インタビュー

佐々木睦雄として生きてきて

平成28年11月発行 / 福井市在住・昭和10年生まれ

佐々木睦雄として生きてきて 捨身の覚悟で、仕事に挑む

2016年7月22日。
「THE佐々木睦雄」創刊号の発行にあたり、彼の元を訪ねた。福井市深坂で9人兄弟の7男として生まれ、自然の中で育った少年時代。中学卒業と同時に上京し、様々な仕事を経験したのちにフタバ食品に入社し、のちにロングセラー商品となる、サクレレモンを試行錯誤の末、開発した。ポケットには、常に辞職願を入れて臨むほど、仕事に打ち込んできた睦雄氏。仕事では本当に必死だったと語る、彼の人生に迫るー。

生まれ、子ども時代

 昭和10年、福井県で生まれました。三里浜のあたりです。裏の山が織田信長に討たれた朝倉義景の最後の山なんです。集落の入口に乱橋というのがあるんですけど、乱橋というのは織田軍に押されて兵がそこで乱れたっていういわれがあるんですよ。お地蔵さんもたくさんあったので、大勢の人がそこで亡くなってるんじゃないですか。小さいときは、山から山へ人魂が行ったり来たりしてると聞いたことがありますよ。肝試しでそこに行ったりしてましたね。

 実家はお店で、たばこや塩や砂糖、文具とか何でも売ってたんです。牛も豚も鶏もいましたよ。畑も2反くらいあったし、小さいときは裕福だった。でも、父親は8歳くらいのときに亡くなってるから、記憶ってあまりないんですよね。私が物心つくころには長男の子どものお守りがいたなというのは覚えているけどね。

 兄弟は9人で、私は七男坊です。女が2人で男が9人ですね。でも、小さいときに3人亡くなってます。兄弟の内1人は戦死していて、今は4人しか生きていないです。1番目の姉は98歳。2番目が姉92歳、次が86歳。それで私が81歳。私は母が42歳、父が52歳のときの子どもなんですよ。もう生まれないなと思っていたら生まれたみたいですよ。だから1歳のときに福井県の武生というところへ養子に出されたんですよ。だけど、泣いてしょうがないから返品されたのが私です(笑)。1カ月泣き通しだったみたいです。

 父は商売上手だったんですよ。父は商売で山を買ったり売ったりしてて、それで木の伐採をしていたら、その木が自分のところに倒れてきて下敷きになったんです。眉間に穴がいていたのを覚えてます。あと、田舎の火葬場というのは父の火葬の時、子どもが火をつけるんですよね。父は大阪でだるま船なんかを曳くタグボートなんかも買ってたみたいなんですよ。それが1年目で沈んでしまって大きな借金を背負って貧乏になっちゃったんです。親父が死んじゃったから、それを兄が背負うことになったんです。でもおばさんが酒造会社に嫁いでいたんで、そこの人が借金を立て替えてくれたんです。そのあと少しずつ返していきましたよ。

 母はうちの父親が早くに亡くなったから、兄や私をかばうのに精いっぱいだったでしょうね。私は国民学校第1期生であり、新制中学校の第1期生なんですよ。私の1つ上の代では鳩ぽっぽの歌で始まるけど、私の代からは陸軍の歌ですよ。私たちは時代的にも戦争被害者だろうね。当時は教育なんてまともに受けられなかったんです。住んでた地域は敵前上陸があるかもしれないということで予科練がいて、三里浜にも飛行場を作ってました。小学校高学年くらいの年のときには3日学校に行って、それ以外の3日は木工をやったり、棒を持って飛行場を作りに行ってましたよ。昭和5年生まれくらいの人は基礎教育は受けれたんですけど、私とか昭和10年生まれくらいの人たちは応用編だけ習うから、結局何もできなかったです。小さいにときは学校に行ったら校庭にサツマイモを作ったり、桑の実採ったり、彼岸花の根っこを掘ったりしてましたね。だから教育という学問はだめなんですよ。

 学校行けば、先生によくビンタ食らったし、5、6人一緒に怒られたりしてましたよ。「右足、左を開け、腰に手をやれ、歯を食いしばれ」って言われてバシっと叩かれましたね。痛かったですよ。怒られた原因は1つ覚えてます。うちの集落は23戸しかなかったんですよ。それで同級生は女が2人、男が7人で合計9人いるんです。 その中にわんぱくなやつがいて、3人で海に行って、そこで5、6人のおばちゃんに怒られたらしいんですよ。それで頭にきて被服を全部埋めちゃったら、そのおばちゃんたちから学校に苦情が来たんですよ。私はやってないけど、同じ集落のみんなが立たされて怒られました。その当時はすべて連帯責任だからね。私はわんぱくじゃなかったけどね。

 戦争の経験はないですね。福井市は空襲を受けているけど、うちから12キロくらい離れてて、燃えている様子を見たくらいです。食べ物は不自由してたけど、それほど困ることもなかったね。畑に行けば大根があったり、ジャガイモがあったり、時期になれば桑の実があっちにもこっちにもあったし。桑の実を食べると口の周りが真っ黒ですよ。

上京して仕事を始める

 中学校卒業と同時に浅草に出てきたんですよ。おばが浅草で会社をやっていたからね。兄も勤めてましたよ。そこにみんなで住み込みで働いてました。22、3歳まで甘納豆を作ってたんです。そのあとアイスクリーム屋さんになりました。福井から出てきて環境は変わったけど、そんなに困ったことはなかった。でも、きつい仕事だったね。会社に入って1年目は甘納豆を作ってたけど、2年目には自転車で外回りをしてたんです。新宿や池袋、有楽町とかね。浅草にいたのは2年足らずで、それで一度福井に戻ったんです。僕と兄が2人して同じところにいたら、会社に何かあったとき2人して路頭に迷ったらまずいということで、僕だけ福井に帰されたんですよ。

 帰ってから6カ月間は馬車引きをやってました。そのあとの6カ月間は姉の洋品店の手伝い。公民館を借りたりして移動販売してましたよ。それで寒くなってきたら、福井のお菓子屋で甘納豆を始めたところがあったので、そこで7カ月間働いて甘納豆を作ってた。それから浅草にいた従兄弟から出て来いと言われて、御殿場の下曽我町というところに行って働いてたら、仕事ができなくて3カ月でクビになっちゃった。そのあと北鎌倉の小袋町の名月堂というところで甘納豆を作ってたんですけど、大福のほうが儲かってました。それで、甘納豆をやめるというんで1年半くらいでクビ。ここは続けたかったんですよ。最近、厚生年金見てたら、そこで働いてたときのが年金が出てきて、1年で1万円年金が増えました。きちんと会社で支払ってくれてたみたいだけど、知らなかった。山ノ内喜代治さんっていう社長だったんだけど、本当にいい人でした。

フタバ食品に勤めて

 そのあとは、浅草で働いていたときの職長が宇都宮に行ってて、その人を頼って宇都宮にある現在のフタバ食品へ行ったんです。その時期は本当にいろいろ転々としてて、アメ横に行って浮浪者にならなきゃいけないんじゃないかと思ったこともあった。もう田舎にも帰れないから、金はどうでもいいからとにかく「寝る、食べる」をできるところを探さなきゃいけなかったね。だから17歳から20歳ぐらいまでは状況が悪かったよね。でも朝鮮動乱が起こる前までは働かせてもらえるところがあるだけいいって感じでしたからね。柳行李と布団1枚持って転々としてました。でも、宇都宮行ってから生活も安定しましたよ。

 宇都宮行ってから3年くらいはやっぱり甘納豆を作っていて、夏はアイスクリームの配達。そこには浅草にいたころの後輩が5、6人くらいいたから、そんなに新しいところに来たという感じはなかったね。3年くらい働いたら水戸の甘納豆屋を紹介してくれるって話だったんだけど、それがなくなって、結局そのまま同じところにいましたね。菓子問屋もやってたんで倉庫番をやりましたよ。いろいろなことをやっていた会社だったので、九尾ずしを作ったりもしてましたよ。1日2万食も売れてました。電車が黒磯の駅で15分くらい停車するんでそこで、すごい売れましたね。河内サービスエリアをフタバ食品で経営してたんで、そこでも売ってましたね。だから甘納豆のあとは食品部に移って、弁当売りもやりましたよ。社長にもかわいがられてたし、充実してたね。20代になるまでは苦労したけど、みんなそうだったと思うし、生きるのに精いっぱいという感じだったからね。

 営業のときに、橘屋というお店があって、そこに商品を売れたら一人前だって言われたんですよ。それで見本を持って行ったら、そこの親父さんに何年生まれやって聞かれて、昭和10年生まれやって言ったら、じゃあ低能やなっていきなり言われたんですよ。それが頭にきて言い返したら、奥さんが飛んで来て謝ってくれたんです。まあ言われてみれば、昭和10年のあたり子どもはまともに教育を受けれてないと思って、納得はしたけどね。でもそのまま怒って帰ろうとしたら親父さんが追っかけてきて、結局注文が取れたんですよ(笑)。それが営業の始まり。

営業として

 あのころはフタバ食品はまだそんなに大きくなかったから、福島所長として行って営業で新規開拓をしていました。あのころはバブルだったので、やればやるほど業績も上がっていったし、良かったですね。

 郡山に行ってからは、アイスクリーム以外に豚まんも売ってましたよ。豚まんはもともと神戸とか横浜の中華街で店頭で蒸しながら売ってたけど、それを企業が豚まん用のスチーマーを作って売り始めたのはフタバ食品が最初だね。アイスは夏場だけで、その期間だけ人を雇ってたんだけど、冬場も人員を確保しなくちゃいけなくなってきて、それで豚まんを始めたんですよ。評判も良くて豚まんの機械を割り振って売ってましたね。郡山の人たちはとてもいい人ばかりで良かった。営業所の2階に住んでいて、半分社宅だったんで、だから年中お得意先が家に来てたね。結局郡山には10年くらいいたよ。少しマンネリ化もあったけど、楽しい思い出がいっぱいあるね。

 そのうちに郡山から宇都宮の営業所に移って、営業所長をしました。昔からあるところだったけど、何か新しいことをしなきゃいけなかったからね。だから冬に物が売れる方法を考えて、宅配用のアイスをやってみたり、1リットルのアイスを買ってピンクレディーを見に行こうっていう企画をやったり、いろいろやりました。それと、お供え餅や伸し餅を作って売ったらヒットして、冬の赤字が減ったんです。表彰も受けたんですよ。そのとき私は大阪勤務だったので、後輩が賞状を受け取りましたけどね。

 宇都宮には3年くらいいて、息子が高校受験終わったころに辞令があって大阪に転勤したんですよ。息子は学校が決まってたから、自家用車売って姉の家にプレハブ建てて、息子だけ残して転勤しました。娘は、私も一緒に残るとか言ってましたね。家も建てたばかりだったし、私も行きたくなかったですよ。

 当時、大阪はあまりいい工場じゃなかったんですよ。買収して作った工場で設備が古くて、行ったときは散々でした。最初は金庫番だけしてればいいって言われてたけど、そんなわけにもいかず、立て直すまでに2年はかかったね。やっと3年目に攻めに転じれるようになった。そこからは順調に伸びていったけどね。55年ころからは、コンビニが京都に120店舗できて豚まんを置いたんですよ。1年に300軒も400軒も増えていくにつれて豚まんも売れるから、それは大変でしたね。生協に入れていたアイスもよく売れましたね。工場の設備を何から何まで変えましたけど、それは物を作るうえで基本ですよね。その後、三重県にも新工場を作りました。生産能力が2・5倍くらいありましたね。

サクレレモンの開発

 「サクレレモン」は大阪にいたときに私を助けてくれた商品。大阪にいたときに、最初はかき氷が全然売れなかった。原価をかけずに消費者に買ってもらうにはどうすればいいかを考えて、始まりました。自分で市場調査のために神戸を歩いて回りましたね。そしたらストローで歩きながら飲んでいる姿をみて、かき氷もあの形だなと思ってね。最初は断熱効果のある発泡スチロールの入れ物で、ストロースプーンを刺して売ったんですよ。それと硬くなり過ぎないようにアルコールと糖の割合で凍結度合いを調整したんです。娘の学校に持って行っては意見を聞いてね。それで売り出したら、これが売れてね!ひっきりなしだったよ。このひとつ前にかき氷バーを売ったんだけど、バーから落ちてしまうことが多くて、最初失敗したんです。でも氷の部分にコーティングするやり方を思いついて、その欠点がなくなって、これもすごい売れた。沖縄に毎週コンテナで運んでましたよ。でも「星空」っていう商品は自信があったのに売れなかったな(笑)。下手な鉄砲も数打ちゃあたるという感じでいろいろやりましたね。製造課長も協力してくれてね。関東と関西では思考も違ったし、関西の方が進んでたんだよ。関西は商いの町だから怖かったよ。東北にずっといたのに43歳過ぎてから関西に行ったからね。関西に行ってからは本当に必死だったから、ポケットに常に辞職願を入れてましたよ。本当に大変だった。でも、そのうちに業績も伸びてきて順調になったけどね。

結婚と子育て

 女房とはお見合いで知り合いました。杉森さんという方の紹介でね。まずは写真を見て、杉森さんの家でお見合いをしたんですよ。それで4月31日にお見合いをして、12月2日に結婚しましたよ。あまり時間を置かないほうがいいって言われてね。お見合いの後、5月5日の子ども日に女房の家に仕事帰りに挨拶に行きましたね。営業で外回りもやってたし、緊張するってことはなかったですね。

 途中で福島に転勤になったんですけど、そこで生まれたのが長男。長女は郡山で生まれました。子ども生まれて思ったのは、私たちには家族しかないからね。だから子どもが一番。生きがいでもあるかね。田舎から出てきて家族ができたんだから、それに越したことはないですよ。休みも取れなくて本当に不規則でした。営業所は365日休みなかったから。だから家族と遊んだ記憶ないし、運動会も一度も行ってない。女房任せだったし、女房に感謝だね。

新たな道へ

 社長が社長の甥に代わって、お世話になっていた方たちも、みんな現役を引いてたから、もう新しく生き直したほうがいいなと思って退職し、大阪に戻りました。

 その後、東洋食品から煮豆をやりたいと言われて転職したんです。丹波の黒豆ね。ロッテの下請けが主だったから、そこそこにやって、まあまあの利益をあげてやってました。今までにいろいろやってたからだいたい対応できました。いい社長だったし、65歳まで置いてもらったし、その後も2年嘱託で置いてもらったし、本当に良かったですよ。

Family’s Photo

佐々木睦雄として生きてきて家族写真

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編集後記

佐々木睦雄さんのオリジナルの雑誌がついに完成しました。茶目っ気たっぷりにお話になる睦雄さんらしい、雑誌に出来上がったのではないかと思います。仕事に必死に取り組んできた睦雄さんの話の面白さ、奥深さにとても惹きつけられました。この雑誌を手に取った方も佐々木睦雄さんワールドを感じていただけたら幸いです。ありがとうございました。

「佐々木睦雄として生きてきて」取材担当 コミュニケーター 井戸洋希

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