取材担当者が自分の『両親の雑誌』を制作しました【第1回/全3回】
カテゴリー:ブログ
投稿日:2024年05月23日(最終更新:2024年06月19)
親御様が取材担当者と話をするだけで、文章が完成する『親の雑誌』。「傾聴をベースにした独自方法論」を身につけた取材担当者がお一人おひとりのお話をお伺いします。そんな取材担当者の1人が自身の『両親の雑誌』を制作しました。なぜ制作しようと思ったのか、取材や雑誌完成後に感じたことなどをまとめてもらいました。
私は、2017年から『親の雑誌』の取材に携わっています。担当する取材の回数が増えるごとに、だんだんと、自分の『親の雑誌』を作りたいという気持ちが芽生えてきました。そして2023年、実際に『両親の雑誌』を制作しました。今回はその時のことを思い出しながら、利用者の立場から『親の雑誌』を作る中で感じたことを3回に分けてご紹介させていただきます。
目次
<取材担当者が自分の『両親の雑誌』を制作しました>
第1回: 『両親の雑誌』を作ろう!←今回はここ
第2回:事前準備と取材のこと
第3回:原稿確認と完成後のこと
■『親の雑誌』を作ることは諦めていた
『親の雑誌』の取材に携わっていると、たくさんの方の人生に触れることができます。「話すことなんて何もないんだよ」とおっしゃる方でも、生まれたころから順を追ってお話しいただくと、必ず、聞いているだけで引き込まれるものがあるのです。
現在を見ているだけでは知りえない、その人の半生という名の「物語」を文章として書きとめていくことは、私にとってとても意味があることに思えました。そんな中で、自身の『親の雑誌』を作りたいという気持ちが生まれるのは、私にはとても自然なことだったと思います。
けれどずっと、私の両親は雑誌の制作に消極的でした。それこそ、「話すような人生でもない」と思っているようでしたし、自分史を残すことにも興味がないようでした。父などはいつも自分の昔のことを楽しそうに話すのに、意外なことだと感じました。誰かに自分のことを話すことと、自分史を作ることは、別のことなのだなと思ったのを覚えています。それで、両親のために作りたい雑誌なのに2人が乗り気でないなら仕方ないな、と私はずっと制作を諦めていたのです。
■母の入院
しかしある時、母ががんになりました。突然入院すると電話があり、急いで病院に駆けつけると、心細そうな母の姿がありました。肝臓に転移してしまっている乳がんが見つかって、さまざまな検査と治療開始のための入院でした。いつも明るく楽天的な母が、遠方から飛んできた娘を見ても笑顔さえ浮かべられないのを見て、病院の先生に、泊まり込みでの付き添いの許可をもらいました。
私は「大丈夫だよ」と母を励まし続けましたが、付き添って寝ていた病室の中で、「このまま母が死んでしまったら」ということがどうしても頭に浮き上がってくるのを止められませんでした。もし母がこのまま死んでしまったら、母が生きてきた足跡や残り香のようなものも消えてしまう。そんな不安に襲われたのです。
その時に強く思ったのが、「母という、1人の女性が生きてきた足跡を文章で残しておきたい」ということでした。直感的に、それがいつか、私のよすがになるだろうと思ったのです。順当にいけば、今でなくても、いつか父も母も私より先にいなくなる。その時に、2人の人生を2人の言葉で語った文章が残っているかいないかは、私にとって、とても大きなことだと感じました。
幸いだったのは、薬がよく効いて、母が少しずつ回復していったことです。そして私が『親の雑誌』制作のために動き出したのは、母のがん発見から2年後のことでした。
この時の私には、『親の雑誌』を作るもう一つの目的ができていました。それは、両親に互いの思いを改めて知ってもらう、ということです。というのも、母の闘病に伴って生活が変わったことで、互いへの不満がたまっているように見えたからです。実家へ帰ると、口論をしている2人を以前よりよく見るようになりました。そこで両親が昔交わしたであろう手紙のように、改めて互いのことを見つめ直して、互いへの思いを文章にする機会があるとよいのではないかと思ったのです。
■『両親の雑誌』を作ろう!
そんな理由もあったので、私は、父の雑誌、母の雑誌を時期をずらして別々に作るのではなく、『両親の雑誌』を一度に制作してしまおうと決めました。始めにやったことは、両親に電話して、「お願い」をすることでした。
私は、「私が、お父さんとお母さんの人生を書いた雑誌を持っておきたいから、協力してほしいの。どうかな?」と話しました。以前、両親へのプレゼントという趣旨の、「両親のため」の『親の雑誌』制作には難色を示していた父と母でしたが、「私=娘のため」に協力してほしい、とお願いすると、2人とも雑誌を作ることをあっさりと引き受けてくれました。
私は末っ子なので、「お願い」が得意だったのも功を奏したのかもしれません。自分のためはおっくうなことでも、父と母は、娘のために重い腰を上げてくれました。「娘のお願いならしかたがないな」というふうに言っていたと思います。
そうしてようやく、私の『両親の雑誌』を作ることになったのです。
第2回に続く…
『親の雑誌 電子版』の紹介
『親の雑誌 電子版』は、家族のための自分史作成サービス『親の雑誌』から生まれた、人々の人生を綴ったデジタルメディアです。
『親の雑誌』を作成した方々の人生を、親御様の生きてきた人生の価値を、離れて暮らす家族や親せき、友人と共有することができるだけでなく、さらに、いろいろな方に読んでいただけるよう掲載しています。 全ての人にはかけがえのない価値があり、その人が歩んできた人生は、たくさんの出会いで誰かの人生とつながり、この時代を織りなしています。
お一人お一人が生きてきた人生に、ぜひふれてみてください。