一歩ずつ行けば何かが見えてくる
三浦恵美子として生きてきて
「THE三浦恵美子」創刊号の発行にあたり、彼女のもとを訪ねた。東京の築地で生まれ、大所帯の中で家族にかわいがられて育ったという恵美子さん。短大を卒業後、伊藤忠商事に就職。そこでご主人と出会い、結婚。3人の子宝に恵まれ、妻として、母として、家族のために生きてきた。「いろいろなことを経験してきた人生です」と語る、彼女の半生に今、迫る―。
生い立ち
昭和二十三年に生まれ、中央区小田原町、今でいう、中央区築地に住んでいました。波除神社がある、築地場外市場の傍が地元なんですよ。
魚市場が日本橋から小田原町に移転して、曾祖母、祖父祖母、父母、父の兄弟、叔父が二人、叔母、さらに、若い衆が六、七人もいる大所帯でした。実家は江戸時代から続いている魚屋で、父の代で7代目です。仲卸しをやっていて、屋号は小川仙と言います。
父は考え方も、やることもとにかくまじめでした。母は、お店に男衆が沢山いて、女中やねえやと家事をしていました。母には沢山の才能がありましたね。何をしていたか定かではないのですが、私が色々なことに興味があるのは母がきっかけをくれたからです。出来る事があったら、何でもやりなさいって言ってくれていました。
幼稚園のときは、ねえやが自転車で送迎をしてくれて、雨が降ると祖母が私をおぶって、ねえやが傘を差して送ってくれました。叔父や叔母が私を可愛いがると祖父祖母は機嫌がいいんです。祖父が私を連れて回って、私が可愛いって褒められると嬉しそうにしてたと聞いたことがあります。
学校生活
築地小学校は本願寺の前にありました。家から十分くらいの距離です。お友達曰く、私は、ぼーっとして目立たない子だったそうです。担任の松浦先生は昔、母の同級生だったので親切にしてくれたと思います。進路などを先生や母と相談してね。五、六年のときは、大塚予備校の試験を毎週受けに行っていました。
男の子と女の子が何人か集まると、築地本願寺やかちどき橋の鉄柵に登って遊びましたね。昔はうるさくなかったので大人たちも「気をつけろよ」ぐらいな感じでした。
中学校は山脇学園です。都電で国会議事堂の前を通って赤坂見附駅で降りて、家から三十分かけて行っていました。
一番印象に残ってるのは、安保のデモの時ですね。三宅坂で電車が動かなくなって、なんだかよく分からないまま、そのうち電車が動き出して安心した覚えがあります。
中、高とエスカレーター式で進学できたので中学の時、勉強はあまりしませんでした。高校二、三年の時の担任の先生が世界史を教えていたんですけど、すごく気が合って、それから興味を持って本を読むようになりました。理科が有機化学になったら面白くなって。理科の女性の先生も大好きで、やる気になって、おかげで成績も上がりましたね。
今になって残念に思うのが、もっと中学の時からちゃんと勉強しておけば四年制大学に行って、違う人生があったかなってことですね。高校の三年間では追いつかなかったです。それに中学のとき甲状腺の病気、バセドウ病になって、運動があまりできなかったんです。テニス部はすぐにやめました。茶道部、華道部にはお菓子目当てで入ってました。昔からある学校なので、立ち振る舞いや、琴の授業もあったんですよ。
中一から高三まで、毎年潮干狩りのイベントがあって、観光バスを三十台位並べて行ってました。運動会も派手でしたよ。なぜか皇居警察のブラスバンドの演奏がありました。白い服に金モールをつけた人が、金管楽器を演奏してのパレードは凄かったですね。今、派手になってるのはこのころの経験が影響してるかも。
短大時代
短大では食物科に進んだのですが、それにはきっかけがあるんです。中学一年の時に、父、母、弟、私の四人だけで玉川学園に住んでいたのです。ある時、母が草刈りの最中に崖から落ちて二カ月も入院したんですよ。今までは母が料理を全部作っていてくれたので、その時、初めてお台所に立ちました。退院してからも料理を教えて貰っているうちに、食べるものに興味を持つようになったんです。実家が魚屋なので、魚を料理していると、周りから手も口も出てきて、先生がいっぱいいるようなもんなんです。それに、実習も大好きだったので、食物科を選びました。食物科での実習はとっても楽しかったですね。それに卒業すると栄養士の資格がもらえるんです。就職するときは縁故だったので、資格とは関係ないところに行きましたけどね。
就職
昭和四十三年に、伊藤忠商事に入りました。祖母の従弟の紹介でした。航空機部といって、今はなくなってしまった部署ですけどね。
私はロールスロイス社製の部品やエンジンを輸入する仕事をして、日本初の国産旅客機YS―11の製造に携わっていました。私は一般職だったので、男性をサポートする仕事ですね。唯、その当時恵まれていたのは、サポートでありながら、全日空や東亜国内航空、三菱重工の方々と直接仕事が出来たことです。大きい仕事はボスがやるんですけど、実務はさせてもらっていました。英語がやはり苦手だったので、それは苦労しましたけどね。
入社してすぐに、ダンスパーティーが有ったのにはびっくりしました。女子校出身で、ダンスの経験もなかったので、部長さんや副部長さんが教えてくれました。魚屋の娘でそういう世界を知らなかったんですよ。びっくりしましたね。
なれそめ
主人とは、築地の駅から日比谷線に乗って会社に行くんですが、彼も築地から乗るので待ち伏せしていて。いつもあの人いるなって思っていました。ただ、乗車口が違うので電車の中で話すことはなかったですね。彼は出向で、伊藤忠に来ていて、大きくて目立つから知ってはいたんです。
初めて話したきっかけは、「今度、飛行機に乗せてあげるよ。弟も連れてきていいよ」って言われたときですかね。調布にある飛行場から、小型の飛行機で家の上を通ってくれました。だから初デートは飛行機ですね。
それからオペラが見たいんだけどなんて言うと、オペラの切符が来たりとか。あとで聞いたら自分の親から借金をしてチケットを買ってくれていたんですよ(笑)。知り合ってから二年くらいたった、昭和四十七年に結婚しました。伊藤忠の男性は優等生ばかりなんですが、あの人は少し違って、面白かったんですね。結婚式は、東条会館に実家が魚を納品していたので、そこで挙げました。
結婚当時、彼は全日空商事に勤めていて、アメリカに駐在してる人が帰ってきたら次は俺の番なんだとか言ってたんです。私も外国で暮らしたかったから、結婚したのに、結局アメリカに行く話はなくなってしまって。だまされましたね(笑)。
子どもたちのこと

友起子が生まれたのは新大橋に居た頃です。名前は主人がつけました。友達をたくさん掘り起こすようにという意味ですね。頭もよく感受性も強いですね。
史雄は名前は歴史に名を残すようにという意味が込められてます。史雄は用心深いとこもあって、まっすぐな道をジグザグに歩く子。うちの前が公園なんですけど、階段を上らず崖を登っていくような活発な子でした。
そして民雄は民衆のためになるようにという意味ですね。民雄の出産のときは、主人が休みで長女と長男を連れて遊びに行っていたんです。陣痛かなと思って、馬堀海岸の駅前に産婦人科に行ったらすぐに入院することになって生まれました。連絡する暇もないし、携帯もない時代ですから。次男は、上の2人の言うことをよく聞いてましたね。中学受験は、塾をずる休みして、結局やめてしまったこともありましたけど。
子どもが沢山いるってことは、時間がすぐたってしまう感じでした。3人仲が良くて、それぞれのお友達がしょっちゅう家に来てて、人がよく集まる家でしたね。
私は出掛けるのが好きでした。雨の日は私が車で近所の子を十人位乗せて学校や駅に送って行っていました。車で行けるとこは皆乗せて行っていました。
外国が大好きで、子どもたちとアメリカや英国に行ったりもしましたね。小学生くらいのときは、夫も一緒に行ってました。中学生くらいになると、主人は忙しくなってたので、私が三人を連れて何処かへ行ってましたよ。学校をずる休みして筑波のエキスポに行って、主人のコネを使って、横入りしたりしていました(笑)。ツアーで外国の大きな町に行くと、主人の会社の人が来てくれていて、食事に連れて行ってくれたりしました。それは主人を褒めてあげないとね。すごいな、お父さんって。
主人はただ、威張っているなって感じで、仕事もそんなには大変そうでもなく、楽しんでるみたいでしたね。子育ては私にお任せでした。私はいい大学、いい会社に就職してほしいと思ってましたが、主人は、好きなことをやらせれば、という感じでした。
料理、コンパスの会
平成二年にクリエイト久松に入り、お料理のコンサルタントの勉強をさせてもらいました。
主人の周りには人が集まるんです。奥さんが作った料理をみんなで食べようじゃないかということで、「コンパスの会」というのを月に何回かするようになったんです。会費をいただいて料理を作っていました。いろいろな方々が集まって毎月テーマを決めて勉強やお話をされるんですけど、それがすごく勉強になりましたね。社会に対する考え方が変わりました。男の人って凄いな、社会に関わりを持つなら真剣に取り組まないといけなと思いました。
それからちょっとした会費が入ってきたので、骨董のようなものを買ったり、コンパスの会をやるにあたって、企業の偉い方々もいらっしゃるので、お皿やカトラリーなども良いものを揃えたりして、場を演出することも必要でしたからね。
現在、コンパスの会は細々と続いていて、今は年に五回程度です。人数も減って八人くらいですかね。当時は百人くらいいました。サラリーマンの妻では聞けないようないろんな話を沢山聞けました。大企業、中小企業の社長や役員の方々がテーマを決めてトークしたり、考え方や意見を述べたりね。私も勉強しなくっちゃって思いました。普通、講演会は一人の講師の話しか聞けないのですが、十何人いると、反対意見や、いろいろな方の意見が交差して、まとまらなくて終わったりしましたね。立場によっても全然違うし、大きい会社の重役さんと若い社長さんでは意見が全部違うのでね。こういう貴重な経験ができて、主人に感謝しています。
料理店を開店
平成十七年に主人が定年退職しました。それに一番下の子どもも就職して大阪に行って、みんな自立したんです。主人が定年退職して不安があったこと、料理を食べるのも作るのも好きだし、人との交流も好きなので、思い切って料理のお店を新橋につくりました。主人とずっと二人でいる生活が不安だったのも理由の1つですけどね(笑)。
主人の友達が協力してくれて、一緒にお店を探したり、アドバイスをもらいました。実際に始めてみたら主人の友人達が来てくれましたね。夫の顔の広さに感謝でした。自己流の店なんですけど、コンセプトを考えてやっていました。そうすると自分の考えに共感してくれるお客さまが来てくれます。赤字なんですけど、今でも続いているんですよ。
「安ん座」という店の名前は、胡坐をかく、リラックスをするという意味。ゆっくりしていただきたいとつけました。趣味の城です。
主人が七十七歳、私が七十歳になるので、決められたことがなければダラダラしてしまうし、やらなければならないことがあるので、それがぼけ防止になってます。それに雨が降っても、寒くても暑くても、家にいたくても、外へ出ないといけないので体力作りにもなってます。
定休日は土日祭日と、旅行に行ってるときです。お店はフリーでも入れますが常連さんが多いですね。三週間くらい旅行で休んでも、お客さまが「今度はどこに行くの?」、「どうしたの?」、「具合が悪かったの?」と心配してくれます。有難いです。
旅行
この間(二〇一六年五月)行ってきたカナリア諸島は、伊藤忠にいた頃に読んだクローニン全集という本で知りました。五十年間温めてたものが、やっと現実になって行ってみたら、ヨーロッパ文明の発展した島でした。ハワイどころじゃないですよ。主人と毎年行きたいねって言ってるのですが、遠いんです。マドリードまで十四時間、そこからまた三時間半、飛行機で行くんですから。
何年か前からフランクフルトで一泊してから翌日の午前中に現地に着くようにしています。すごく楽ですね。主人は「ビールを飲みに行きたいな」と言うんで、「ビールを飲ませてあげるから一緒に行こう」って誘ってます。すごく良かったと言ってくれるので、計画の甲斐があります。
初めてフランスに行った時はテレビでフランス語の番組を見て、スクールにも行って勉強しました。観光局で資料を取って、道路沿いのオーベルジュに行くプランを組み立てたときは本当に楽しかったです。初めての経験ばっかりでしたね。トゥールーズに行ったら、荷物がないし、日が暮れて真っ暗でね。空港の外に出たら看板もないし、標識も小さくてよく分からない。やっとベルサイユ宮殿みたいなホテルにたどり着いたんだけど、大きな門が閉まっていて、どうしようと思って騒いでたら、そのうちに開けてくれました。そんな旅の仕方を教えてくれたのがブールミッシュの専務なんです。僕は、車でこうやって毎日少しずつ距離を走って行ってるんだって。トゥールーズや、その周りのミデイピレネー地方をすごく楽しんできました。
9・11テロの時ディジョンに居たんですけど、飛行機がニューヨークのビルに突っ込む映像がテレビから流れてきました。そのあと、飛行場に行って、飛行機に乗ったら、爆弾が仕掛けられているかもしれない、荷物を点検するので降りてくださいって指示されました。結局二十時くらいに出るはずが、午前二時位までかかりましたね。そのとき日産のゴーンさんがいらっしゃったので写真を一緒に撮っていただきました。無事に帰ってきて、いつも楽しい旅行でした。
次の旅行では、娘の8歳と4歳の孫とフロリダ、オーランドのディズニーワールドやワシントンの博物館巡り、それからディズニー、クルーズに行きたいですね。
困難に打ち勝つために
勉強していかないといけないですね。ガクッと突き落とされたり、落ち込んだりすることもあります。手だては分からないけど少しずつ、周りを見ながら感じるところに進んでいく。すると、いろんなことが見えてくるんです。見えたら、取りあえずやってみる、取り入れてみる。あとを振り返ったり、拘ったりしないことが大事です。
他人を頼ってはだめ。やっぱり、他人は自分自身じゃないので100%は自分のためにやってくれないです。自分で考えて行動する。やりたいことは自分でやるんです。一歩ずつ行けば何か見えてきます。ちょっと行くと足元が見えてくる。そこから少しずつ広げていけばいいんです。
人生を振り返って
今年で七十才。家族には迷惑をかけたかもしれないですけど、楽しい人生でした。主人はいろいろ我慢してるのかな。人生の後半になって主人と労わり合えることは良かったなと思います。
興味を持ったことは可能な限りさせてもらえました。失敗しても、しなくても、やって楽しかったかなと思いますね。やらないで後悔するより、やって失敗したほうがいいですね。
物を大事にするほうなんです。うちに山程物が有って困ってるんですけど、叔母なんか私に預けておくと大事にしてくれるって持ってきますね。断捨離がこれからの課題ですね。
人生の一番の分岐点は、コンパスの会と、2001年に乳癌で手術をしたことですね。桜は見られないと思ってました。具合が悪くて、まっすぐ歩けなくなってね。それで一回自分のことを、すごく考えました。回復して元気になってからは女々しいことは言わなくなって、男っぽくなりました。恥も何もないわって感じですね。
結婚、出産、子育ては私にとっては普通なことでした。コンパスの会で学んだこと、癌で経験した事は大きいですね。それとパソコンを使える事。色々なことを経験してきた人生です。
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