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THE嶋田稔

令和3年12月発行 / 静岡県在住・昭和12年生まれ

周囲の幸せが、元気の源

嶋田稔として生きてきて

令和3年7月12日。
「THE嶋田稔」の発行にあたり、静岡県東伊豆町にある熱川プリンスホテルを訪ねた。5人きょうだいの末っ子として生まれ、大学を卒業後、妻の実家の家業である旅館経営と地域発展に取り組んできた稔氏。廃業寸前の旅館を立て直し、地域、お客様、従業員とのつながりや、家族との時間を大切にしてきた。2時間に及ぶインタビューから、幸せの軌跡に迫る―。

両親の思い出

 昭和12年に、伊東市で生まれました。家は農家でした。僕は、5人きょうだいの末っ子で、姉さんが3人、兄さんが1人いました。今は、1歳上の姉さんと僕の2人になってしまいました。その姉さんとは小さいころから仲良しで、「ちゃんと看取る」という約束をしています。

 母は、優しい人でした。修善寺の出身で、長女でしたね。心臓弁膜症を患っていたので、いつも家で寝ていたのを覚えています。小学校が家から15分くらいの所にあったので、お昼はいつも自宅に帰って母と食べていたんですよ。僕は末っ子だから甘えん坊だったんです。よく母の背中をさすってあげていました。母の枕元にはお見舞いでいただいたリンゴやバナナなどの果物が置いてあったんですよ。食べたことない果物ばかりでね。病床の母が用意してくれた果物の味は忘れられません。

 戦争中、空襲がひどくなってきたころ、母を防空壕に連れて行けないので、庭に鉄筋の建物をつくりました。空襲警報が鳴ると、兄が母を背負って、そこに避難していましたね。

 母はペニシリンがあれば、楽になるようでした。症状が出ると、近くの助産婦さんにきてもらい、注射を打ってもらっていました。ペニシリンは、知り合いの製薬会社の人から手に入れていました。当時、ペニシリンはお金では買えなかったんです。お金より価値のある米としか交換してくれないんですよ。土地を売って米に変えたり、母の実家の兄さんが近所からお米を集めてくれたりして、ペニシリンを手に入れていました。米を買ったのが警察に見つかると捕まってしまうので、夜に見つからないように運んだんですよ。運んだと言っても、僕は荷車に乗っていただけなんだけどね。そういえば、その米で甘酒も作っていました。父は甘酒が好きだったんです。

 修善寺にいた母方の親戚の人たちが、終戦後、伊東に移ってきたんです。うちの離れに住んで、しばらくしてから伊東で開業しました。水道屋や、建設業、青物市場などですね。みんな僕とよく遊んでくれました。蚊帳の中で枕を投げ合ったり、海に行ってカニを捕ったりしましたね。同い年のいとことは、今も仲がいいんですよ。

 父は母を懸命に介護していて、その様子は隣近所でも評判でした。にもかかわらず、母は僕が小学校4年生のときに亡くなってしまいました。写真も残っていません。

 父は農業をしていました。父が若いころは、峠を越えて結婚するのがはやっていたので、修善寺にいた母と結婚したそうです。ニワトリを飼っていたので、僕も餌やりの手伝いをした記憶があります。ハコベを摘んできてあげたり、貝殻をくだいてあげたりしていました。

 父は、一所懸命というのがぴったりな人でしたね。負傷者を人力車で病院まで運んだりと、面倒見がよかったので、伊東ではみんなに信頼され、人望がありました。区長や議員も務めたんです。人に勧められて出馬した選挙でしたが、トップ当選でしたね。

 農業をしながら、温泉を掘るボーリングもやっていました。今、熱川プリンスホテルの前にある源泉も父が掘ったものなんです。温泉との関わりが強く、旅館関係の友達が多かったですね。

 母が亡くなってから、父は後妻を2人迎えました。1人目はお華の先生でした。すぐに「お母さん」と呼ぶようになり、一緒に畑仕事をしたこともあったけど、居続けることは難しかったみたいです。兄貴が思春期で、彼女をお母さんと呼べなかったんですよね。2人目は近所の人が紹介してくれた、中国から引き揚げてきた人でした。帰ってくるときに、お金を服に縫いこんで隠していたけど、全部とられてしまったなんていう話も聞きましたよ。「豚まんじゅうを作ろうよ」と頼んで、よく一緒に皮をこねて作っていましたね。後妻さんとの結婚式では、姉さんと一緒に雄蝶雌蝶の役をしたものです。

恩師との出会い

 小学校1年生のときに算数の教科書をなくしてしまったことがありましてね。担任の先生が「きれいな紙を用意してくれれば、私が教科書を書くよ」と言ってくれたんです。それで、ホテルのゴミ箱から部屋割りの紙をもらい、先生に渡しました。部屋割りの紙はきれいな紙だったんです。先生は一生懸命教科書を写して、本を作ってくれましたね。

 そういうことがあったので、一生懸命に勉強しました。その甲斐があって、卒業したときは特別授業賞の算数部門で表彰されたんです。自分は算数ができると自信がつきました。東京工業大学を受験しようと思ったのは、その先生がきっかけなんです。だけど、その本はなくしちゃって(笑)。のちのち先生によくそのことを言われたんですよ。

大学と東京での生活

 高校2年生になったとき、急に親から大学に行っていいと言われました。きょうだいは誰も大学には進学していなかったんです。本当は早稲田大学に行きたかったんですが、資金の面で受験できるのは国立大学のみでした。それで東京工業大学を受けることにしたんですよ。正直言って一人での東京行きに不安はありました。

 初めて東京駅に降りたときには、あまりの人の多さに驚きましたよ。小学校の修学旅行先が東京でしたが、家の都合で行くことができなくて、受験のときが初めてだったんです。前日に受験会場の下見のため、大岡山に行ったんですが、電車がとても混んでいて、どう降りようかと困ってしまいました。田端にいたおばさんが家の3畳間を貸してくれたので、そこから受験会場に向かいました。おばさんがお弁当も作ってくれたものありがたかったですね。

 当時はまだ偏差値というものがなくて、内申点がよければ大学を受験することができました。実は、東工大がどれだけ学力の高い学校か知らなかったんです。1年目の受験はまったくダメでしたよ。試験会場では、隣の席の人たちが次々に問題を解いていく。僕はじっくり解くタイプだったから、東工大の問題は合わなかったんですね。1年目の受験の後、おばに予備校に行くことを勧められ、代々木に行ったときに勧誘された代々木ゼミナールに通うことにしました。

 2年目は国立ではなくて公立でも資金の面は同じだということで東京都立大学を受験しました。合格発表の前日、おやじが「明日は合格発表だな」と言ったんです。落ちたと思いこんでいたので、発表を見にいくつもりはなかったから、代わりに伊東の映画館にいたんですよ(笑)。後で都立大に受かっていたことを聞いて驚きましたね。このときに観ていた『誰がために鐘は鳴る』にとても感動して、映画好きになったんです。大学時代は映画ばかり観ていましたね。

 大学では、理学部に在籍しながら、2年ほど都の公害対策室でも活動していました。東京オリンピックを控え、東京の川はひどく汚れていたんです。オリンピックで外国の方が来ることもあり、都知事が河川をきれいにしようと大きく動いていて、その流れで僕も公害対策室で活動していました。その後も、科学技術振興の時代が来て、環境が大事だからその道に進めと大学で言われたのですが、旅館経営の道を選びました。大学や研究室の友人たちとの付き合いは、その後ありません。卒業名簿に書いてあった進路は、みんな専門分野を生かした道だったんですよ。自分だけ「旅館」って書くのが嫌でね。そんなこともあって、僕は名簿に自分の住所を書かなかったんです。もっと心が広ければと思うと、残念です。

旅館経営のきっかけ

 小さいころから女房の家とは知り合いだったんです。彼女の第一印象は、きれいな子。おばあさんと2人暮らしをしていて、僕はよくそこに遊びに行っていました。女房はどこでも僕にくっついてきて、許嫁のような感じでしたね。女房は、子どものいない家に養女に入ったんですよ。熱川にある養家は農家に加えて、タバコ屋なども経営していました。その後、ミカン畑を潰して旅館を作り、温泉を掘って観光業も始めるなどいろいろな商売をするようになって。その旅館が、今の熱川プリンスホテルです。

 当時の熱川プリンスホテルは、素人経営で行き詰まっていました。女房と結婚して一緒に旅館経営をするか、潰すかという状況だったんですよ。それで、結婚して旅館経営をすることを決めました。僕が継げば静岡銀行が融資をする、とも言ってくれていましたしね。僕が株式会社ニュー熱川プリンスホテルの代表取締役、女房が女将になりました。

 伊東から熱川に来たときは不安でしたよ。「清水の舞台から飛び降りる」じゃないけど、「熱川に飛び込む」という心境でした。ところが、昭和40年代は経済の発展がすごかったんです。高速ができて、テレビドラマの影響で温泉が人気になりました。みんな地方の温泉に行くものだから、東京の温泉がガラガラになったくらいだったんですよ。毎日毎日とても繁盛していました。営業もやっていたので、東京へバスでお客様を迎えに行くときは、テレビ局にも行って、出演者に「熱川温泉と言ってほしい」と売り込んだこともありましたよ。

 ホテル経営は学んでなかったけれど、地道な経営を行ったので、ちょっとずつ経営状態は上向きになっていきました。

観光の目玉をつくる

 僕は熱川の観光の目玉になるものをつくりたかった。熱川の海岸づくりはそのためにやったことの一つです。今は砂浜ですが、もともと熱川の海岸は砂利だったんですよ。砂利だと、お客様が安全に泳げないので、それを砂浜にしたいと思っていました。その方法を学ぶために、新潟大学の研究室に勉強に行きました。突堤(突き出した堤防)をつくれば砂が集まるから砂浜になると教わりましてね。堤防は日本の国土を守ることにもつながるので、静岡県の予算を活用して、熱川海岸砂浜海水浴場を作りました。今年は中止になってしまいましたが、熱川海上大文字焼花火大会は夏の風物詩になっています。他にも熱川に自然を取り戻そうと呼びかけて「ホタルの会」を結成しました。奈良本区長になって15年になりますが、毎年小学生が放流に参加しています。「熱川さくらの会」の推進も行っていて、河津桜とともに熱川桜を毎年植えているんですよ。

 僕はこのホテルから見える景色を「箱庭」と呼んでいます。ここからは伊豆七島が見えますが、特に日の出がすばらしい。お客様も、日の出や月など、自然を大切にする方が多く、よろこんでくださいます。

 旅行というのは、ものすごく大切なものだと考えています。だから、両親へのプレゼントなどに使ってほしいですね。旅行自体を楽しんでゆっくりと熱川地域での時間を過ごしてほしい。そんな旅館サービスをやりたいと思っています。

これからの旅館経営

 自分たちが必要だと感じたことを実行していくと、これで旅館は大丈夫という瞬間があるんです。昔は団体旅行が多かったですが、最近は会社の団体旅行はありません。家族やグループがこれから主流になるでしょうね。コロナ禍になって、これから先、どういう状況になるか想像もつきません。今、はやっているワーケーションも、いずれ職場に戻りますし。僕は、石橋を叩いて渡る地道な経営をするタイプなんです。できるだけ経費を抑える経営をするので、今は設備投資には向かない時期だと感じています。

 70歳後半で息子に旅館を譲って十数年たちました。年齢も年齢でしたし、息子も一生懸命やってくれるし、この辺でもういいかな、と思ったんです。だから、代表を辞するときは特に寂しくは感じなかったですよ。孫が来年大学を卒業するので、3代で経営できることを楽しみにしています。この孫は、僕が社長を辞めるときに感謝状をくれたんですよ。

 今でも館内を歩くのが好きで、お客様と直接話すのが楽しいですね。「お風呂はいかがでしたか? お湯加減はいかがですか?」と声をおかけして、「よかったよ」というような会話が好きなんです。

 従業員には、会話が一方通行にならないようにとか、最後に「ありがとうございました。またお越しください」とフォローは忘れないようにと伝えています。僕は一人ひとりのお客様を大切にしています。働いている人たちも、同じ気持ちになってもらえるとうれしいですね。

 従業員はベトナムなどの外国の人が多いです。みんな真面目に仕事をするし、来日前にしっかり日本のことを勉強してきています。日本人と異なる部分もありますが、彼らとコミュニケーションをとるのは楽しいですよ。僕がオシャレをすると「会長、今日はいいね~」と話しかけてくれたりします。それに、みんな優しいんです。両親と毎晩、オンラインで会話をしてるそうです。楽しい話がないと故郷の親御さんは心配するから、楽しい話ができるような環境にしないといけないと思っています。

これまでを振り返って

 一番楽しかったころは、家内が商工会をやっていたときですね。婦人部が活躍していた最盛期だったんですよ。家内は女将として一緒に働いてきたけれども、がんになって、60歳の若さで他界してしまいました。亡くなったときは、婦人部の人たちが来てくれて、きれいに花で飾ってくれました。とても感謝しています。最近は、その人たちが病気になったり、亡くなったりするので、寂しいですね。

 今の楽しみは赤沢温泉にあるフィットネスクラブに行くこと。そこで40人くらい友達ができたんですよ。みんなで食堂に寄ったり、登壇する講演に行くと舞台に上げられちゃったりしてね。楽しいですよ。

 振り返ると、伊東市と東伊豆町の親戚同士が交流したことで、民宿のような施設を50室の旅館にすることができたんです。資金繰りの苦労はありますが、高温の湧水や水源を得ることができました。磯浜海岸を砂浜海岸にして夏の海水浴場にしたことは僕の人生の中で特筆すベき大事な事業でしたね。「目標を達成するためには何をすべきかを考え、実行することにより成果を得る」。これを自己目標にして、仕事に取り組んできました。

 目標はあと10年くらい楽しむことでしょうか。経営の一線を退いてはいますが、会長には責任があります。ですので、顧問になるのがいいかと考えています。事務所にはいないようにして、気の向いたときには館内を巡って。旅館の一角で、好きな歴史の本を読みながら、ゆっくりした時間を過ごしたいですね。

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