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THE横山クニ子

平成30年4月発行 / 茨城県在住・昭和19年生まれ

横山クニ子として生きてきて 今できることを今やる

横山クニ子として生きてきて

平成29年11月6日
「THE横山クニ子」創刊号の発行にあたり、日立市にある彼女の自宅を訪ねた。日立に生まれ、辛抱強く愛情深い両親に育てられたという横山クニ子さん。必要から選んだ看護師という仕事が、日々の中で天職となっていった。優しいご主人との出会い、3人の子どもたちへの溢れるような愛情。2時間に及ぶインタビューから、多くの出会いに恵まれた彼女の半生に迫る―。

生い立ち

 昭和19年に、日立市の河原子町で生まれました。終戦前に自宅が空襲で焼かれてしまったので、宮城県の父の故郷に疎開して、それからまた日立に戻ってくるんですね。父は宮城県の山奥、伊具郡耕野村生まれで13人兄弟の五男でした。家のために、山の中から日立製作所の多賀工場に働きに来ていました。働き者で、その他にクリーニング屋でも働いて、家に仕送りをしていたそうです。母は、国鉄に勤めていたおじいちゃんのところの長女でした。おじいちゃんが会津若松から日立の多賀駅に転勤で来ていた時に、おばあちゃんが父を見て気に入って、見合いさせたと聞いています。

 父の実家に親子3人で疎開しましたが、母はそれまで農家に関係ない生活をしていたものですから、山奥の農村の暮らしがつらかったようです。一時、自分の兄弟のいる栃木に戻ってしまったこともあります。疎開先の思い出は悲しいものが多いです。畑の中に駄菓子屋さんがありましてね。私はお金をもらって買いに行ったのに「子どもがこんな大金を持って買い物に来るのはおかしい」と店の人が家まで来たこともありました。疎開先の家で私たちは土間で暮らしていたんですが、中で暮らしている人たちはいい食べ物を食べていて、それを見せびらかすんですよ。昭和23年、戦後復興途中の日立に戻ってきました。この年に妹のハルノは亡くなってしまいました。父はここで、日本鉱業所電錬工場に入社するんです。家族で電車道上の社宅に住みました。この社宅に入ってから下の妹たちが生まれたものですから、私は父の連れ子だと思われていたんですよ(笑)。母は怒っていました。私はいい子でしてね、一番両親にかわいがってもらいました。妹たちと年が離れていたので、あんまり一緒には遊んでないんです。でも、私が17歳の時、父の具合が悪くなったので、妹たちを励ますために玉簾の滝というところで飯ごう炊さんをしました。それはいい思い出です。

父について

 20歳になった時に、一度、宮城県の疎開先を私1人で訪ねたことがありました。父はよく、戸籍謄本を取るために実家の住所を私に書かせていたので、覚えていました。だから行くことができて。伯父さんが、父の兄弟のところに連れて行ってくれたんです。みんな、お父さんの話をすると喜んでくれました。私が20歳になって大きくなったことも喜んでくれてね。父は疎開先でうまくいかなくて出ていってしまったので、伯父さんは気にしてくれていたようでした。父が帰ってきた時のためにと、毎年じゃが芋とお米を別に取っておいてくれてたと聞きました。待っていてくれてたんですね。それが分かって、とっても嬉しかった。分かって良かったです。私が62歳の時です。NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』という番組を見ていたら、偶然出てきたところが疎開先でね。役場に電話したら、まだその住所に人が残っていると言われて、主人と訪ねました。3歳の時に見た風景と本当に変わらなかった。だから、ここで母親が我慢できなかった理由がよく理解できたんです。その気持ちが分かって、私は涙が出て止まりませんでした。

 私は、父の生活や生き方なんかが自分の子を育てる基になったと思います。もののない時代でしたから、お正月とか盆くらいしか賑やかにやらないんですけど、その時の料理は父の手作りでした。鶏は卵を産まなくなったらつぶして正月に食べました。父はみんながしゃべっている間も黙って聞きながら裁縫をするし、草履も作るし、かんじきも作っていました。あと、月に1、2回、晩酌をするんですね。その時は、おちょこは1つ、自分の分があればいいものですけど、ふる里の兄弟や家族の分のおちょこを並べて、それに分けてから飲んでいたんです。ふる里の家族を思い出していたんですね。

 ある時、父の姉の子どもに父が声をかけたようですけど「違う」と言われてしまったそうです。後から聞いたのですが、姉の子どもたちはきれいにしていたので、畑仕事着の汚れたみすぼらしい服を着た人から声をかけられたのが嫌だということで無視されてしまったそうです。それくらい父はなりふりかまわず一生懸命働いていたんですね。父は私には何不自由なく習い事をさせてくれましたし、畑仕事を手伝わせたこともありません。自分1人で頑張ってくれていたんです。本当に辛抱強い人で、12年もの間、胆のう、胆石、胃腸、十二指腸、膀胱などの手術で入退院を繰り返しましたが、つらいとか痛いとか言いませんでした。体は病んでいても心まで病まないようにしていたんだと思います。

働きながら学校へ

 私が17歳の時に、父が定年になりました。まだ妹たちが義務教育真っ最中だったので、引き続き仕事には就いたのですが、慣れない工場勤めで体調を崩し、それで12年間も闘病生活を送ることになるんです。母も働き始めました。私も、本当は学校に行きたかったけど、奨学金をもらいながら通信教育で水戸一高に行くことにしました。父が定年で日本鉱業所を辞めることになったら社宅にいられなくなるので、私は中学を卒業すると日本鉱業所中央病院付属看護婦養成所に入ることになりました。鉱業所付属の看護婦養成所に入って病院に就職することになれば、社宅に残れると思ったからです。それで日本鉱業所の入社試験を受けたんですけど、落ちてしまって。でも、住むところなくなると困るでしょう。私が総務に理由を聞きに行ったところ、「勉強で落ちたんじゃないよ、体じゃないの」と言われました。それでそのまま身体検査をした病院に行ったんです。担当の医師からは「身体検査で悪いところはないよ」と言われ、すぐに会社に交渉してくださいました。それで私は看護婦養成所に入れたんです。

 養成所は地方から来る子たちが多くて、日立からは5人くらいでした。私も寮に入ったんですけど、なじめないんです。みんなは外出の日には友達と遊びに行きましたが、私は実家に戻っていました。だから、友達もできなくってね。私が寮に入ったので、家はいらないだろうと言われたんですけど、交渉して残してもらいました。それも、長屋から庭付き一軒家の社宅に移ることができたんです。私たちの生活を案じて、母の兄が栃木からバイクでよく様子を見に来てくれました。幼いころから、伯父が来てくれるのがとても楽しみだったのを覚えています。私はこうして働きながら、週に一度学校のある水戸に通いました。レポートをまとめて、病院の仕事が終わったら行ってましたね。水戸一高に通っている時、NHKのラジオ番組の人が来て学校代表として番組に出たことがあるんです。それを聞いた職場の人たちが応援してくれるようになって。働きながら「仕事が終わったら学校に行ける。みんなと会える」というのが楽しみでした。自分1人で勉強しているとやっぱり分からないことがたくさん出てくるんです。でも、学校に行けばみんなに会える、相談できる。それが励みになっていたんです。

 水戸一高には、歩く会というのがあるんですよ。私たちは上野から水戸まで、泊まりながら2泊3日歩きました。有志50人くらいで歩いて、伴走してくれる人もいましたね。私たちは、卒業式の前日に歩き出して、卒業式に出ました。約100キロを完歩しました。途中の宿泊先が2階だったんですけど、もう足の裏が痛くて、とても上にあがれないの。水戸に着く時にはあまりに疲れてて、前から来る人を避けられなかったほどですから。でも、あの時一緒に歩いた人は、今でも友達です。

夫との出会い

 看護師として働いて家計を助け、同僚と遊ぶこともなく勉強もしていたので、私は他のことを考える余裕がありませんでした。けれど、卒業と20歳の記念を兼ねて富士山に登ることになりまして、その時に主人と知り合ったんです。主人は静岡県の富士山麓の出身で、富士登山のルートについていろいろとアドバイスしてくれました。主人は、主人の父親がやっていた仕事を手伝うため、20歳の時に日立に来ていたんですね。主人が具合を悪くして入院してた時、担当した同僚を通じて、出会いました。それまでずっと家のため、親のためを考えてきた私でしたが、富士山に登るのは自分のためでした。こんなに楽しいことがあるのかと気づかせてくれたのが、主人だったんです。頑張らないといけないとばかり思っていた私を優しく包み込んでくれたんですね。

 それに、主人の母、横山のお義母さんが、料理や布団縫いなどを教えてくださいました。寮生活をしていたし、余分なことはしてこなかった私は、日常生活に疎かったんです。お義母さんが本当に優しくいろんなことを教えてくれて「今はできなくてもいいんだよ、わしの年代になった時にできればいいんだよ」と言ってくれてね。川島クリニックにいた時、30キロのお赤飯を炊かなくてはいけない時があったんですけど、私がそれを担当したんですね。お赤飯の炊き方はお義母さんに教わっていました。できあがった料理の中で、私のお赤飯が「一番美味しい」と喜んでもらえたのですよ。とても嬉しかったですね。教わったことが実を結んだと感じました。

 私は父が闘病中に主人と結婚して、子どもを3人授かりました。それまでは自分を支えてくれるのが伯父しかいなかったので、主人やお義母さんに出会えてホッとしたんです。

子育ての思い出

 結婚する時に日本鉱業所中央病院は退職しましたが、長男が2歳になる時に、先輩のいる秦病院へ勤めることになりました。ここは地域医療をやっていた病院だったので、これからの子どもを大切にしないといけないと、保育園を併設していたんです。そこに長男を預けて通いました。秦病院には5年間勤めましたが、その間に長女も生まれました。長男の小学校入学に合わせて、滑川本町に家を新築して移りました。次女はそこで生まれたんですよ。その時、これまで子どもを保育園で見てもらっていたので、自分の手で育てたいと思ったんです。学童期は子どもと一緒に過ごしたいと思い、家に入りました。

 それまでずっと働いていたので、新しい生活に慣れなきゃとも思いました。あのころは、子どもに合わせて時間を過ごしました。子どものピアノや剣道の練習に付き添ったり、空いた時間には自分でもお茶やお習字を習ったりしたんです。ボーイスカウトやガールスカウトの活動を通して、地域の人にも子どもを育ててもらいました。手作りのおやつも、子どもたちが家に戻ってくる時間に合わせて作りました。娘も今は親となって、手作りのおやつを作っています。長男のお嫁さんも、自分が育ててもらったように子育てをしてあげてほしいと思います。子どもたちが孫を育てているのを見ると、あのとき私にこうやってほしかったんだと気づきます。でも、私たちはこれがいいと精いっぱい考えてやったからいいと思ってますよ。

 私、子育てで悩んだことはなかったんです。子どもを信じてやっていたから迷わなかった。子どもたちは、反抗期もなかったと思います。「おやじ」とか呼び方が変わる時っていつだろうと思っていたけど、とうとう気づきませんでした。そのまま通り過ぎたのかしらと思いますよ。

 長男が小学校を卒業する時に、校長先生のあいさつの中でうちの子を引き合いに出しましてね。老人ホームのおじいさんの荷物を、うちの長男が持ってあげたようなんです。そうしたらお礼を下さって、ポケットに3000円も入っていたんです。息子は驚いて、「僕はもらえないから」って、老人ホームに返しに行きました。そうしたら、そのおじいさんが小学校にお礼に来たそうなんですよ。そんなふうに、人の気持ちの分かる子になってくれて良かったと思いました。その長男も、医者になって地域医療に進んで開業しました。4年目です。実は、次女が生後5カ月で事故に遭って、長い間、入院や外来通院加療を受けたんですよ。そのことが、長男、長女が医療従事者になる進路につながっていったのかも知れません。

仕事に励んだ日々

 主人は起業して土木建築業に入ったことで忙しくなり、子どもが寝てから帰ってくるようなことが多くなりました。だから、朝だけは子どもと一緒に食事するということを、下の子が大学に入学するまで通しました。下の子が大学に入学し家を出てから、主人が「もういいよな」と言ったんです。それまで、朝、ご飯を皆で一緒に食べるのが当たり前だとしか思ってなかったけど、主人は『一緒にご飯を食べる時間』を作っていたんですね。努力していたんです。本当は、朝起きるのもつらかったんでしょう。子どもたちも、意識していなかったと思います。主人が言わなかったら、気づかなかったでしょうね。

 子育てが一段落したあと、私は川島クリニックへ勤めることになりました。ここでは17年間働きました。ここは、透析専門の病院でした。透析って、人工腎臓を使って血液をきれいにしてからまた体に戻すんです。5時間、ベッドの中で患者さんは動かないで、じっと耐えています。その患者さんたちと関わることで、生き方を学びました。5時間動かない、を繰り返すんですよ。病院では談話会や研究会などもあったので、私たちは看護と勉強会に夢中でした。患者さんがいるから、私たちは勉強させてもらえていたんです。生き方を見せてもらった、いい時期でした。川島クリニックでは、患者さんと一体になり、究極の時間を繰り返します。「遊べ、遊べ、遊べ」と「心身共にリラックスさせる時も必要」「今、できることを今やる」そんなことも学びました。仕事は一生懸命やらせてもらいました。責任の重さというより、私が今、できることを今やらなくちゃという感じで生きてきたんですね。

 平成12年には、それまでの看護師の経験を生かして介護支援専門員になりました。そして、会員登録していたライフケアひたちで『介護支援センターはーとぽっぽ』を5人で立ち上げることになるんです。こちらでは8年間勤務しました。今は週に1回、長男のクリニックで手伝わせてもらっています。私は、家庭だけではなく仕事もできたのが良かったです。家族みんな、自分のことを一生懸命にやる時期、勉強する時期が重なって、それぞれを思いやりながら頑張ってやれたのが良かったのかなと思います。

大切な人たち

 母が80歳になった時に、敷地内に母の家を建てて同居しました。けれども、認知症が始まっていたのが受け入れられず、耐えられなくなって家を出たことがあるんです。みちのく温泉で10日ほどアルバイトしていましたが、子どもに促されて戻りました。主人に「俺が最期まで手伝うから、お前が看てやれ」と言われて、やり直すことができました。母は、子ども、孫、33人がそろった中、私の長男が看取りました。この時のことから病気の人を看る心を学べたと思っています。それがケアマネジャーの仕事を始めるきっかけとなりました。

 私は、気持ちの分かる人たちばかりとお付き合いさせていただきました。中学の時の友達にも、いまだ続いている方がいます。楽しい時もつらい時も、気が付くと一緒にいてくれた人です。滅多に会わないんですよ。お互いに、思い出した時に連絡を取って、近況報告したり困ったことを話しているうちに心が軽くなってね。人に話せないようなことも打ち明けられるんです。それが60年も続いているんだから、ありがたいですよね。主人の友人も力になってくださいました。私たちが子育てに追われ必死になっている時に、「そういう時こそ息抜きが必要」と旅行に誘ってくれたり、長くお世話になりました。私が乳がんで乳房を摘った時には、後輩が「1年頑張って、また来年の誕生日に桜を見よう」と言って、毎年桜の咲く誕生日に花を贈ってくれるんです。それが23年も続いています。私はいい人たちに巡り会えて、こうして生きてこれられたのだと思います。本当に感謝しています。

振り返って

 これ(本誌)がいい区切りになったと思います。今までは一生懸命生きてきて、大変だ、大変だと思っていましたけど、私、今までの写真を見るとみんな笑ってるんですよね。人生は後半が面白いんですよ。これからは、誰にも遠慮がないですもの。これからですよ。これから何ができるか考えていきたいですね。

 私は、いいことだけを考えるようにしています。だって、考えたらそういうふうになっちゃうから。今できることを、一生懸命全力で尽くしてきました。受け止め方は、相手によってさまざまです。けなす人を避け、弱いものいじめする人には立ち向かってきました。本を読み、知識を得、知恵を授かってきたんです。働きながら学んだこと、看護師をして病人を看たこと、それらを生かして介護支援専門員になって、いろいろな人生に接してきたことが、私の力となりました。人と関わったことで、人生を明るく前向きに乗り越えてこれたと思います。白寿の祝いを、夫と共に家族全員と囲むことが今の望みかな。

子どもたち、孫たちへ

 知性、特性を磨き、体を鍛えること、弱い人を思いやり、いたわる優しい心を持つ人間になってほしいです。天災人災、戦争は世界のどこかで今も起きていますが、みんなが明るく当たり前の生活が送れるように願っています。

Family’s Photo

編集後記

横山クニ子様のオリジナル雑誌が完成しました。幼少期の体験やお仕事でのご苦労など、胸に迫るエピソードの数々、心に残っております。仕事や子育てに真摯に向き合われ、いつも人生を楽しもうとなさる生き様に尊敬の思いです。真面目さの中にユーモアも忘れない、クニ子様の素敵なお人柄が随所に感じられる1冊になったかと思います。ご親族みなさまに、笑顔でお手に取っていただければ幸いです。この度はありがとうございました。

「THE横山クニ子」取材担当 コミュニケーター 竹山真奈美

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