幸せはすでにあるもの
三浦十美雄として生きてきて
平成29年7月4日。
「THE 三浦十美雄」創刊号の発行にあたり、東京・勝どき橋近くのお店で取材を行った。大学時代の恩師・大内先生の紹介で航空輸送の道に進むことになった三浦十美雄氏。伊藤忠航空輸送に入社後、伊藤忠航空整備、全日空商事など渡り歩き、常に第一線で活躍。今までの人生を振り返り、「おもしろかったなぁ」と笑顔で語る、彼の半生に迫る―。
生い立ち
昭和16年に小田原町1丁目、今の築地で生まれました。4つ年下の弟が1人、僕が長男です。この弟には苦労を掛けたなと思ってるんです。僕は小中で有名だったから、弟はあの兄貴の弟だという感じでたまらなかったんじゃないかと思います。僕は昭和20年に赤痢になって聖路加病院に入院したんだ。昔は用水桶に入ったくみ置きの水があって、それを僕が飲んで赤痢になったらしいんだ。医者が「もうだめだ」とさじ投げておっかさんも参っちゃってたんだけど、掃除婦のおばさんが「奥さん頑張りなさい。大丈夫よ。この子は絶対亡くならないから」と言ったらしい。それで本当に助かった。
おやじははんこ屋のせがれで、名古屋で自分で店を持って、かなり小金も持ってて全部銀行に預けずに貯めてたらしいのね。父親に、「金を銀行に預けないとは何事だ」と言われて預けたらしいの。そしたら大恐慌で全部パアになった。それで頭にきて、1人で東京に飛び出した。おやじにしてみると名古屋は本当に嫌なところで、東京に出てからは兄弟ともほとんど付き合わなかったみたいだね。築地に8畳の部屋を間借りして、僕が結婚するまでずっとそこにいたんだ。おやじは東京でもすごく腕のいい職人で、仕事はうまいし絶対値段を上げないんだよ。八方崩しという書体がうまかったね。生きてれば中央区でマイスターになってたような人だよ。おやじは昭和63年4月11日に横須賀の共済病院で亡くなりました。その日の朝、僕はおやじの頭をなでて、「行ってくるぞ」と言って出張に出て、そのときは何ともなかったのに、その後倒れちゃったらしい。おっかさんは、ときつけといって、日本髪を直すのがすごく上手で、うちに芸者さんがときつけに来てた。僕は芸者さんにえらい評判でもててたらしい(笑)。おっかさんは大変優しい人で信心深いというか、涙もろくてね。僕が鎌倉へ遠足に行ったときに買ってきた露座の大仏を箱に入れて毎日朝夕ちゃんと拝んでたね。なんせ優しくてなあ。僕の言うことなら何でも聞いちゃう。僕なんかうそばっかしついてたけどな(笑)。
僕の名前はほんとは「富雄」なんだよね。築地にいた耳鼻科の川村先生が姓名判断が好きなんで、患者の名前を全部変えちゃうわけ。それで僕は「十美雄」になった。高等学校を受けるときに戸籍謄本をとったら名前が富雄なんだよ(笑)。それでおっかさんが家庭裁判所に訴え出たの。そしたら裁判長が、「あなたの名前を変えてあげます。だけど絶対言っちゃいけませんよ」というのが条件で戸籍も十美雄に変わった。ほんとだったらよっぽどひどい名前じゃない限り変えてくれないよ。僕は成績が良かったから賞状とかいろんなのがそろってるわけ。それが証拠になったんだよね。
小、中、高校のころ
築地小学校のとき音楽の板垣先生に怒られて殴られて、頭にきてワーッて泣いてそのまま学校を飛び出したの。そしたらちょうどおやじと出くわしたの。おやじが後年に、「僕は子どもがあまり好きじゃなかったけど、あのとき初めてこいつは俺の子どもだなと実感した。かわいくてしょうがなくて、先生のことが頭にきた」と言ってたよ。あとは、銭湯に行ったときに迷子になって、僕がお父ちゃんって泣きついたときも同じように子どもがかわいく感じたと言ってたね。
中学のときの干川先生が恩人なんだよね。その先生は人間魚雷回天の特攻隊員で終戦当日に突撃することになってたんだけど、終戦で突撃しないで帰ってきた。その人が朝礼のときに「人生は…」と必ずそういうことを言う人だったから、あだ名が「ジンセイ」だった。僕はその先生がすごく好きでほれ込んで、すごく感化されたな。もう1人近藤先生という生物の先生が僕のことをかわいがってくれてね。間借りしているので、電気を使うことを母親がすごく気にしていて、夜は早くに電気を消して寝てしまうのを知って、「夜隠れて勉強しなさい」と言って、小さい電気スタンドを持って来てくれたの。それに風呂敷をかけて勉強したものだ。先生はおやじに「なんとしてもこの子を高等学校に行かしてやってくれ」とわざわざ言いに来てくれたりしたよ。上野高校は学区で一番頭のいい学校で、下駄で行こうが無帽で行こうがいいわけ。入学式のときに校長が東大を指さして、「お母さんたち、たとえ3年浪人しても入れなさい。東大以外は大学じゃない」と言ってたよ。僕は東大3回受けて3回とも落っこったけどね(笑)。
大学
2年浪人して早稲田大学ではアイルランド文学の大内義一先生の研究室でずっとお茶くみをやってた。弟子みたいな形でね。学校へ行くと出たい授業だけ出て、大内先生の身の回りのことを3年間ずっとやってた。「政治過程論」の担当していた内田先生が講師から助教授になってゼミを持ったの。前評判はとても入るのが難しいというので、それで大内先生に、そのゼミに入りたいと相談したら「内田は僕の教え子だから僕が言っといてやる」となって、無事に入れました。そのゼミの卒ゼミの旅行で、調子に乗ってビールを自分の囲いをひと囲いで飲むぞって言って本当に飲んだら、全部口から上げちゃったの。それがクジラ事件(笑)。それからもっとひどいことがあって、僕が卒業するときは早稲田の卒業式がなかったの。バリゲードが組まれてものすごかったからね。夜、クラス会の後、酔っ払って早稲田の中に入っていって、「みんな丸くなってしょんべんしろー!」って(笑)。そしたら内田先生がいて、先生は「三浦君ともあろうものが…」と絶句してたよ(笑)。
結婚式のときに大内先生が僕の仲人だった。内田先生を主賓にお呼びしたの。そのときにね、先生がスピーチで言ってくれたことがすごくうれしかった。ヘミングウェイの「移動祝祭日」という本の扉に「ある友へ」という献辞があるの。先生はこの文章の中の「パリ」を「築地」に変えて読んで「もし幸運にも若者のころ築地で暮らすことができたなら、そのあとの人生はどこで過ごそうとも築地はついてくる。築地は移動祝祭日だから」。これだけは覚えてるんだよね。大内先生は99歳でお亡くなりになったんだけど、今でも大内ゼミの古いメンバー10人ほどと毎年お墓参りに行ってます。
就職と転職
就職は、大内先生の紹介で伊藤忠商事の孫会社の伊藤忠航空輸送の林達彌さんを紹介してもらって入社したんです。その人が素晴らしい人でね。お亡くなりになるまで半世紀、お付き合いをさせていただきました。小型飛行機で報道取材や全日空のパイロットの訓練をやっている会社だった。3年たったところで、子会社の伊藤忠航空整備に吸収合併され、私は親会社の伊藤忠商事の航空機部航空機第1課に出向いたということになった。そこに、妻となる保坂恵美子さんが勤めていたの。
2年ほどして、全日空が新しく商事会社をつくるというので、全日空の親しい人から声をかけられて、12月31日付けで辞めて1月1日付けで全日空商事に転職しました。全日空が用意してくれた空港の売店をやりましたよ。最初、大阪に行って店に立って見習いをして、その次は熊本がオープンしたから3カ月くらい熊本に行って、あとは函館でやるとか、ガンガンできた。だけど全日空だって憎まれるわけですよ。地元優先とかそういうので現地の商工会議所とけんかになるわけ。そのときに僕が出て行って大げんかするの。僕はけんかするのが天才だって言われてたからね。それに謝るのも天才(笑)。
伊藤忠時代、僕らはH18Sという飛行機を全日空に3機売ったんだよ。全日空がそれを事故で2機壊してしまって、どうしても1機処分できないのがあったけど、それを入社して10日ぐらいの間に住友金属に売っちゃったんだよ。だから全日空は驚いたの。そのときの調達課長が「三浦、おまえのおかげだ。よし、飛行機の部品はおまえのところにやらせよう」となって、飛行機の部品調達を全日空商事でやることが決まったね。それで全日空アメリカを作ることになって、アメリカに行く予定だった。そのときに妻を口説いてたわけだ。当時、妻は駐在が大好きでしょうがないから、それに乗っかって結婚したんだと思うんだよ(笑)。
スカイホリデーを商事に取って来たのも僕だよ。一番最初にやったのが函館の牧場で、焼き肉が食えるというのをやって、うんと人が行ったんだけど、肉の量が少なかったの。全然食えねえやつが多くて怒られたね(笑)。
各所での活躍
「空輸食品課」というのを初めてつくって、僕がそこの課長になった。そのとき稟議書を、起案したんだけど、社長が反対して回らなかったんだよ。それで、社長の渡辺さんのところに行って説明したけど、どうしてもはんこを押さない。僕は頭にきて、いろいろ説明してたら、最後に社長は僕が横向いてる間にポンとはんこを押してくれたんだよ。見たらはんこが逆さまになってる(笑)。社長も頭にきてこれ以上やるのは嫌だと。でも、帰りそうにもないから押さないわけにはいかないということだったんだと思う。
僕は門徒の勉強会で、3泊4日の合宿で缶詰めになっているときに社長が亡くなって、通夜と葬式に出られなかった。合宿が終わって会社に出たとき、常務に、「三浦、おまえみたいな人でなしはいない。社長にどれだけ世話になってるんだ。もうおまえとは付き合わねえ」と怒られたよ。事情を説明して、その日の夜に社長のご自宅に行ってお焼香させてもらった。奥さんが出てきて、「いいじゃないですか、ビール1杯ぐらい飲んで。あなたが三浦さんっていうんですね。三浦さんっていう名前は聞いてます。変なやつがいるんだって言ってましたよ」って(笑)。
僕はいろいろ各地から食品を飛行機で運んできたりして売ってて、すごく売れてもうかってたんだよね。ロスの前の海のウニを日本に初めて空輸して売ったり、メキシコの冷凍エビをやったりいろいろしたんだけど、最後は2億ぐらい損を出してしまったの。始末書書いたりしたけどクビにはならなかった。でも、その後、空港の売店の部長付きや、食品部の部長付きをやらされて、スーパーの売り場歩いて食品の動向について意見書を書けと言われてさ。そんなのやってらんないからうちに帰っちゃったんだよ(笑)。しょうがないから毎日日比谷公園行って本読んでたの。でも、すぐ戻って、今度はシイタケ屋とか、小豆島のそうめんだとか、バナナなどの青果物の輸入販売の子会社を担当させられた。それで52歳のときにやっと食品部長になった。だから次長を長くやってたんだ。52歳で部長になるなんてばかじゃねえかってみんなに言われてさ(笑)。57歳で役職定年。それで子会社の九州全日空商事の副社長になって初めて転勤したの。妻が1カ月にいっぺん、2週間くらい遊びに来るんだ。それで九州中の温泉を遊び回った。59歳で東京に戻って、子会社の通関会社の常勤監査役になって、61歳で定年退職しました。
そのころに韓国のキムチ屋の社長が訪ねて来て、1年半手伝ってやったんだ。だけど。その間に不動産や発電だとかに投資して業績が悪くなって、給料払えねえって言うんで辞めました。それから小豆島のそうめんやってた会社のオーナーに会社を手伝ってくれと言われて、そこで3年か4年やったのかな。そのあとは、掃除屋のアルバイトをやったり、妻のお店に手伝い行ってます。
妻・子どもたちのこと

伊藤忠航空輸送に入って3年目に子会社と合併したときに伊藤忠商事に逆出向させられたの。それで初めて妻に会った。すごい香水が強かったことは覚えてる。プンプンなの。彼女の上司が撮った写真が栗原小巻さんみたいにかわいかったね。妻は魚河岸で昔の小田原町3丁目が実家。それで地下鉄の築地駅に本願寺の前の入り口から彼女は入るわけ。ある日彼女とバタッとぶつかったの。「あっ、保坂さんじゃないですか」と言うわけ。それからは毎日彼女が来るまでそこで待ってた。そういうことをやりながら一生懸命口説いてった(笑)。
僕は昔から築地が好きで特別な思いがある。僕にとってみると築地は愛憎入り混じった町。間借りの生活という劣等感の世界があって、大きい家を作りたいっていうのが僕の夢だった。だから伊藤忠航空輸送に勤めてすぐにマンションを買ったの。当時300万くらいで買って、おやじとおふくろと弟と4人で一緒に住んだよ。結婚して新所帯をもったのは浦安です。ディズニーランドができる数年前だった。そのあと新大橋の公団に1年半くらいいて、そこで長女が生まれた。2人目が生まれそうだったので、妻の希望で横須賀の馬堀に家を買ったの。そのときに馬堀で一番でかい家を買ったんだよ。僕はほんとに家に対するコンプレックスがあったからね。
長女は目に入れても痛くないよ。なかなか美人だし、頭もいいしね。英語なんかもペラペラ。僕は日本人がしゃべる英語はほとんど分かるんだけど、娘がしゃべる英語は分からない。発音が全然違う。今はアメリカの製薬会社の社長秘書をやってる。長男は優しくていい男だよ。ただ、おやじが嫌になってしまった (笑)。初めは僕に対する崇拝者だったんじゃないかな。だけどどこかで心が行き違っちゃったんじゃないかな。男親と長男は必ず何かがあるものだから、俺はあまり気にしていないが、やっぱり彼は長男だから信頼している。今は普通のサラリーマンだよ。次男は一番まともで真面目。今は大阪シーリングという会社で一番早く課長になった。毎週土曜も仕事に行ってる。もう家を買って横浜に住んで娘が2人いる。
子育ては放任。ほんとにひどいもんですよ。今から思うと慚愧に耐えないです。ほとんど妻に任せっきり。僕は毎晩午前さまだ。銀座かどっかで飲んでタクシーで馬堀に帰る生活だったね。旅行は妻が大好きだからいろんなところに行きました。娘と妻と一緒に南アフリカにも行きましたよ。それがすごくいい旅だったね。あとは妻と娘と子どもだけでアメリカ行ったりね。僕が妻と行くようになったのは定年になってからだよ。それも嫌々ね(笑)。
コンパスの会
僕が立ち上げたコンパスの会では、中小企業の社長とかを集めて、パーティーをやるの。交流会だね。最初は僕がいろんなことを話したり勉強会もした。会費は2万円で妻がごはんを食べさせてお酒も飲み放題でやった。それがずっと今でも続いてるわけ。コンパスの会を作ったのは2000年からだと思う。妻が店を始めたのは15年前。妻がいつのまにか見つけてきたんだよ。妻は思いついたらやっちゃうからね。
盟友
サラリーマン時代からの友人でどうしても会いたいやつってのは2人いる。1人は全日空で当時日通と大げんかやったときの貨物の課長だった西川嘉伸さん。その人には年にいっぺん必ず会いに行く。我孫子に住んでるから僕が行って一緒に飯を食って4時間くらい話をする。僕より3つぐらい年上でお兄ちゃんって言ってるんだ。本当に好きな人だね。
もう1人は中澤正博くん。小豆島のそうめん屋の社長で、せがれを社長にしたくて、僕も辞めるからおまえも辞めろって言った人。こいつはまさに盟友だな。僕の3つ年下だよ。韓国の会社を辞めたあとに4年間面倒を見てくれた。コンパスの会を作ったときのまとめ人にもなってくれた人なんだ。お互いすごい我が強いんだけどけんかしたことない。不思議なんだよ。2人で会うたびに、僕たちはけんかしてねえよなって(笑)。もう1人忘れちゃいけないのが、小、中、高の同窓の浜崎幸一君。築地の船宿「網兼」のせがれだ。妻の実家「小川仙」と「網兼」は昔の小田原町3丁目の双璧だ。英語の天才だった。空輸食品課をつくったとき、頼んで入社してもらった。彼がいてくれたので私は勝手ができたのだと感謝しなければならない。63歳で若死してしまったのが残念です。
今までを振り返って
今までの人生楽しかったよ(笑)。まあ一言でいうと「おもしろかったなぁ」っていうことだろうな。
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