
小野稔として生きてきて
令和3年12月27日。
「THE小野稔」創刊号発行にあたり、彼が住む東京都文京区を訪ねた。
荒川区に生まれ、戦時中は千葉の疎開先と家を行き来しながら、戦火を逃れた。
昼間は働きながら高校と大学を卒業し、運送会社でキミヱさんと出会い結婚。
営業やタクシー運転手など、さまざまな仕事を経験し、65歳で退職。
何事にも誠実に一生懸命取り組んできた彼の、その半生に迫る―。
PROFILE●小野稔
生まれ年:昭和15年
趣味:麻雀 カラオケ 競馬
好きな食べ物:白ご飯 餃子 ラーメン
生まれと家族
昭和15年、荒川区南千住で生まれました。男4人、女3人の7人きょうだいです。私は3番目で、上に兄が2人います。生まれてすぐ亡くなったきょうだいもいるから、私は戸籍上は四男坊になっているんです。戦争中でみんな貧乏だったし、食糧事情も何もかもすべてが悪かった時代です。明日の米もなかったんじゃないでしょうか。みんな食べずに我慢していたから、お腹が空いていたと思いますよ。
きょうだいは仲が良かったですね。一番上の兄貴は私と比べ物にならないくらい勉強ができたんですよ。その当時、ラジオのない時代に真空管でラジオを作ったんですから。とにかく勉強が好きで、学校でも一番だったし、学年の代表として卒業式で答辞を読んだりもしていました。私は「あの人のきょうだい?」って周りから言われて恥ずかしかったですね(笑)。でも、自慢できる兄です。
父は婿養子で、旧姓は河野っていうんです。食糧事務所で係長として働いて、米屋もやっていたみたいですね。そういう特殊な仕事をやっていたから、戦争には召集されませんでした。でも、銃の扱いは上手だったようです。父は家に帰るとみんなに厳しい人でした。やっぱり昔の気質なんでしょうね。飲ん兵衛で毎晩酒を飲んでましたよ。
母は女学校へ通っていたそうです。今の白鷗です。当時は珍しかったんじゃないでしょうか。それだけ家が裕福だったということでしょうね。昔からお嬢さんだったんですよ。お琴や三味線の免許を取って指導もしていました。私が子どものころは家が貧乏でお稽古する部屋もなかったんですけど、何人か教わりに来ていたのは覚えていますね。
戦争の記憶
戦争中は千葉の疎開先と家とを行ったり来たりしていました。疎開先は長生郡長生村一松という所です。日本の飛行機がやられてぐるぐる回って目の前に落ちてくるのを見て、これが戦争なんだなって思いました。兵隊さんが上空に向かって銃を撃っていたのも印象的でした。
3月10日の大空襲は怖かったですね。とにかく空が真っ赤だったっていう記憶があります。空襲で南千住の駅に近い5丁目の辺りが全滅しちゃったんです。焼け野原ですよね。どういうわけか日光街道を挟んでこちら側は助かったんですけど、わずか200メートル先が燃えていましたから、ほんとに怖かったです。爆弾が落ちた音がズーンズーンって聞こえました。その音もすごかったです。
戦争が終わったときの記憶っていうのはないんですよ。ただ、戦争が終わったら、いろんな法律もできましたし、いろんなことが始まりましたね。
子どものころ
小さいころは、性格的には怠け者でしたね。ベーゴマやメンコをやって遊んだり、相撲もやったりしました。正直言って、成績はまず良くない。スポーツもだめだし、いろんなものが苦手でした。だから適当に遊んでいたんです。小中学校のころは、とにかく勉強ができなかったからろくな思い出はないんですよね。よく結婚できたなって、自分でも思っています(笑)。恥ずかしいです。
中学を出た後は、昼間は働いて、夜は都立荒川商業高校に行きました。当時昼間の高校へ行ける人っていうのは50人中10人もいなかったんじゃないでしょうか。ほとんどの人は中学を卒業した後は働きながら学校に行っていました。
その当時はいろんな仕事をしましたけど、一番長かったのは古屋税経事務所ですね。今もあると思いますよ。商業高校に通ってたから、ある程度の簿記ができたのでそこに就職したんです。10年くらい勤めました。途中で、会計事務所の近くにある都立一ツ橋高校の夜間過程に移りました。
大学進学〜就職
高校卒業後は、中央大学の商学部に入学しました。そこも夜間なんです。仕事をしながらですから勉強は二の次です。
そのときは、学校へ行ってもろくに授業を受けられませんでした。デモに行こうっていう雰囲気だったし、スピーカーで大きな声を流していましたからね。しょうがないから行こうかって、一度はデモに参加したこともあったと思います。何しろ授業がないですからね。
経理を目指そうと思ったきっかけは、とにかく仕事につながればいいなと思ったことです。そういう意味でも中央大学の商学部に入って、ある程度勉強はしたんですけど、なかなか身にならないものです。やっぱり実践とは違いますからね。
自分としては自立したいっていう思いがあって、21歳のころに、会計事務所を辞めて生命保険会社に入りました。営業マンとして入ったんですけど、営業なんてまったくやったことがなかったから、結局1年半くらいで辞めました。その後は自分の好きな所で働こうと思って、あれやったりこれやったり、何でもやりましたね。職場は10数カ所、変わりました。
なれそめ
墨田区にある運送会社に経理で入ったんですけど、そのときお母ちゃんも同じ経理部にいたんです。私は26歳でしたから、そろそろ結婚しなきゃいけないなと思ってました。経理部の中で一番話が合ったのが彼女なんです。知り合って半年くらいで結婚しました。
私はいろいろな仕事をしてきて落ち着かない人間でしたし、お金もありませんでした。そんな私から見れば、とにかくいろんな面でしっかりしていましたから、この人なら将来をお任せできるなと思いました。
さまざまな仕事を経て
運送会社は給料が安かったから、給料の良い会社に転職したんです。畳に似たような建材を作る会社で、そこでも経理として働きました。その後は千葉県にある市役所に入りました。当時の給料は日給で800円です。最初は福祉事務所で、その後に保健体育課にも配属になりました。市役所には11年いました。
それを機に住所も流山に移して、事業団のアパートを借りました。愛子が生まれたのも流山に住んでいるときでしたね。その後何年か経って、流山から柏に移り、家を買いました。広い庭があって、43坪あるんです。いまだに草が生えて苦労しています(笑)。今は周りに全部家が建っちゃいましたね。
市役所の後はタクシー会社に入りました。とにかく何でもやるってことで入社し、タクシー運転手を5年ほどやりました。その後、大使館に勤めました。大使館スタッフの送迎を担当する仕事です。大使の子どもたちをディズニーランドに連れていったこともありましたよ。大使館の車は外国ナンバーですから、成田空港もチェックなしでスッと入れるんです。
ある日、大使館のスタッフを成田に送っていく途中に、胆石の痛みがひどくなってしまい、車を止めて病院に直行したことがありました。自分で救急車を呼びましたよ。翌日にはすっかり元気になっていましたけど、図々しく1週間入院しました。病気らしい病気はそれだけですね。医者が嫌いだから、何十年って医者に行ってません(笑)。何年か前に、家のゴミ出しをしようとしてゴミ袋を持ったままバランスを崩して頭から転んだことがあったんですよ。そのときも救急車で病院に運ばれたんですけど、痛くもかゆくもないから自分で点滴を抜いて、その日のうちに歩いて帰ってきました。
何だかんだいろんな仕事をやって、建材会社入りました。そこも長かったです。鉄鋼の仕事や建材の販売と運送まで全部やりましたからね。最後は倒産して従業員を減らすことになりましたが、いい社長さんでしたよ。最後に勤めたのは浅草にあるタクシー会社で、タクシー運転手として3年ほど働きました。65歳になって、孫も生まれたのを機に仕事は辞めたんです。それからは孫の世話をするのに月曜から金曜まで娘の家に泊まりに行っていました。保育園の送りもやりましたよ。
家族のこと
お母ちゃんは生まれつき足が悪いんですけど、その歩き方を近所の中学生が茶化すように真似したことがあったんですよ。中学生がわざわざお母ちゃんのそばに寄って来て、目の前でやったから、「そういういことをやっちゃだめだよ」って怒ったんです。そのときだけは私は怒りましたね。
子どもたちとはよくスキーに行きました。教えられるほどじゃないけど、私はスキーが好きだったんです。孫も滑れるようになりましたよ。
孫はかわいくてしょうがないですね。とにかく普通でいい。迷惑かけないで豊かに育ってほしい。今も気持ちは豊かだと思うんだけどね。普通でいいんだよって思っています。
ある日、私が麻雀から帰ってきて、ストーブの火をつけたまま疲れて寝ちゃったことがあったんです。ふと起きたらストーブが燃えてて、急いでそのストーブを抱えて外に出したので、大きな火事はならずに済みました。でも、ストーブの熱さで顔も胸もやられて気絶してしまいました。記憶も曖昧です。そのときの後遺症で冬になると手が動かしにくいんです。私は麻雀ができるかどうかが一番心配だったんですけどね(笑)。
趣味について
競馬と麻雀が好きです。麻雀は人に教えられるくらいやっています。浅草とか後楽園とか、あちこちの雀荘に行きましたよ。競馬は場外です。中央競馬も地方競馬もあるしね。今でも余裕さえあれば行きますよ。好きだから行くんです。昨日の有馬記念も買いました。買った馬券は5000円くらいにしかなりませんでしたけど。競馬の魅力は、一番強い馬が必ず勝つとは限らないということですね。強い馬でも負けたりすることはあるんですよ。その日の天候とか体調もありますからね。競馬のことは段々わかってきたけど、もう遅いですよ(笑)。決して絶対はないっていうことです。
麻雀の方が面白いです。麻雀は4人でやるでしょう。かき回しをして、配牌をしてそれから始まるんです。どこに何がいくかわからないでしょう。何万分の1の確率だからね。その人によって持たされた牌をいかに生かしていくかですから。ここでおしまいなのか、その先があるのか。そこまで読まないと麻雀じゃないです。とにかく最高の手を作るように努力します。もうこれ以上ないっていうときに初めて麻雀が成立するんです。最後の最後まで考えることが大事ですね。
きょうだいで麻雀をやるんですよ。もう何十年にもなります。妹2人と男2人、年に2、3回きょうだいで旅行に行って麻雀をやるんです。必ず2部屋とって、1部屋は麻雀部屋にするんです。麻雀はやっぱり楽しいですよ。
死生観
体は元に戻らないから、骨になって土に埋まるものなんでしょう。要するに自然にかえるということ。それをお祀りするっていうこと自体はやらなきゃいけないのかなっていう感じなんだよね。私はお坊さんでも何でもないけど、普通の人として亡くなっていく者に対しての礼儀なんでしょうかね。生と死に関しては、最後になってみないとわからないんじゃないかなっていう感じがします。ただ感じるしかないからね。
これからのこと
まずは健康でいることです。あとは旅行に行きたいですね。行きたい所はまだ決められないです。この前は次女に誘われて黒部に行きました。登山靴ではなく、普通の靴で行ったら、ちょうど前日に大雪が降っちゃったんですよ。山道をゆっくり歩いてホテルに向かいましたが、高低差があるんですね。慣れた人はアイゼンを履いていたから行けたんですけど、我々は履いていないから、滑って湖に落ちたら即死です。予約したホテルまでは、あと100メートルほどの階段を下りれば良かったんですけど、お母ちゃんだけは引き返してすぐ手前のホテルに泊まりました。雪がなければ楽に行けたけど、しょうがないですね。でも黒部はいい所ですね。最高だよね。
それから、私の最後の仕事が2つ残ってるんですよ。1つは柏の家の売買と登記までやること。一番いいときに売れなかったんですよ。もう1つは自分の実家です。相続がどうなるかわからないけど、名義変更をやるということ。これが私の最後の仕事です。
振り返って
とにかく仕事は何でもやってきました。車の運転は好きなので、運転の仕事は一番気楽でしたね。7、8年前にお母ちゃんと2人で車で九州に行ってきたんですよ。彼女の中学の同窓会があったからです。大阪で1泊して、疲れたら車の中で休んで、起きたらすぐ移動です。結局、往復で2400キロ運転しました。
私は遊び人だからいろんな意味で時間とお金を使ってきたけど、それをお母ちゃんとか家族にしてあげられなかった。その分してあげられることがあったんだもんね。時間とお金と楽しみを同時に分けてあげたかったね。それを自分の物にしちゃったから、辛い思いをした時期もあったと思うよ。それだけは心残りだね。
Family’s Photo

ご家族メッセージ
賭け事が好きで母親を困らせていましたが、送り迎えをお願いすると必ずやってくれました。特に妹の泉は父親に毎日高校に送ってもらい、遅刻ギリギリセーフだったので、「泉のアッシー君」と呼んでました。
長い間、父親には頼らないと思っていたけど、初孫、大雅が生まれて、私がぎっくり腰になった時、重い大雅を眠るまで毎日おんぶしてくれてとてもありがたかったです。今は、とても感謝しています。お父さん、ありがとう。
コメント欄
コメントを書く