊復帰させてくれ」と言いました。それで元の部隊に戻って教育係をしているうちに、門司で終戦を迎えました。実感はなくて、戦争はまだまだ続くんちゃうかという思いでした。「負けるもんか」という気持ちがあったから、残念やったね。でも、あとから振り返ると、沖縄戦の悲惨な情報なんかは知らされてなかった。情報を隠さないで、もっと早くに知らせるべきやったね。終戦から9月10日までは、櫛ヶ浜にいました。命令を受ける「命令受領」という役目があって、毎日広島へ行きました。原爆直後の広島です。駅降りても何にもない。電柱しかない。毎日広島へ行ってたけど、幸い被爆の症状はずっとありませんが、今も被爆2世、3世の人が苦しんでると思うとね。骨折で入院していた陸軍病院は原爆ドームのすぐ裏にあって、入院中は銀色に光るドームを毎日眺めていたんです。早く治って外へ行きたいという思いで眺めていたんですな。その後のドームの姿を見て、「こんなんになるんやな」と思いましたね。もう戦争だけは、と思います。たくさんの人が亡くなりました。するりするりと何回も生き延びて「何で自分はこうも生き永らえてるのかな」と思いましたよ。

■妻、家族への思い

家内は言うことないですわ。頭も私よりいいしね。私はもう、全てお任せ。その代わり働く、ということで家のことを一切仕切ってもらった。子どものことも任せっきりで。でも「子どもの将来のことを考えるのは親の責任やで」と言ってくれる人があって、将来のことは考えました。それで、娘は公立の中高へ行ってから薬大へ。息子は京都で有名な進学校から医大へ。今は病理医として大学病院に勤めています。定年まで絶対行け、と言うてるんですわ。家内のお母さんも、毎日遠いところから来てくれて子らのことを見てくれて。おばあさん子でした。家内と家内のお母さんのおかげで子らがある、と思います。子どもが育ってくれたおかげで、何の心配もなしに、夫婦2人で最高の晩年を過ごさせてもらいました。

家内は体調がすぐれなくなっても私にはあんまり言わなかったし、分からなかったですね。仕事もしてて、体が少し不自由になっても好きなアートフラワーをやってましたね。家内の作った花は全部残してあるんです。手間暇かけて、ようこれだけ作ったなと。手先が器用やったんやね。15年間はずっと付きっ切りで、毎日2時間から4時間車に乗せて、外の空気に触れさせて。まあ、介護は90点くらいやったかな。やれるだけのことはやった。最後のみとりまでね。寄り添いというか、同体のように思っていたね。数えで90歳まで生きました。極端にやつれることもなくね。「あんたの背中に付いてるよ」と言われてました。それから2年。今もその延長ですよ。家内には「あんた世界一や」とよう言った。日本一違う、世界一やと。

5人の孫にも恵まれて、何も言うことないです。みな結婚して、ひ孫もおる。みなに感謝するしかないですな。自分が親の背中を見ていたように、子らも親の背を見てきてくれたのかな、と思います。みんなが実っていると思う。理想的な家族やと思うね。

取材担当者のコメント

聞かせていただいたお話のどれもが心に残っています。お仕事、戦争体験については、お孫さんやひ孫さんの皆さまにもぜひ心にとめていただきたいと思います。

ご家族の感想(お手紙から)

高齢の父親にわかりやすく問いかけてもらって、父親も話しやすかった。自分が知らなかった多くのことが知れた。

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