今後の核というか、礎になりました
(写真:辻健之様の「親の雑誌」とご職業に関連する西陣織の帯)
■親の雑誌 お客様の声
お子様の(K.T様)にお話を伺いました。
【K.T様プロフィール】
1968年、京都府生まれ。1991年同志社女子大学英文学科卒業後、旭化成工業株式会社に4年間勤務。
その後、派遣社員などで10社以上に勤務後、株式会社パールトーンで呉服関係の受注業務を経験。2023年から西陣織を広めるため「京都『西陣織』にまつわるあれこれ」というブログを開始。『西陣織』を世界に広げるための活動を行っている。
「親の雑誌」は家族で作る自分史として、ご家族皆様で制作の過程から楽しんでいただきたいというコンセプトのもと、サービスを提供しています。このため、お子様が親御様の自分史を制作したいと申し込まれることがほとんどです。ですが、中にはご自身の自分史を作りたい、とおっしゃる方からお申し込みいただくことがあります。
今回は、親御様ご自身が申し込まれて制作した「親の雑誌」を読んだお子様からのお声をご紹介いたします。「親の自分史を作る意味って何だろう?」と思われる方に読みいただければと思います。
--K.T様から弊社にご連絡いただきましたが、理由を教えていただけますか?
7年前、父が80歳のときに「親の雑誌」を作っていただきました。「親の雑誌」を作った頃はまだ元気だったんですが、肺気腫を患い入退院を2~3年繰り返し、今年(2023年)1月1日に亡くなったんです。その後に「親の雑誌」を読み返し、思うところがありご連絡しました。
――思うところというのはどのようなことでしょうか?
父は京都で西陣織の帯地の製造販売を行っていました。祖父が創業した会社で、今は兄が継いでいます。私は幼い頃は帯地を織っていた会社と同じ建物で暮らしていましたが、4、5歳の頃今の家に引っ越してからは家業には殆ど関わることなく生きてきました。西陣織は私が子供の頃はまだ景気が良かったと記憶していますが、私が成人する頃には衰退していき、同業者で倒産するところもでてきたんです。私は和装業界の未来に希望を感じられず、就職するときも、そのような職種が候補に挙がることはありませんでした。兄も若い頃は継ぐ気がなかったようで、サラリーマンをやっていました。その後、兄は家業を継いでいます。
父が3年くらい前から入退院を繰り返すようになり、母も6年ほど前に認知症のため施設に入ったので、実家にいた私が主に病院に行くようになりました。それで、フルタイムで働くのが難しくなったんですよ。そんなとき、兄から家業を少し手伝わないかと言われ、初めて家業を手伝うようになりました。それまで、家業に関する知識は全くなかったんですけれども、帯のラベルをつけたり、事務作業をやる中で、西陣織の素晴らしさに気づいたんです。
私は学生の頃、英文科だったこともあり、英語を使った仕事がしたいと思っていましたし、海外にばかり目が向いていました。伝統文化は嫌いではなかったですが、それを仕事にしたいとは考えたことがなかったんです。ですが、手伝ってみて、これはなくしてはいけない、守っていかないといけないと強く思ったんです。それからが大転換でした。兄の会社もほそぼそとやっているのでもう少し関われるところをと思い別の会社を探し、昨年の春から呉服を中心に防水や防汚加工を行っている会社で仕事しています。
そういった経緯から、着物を着る人を増やしたいという願いが強くなっていったんです。今、あるコミュニティーに入ってるんですが、そのコミュニティーで自分のこれからの生きていくうえでのビジョンを定めるというワークをやったんですね。私のビジョンは着物を着る人を増やして、日本の伝統文化の素晴らしさを多くの人に伝えることだと思いました。そのためにSNSやブログを使った情報発信をしていき、最終目標として出版をしたいと考えています。祖父と父が生業としてきた西陣織について勉強し、その素晴らしさを情報発信する。そして、ゆくゆくは出版をしたいと思い、少しずつ勉強しています。その中で、父が80歳のときに「親の雑誌」を作ったことを思い出したんです。
当然、父の人生について書かれていますけれど、祖父が創業したときのことも書いてあります。それに、幼い頃に戦争を経験したことや、祖父が起業したけれど戦争で一旦は廃業を余儀なくされて、そこから再興して今は兄が継いでいることなども書かれていました。歴史というと大げさかもしれませんが、つながりを感じました。「やはり私は父の子なんや、こういう歴史があって今の私があるんやな」って実感させてくれたんですよね。先祖があって父母がいて、私がいると思ったら、これからどういうふうに生きていくかを考えさせられました。「親の雑誌」がなかったら考えることはなかったと思います。それがありがたかったんです。
――完成してすぐ「親の雑誌」はご覧になったのでしょうか?
父に渡されたとき、面白いなとは思いつつパラパラっと見たくらいです。じっくり読むことはしていません。当時はまだ父も元気で、「こういうのを作った」とふざけた感じで見せてくれました。私もきょうだいも「ああ、できたんや」というような反応でした。まだまだ元気な父の自分史を読むのが気恥ずかしいという思いと、戸惑いがありました。なので、そのときはちゃんと目を通していないんです。
――「親の雑誌」を親御様が制作されることは聞いていらっしゃいましたか?
取材のために横浜に行くという話を聞いたのが最初だったと思います。当時、孫が横浜に住んでいて、取材の後に会う、ということで楽しそうに出掛けていったのを覚えています。「親の雑誌」を作ると言われたとき、私は「そうなんや」と答えたと思います。その当時は、興味が湧かなかったので、どうして作りたいと思ったのかも聞いていないんです。父は、自分を持ってるというか、ちょっと人とは違うことをやるのが好きではあったので、父らしいなとは思いました。
――では、最近お読みになったのでしょうか?
父が亡くなって、妹が告別式のときの写真を探すときに「親の雑誌」も出してきてくれたんです。そのときもバタバタしていたので、ちゃんと読めていなかったのですが、落ち着いたら読もうと思っていました。最近、出版に向けた活動をする中で、企画書を作るという取り組みをした時に、着物や帯のことを書くんだったら、父の「親の雑誌」も読んでおかないといけないと思い、読み始めました。
父は生前、自分のことを話すことはありませんでした。人に弱みを見せないというか、弱みを見せたくないというか、そういう気持ちだったんだと思います。だから「親の雑誌」を残しておいてくれて本当にありがたいと思いました。これがなかったら、知らずにいたことってすごくたくさんあったと思います。父の、正直な素直な言葉で書かれたものが形として残っていることがありがたかったですね。
――「親の雑誌」はK.T様にとってどんなものでしょうか?
私はこれから西陣織についての情報発信をしていき、いずれは出版したいという夢もありますが、そういった活動をしていく中での核というか礎になりました。
父の考え方や、1人の人間としてどう生きてきたのかなんて、生前は全く考えませんでした。亡くなった後に「親の雑誌」を読んで、1人の人間として見られるようになった気がします。大変なこともあったけれど頑張ってきたのだなと思いました。
父がどういった思いで「親の雑誌」を作ったのかはわかりませんが、人って亡くなってしまうんですよ。形として残るものがあると、その人が生きた証しというか、人生があったことを時間がたっても感じることができるんです。思い出はもちろんあるんですけど、日常生活を送っていると日々の忙しさもあり、薄れてしまうことものもあると思うんです。でも「親の雑誌」のように形として残っていると何度でも見返すことができますし、何度でも思い出せます。だから、形として残っていることに意味があるんじゃないかなと私は思っています。
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