
生き抜いてきた強さを感じました
お申込者であるお子様(S.Y様)にお話を伺いました。
【S.Y様プロフィール】
1962年新潟県糸魚川市生まれ。1981年、高校卒業を機に上京し、東京都大田区の企業に事務職として勤務。結婚を経て2人の息子を出産。その後、主人の起業により約15年間、同事業に従事。現在は近くの生協で週4日パート勤務。東京都八王子市在住。
―「親の雑誌」を制作したきっかけを教えてください
何年か前にテレビで、「親の自分史をつくる」という特集を見たんです。私は父から幼少期の話をある程度聞いてはいたのですが、私の妹や息子たちはほとんど知りません。あやふやになる前に、文章にしておけば次の世代にも残っていくと思い、制作会社を調べました。ただ、そのころ私は忙しかったので、問い合わせまではしても、なかなか実行には移せませんでした。その話を息子にしたら、「自分がつくってみようかな」と言ってくれたんです。父に伝えると、驚きながらも喜んでいる様子でした。息子は父に昔の話を少しずつ聞いていたのですが、仕事が忙しくなったり、そうそう帰省することもできず、進まない状況でした。その後、新型コロナウイスル感染症の影響があったりして、制作がストップしてしまったんです。余裕ができたら、息子視点での父の自伝の制作は再開してくれたらいいかなとは思っています。
新型コロナの影響で父は外に出る機会が減り、90歳を超え動くこともおっくうになっていました。それでもう一度インターネットで調べて、『親の雑誌』を見つけました。インタビューに来てくれるというのがいいと思いましたし、電話で問い合わせた時の印象もよかったんです。資料を取り寄せた後は制作がトントン拍子に進みました。
―「親の雑誌」をつくりたいと伝えた時の親御様のご様子は?
父に伝える前に、電話で母に伝えました。父の耳が遠いこと、インタビューの経験なんてないこと、どんな人が来るのか、など少し不安はあったようです。母には「お母さんは何もしなくて大丈夫。私たち夫婦がアシストするから」と伝え、納得してもらえました。
その後、父に『親の雑誌』の資料と取材前に提出する「プロフィール」「年表」の書類を送りました。そこに「この度、お父さんの自伝本をつくることにしたので、記入をお願いします」と手紙を添えて。父はまんざらでもないうれしそうな様子だったようです。
―事前準備(プロフィール、年表の作成、掲載写真の準備)はどうでしたか?
プロフィールと年表は、父が途中まで書いてくれたんですが、疲れてしまったようでした。私は東京、両親は新潟に暮らしているのですが、2カ月に一度は帰省しているんですね。だから帰省した時に一緒に書くことにしました。父は几帳面な性格で、何十年も日記をつけています。その日記を父が1冊のノートにまとめていたんです。もしかしたら、息子が父の本をつくると言った時にまとめたのかもしれないです。それがあったので、年表はつくりやすかったですね。
写真についても、父は数十冊もあるアルバムをきれいに整理していました。だから、日記と年表から掲載写真は比較的迷わずに選ぶことができましたね。実家にあったアルバムのうち20冊ほどを私の家に持ち帰り、掲載したいと思う写真を厳選してスキャンしました。ただ、最初に掲載したいと思っていた写真以上にいい写真がたくさん出てきたんです。それで取材の時に、『親の雑誌』のスタッフさんと相談しつつ、最終的に入れる写真を選びました。
父は普段からとてもおしゃべりなんですけど、知らない人が家に来て取材されることに緊張するかなと思っていました。実際に取材では、話しやすい方がきてくれ心配はありませんでした。とっぴな爆弾発言や、私が赤面するような自慢話にも丁寧に耳を傾けていただきありがたかったです。
―制作中、親御様とのコミュニケーションの量は増えましたか?
私は実家に定期的に帰っていますし、妹家族、息子家族、いとこ、親戚なども寄ってくれるような、コミュニケーションが多い一族なんです。だからそこはとくに変化はなかったです。
―「親の雑誌」が完成した時の親御様はどのようなご様子でしたか?
父と母に1冊ずつ、父のきょうだいにも1冊ずつ送りました。直接渡したかったんですが、タイミングが合わず郵送しました。でもその方が、じっくり読めてよかったと思っています。父はとても喜んでいました。実は、文字原稿を確認する段階から何度も何度も読み返していたそうなんです。文字原稿は、私の妹にも見せていたようです。
完成後、父は自分の雑誌をいつも手元に置いているようです。愛読書になっているんじゃないかな。私が帰省した時も見えるところに立てかけてありました。
―「親の雑誌」が完成して、親御様に対して気持ちの変化はありましたか?
私は父の子ども時代、どうやって学び、働いてきたのかなど大変さを聞いてはいたんです。ですが、雑誌としてまとめたことで、改めて父の過ごしてきた時代が大変だったこと、生き抜いてきた強さを感じましたね。90歳を過ぎた父のことを、これまでのことを含め尊敬しなおしました。
私たち姉妹は、父と母に返すことはできないほどの愛情を与えられて成長しました。そして、両親のおかげで幸せな時代を生きることができています。昔から両親には感謝しかありません。私は田舎の3人姉妹の長女で、お婿さんをとって家を継ぐのが当たり前という中で育ちました。ただ、一度は外に出てみたいと東京に出てきたんです。そして、そのまま今も東京で暮らしています。東京に出ると言った時、両親は困惑したと思いますが、それでも送り出してくれました。両親には家を継がなかったという申し訳ない気持ちと、私の意思を尊重してくれたという感謝の気持ちがあります。感謝は日ごろからそれとなくしているつもりですが、面と向かって言うには照れ臭い言葉も、雑誌内の家族メッセージで伝えることができました。感謝の気持ちが文章として残ることも、父に喜んでもらえたかなと思います。愛読書でもありますしね(笑)。
―ご家族はどんなことをおっしゃっていましたか?
父のきょうだいにも喜ばれました。父の両親やきょうだいのことも雑誌には掲載しているんですよ。90歳近いおばやおじから電話があり「いい本をつくったね。えらいね」とほめられました。妹夫婦も「いい本ができたね。ごくろうさま」と言ってくれました。いとこたちは「おじさんの苦労がわかった」と言っていましたね。
―「親の雑誌」制作を通して感じたことがあれば教えてください
雑誌に掲載したいことが多すぎて、確認用の文字原稿を読んだあと、パソコンの前で3日くらい考え込みました。それは苦労ではなくて楽しい時間でしたね。読み返すたび、あれも入れたい、これも入れたいという思いが強くなったんです。雑誌を渡したおばやおじのことも、父の日記から抜粋して加筆しました。実は取材の翌日、私が父にそれとなく取材の続きをおこなって追加した内容もあります。文章を書くこともない生活の中でちょっと編集者気分も味わえました。それも「こころみ」さんの取材のベースがあってのことですが。
出来上がった雑誌は、文章も写真のレイアウトもすばらしかったです。家族からのメッセージとして、妹や息子からの文章も掲載し(オプションでページ追加をおこない、メッセージページとしました)思い通りの雑誌をつくることができました。本当にすばらしくて、大満足です。
大満足ではありますが、もう少し早めにつくればよかったという気持ちもあります。父は耳が聞こえにくくなったし、受け答えも遅くなってしまっていたので、伝えきれなかった事柄もありました。制作を始めるタイミングは、子ども側に時間があるかどうかも含め、難しいと感じました。
私の自己満足で制作を始めたところもあるのですが、完成品を手にしてみて、つくって本当によかったと思っています。親しい知人や友人には『親の雑誌』のURL(オプション:「親の雑誌」紙面データ共有用クローズドURL)を送って、父のことや『親の雑誌』のことを知ってもらっています。「こころみ」さんを見つけてよかったです。親孝行ができました。申し込みから完成までの半年間ありがとうございました。
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