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THE大内二男

平成27年12月発行 / 茨城県在住・昭和13年生まれ

幸せって自分の心が決めるもの

大内二男として生きてきて

2015年9月11日。
「THE大内二男」創刊号の発行にあたり、茨城県久慈郡の彼の自宅を訪ねた。幼少期を満州で過ごし、戦後母子家庭の貧しさの中でも懸命に生きてきた二男氏。理学療法士の第1回の国家試験を合格後、様々な場所で活躍。今もなお理学療法士として後進の指導を続ける彼の半生に迫る―。

生まれ

 僕が生まれたのは、昭和13年です。ひいおじいさんは明治の混乱期に水戸から逃げてきたと聞いてます。酒樽作りの職人だったそうです。祖父の名は末吉です。樽作りを知っていたからか、家のお風呂まで造ってくれました。

 親父の名は勝で、親父の記憶はないに等しいです。満州で開拓団の食料調達係をしていたのですけれどもね、倉庫の鍵だったと思うんだけど、鍵をたくさん持っていたのをよく覚えてます。でも昭和20年には現地召集されて、シベリアに送られる途中で病死しています。

 僕の家族は満州に開拓団として行ってました。満州の記憶は一番、楽しかったですよ。貧しいけれど楽しかった。母は「満州の5年間は夢の5年間だった。お金じゃなくて気心があって…」とよく言ってました。

 野焼きすれば鳥の卵を見つけて拾ったり、野の花が咲いてすごくきれいだったし。野の草はおひたしにして食べたら、おいしかったですよ。クーニャン祭りも着飾った女の人たちがきれいでしたし。

 だけど当時は、草原の中にある集落ごとに土塀で囲われてるんです。家には池があって、アヒルとか飼っているんだけど、そこに鍋とか大切なものを沈めとくんです。なぜかっていうと向こうでは村ごと集団で襲われることがあるから。

家族のこと

 親父が現地の人たちとも仲良くしていたから良かったんです。終戦で急に開拓団が引き揚げるときに、現地の長老が馬車と20数名の男を警護につけてくれて引き上げ集合場所まで守ってくれたんです。後で聞くと他の開拓団より恵まれてました。近くの開拓団では襲われて集団自決したということも聞きました。

 避難の途中は大変なものでした。だけど兄の一男が味噌工場に勤めていたおかげで、食料をもらってこれたからとても助かりました。味噌の中に現地の人がくれたニンニクを仕込んでいたんです。このニンニクのおかげで発疹チフスにかからなかった。僕もかかって熱が出たけど、味噌にニンニクを入れたのを食べていたから人より免疫力があったんだと思うんです。命がつながりました。

 昭和21年の7月に引き揚げで戻ってきて、兄は過労で亡くなりました。僕がビワをとってきてあげたのが最後です。こっちに戻ってきてから聞いたんですが、兄を知ってたという同級生の女の人たちが「小学校ではトップクラスだった」とか「級長するくらいだった」と言ってました。

 引き揚げからおふくろは大変でした。船の中で亡くなった妹さんの子どもも一緒に、子ども7人を連れて戻ってきましたから。そして常陸大子に家族4人で戻ってきたときは、祖父に迎えにきてもらいました。ここに田んぼと畑があったから、食べるだけは自分たちで作れました。おふくろは蚕を飼って糸から反物をつくり、着物を縫って納めてお金にしていました。それと近くに製材所があったから廃材をもらって、おふくろが薪を作って僕がまとめました。薪を作って10銭くらいで、1束にして1円。中学出るくらいまでお小遣い稼ぎしてました。アルバイトで貯めたお金が7000円ありましたよ。炭焼きをまとめる縄を作る機械を買ったときは、僕が7000円出して1万円の機械を買ったんです。

学生時代

 どこも貧しかったけれども、うちは母子家庭だったから小さいときは貧しかったです。でも僕は足が早くてね、運動会の賞品でノートや鉛筆をもらっていたから、学用品には不自由しなかったんです。勉強は、家では働かなくてはならないから学校で集中してやりました。

 昔、中学は進学する組と進学しない組と分かれてて、僕は進学しない組でした。進学する組は英語の勉強をやっていたけれど、進学しない組はやってなかった。だから僕は英語をしてなかったんですけど、初級英語の本を買って独学していたらなんと学年でトップになって、職員室で問題になったんです。それを聞いた先生が「この子を高校に行かせてやってくれ」と祖父母に頼みに来てくれましてね、お金を借りて高校を出させてもらいました。

 高校は大子の高校に、12キロを自転車で行きました。坂道だから行きはいいけど、帰りは2時間かけて帰ってきました。中学まで部活はやってなかったけれども、高校から柔道をやりました。高校3年間は柔道はしていましたが、試合で勝ったことがないんですよ。柔道場に通ったりもしていたんですけどね、学校では試合でけがばかりして体育の成績も下。でも、ここで受け身をたくさん習ったんです。これが後で仕事に生かせました。

就職

 高校を出てからの就職は農業共済組合っていうのがあって、入ったらどうかとおばあちゃんが決めてきまして、すんなり決まってしまいました。朝に自分の畑の手入れをしてから仕事に出かけていました。お米は4人で食べていけるくらいは作っていました。

 19歳のときに網膜剥離になりまして手術を受けることになりました。当時、給料が4000円くらいだったのですが、保険に入っていたおかげで入院費がかかりませんでした。けれども手術は大変で、ようやく一命を取り留めたという感じでした。手術後にリハビリをしていて、皇太子さまと美智子さまの結婚式のお姿がテレビで見ることができたので退院したのです。

 この体験を無駄にせず、病気や障害で苦しんでいる人の役に立とうと思っていると、常陸大子の久保田病院で事務員の募集があり、応募したら採用されました。ここでリハビリテーションのことを知り、国の養成施設リハビリテーション学院を受験することになるんです。落ちたら恥ずかしいので、内緒にして試験をうけましたが、見事合格できました。

 僕は日本初の理学療法士・作業療法士養成校の1期生として入学する14人のうちの1人となりました。

リハビリテーション学院

 学院は東京都清瀬町にあり、当時は田舎でした。施設自体もまだ整っていなくて、寮と授業するところが同じだったので「先生が来たから起きなさーい」という具合です。このときに寝起きを共にした同期14人は今でも仲良しです。学院時代の生活費はおじの大内弥二郎さんが月1万円を貸してくれました。

 勉強は3年間で、2年目からの専門授業は外国人の先生となりました。先生は「ノートをとるな、私の眼を見ろ」と言われました。教科書もなくコピー(青焼き)で学び、実習は大変でした。僕は初めのテストでは4点しか採れませんでした。病院の実習も英語で話すんです。ラジオで英語を勉強しましたが、会話や医学英語は難しかったです。

 同期14人の中では先生とけんかして辞めていった人もいました。頭のいい人は辞めていくけれど、僕にはこれしかないと思っていたので、理学療法士になろうと頑張りました。先生には「ホテルのボーイとして紹介するぞ」と言われました。

 学院を卒業すると第1回の国家試験に合格して理学療法士になるのですが、1次は筆記問題、2次は口頭質問をします。183人が受かりました。

 特例で国家試験を受けることができる人たちのための講習会があるのですが、僕が先生の助手をしていたときのことです。先生は反り返りの強い患者を座らせようと苦戦しておりましたが、僕が柔道をやっていたために、体の動きが分かって力の抜き方がわかったのです。僕はその患者を座らせることができました。先生ができなかったことを僕ができたために信頼を得ることができたのです。それが、自信につながりました。

奥様とのなれそめ

 子どもたちのことを専門にやろうと思い、神奈川県の肢体不自由児施設ゆうかり園で理学療法をしていた30歳ごろ、脳性麻痺研究会を立ち上げました。本を読んで研究するのです。そこに今朝美さんが入ってきました。

 僕がアメリカに出かけると決まって(片道切符で行くつもりでしたが)帰ってきたら結婚しようということで、行く前に親にも会わせていきました。2人とも30歳を越えていましたから。今朝美さんは毎週手紙をくれました。

 会ったときの印象はあまり強くなかったけど、彼女が田舎で育ったということがわかって、同じ田舎育ちだなって関係かな。家の中ではキツイこと言うけどね。「けーちゃん」っていうのはそのときからの呼び方です。

留学、その後

 昭和44年7月、アメリカに1年間だけ行きました。ノースカロライナ脳麻痺病院で色々と研修し、昼は仕事、夜は英語の勉強をしました。仕事をするのでスタッフの半分ですがお給料ももらえ、ボーナスも出るんです。こうしてお金を貯めました。そしてブルメンサール先生に家庭的な暖かい環境を作っていただき、研修を終えました。

 帰国して昭和45年12月に結婚しました。ゆうかり園を辞めてアメリカに行ったつもりでしたが、新しい園の立ち上げに迎え入れていただきました。施設は横浜から藤沢に移りました。

 ゆうかり園で21年間理学療法を行い、平成6年に厚木病院に転勤です。

 平成10年には岩崎学園がリハビリテーションの専門学校を作るからと頼まれました。

 今は週4日出勤して後進の指導に当たっています。

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