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THE小野キミヱ

令和4年3月発行 / 東京都在住・昭和12年生まれ

普通に暮らせ、健康であれば、それが一番

小野キミヱとして生きてきて

令和3年12月27日。
「THE小野キミヱ」創刊号発行にあたり、彼女が住む東京都の家を訪ねた。 福岡県田川郡に生まれ、6人きょうだいの長女として育ったキミヱさん。 高校卒業後は編み物学校に通い、27歳のときに上京して運送会社に就職。 結婚後は保育士として働きながら2人の子どもたちを育て上げた。 家族、仕事、子育て…2時間に及ぶインタビューから彼女の半生に迫る―。

  PROFILE●小野キミヱ
  生まれ年:昭和12年
  趣味:花を育てること
  好きな食べ物:好き嫌いなし なんでも食べてみる
  尊敬する人:ヘレンケラー
  座右の銘:食べ終わったら歯を磨く

 


生まれたころ

 昭和12年、福岡の田川で生まれました。8人きょうだいで、上2人は小さいときに亡くなってしまったので、実質的には2番目の長女になります。

 私は生まれつき両足脱臼しているんですけど、産婆さんがそれに気付かなかったみたいなんですよね。歩き出すようになってから気付いたそうです。親は脱臼してるなんて思っていないから、歩き出したときに「あれ、おかしいな」って気付いたようです。

両親について

 母は熊本の猪飼という所の出身です。宮本武蔵が最後にいた所で、私の祖父がそこの出身なんです。母方の家系は参勤交代で江戸詰め藩士でした。大政奉還で祖母は離縁して熊本に戻ってきたそうです。やっぱり奉還になると追われるんですね。だから離縁して祖母だけ帰ってきたみたいです。猪飼の本家には宮本武蔵が描いた龍の絵が保管してあるんです。祖父母がそこに仕えていたから、最後に預かったんでしょうね。

 母は朝から晩まで働いてました。朝4時に起きて、家族にご飯食べさせて、お弁当作って。よく働く母でしたよ。自分が先頭に立って仕事していましたからね。母とはあんまり話す時間がなかったです。

 父は徳島出身です。実家は大歩危・小歩危の近くだから、祖先は恐らく平家だと思います。山奥で里からは絶対に見えない位置にあり、里とつながる橋はいつでも切って落とせるようになっていましたから、いかに源氏が執拗に追ってきたかということがわかります。父は次男ですから、今で言えば出稼ぎのような形で福岡に出てきたんでしょうね。明治鉱業の寮の管理をしていました。人を管理する仕事をしていたこともあって、普段は厳しい人でしたよ。いけないことをしたときは怒られましたね。上に逆らうのは怒らないけど、下をいじめるとすごく怒るんです。父の職場は基幹産業でしたから、戦争には召集されませんでした。

戦争のころ

 父の仕事の関係で、私たち家族も会社の寮で暮らしていました。その寮には独身男性が住んでいて、多いときは8畳くらいの1部屋に5人くらい住んでいたんじゃないかと思います。会社が基幹産業だから、お米なんかが送られてくるんですね。だから、戦時中も食糧危機に遭うことはなく、不自由はしませんでした。みんなが食べられないときに私たちは白米を食べられたから、戦時中なのに申し訳ないと思っていましたね。

 もし九州も侵略されたら家族で自害することになっていました。あのころは、その感覚が普通だったんです。父の会社に深い穴があったんですけど、家族でそこに飛び込むって決めていました。母が「紐を結んで行くから長女のあなたも一緒に飛び込むのよ。ただ、この穴に飛び込むことは近所の人に言っちゃだめよ」って言われてました。「みんなが殺到して穴が浅くなると死に損なうから」って。うちがその穴に一番近い所に住んでいましたけど、みんなあの穴に飛び込むって決めていたんじゃないかしら。嫌とか苦しいとかじゃなく、そうあるべきっていう義務的な感覚でしたね。あの時代はそれが普通で、それに従う感じです。今思えば「逃げて生き恥をかくな」っていう教育をされてたんですね。嫌だって言うことはありませんでした。

終戦を迎えて

 私が小学2年生のころ終戦になりました。戦争が終わったときのことはよく覚えてます。「もう逃げなくてもいいんだ」と思いました。戦争中は、朝学校に行っても空襲警報が出ると家に帰らなきゃいけなかったんですよ。家から学校まで4キロありましたから、行って帰るだけで8キロ歩かなきゃいけないんです。遠いんですよ。疲れてくたくたになってました。

 あとから知った話ですが、長崎の原爆は、ほんとは八幡製鉄所のあたりに投下されるはずだったんですよね。あの日は曇っているような天気だったのを覚えていますから、晴れている長崎に向かったと。もし八幡製鉄所だったら、一山むこうなので、恐らく私たちは被ばくしてました。だから、長崎の人にはとても申し訳ないと、今でもそういう気持ちがあります。

子どものころ

 いつも黙っている、おとなしい子どもだったと思います。おはじきとか縄跳びをして遊んでいましたね。当時の縄は藁で編んだものだったんですよ。あとはかくれんぼもしましたね。紙も鉛筆も何もないから勉強しなくてよくて、楽でしたね。

 子どものころ、お父さんが川でウナギを獲ってくれて、それを佃煮にしておやつ代わりに食べてたのを覚えています。物がない時代でしたからね。ウナギをさばいて焼いておやつ代わりに置いてくれてるんですよ。上京したときに、ウナギが高級品だと知ってびっくりしました。田舎ではただで食べていましたから(笑)。

 私が中学2年生のころ、父が45歳で亡くなりました。会社の寮はすぐに引き払うことになって、社宅に引っ越しました。その後、母は久長さんと結婚することになったんです。久長さんは父の兄の息子で、母にとっては甥っ子にあたります。18のときに兵隊として満州へ行って、シベリアに抑留されていたんです。それで、生きているかどうかもわからなかったんですけど、昭和24年ごろ、最後の引き揚げ船で帰ってきたんです。当時、引き揚げ船で帰ってくる兵隊さんは、その次の船で誰が帰ってくるかを教えてくれるんですよ。先に帰ってきた兵隊さんが家まで来てくれて、「最後の引き揚げ船で帰ってきますよ」って教えてくれたんです。おかげで久長さんが生きていたんだってわかりました。

高校入学

 中学卒業後、福岡県立筑豊高校に入学しました。母からは、「学校だけは行きなさい」って言われてました。「優秀な成績をとらなくてもいいから、とにかく卒業だけはしてちょうだい」って。やっぱり自分の経験があったからじゃないでしょうか。母は小学校4年から働いていましたし、紡績関係の仕事で都会に行っていましたから、学歴をすごく気にする人だったんですよ。

 田舎だから女の子はクラスに1割くらいしかいませんでした。3歳下の妹が高校に行くころには半分くらいになっていましたけどね。当時は頭が良くても家庭の事情で学校に行けない人もいましたから、「私は行けないのに、なんであんたが行くの?」って言われました。私は頭が良くて高校へ行ったわけじゃないから、行けない人たちは怒りますよね。気の毒でした。

東京へ

 上京したのは27歳のころでした。ちょうどオリンピックの年の秋です。田舎だと仕事がないから上京したんです。将来がないですからね。炭鉱が閉じてからは、みんな仕事がなくなって出て行きました。家族も私が上京した4、5年後に東京に出てきたんです。私は東京に来る前は編み物の先生をしていました。学校は商業科だったから編み物は関係ないんですけど、卒業して編み物学校に通って先生の資格を取ったんです。そのころは編み物が流行してたんですよ。

 私が東京を選んだのは、兄が東京にいたからっていうのもありましたね。兄は生命保険会社で支社長をしていました。あのころは人材がいなくて、すぐ支社長にさせられたんですって。優秀な人はみんな兵隊さんで亡くなっているでしょう。兄は昭和6年生まれだから兵隊を逃れたんです。もし1年早く生まれていたら兵隊に行ってましたからね。

 東京は見るもの全部楽しかったですね。冬でもプールに入れるし、スキー場にも行けるじゃないですか。田舎だとそういうことは絶対にできないから。まずプールがないしね。何でも珍しいし、うれしかったです。東京へ来て驚いたのは、水道代がかかるっていうことでしたね。「お水にお金がかかるの?」って言っちゃいました(笑)。田舎では水道代がかかりませんでしたから。あとは、上野駅のうどんの汁に色がついててびっくりしました。九州の出汁は透き通っているんです。

運送会社に就職

 仕事を決めてから上京したんですけど、結局経理として会社に入りました。最初は会社の寮に住んでいましたね。運送会社だから、とにかく朝が早いんですよ。普通の会社より1時間前倒しで、始業は8時からです。夕方の4時には終わるので、その後に編み物の先生としてアルバイトへ行ってました。化粧品メーカーなどの会社の人たちは、福利厚生で編み物を習えたんですよ。ちょうど仕事が終わった後に行けたんで、そこに教えに行っていました。そっちの方が給料も良かったんです(笑)。本給の半分くらいもらえましたから、せっせと行ってましたね。

なれそめ

 私が入社して半年後に主人が入社してきました。会社では後輩です。東京の人だからズバズバものを言うなと思いました。だから、ちょっと図々しいなと思っていましたよ(笑)。田舎の人は奥ゆかしいというか、そこまで言わないですからね。でも、今考えたらあれが本当なんですけどね。思ったことは言うってことが大事なんだと思いますよ。

 結婚してすぐに流山に引っ越しました。29歳のころだったと思います。その2年後の昭和43年に長女を出産して、46年に次女が生まれました。流山には10年いて、その後柏に転居しました。

病院での勤務

 昭和49年から自宅のそばにある病院の保育課で働き始めました。まずは保育助手として勤務して、4年後に資格を取って保育士になりました。保育士の実技試験にはピアノがあるんですけど、それがなかなかうまくできなくてね(笑)。だから、娘と一緒にピアノを習い始めました。子どもは覚えが早いんですよ。でも、私は手が動かなくて、ちっともうまくならないんです。学科試験は受かっててもピアノが大変で、受かるまでに3年かかりました。最後はおまけしてもらって、やっと受かったんです。

 看護師さんたちが当直のときは、子どもたちを預かるので、保育士も当直があるんですよ。そのときは保育士の子どもたちも一緒に泊まるんです。朝もご飯を食べさせてもらって、そこから学校へ行っていましたよ。

 その病院はけっこう大きな精神科の病院で、当時は500人くらい働いていたんじゃないでしょうか。一番多いときで700人くらいいたんですよ。病院の中で運動会もあって、家族が焼き鳥屋さんとか綿菓子屋さんをやってくれたりしてね。病院も家族には手厚かったですし、福利厚生もしっかりしていて、年に2回社員旅行にも連れてっ行ってくれるんです。香港やハワイにも行きました。いい職場でしたよ。私は仕事をしながら自分の子どもと一緒にいられることが良かったです。一番いい場所だったと思いますよ。定年になるまでずっといました。

子育てについて

 自分の子育てのときは初めてだし、夢中で目いっぱいだったから、よくわからないですよね。やりたい放題やっていたんじゃないでしょうか。気をつけていたことは、「健康」だけですね。他にはありません。とにかく健康が一番大事ですから。

 長女の子育てについては、保育士として助言することもありました。長女は子どもが泣けばすぐに母乳をあげていたんですよ。それも1時間近くしゃぶらせているって聞いたから、「時間を決めて子どもの鼻をつまむんだよ」って教えたりしましたね。そうするとパッと口が開くから飲むのをやめさせられるんですよ。そういうことってあんまり教わらないものなんですよね。

 孫のときは保育もやった後だったし、私も余裕がありましたからね。1人目の孫はおとなしかったし、食べ物を与えておけば静かだったんですよ。保育園のころは泣き虫でしたね。他の子は保育園に着くとすぐに遊び始めるんだけど、孫は離れるのが嫌で、しばらく泣いていました。2人目の孫は泣かなかったですね。何かあっても近くに兄ちゃんがいるっていうのは、やっぱり違いますよね。孫たちにも健康でいてほしいと思いますね。健康が一番です。

孫たちとの思い出

 孫が小さいころはよくベビーカーで巣鴨に連れて行きましたね。年寄りが子どもを連れていると、みんな触りに来るんですよ。年配の方たちは触りたいんですね。年寄りが赤ちゃんを連れていて珍しいからって、NHKの取材を受けたこともありました。

 今は自由に過ごせて楽ですよ。やりたい放題です。今は孫たちも大きくなったから、夫婦2人で自由に過ごしています。

趣味について

 花が好きなんです。今は下の庭もすっかり草に負けちゃってますけどね。花を育てるとお花友達ができて、交換したりするんですよ。ここに来てからは蘭もやっていましたね。教えてくれる人がいたんですけど、蘭は難しくて枯らしちゃうんです。蘭は買った方がいいですね。

 編み物もやっていましたよ。昔は既製品がないから、必要に応じて洋服を作っていましたね。ほかには油絵を習っていました。保育の仕事で必要なんです。20年くらいやっていたのかな。そのわりには上手にならないんです。油絵は奥が深いですね。明るい色を出すのが難しいんです。結局最後は先生が手直しするんですよ(笑)。

振り返って

 普通だからいいんじゃないでしょうか。お金持ちにならなくてもいいですよね。子どもたちも孫も健康でいられるなら、何も言うことはありません。あとは自分でやっていけばいいですよ。私はすごく健康なわけじゃないけど、病気はしていませんから。それが一番いいことです。

Family’s Photo

ご家族メッセージ

定年まで約30年間よく働き、私たち姉妹を育ててくれました。口癖は「女は資格を取りなさい」。お陰で私は公務員、泉は看護師になり、長く働けています。 退職後も保育の経験を活かし、特に障害のある子供の一時預かり(ファミリーサポート)を率先して行い、孫が生まれた後は「あなたは働きに行きなさい」と母親を働きに出し、孫の面倒をみてくれました。長い間ありがとうございました。これからは少しゆっくりして下さい。

愛子 泉より

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