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THE大岩律子

平成29年9月発行 / 千葉県在住・大正14年生まれ

無我夢中で働いたから不安を感じる余裕もなかった

大岩律子として生きてきて

平成28年11月28日。
「THE大岩律子」創刊号の発行にあたり、千葉県木更津市を訪ねた。上総湊で生まれ、幼いころから周囲の人たちにかわいがられたという律子さん。保健婦、助産婦の資格を取得し、役場で働いているときに出会ったご主人と結婚。ご主人の病気を契機としてホテル経営を始め、無我夢中で働いてきた。2時間に及ぶインタビューから彼女の半生に迫る―。

幼少期

 生まれは、大正14年、おかげさまで92歳になりました。90まで生きるとは本人も思ってなかったわよ。80になったときに、あと2、3年生きるのかなって思ってたんだけど、こんなに長くなっちゃったわね。出身は、千葉の上総湊の田舎ですね。山の中の農村だったから、昔はサルが出たりしてたわ。畑にサルが出て、私たちが一生懸命作ったものを食べちゃうのよ(笑)。それを追い出すのが大変でした。

 昔は警察署って各市町村になかったんですよ。私たちが子どものころは港にしか駐在所がなくて、何かあればそこが中心でした。そうこうしているうちに駐在所ができて、若い男の駐在さんが寝泊まりするようになったんだけど、私のうちは、何かにつけて世話を焼いてました。お巡りさんが毎日のように夕飯を食べに来るんですよ。「こんばんは」って来るから、「どうぞどうぞ」って。あのころはそれが当たり前でしたからね。1人、2人、人が増えてもどうってことなかったわよ。今は、行く人もいないですけど、昔は「こんばんは」って行けばごちそうになれたのよ。

 お祭りなんかになると、家の奥のほうの部屋は、そういう人でいっぱいになるの。校長先生、担任の先生、それから役場の人や、警察の人なんかもよくやって来てたのよ。だから、床の間のある部屋はそんなお客さんでいっぱいでした。うちの親戚はみんな遠慮してお勝手にいました。まあ、お勝手も広かったからたくさん人が入りましたけどね。私のうちには長屋門があって、門を入ると蔵があるの。門の脇にはいつも牛を2、3頭飼ってたわね。蔵の中には、味噌とか醤油の樽が並んでるの。それを5年交替で食べてたの。あとはとっても大きな穴が掘ってあって、その中にサツマイモを収納するのよ。農業は母がほとんどやってました。近くに貧しい家が2軒くらいあったんですよ。そこの子どもが朝から働きに来て夕飯食べて帰るのよ。

 私のうちは、村の中で三本の指に入るくらい大きかったんです。昔は、五間と九間の部屋があるうちを、『五九(ごっく)のうち』って言ったんですよ。真ん中に、五間と九間の部屋があって、それに出格子の付いた二間の玄関と一間の玄関にお勝手がありました。おトイレも2つ。だから大きいですよ。奥に誰かいても分からないくらい(笑)。

 私は5人きょうだいの一番下でしたから、かわいがられました。それははっきり言えます。上の兄、姉とは年がずいぶん離れていたから、ほんとにかわいがってもらいました。でも悪いことすると蔵へ入れられるのよ。蔵へ入れるって言われるとみんな震えちゃうんです。「悪いことしないから、もう、悪いことしないから堪忍して」って必死で謝ってました。蔵は監獄みたいに怖かったから。私は女で末っ子だから蔵に入れられたのはなかったけど、預かってたいとこはいたずらっ子だから、年中蔵に入れられてたわね。蔵の中には、蛇とかネズミがいるんだけど、あるとき、蔵の中で大きな蛇を見つけたの。「あんな大きな蛇がいる!」って言ったら、おばあさんにあれはうちの神様だからいじめちゃ駄目だよって教わりました。藁屋根ですから、そういう動物がいっぱいいたんですね。

 父はうちのことほとんどやりません。学校と役場と警察の3つの仕事で毎日のように出掛けてたわ。母が、毎日「今日はうちにいますか?」って聞くのよ。それほどうちにはいませんでした。頭が良くて、話が上手だから、村の人が困ったことが起こると相談に来るんですよ。父が「今日はうちにいるよ」って言うと、うれしくて、ワクワクしてたわね。でも、そうすると相談事がある人が来ちゃうんですよ。そうなると玄関で座って何時間も話してるから、早く帰ればいいのにってチラチラ見てましたね。だから、うちにいてもうちにいるって感じじゃなかったわ。今思うと、大して役に立たない父親でしたね。お金を稼ぐわけじゃないし。村の仕事してるだけだから一銭にもならない。

 お手伝いもしましたよ。ご飯を炊くのに時間がかかるでしょう。学校から帰って来ると、お勝手に母が白墨でお米五合炊いておいてくださいとか、八合炊いておいてくださいって書いてあるんですよ。それで、その通りに私が炊くの。母が仕事から帰ってきたときには、ご飯ができてるようにね。それだけでもずいぶん役に立ったと思いますよ。お湯も大きな窯で沸かしておいて。ご飯の反対側でお湯を沸かして、真ん中に熾火(おき)を入れると芋でもお餅でも焼けるのよ。そのころ、あんな石の竈を持ってるうちは少なかったわ。みんな土で作ったような窯だったわ。おみおつけ作ったり、おしんこ出したりもしたわね。親孝行でしたよ。

小学校

 小学校はうちの近くの天神山尋常高等小学校ってところに通ってました。学校では勉強は二番目くらいでした。1人優秀な子がいたから、勝てなかったわ。お金持ちの子が少年倶楽部なんて雑誌を買ってもらって、学校に持ってくるのよ。自分じゃうまく読めないから、「りっちゃん読んで」って頼まれるんです。読めばこっちも得ですから、読んであげるんだけど、私が読んでるとみんなが集まってくるんですよ。みんな頭を寄せてくるんだけど、その頭を見てるとシラミが髪の毛の綱渡りしてるの。それでみんなにうつっちゃう。だから私は家に帰ったら毎日のように梳き櫛で髪の毛をといてましたね。シーツを干してもノミのウンコだらけでしたよ。アメリカから白い粉が入ってきて、それからシラミはいなくなりましたね。

 私は、お手玉も上手でしたよ。たかーく上げるの。お手玉は作るのが大変で小さなきれが貴重品でしたよ。親戚のうちなんかでもらってきたら、大事にとってました。中身も普通は小豆を入れるんだけど勝手に使ったら怒られちゃいますから、数珠玉っていう丸くて固い実ができる植物からいっぱいとってきて、それを使うの。

 先生もすごくかわいがってくれたから、写真を撮るときも無意識にそばに寄ってました。みんなかわいがってくれたんですね。小学生のころは、女の子の髪はみんな長かったんだけど、それは床屋さんに行かれないからなの。今みたいにおしゃれで伸ばしてるわけじゃないのよ。お金持ちのうちの子はおかっぱなんだけどね。

 小学校のころは威張ってました。私の許可がないと遊びに入れないの。だって「りっちゃん入れて」って言ってくるんだもの。だけど悪く威張るわけじゃないのよ。人気者だったんじゃないのかしら。

戦争のこと

 私は田舎に住んでましたから戦争で大変な目に遭ったってことはないんですけど、東京はひどかったらしいですね。焼けた新聞が風に乗って飛んできたことはありました。終戦の1年後くらいに東京に行ったんですね。おにぎり持って行ってたんだけど、そのおにぎりを上野の公園で食べてたら、いつの間にか、汚れた男の子が3人、後ろ立ってのぞいてたの。どうしようもないから、少しずつあげましたけど、それからは、ああいうところで食べるんじゃないなって思いました。兄は、ビルマに行ってラングーン作戦に参加しました。川でお米を研いでると、球が飛んで来たって言ってましたね。それほど向こうの兵隊さんの整備が精巧だったんですよ。もう1人は中国に行きましたが、おかげさまで、無事に戻ってきました。

 戦時中はうちの部屋を軍人さんに貸していました。少尉、大尉、中尉って住んでましたね。真ん中の部屋にその軍人さんの女中さんが3人も寝泊まりしてたよ。炊事班の人もいて料理を作って朝昼晩、お膳に乗せて持ってくるんですよ。それで、頭の上に捧げて、当番兵に渡すんです。

 農家だから食べるものは苦労しなかったです。野菜もお米もあるし、味噌や醤油も自分とこで作ってるでしょう。あとは魚を売りに来れば買うしね。でも、サバとイワシくらいしか知らなかったわ。姉が嫁に行ったところからもいろいろもらいました。お米は供出っていってどれくらい出すか決められてるから、雑炊にして食べたりしましたね。

保健婦として働く

 高等小学校を出てしばらくしてから、保健婦の学校に行きました。看護婦学校と併設されていたから、午前中は看護婦の授業で、午後からが保健婦の授業でした。そこには2年通って、そのあと1年、助産婦さんの学校に行ったから3年くらい勉強しました。寮生活でしたから、夜になると寂しくて涙がこぼれたりもしましたね。

 卒業後はうちに戻って役場に勤めました。農家のお母さんが赤ちゃん連れて相談に来たりするんですよ。聞きかじりで栄養のことも少しは知ってますからアドバイスしたり、あとは婦人会に行って話したり。あのころ、婦人会がいろんなところで結成されたから、よく呼ばれたんですよ。ろくな話もできないのに、普段はどういうことしたらいいか、どんな食べ物を食べたらいいかとか話してました。あっちこっち引っ張りだこですよ。村にはそういう衛生的な知識を持ってる人が誰もいなかったから、ほかの人たちよりは、いくらかましですよね。お医者さんはいましたけど、お医者さんも忙しいからそんなところまで手が回らないでしょう。学校にも1週間に1回くらい行って、養護教員みたいなこともしてました。

なれそめ、結婚生活

 主人の兄さんが役場の隣の学校の先生だったんですよ。役場にしょっちゅう来ては、弟がいるんだけどあんた来てくれないかって言われて。それがきっかけ。最初は断ったんです。お金ないし、うちはないし、そんな人のところに行きたくないでしょう。そのころ割といいうちから結婚の話もあったんですよ。でも、しょっちゅう言いに来るから根負けしました。結婚は25歳のときです。保健婦の仕事やってたから5年間は子どもは作らないって決めて、30のときに娘を産みました。結婚したときは、お金もないから借りた部屋に住んでたんですけど、向かいのマンションに住んでた男の子が畑に咲いてる花を触ろうとすると、お母さんが「触っちゃ駄目」って年中注意してるの。それを見て、「あれやっちゃいけないこれやっちゃいけない」って言っちゃいけないって思いました。そんなことばっかり言ってたら、子どもはどうしたらいいか困るでしょう。

 主人の転勤の関係で大阪に行くことになって保健婦を辞めました。大阪もいい思い出です。3、4年はいましたね。伊勢湾台風はほんとに怖かったわ。ガラス戸が風で飛んだんです。娘が怖いって泣いてるんだけど、こっちはほかのところが飛ばないように手で押さえてるから、そばに寄れないし、主人はこんなときに泣くなって怒ってたわ。次の日に娘が隣のお兄ちゃんと川を見に行って、ほんとにギリギリのところにいるもんだから腰が抜けちゃうくらいびっくりしました。

 南河内郡、仁徳天皇の御陵の近くにあった殖産住宅の住宅地に住んでました。主人が、鉄砲やってましたからハトを捕るのよ。だけど、ハトも御陵の中にいれば撃たれないって知ってるから、そこに逃げ込むんです。それで私が手を叩いで追い出す役なの。主人はハトが出てくるのを待ってる。ハトもおいしかったわよ。キジもおいしかったけど、カモは臭くておいしくなかったわね。

千葉に戻ってきて

 大阪から帰ってきて西千葉に住んでたんだけど、そのころ古川電工に行ってたの。古川電工には頼まれて、保健婦みたいな仕事してました。内容は今までと全く違いました。最初は役場だから公務員じゃないですか。でも、今度は会社ですからね。年に1、2回健康診断したり、「夕べこんな体調だったんですけど教えてください」とか相談に来られたりとか。「大岩さん、お腹痛い」って言われたら、これ飲んで様子見て、なんて薬なんかも渡してました。相談された内容は秘密にしないといけないから大変でした。

 古川電工を辞めた後にラブホテルを作りました。主人が結核になって会社を辞めたんですよ。それで主人のゴルフ友達に工務店の社長さんがいたんだけど、住んでたところがとってもいい場所だからやったらどうかって言われてね。お金なんかなかったけどその人が建ててくれたんですよ。ラブホテルなんてまだ少ないころだったし、タクシーの運転手さんにマージンあげたら、みんなうちに連れてきてくれるようになって寝る時間もないほどだったわ。ずいぶん儲けたから今があるわけよね。初めは何もないですから、何とかしてお金を儲けないとって、必死でした。ラブホテルをやることに抵抗はなかったです。周りの人は反対したけど母だけは賛成してくれたの。それもすごいわよね。だって、田舎の農家のおばあちゃんですよ。それが「いいっぺよ」って言ってくれたの。

 転んだとき、手についた砂も自分のものじゃないってくらい何も持ってなかった。それからスタートしたんです。一生懸命働いて、ちゃんとしたことをしなければ世の中の人は信用してくれないって自覚はしてました。何も分かんないところから、とにかく一生懸命でした。無我夢中だったから先行きどうなるかとか、今どうなのかなんて考えなかったわ。不安に感じる余裕もなかったです。みんなと同じように自分の財産を作らないといけないって。

 ホテルは、おばあちゃんとお姉ちゃんに働いてもらって、あとは、洗濯のおばちゃんをお願いしてました。洗濯物がたくさんありますからね。隣の空き地に洗濯物を干して、夕方になると洗濯物が山のようでした。ホテルは、24時間営業ですよ。ラブホテルなんて当時は珍しくて、もう一軒近くにあったけど、ほんとの田舎風のおばあちゃんがやってるところでした。ちゃんとしたホテルって私のところだけだったから、断らないといけないくらいお客さん来てました。いらっしゃいませって迎えて、いくらいくらですって言うだけですけどね。

 そこを売って、木更津に来たんですね。そこで2軒目のホテルを建てたの。木更津にいい物件が出たからって移ったのよ。そのあとがマージャン屋さん。木更津でホテルを10年くらいやってたのかな。それで、主人が釣具屋さんを始めて、そこの上の階にもともとマージャン屋さんがあったんだけど、そこが辞めることになったから、私がやるって言って。そのときは、娘がバレエをやっててお金が必要だったから、マージャン屋さんやって稼いだのよ。

 女性としてはいろんな経験したほうじゃないですか。つらいこともずいぶんありました。ホテルの中で自殺した人もいたしね、警察の人が来て、ホテルから死人が出たのはよくないから、もう死んでるんだけど、「しっかりしろ」って、生きてるふうを装ってくれました。窓から逃げた人もいたわよ。それから1階に泊めると逃げられるんだって分かったから、1階には宿泊させないようにしてね。男の人が1人で来ると、2階に泊めるんだけど、自殺希望者も泊まるのよね。そのときも警察へ電話して、大変だったわよ。それからは、前金で支払ってもらうようにしてましたね。

 君津に移ってからは、仕事は一切やってません。娘がバレエを教えてるから、舞台やるときの衣装や小道具作ったり。布を染めるところからやりました。小道具なんか、専門家がこれを参考にしたいって借りにきたこともありました。物を作るのが好きなのよね。

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