インタビュー

神山公秀として生きてきて

平成30年12月発行 / 長野県在住・昭和14年生まれ

神山公秀として生きてきて 地域医療に貢献し続ける

平成29年11月16日。
「THE 神山公秀」創刊号の発行にあたり、長野県伊那市にある彼の自宅を訪ねた。長野県松本市で商家の次男坊として生まれ、いつしか医学を志すようになった公秀氏。勤務医として赴任した伊那の地で人々に求められ、「神山内科医院」を開業。以来40年近くもの間、地域医療に貢献し続けてきた。何事にも真摯に取り組む彼の、魅力的で意欲的な半生に迫る―。

商家の次男として生まれる

 生まれは昭和14年です。松本市内で生まれました。松本城のすぐ近くです。おやじは、自転車や車のタイヤの卸業をやっていました。私は次男坊で、長男の兄が家業を継ぎました。株式会社カミヤマというのですが、今でも松本でやっています。今は兄の息子が社長になって、兄は会長です。

 おやじの先祖は松代藩の下級藩士で、廃藩置県になったときに流れ流れて松本に定住したようです。おやじは男ばかり6人兄弟で、一番下の六郎おじさん以外はみんな車関係の商売をしていたようです。おやじは小学校を出てすぐに商売を始めているので、私たちに対しても「とにかく働け」というタイプの人でしたが、おふくろは教育熱心で、勉強に理解がある人でした。きょうだいは5歳上の兄と、妹が3人います。妹は2つ下、4つ下、あとは7つ下かな。松本には歴史のある開智小学校という学校があって、そこをおやじも出ているし、私のきょうだいも全員出ています。校舎は明治の建物で、国の文化財になって保存されている高楼があります。

 私の家には、私と同年代くらいの小僧さんが6人ほどいたのですが、私はその小僧さんたちと同じ部屋に寝泊まりしていたんです。何と言うか、丁稚奉公のような団体生活でした。商家の子どもというのは、厳しいんですよ。小僧さんは働いているから、子どもより偉いんです。中学、高校と勉強しなくちゃいけないので宿題なんか隅でやっていると、小僧さんが怒るわけ。「まぶしいから早く電気消せ、眠れねえ」って。家業は、私もよく手伝いましたよ。配達があるんです、朝出て夕方帰るくらいの距離をね。大町とか、50キロくらいだったかな。当時はバイクも何もありませんから、自転車ですよ。運搬車という自転車でリヤカーをつないで、タイヤとか重たい荷物を満載して、立ちこぎで配達してました。

野鳥に夢中になった中学時代

 開智小学校から、地元の丸の内中学校に上がりました。松本城の隣に博物館があるんですが、その前身の建物が丸の内中学校だったんです。だから、中1の1年間は、お城の中で勉強したんですよ。中2のときに、自分の机やいすを背負って引っ越した覚えがあります。郊外の城山のふもとに移転したんですね。

 それから、野鳥を「鳥もち」で捕ることを大人から教わって、病みつきになりました。カラの仲間ならヤマガラ、シジュウカラ、ヒガラ、コガラ、オオガラと5種類くらいあって、メジロは1種類しかないんですけど、そういう野鳥が学校の裏山にいっぱいいるんです。朝の暗いうちから仲間と呼び合って、学校の支度と「もち」とおとりの鳥かごを持って行くんです。学校の前を素通りして、裏山に行って仕掛けてね。野鳥は朝起きると水飲みに下りてくるんです。そのときに仲間がこっちで「ピーピー」と鳴くと、そこに下りてくるんですね。それでおとりっていうんですけど。鳥かごのところの木の枝の先にもちをつけると、そこに止まるんです。

 野鳥好きが高じて、学校の担任が心配して家庭訪問に来たことがあります。「野鳥捕って飼っているみたいだけど、勉強しろ」って。そのころ、自分で作った畳1畳くらいの鳥かごに、木の枝を持ってきてお互いにいじめない鳥を何種類か共存させて飼っていたんですね。先生に「もう、小鳥飼うな」と言われて「全然飼っていません」と言ったとたんに、隣の部屋から「ピーピー」聞こえてきてね。先生も「オーオー」となってね(笑)。それくらい好きでした。日本野鳥の会にも50年来入っていますよ。

松本深志高校へ進学

 高校は、県立松本深志高校に行きました。受験勉強はさほどしなかったと思います。まあ、小鳥飼うのをちょっと遠慮したくらいですね。田舎の場合は「お前はこの高校を受けろ」って、成績順で先生が割り振っていたんです。勉強はできた方なんじゃないかな。おふくろが熱心でしたからね。夏休みに家にいると小僧さんと一緒に働かされるので、「勉強したい」と私が言うと、おふくろが大町のお寺さんに預けてくれて、そこに寝泊まりして勉強したこともあります。確か、ひと夏かふた夏です。

 近所に中学の英語の先生がいて、おふくろが頼んで小学校のころから英語を教わりに行っていたんですよ。中学に入学したときには中学1年生用の教科書が終わっていましたから。高校でも、英語は得意でしたね。高校では、英研と映研に入っていました。英会話の勉強は、外国の映画を見るのが一番ということでね。

 私は、物心つく前からちょっと足をけがしていて、「お医者さんになりたい」と小学校のころに言っていたそうです。けがした子どもを見ると、人ごとではない感じもしていました。次男坊の気軽さからか、高校のころは「医者になろうかな」という感じで勉強していました。

医学部進学

 医学部を目指して受験勉強をしていましたが、家が医学部の学費を出してくれる雰囲気じゃなかったんです。公立で、旧帝大のようなところは難しすぎるということで、2期校専門でした。あちこち受験旅行が好きで、山口医大や福島医大も受けましたよ。

 ちょっと回り道はしましたね。私立なんですが、武蔵大学の医学進学課程というのがあって、教養の2年間だけなのですが、成績がいいと医大に編入できるんです。受かったのでそこに入ってみたりしたのですが、結局やめて、6年制の医学部に入り直しました。信州大学ではなく岐阜大学に入ったのは、松本を離れて一人暮らしがしたかったからです。おやじは勉強には関心がなかったのに、私が岐阜大学の医学部に入ったときには、どういうわけか入学式に来てくれました。下宿に机だけ買ってくれたのを覚えています。

 医学部時代は、のんびりしていました。田舎の公立大学の医学部に行くなんていうのは貧乏人が多かったし、他の大学を出て入り直す人もいっぱいいましたから、私より年上の人も何人かいました。ふだんは、当直の手伝いをしたり、手術のこう引きの仕事をしていました。こう引きは力もいるので、体格の良さを買われていましたよ。アルバイトになるし、見学になるし、こんないいことはないと、入り浸っていました。

 学部の時代は楽しかったですね。ただ、専門の1年のときにおやじが亡くなったんです。ちょうど解剖実習の時期で、解剖用の死体を与えられていましたが、おやじとかぶってなんとも憂鬱で、解剖が嫌になって休んだのを思い出しますね。

学生結婚

 家内は遠い親戚なんです。〝またいとこ〟だったかな。私が武蔵大学に通うため、東京にいたときに会いました。東京におばさんがいて、そこにご飯をたかりに行ったときです。最初の彼女の印象は、良かったですよ。かわいかったです。お互い学生で、彼女もそのときは東京にいたんです。家内は東大の看護学校に行って、その後、馬事公苑の保健師の学校に行っていたんですね。年は家内が2つ下です。石神井公園で家内の写真を撮った覚えがありますね。

 周りに勧められて、学部の5年生のときに結婚しました。学生結婚ですね。結婚式のとき、お金持ちの台湾人の同級生がホンダのS600を貸してくれたんですよ。赤いスポーツカーです。それに乗って結婚式からそのまま新婚旅行に行きました。缶カラを車の後ろにつけられたので、「行ってらっしゃい」と見送られて、みんなから見えなくなったところで恥ずかしいから慌てて外しましたよ。名古屋の方に出て、神戸、姫路城と回りましたね。

 学部を卒業するときに、長男が生まれました。卒業式に、生後数カ月の赤ん坊を家内がおんぶして出席したんです。父兄としてね。卒業式に子連れで出たのは、岐阜大学始まって以来だと言われました(笑)。

 当時、家内は大垣市の保健所に保健師として勤めていました。公務員ですから、公務員宿舎があって、家内の連れということでその公務員宿舎に一時住んでいたんです。「お前、奥さんが保健師だから、卒業したらぜひこっちに残れ」と言われていました。「考えておきます」とか言っていたんですが、地元に帰りたくなって、結局松本に帰ってきてしまいました。

学生運動が嫌で船医になる

 松本に帰ってきたものの、1年間は入局することができませんでした。当時は学生運動が盛んで、樺美智子さんが警察に殴り殺されたころです。青年医師連合運動が盛んで、学生運動をさせられていました。それが嫌で嫌で、一計を案じて、「船の医者になろう」ということになりました。段取りは私が全部やってあげて、まず独身の友人を日本郵船の貨物船に送り込みました。その後、私も行きたくなって、家内に相談しました。お金もほしかったんです。昼間は学生運動をやらされるので、夜の当直のバイトしかなくてね。船医になると、その当時で30万くらいの給料がもらえましたから。

 手続きはすでにベテランだったので、日本郵船に面接に行くと案の定合格。私は地中海・黒海航路という4カ月の航路を選びました。神戸から出港して北海道に行って、それから太平洋に出て。パナマ運河を渡って、大西洋に入って地中海、リビア、トリポリ、エジプト、アルジェリア、黒海に入ってルーマニア、ブルガリア、ロシア、あとギリシャ。転々と、いろいろなところに行きました。24時間、船のどこかでマージャンをやっていたので、マージャンの腕を磨くこともできました。税金が安いので、お酒もいろいろなものが飲めましたし、ギリシャのピレウスという港に1週間いたときはアテネの廃虚をずっと見たりすることもできました。私はすっかり病みつきになって、ロンドン・パリコースやシカゴ周りアメリカコースにも心引かれていたのですが、その後入局することになり、泣く泣くあきらめたんです。

働き詰めの研修医・勤務医時代

 信州大学で入局すると、忙しいばっかりで、ろくに家にも帰れない生活でした。無休医局員というやつでしたね。当時助手の給料が5万円くらいだったので、夜にアルバイトをしないとやっていけませんでした。日曜日は、大手を振ってアルバイトに行ける稼ぎ時でね。岐阜県の土岐市にある聖十字病院という精神科の病院の当直の仕事に、ほとんど毎週行っていました。

 このころは、遊ぶ暇はなかったですね。昼間は大学、夜は当直。よく働いていました。中学ぐらいにうちの手伝いでよく働いたので、肉体的に強くなったのはよかったんですね。自分の具合が悪くて休んだことは今まで一度もありませんから。

 そうこうするうちに、伊那中央病院に派遣されました。常勤の先生がくしくも2人とも体を壊してしまったので、お手伝いに行ったんです。そのうち、辞めて開業した先生がいて、勤務医として常勤になりました。

伊那で「神山内科医院」開業

 伊那中央病院に来たときも、いずれは松本で開業するつもりだったんです。自分で、自分の思う通りの病院経営をしたいという思いがありました。中央病院は土曜日の午後から休診なので松本に帰るという、土帰月来の生活でね。最初は、伊那は腰掛けのつもりでした。でも、伊那の医師会の先生たちと仲良くなって。伊那市民美術会に誘ってくれた絵の先生でもある高橋先生もそうですが、親しい仲間の先生たちが、どうせ開業するなら伊那でと勧めてくれました。そして、銀行も紹介、土地も紹介してくれたんです。市民病院で見ていた患者さんを見てあげることができるというのも決め手になりました。

 資金を作るために、松本の住んでいた家も売りました。この病院の建物は、若い設計士さんが設計したんです。38年前ですが、モダンな雰囲気ですよね。病院の場所は、伊那市としては郊外です。今はスーパーマーケットのアピタができて住みよくなり、市街地化してきましたが、昔は市街地を外れたところだったんです。でも、患者さんはたくさん来てくれました。市民病院の患者さんも待ちきれずに来てくれました。カルテナンバー一番の人は、今も家族みんなで来てくれています。伊那バスの本社が近かったので、高遠や長谷からもバスで患者さんが来てくれました。

 患者さんは、多いときで1日200人来ました。座るところがなくて、みんなで立って待ってくれて。番号札を取る人が朝並ぶので、だんだん早く開けるようになって、最高4時半に開けたことがあります。30分ずつ早く開けていたら、そうなったんですよ。今は予約の機械を入れたので大丈夫ですが、その前までは畑に行く前に朝早く順番を取る人がいたくらいです。開業医の1日の患者数は、大体50人が普通です。それが150人以上来ていたのですから、職員は立ってご飯を食べる感じでした。そんなふうに働き続けた結果、納税所得額が長野県で4番、5番になって、高額所得者として税務署に貼り出されたこともあります。

 開業して10年過ぎたあたりで、働きすぎで疲れてきたので、週休2日制にしました。日曜日は当番医などがあって、休めないこともあったんです。だからリフレッシュするために、木曜日に休むことにしました。土曜日は、今でも午後も診察をしていますよ。「週休2日制」は今では当たり前ですが、当時はその名前すらなかったんです。うちは率先して導入しましたね。

 開業して38年。今では周りに4、5軒新規の開業医ができています。開業したてのころは、地域の患者さんを一手に引き受けていたので大変でしたが、今はちょっと楽になったと思います。

後継者にも恵まれ、楽しい人生

 文章を書くのは好きな方なのですが、長野日報で「ダ・ヴィンチの謎の紀行」という連載記事を書いたことがあります。きっかけは、平成18年の上伊那医師会会報30周年記念誌に寄稿した文章です。ルーブルで見たダ・ヴィンチのモナリザを題材に、医学的見地からその秘密に迫るという切り口で書いた文章が面白いので、ぜひ連載として書いてくれと頼まれました。結構長い連載だったので、大変でした。ダ・ヴィンチの本はほとんど読みましたね。

 県の医師会のマージャン大会では5回優勝、芸術祭でも油絵を出展して、会報にはよく名前が載っています。頼まれると嫌と言えない性格なので、いろんな役をやらされました。医師会会長も最初は推薦を辞退したのですが、平成18年から会長を務めました。伊那市民美術会も高橋先生のあとを継いで会長を務めましたし、ロータリークラブでも、奨学金をもらっていたのでお役目を担いました。向山公人という県議の後援会会長も20年来引き受けています。

 開業医として、理想とする医療ができたと思っています。娘は結婚して歯科医をもうやっていないけれど、3人が医学の道に進んだのはうれしかったです。

 3年前の家族会議で私が身を引きたいと言ったときに、晃男が話を進行してくれて、開業志向がないという哲男に、育男が「兄ちゃんが取らないなら跡を継いでもいいよ」と言ってくれました。それを哲男と哲男の嫁も納得し、仁美と晃男が承認してくれました。育男は呼吸器外科に行ったので、内科は嫌だろうと思っていたのですが、肺移植のメッカであるウィーンでの研究を最後の仕事にして、来年の春に帰ってきます。伊那の市民病院でも呼吸器外科・内科を手伝ってくれないかと言われています。

 やってくれると本人が言ってくれた。もし言ってくれないなら、医院を閉じなくてはいけなかった。そのエネルギーは大変です。法人を閉じるのも大変ですし、何よりも患者さんをどうするか。他のところに紹介しないといけない。後継者ができたのは、本当にありがたいことです。

 人生振り返って、楽しい、いい人生だったと思いますよ。働き続けという感じでもなく、趣味も多かったし。家内も自分も丈夫で、1日たりとも病気で休んだことがありません。子どもたちもいい大人になって、一生懸命それぞれの道で頑張ってくれています。

Family’s Photo

神山公秀として生きてきて家族写真

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編集後記

神山公秀さんのオリジナルの雑誌が完成しました。いつも快活にインタビューにお応えいただく公秀さんにたくさん元気をいただきました。
「神山内科医院」ではピークの時には1日200人の患者さんを診察していたというお話が印象的でした。それだけの患者さんを一日で診ることは本当に大変なことだと思います。お一人お一人に心ある診察をされたかららこそ、患者さんが信頼して「神山内科医院」にいらっしゃったのではないでしょうか。
素晴らしいお人柄と地域医療へ情熱、そして油絵、文筆活動など、多方面に発揮されるマルチな才能…。この雑誌を通じてそんな魅力的な神山公秀さんワールドを感じていただければ幸いです。ありがとうございました。

「神山公秀として生きてきて」取材担当 コミュニケーター 遠藤紀子

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