# 親の雑誌(おやのざっし)|家族のための自分史作成サービス > 「親の雑誌」は、株式会社こころみが運営する家族向けの自分史作成サービスです。プロのインタビュアーが親御様にお話を伺い、写真と組み合わせて世界に一つだけの自分史(ライフストーリー雑誌)を制作します。長寿祝い・誕生日・銀婚式・金婚式・退職祝い・父の日・母の日など、人生の節目の贈り物として全国でご利用いただいています。2022年2月時点で累計インタビュー時間3,124時間を突破。経済産業省「ジャパン・ヘルスケアビジネスコンテスト2016」優秀賞を受賞。 料金プランは3種類: - バリュープラン 22万円(全16ページ・写真30枚) - ベーシックプラン 26.4万円(全20ページ・写真40枚・電話取材3回) - スペシャルプラン 30.8万円(全24ページ・写真50枚・ご家族インタビュー) > 以下に「親の雑誌」サイト内の主要コンテンツを、サービス紹介・料金・利用シーン・お客様の声・最新情報の順で掲載します。 --- ## サービス概要・基本情報 - [ファミリーヒストリー記録社お申し込み完了](https://oyanozasshi.jp/familyhistory-form-thanks/): お申し込みが完了しました。 お申し込み内... - [よくあるご質問](https://oyanozasshi.jp/faq/): Q. 高齢ですが、大丈夫でしょうか? 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Y様)にお話... - [013 お客様の声 (お申込者:K.M様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2931/): お申込者であるお子様(K. M様)にお話... - [012 お客様の声 (お申込者:飯塚悦子様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2826/): (写真:お父様の「親の雑誌」とお父様が「... - [009 お客様の声 (お申込者:尾堤智様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2816/): 写真:お申込者の尾堤智様とおじい様の「親... - [011 お客様の声 (申込者:匿名)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2805/): 「親の雑誌」は家族で作る自分史として、ご... - [010 お客様の声 (お申込者:及川厚博様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2787/): (写真:申込者及川厚博様とお父様の「親の... - [008 お客様の声 (お申込者:K.H様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2800/): 写真:お申込者K. H様、娘様とお父様の... - [007 お客様の声 (お申込者:C.M様 と親御様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2740/): お申込者であるお子様(C. M様 神奈川... - [006 お客様の声 (お子様:K.T様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2678/): (写真:辻健之様の「親の雑誌」とご職業に... - [005 お客様の声 (お申込者:松本悠平様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2558/): (写真:申込者松本悠平様とおばあ様の「親... - [004 お客様の声 (お申込者:伊藤浩樹様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2355/): (写真:申込者伊藤浩樹様とお父様の「親の... - [001 お客様の声(お申込者:H.S様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/1937/): (写真:お申込者H. S様のお父様) お... - [002 お客様の声 (お申込者:M.H様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/1947/): (写真:お申込者M. H様のお父様) お... - [003 お客様の声 (お申込者:H.M様)](https://oyanozasshi.jp/customer_voice/1951/): (写真:お申込者H. M様のお母様) お... --- ## ご利用実績・制作事例 - [ご利用実績 vol.24 佐々木睦雄さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/1029/): 人物紹介 福井市深坂で9人きょうだいの七... - [ご利用実績 vol.25 佐藤高さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/1047/): 人物紹介 東京・品川で生まれ、少年時代か... - [ご利用実績 vol.11 松浦みち子さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/537/): 人物紹介 北九州で生まれ、女学生時代には... - [ご利用実績 vol.26 山田茂さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/1054/): 人物紹介 大戦中は陸軍少年戦車兵学校を卒... - [ご利用実績 vol.27 阿野昭三郎さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/1063/): 人物紹介 地元の名士の父と商売人の母のも... - [ご利用実績 vol.28 吉野芳郎さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/1077/): 人物紹介 東京・赤羽で生まれ、東京大空襲... - [ご利用実績 vol.12 比留間榮子さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/576/): 人物紹介 大正12年に生まれ、昭和の戦前... - [ご利用実績 vol.4 金子徹さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/344/): 人物紹介 大阪府天王寺で生まれ、空襲に遭... - [ご利用実績 vol.13 寺田芳雄さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/601/): 人物紹介 幼少期から、アルバイトをしなが... - [ご利用実績 vol.14 阪本辰治さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/622/): 人物紹介 昭和3年に山梨県で生まれ育つ。... - [ご利用実績 vol.18 三浦恵美子さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/896/): 人物紹介 東京の築地で生まれ、大所帯の中... - [ご利用実績 vol.5 兼光進さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/385/): 人物紹介 8人兄弟の末っ子として生まれ、... - [ご利用実績 vol.19 三浦榮子さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/902/): 人物紹介 石巻の大きな商家に生まれ、恵ま... - [ご利用実績 vol6. 大内今朝美さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/414/): 人物紹介 高知県で生まれ、2人の兄と4人... - [ご利用実績 vol.20 坂理泰幸さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/935/): 人物紹介 青梅に育ち、自然に囲まれ思い出... - [ご利用実績Vol.1「小俣文宣さん」](https://oyanozasshi.jp/usage_record/184/): 人物紹介 新潟県の中郷村で生まれ、大自然... - [ご利用実績 vol.15 横山クニ子さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/701/): 人物紹介 日立に生まれ、辛抱強く愛情深い... - [ご利用実績Vol.2「佐藤エイ子さん」](https://oyanozasshi.jp/usage_record/191/): 人物紹介 小さいころから母の代わりに働き... - [ご利用実績 vol.16 川場シズエさん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/705/): 人物紹介 早くにご主人を亡くし、「解体屋... - [ご利用実績 vol.21 矢田晶嗣さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/962/): 人物紹介 名古屋で6人きょうだいの三男と... - [ご利用実績Vol.3「戸谷正春さん」](https://oyanozasshi.jp/usage_record/195/): 人物紹介 大正14年1月17日生まれ。名... - [ご利用実績 vol.7 田島壽美子さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/451/): 人物紹介 愛知県愛西市で生まれ、4 人き... - [ご利用実績 vol.8 松本友治さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/455/): 人物紹介 東京の本郷菊坂で生まれ、幼いこ... - [ご利用実績 vol.22 小口康人さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/975/): 人物紹介 長野県で生まれ、複雑な家庭環境... - [ご利用実績 vol.23 富田オリヱさん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/979/): 人物紹介 豊島区雑司ヶ谷に生まれ、3人き... - [ご利用実績 vol.17 成田春子さん](https://oyanozasshi.jp/usage_record/734/): 人物紹介 優しい両親、きょうだいに囲まれ... - [ご利用実績Vol.9「大野正行さん」](https://oyanozasshi.jp/usage_record/486/): 人物紹介 国民学校を卒業後、大竹海兵団に... - [ご利用実績Vol.10「大岩律子さん」](https://oyanozasshi.jp/usage_record/503/): 人物紹介 上総湊で生まれ、幼いころから周... --- ## 親の雑誌 電子版(自分史サンプル) - [柳澤修として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/%e6%9f%b3%e6%be%a4%e4%bf%ae%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%a6%e7%94%9f%e3%81%8d%e3%81%a6%e3%81%8d%e3%81%a6/): 令和 2 年 10 月 19 日 「TH... - [寺田芳雄として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/yoshioterada/): 両親のこと 生まれは滋賀県東近江市、昔の... - [阪本辰治として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/tatsuharusakamoto/): 子どものころ 生まれたところは山梨県勝沼... - [坂理泰幸として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/yasuyukisakari/): お寺での生活 生まれたのは五反田の病院っ... - [佐々木睦雄として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/mutsuosasaki/): 生まれ、子ども時代 昭和10年、福井県で... - [横山クニ子として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/kunikoyokoyama/): 生い立ち 昭和19年に、日立市の河原子町... - [大場ヤエとして生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/yaeoba/): 生まれたころ 私は大正15年、新潟県の佐... - [小俣文宣として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/fuminobukomata/): 生い立ち 生まれは昭和21年。雪深い、新... - [梅北四郎として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/shirouumekita/): 生い立ち 昭和4年に生まれました。男4人... - [藤田美保子として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/mihokofujita/): 生い立ち 昭和4年に荻窪で生まれました。... - [神山民江として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/tamiekamiyama/): 開戦の年に生まれて 昭和16年に、母の実... - [神山公秀として生きてきて](https://oyanozasshi.jp/interview/kimihidekamiyama/): 商家の次男として生まれる 生まれは昭和1... --- ## 最新ニュース・お知らせ・ブログ - [高齢の親へのプレゼントで本当に喜ばれるものは?物より心に残る贈り物という選択](https://oyanozasshi.jp/news/3233/): 高齢の親へのプレゼントを考えるとき、何を... - [【2026年版】結婚記念日の名称と早見表|銀婚式・金婚式におすすめのプレゼントもご紹介](https://oyanozasshi.jp/news/3226/): 結婚記念日の名称をすぐ知りたい方へ。20... - [【協力者募集】『親の雑誌』ご利用者さまへのインタビュー調査(文化人類学研究)](https://oyanozasshi.jp/news/3219/): 平素より『親の雑誌』をご利用いただき、誠... - [令和8年度版|2026年版 古希って何歳? 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A. 親の雑誌はこれまで90歳、100歳以上のご高齢の方も数多く作成しております。コミュニケーターが本人様がお話ししやすいような聞き方で、ご記憶を呼び起こしやすくするために、お生まれのころから順番に聞いていくのでご安心ください。耳が遠い、体力が不安など追加電話インタビューが難しい場合は、バリュープランをおすすめしております。お申し込み後にご相談ください。 Q. 夫婦で1冊の雑誌作成はできますか? A. 親の雑誌は、一人の方の人生に焦点を当て、その方に寄り添ってインタビューすることで雑誌作りを行っております。そのため、ご両親お二人を1冊にまとめての雑誌作成はお受けしておりません。なお、例えばお父様の雑誌を作成いただき、「父が語る母」のような形で登場いただく事は可能です。また、特別プランとして「両親の雑誌」をご用意しておりますのでご検討ください。 Q. 自分で途中まで書いた自分史をまとめて欲しいのですが可能ですか? A. 親の雑誌はインタビューでご本人様にお話いただいた内容を聞き書き形式で記事にしております。すでにご用意されている文章の編集にはご対応できかねます。ご用意されている文章等をそのまま掲載希望の場合はオプションの追加ページをご検討ください。 Q. 事前に準備するものはありますか? A. <取材前にご準備いただきたいこと>をお読みいただき、プロフィールやお写真をご準備ください。お写真は幼少期から現在まで30~40枚程度のご用意を推奨しておりますが、お持ちでない場合は訪問取材で撮影するお写真やイメージ画像等で対応しております。※<取材前にご準備いただきたいこと>は、資料請求にてお送りいたします本サービス資料内に記載しております。 Q. キャンセルは可能ですか? A. はい、可能です。取材日決定前までは、キャンセル料がかかりません。なお、取材日決定以降のキャンセル料金については、ホームページ記載のキャンセルポリシーをご確認下さい。 Q. オプションの追加や特別プランへの変更は可能ですか? A. はい。お申込時にすべてを決めていただく必要はありません。お申し込み後にコンシェルジュとご相談しながらお決めいただけます。増刷や追加ページなど、オプションの内容によっては取材後の追加も承ります。 Q. オンラインでの取材は可能でしょうか? A. はい、可能です。基本的にはオンライン会議ツールZoomでの対応となっております。オンライン取材をご希望の方は、ご相談ください。 Q. 親に制作してほしいと伝えたのですが、まだ早い、恥ずかしいから作りたくないなどと言われてしまいました。どうしたらいいでしょうか? A. 自分史を制作すると、人生が終わりに近づいていると感じる方や、お子様のご負担になると考え、遠慮される方がいらっしゃいます。お子様やお孫様が親御様、おじい様、おばあ様について知りたいから作って欲しい、作っている時間も一緒に楽しみたい、などお伝えしてみてください。また、作成することで次の目標が生まれたというお声もありました。 Q. 取材には同席した方がいいのでしょうか? A. 同席されることをおすすめしておりますが、必須ではありません。ただ、同席されることで、知らなかったエピソードや、考え方に触れる良い機会になったとおっしゃるお申込者様が多くいらっしゃいます。遠方にお住いの方でオンラインでの同席を希望される方はご相談ください。 --- - Published: 2022-06-08 - Modified: 2022-06-17 - URL: https://oyanozasshi.jp/familyhistory-form/ お申し込み情報をご入力ください。 お名前 電話番号 メールアドレス プラン Δ このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシーと利用規約が適用されます。 --- - Published: 2022-06-02 - Modified: 2022-06-12 - URL: https://oyanozasshi.jp/%e3%83%a1%e3%83%ab%e3%83%9e%e3%82%ac%e7%99%bb%e9%8c%b2%e5%ae%8c%e4%ba%86/ メルマガ登録が完了しました。ご登録内容を記載した自動返信メールをお送りしております。しばらく経ってもメールが届かない場合は正常に登録ができていない可能性がありますので、再度フォームよりご入力いただくか、以下の連絡先にご連絡ください。その他、何かご不明な点等ございましたらお気軽にお問い合わせください。メール info@oyanozasshi. jpフリーダイヤル 0120-042-488 (平日9時‐18時)  --- - Published: 2021-07-08 - Modified: 2022-01-04 - URL: https://oyanozasshi.jp/chronology-form/ 親の雑誌 お申込者専用 ー 親御様の年表をご登録ください。 お申込者のお名前 お申込者のメールアドレス 親御様のお名前 年表 年表には西暦、和暦どちらかをご入力ください。西暦、和暦を併記は、デザインの都合上ご遠慮いただいております。 Δ このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシーと利用規約が適用されます。 --- - Published: 2021-07-08 - Modified: 2022-01-04 - URL: https://oyanozasshi.jp/profile-form/ 親の雑誌 お申込者専用 ー 親御様のプロフィールをご登録ください。 お申込者のお名前 お申込者のメールアドレス 親御様のお名前 ふりがな ローマ字 ニックネーム 出身 生年月日 学歴 仕事 家族 趣味 好きなテレビ番組 好きな食べ物 好きな本 尊敬する人 座右の銘 Δ このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシーと利用規約が適用されます。 --- - Published: 2021-07-08 - Modified: 2022-06-22 - URL: https://oyanozasshi.jp/precheck-form/ 親の雑誌 お申込者専用 ー 事前確認情報をご登録ください。 お申込者のお名前 お申込者のお名前(ふりがな) お申込者の性別 —以下から選択してください—男女その他 お申込者の住所 お申込者の電話番号 お申込者のメールアドレス 親御様のお名前 親御様のお名前(ふりがな) 親御様の性別 —以下から選択してください—男女その他 親御様の住所 親御様の電話番号 親御様のメールアドレス(必須ではございません) ご希望のプラン —以下から選択してください—バリュープランベーシックプランスペシャルプランその他検討中・相談希望 ご希望取材日、取材時期 当社のサービスをどちらでお知りになりましたか? テレビ新聞雑誌インターネットニュース・サイトインターネット検索ソーシャルメディア(Facebook, Instagram, Twitter等)家族・友人・知人の紹介その他 具体的に(お分かりになる範囲で) お申し込みのきっかけは何ですか? 自分史の作成に興味・関心があった還暦古希喜寿傘寿米寿卒寿白寿銀婚式金婚式退職・退任母の日・父の日その他 具体的に(「その他」の場合)) 取材に同席されますか? —以下から選択してください—ありなし 同席予定者 自由記入欄 利用規約参照はこちら 利用規約に同意する Δ このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシーと利用規約が適用されます。 --- - Published: 2021-07-08 - Modified: 2021-07-08 - URL: https://oyanozasshi.jp/chronology-form-thanks/ 年表の登録が完了しました。ご登録内容を記載した自動返信メールをお送りしております。しばらく経ってもメールが届かない場合は正常に登録ができていない可能性がありますので、再度フォームよりご入力いただくか、以下の連絡先にご連絡ください。その他、何かご不明な点等ございましたらお気軽にお問い合わせください。メール info@oyanozasshi. jpフリーダイヤル 0120-042-488 (平日9時‐18時)  --- - Published: 2021-07-08 - Modified: 2021-07-08 - URL: https://oyanozasshi.jp/profile-form-thanks/ プロフィールの登録が完了しました。ご登録内容を記載した自動返信メールをお送りしております。しばらく経ってもメールが届かない場合は正常に登録ができていない可能性がありますので、再度フォームよりご入力いただくか、以下の連絡先にご連絡ください。その他、何かご不明な点等ございましたらお気軽にお問い合わせください。メール info@oyanozasshi. jpフリーダイヤル 0120-042-488 (平日9時‐18時)  --- - Published: 2021-07-08 - Modified: 2021-07-08 - URL: https://oyanozasshi.jp/precheck-form-thanks/ 事前確認情報の登録が完了しました。ご登録内容を記載した自動返信メールをお送りしております。しばらく経ってもメールが届かない場合は正常に登録ができていない可能性がありますので、再度フォームよりご入力いただくか、以下の連絡先にご連絡ください。その他、何かご不明な点等ございましたらお気軽にお問い合わせください。メール info@oyanozasshi. jpフリーダイヤル 0120-042-488 (平日9時‐18時)  --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2025-12-24 - URL: https://oyanozasshi.jp/policy/ 株式会社こころみ 親の雑誌ご利用規約(2025年12月24日版)第1条 運営主体と利用規約の適用「親の雑誌」サービスとは、株式会社こころみ(以下「当社」という)が運営する、利用者を面談、電話などにより取材(以下「本取材」)し、自分史をまとめた雑誌の作成および関連する諸サービス(以下「本サービス」という)です。申込者および利用者は当規約に同意するものとし、申込者および利用者が本サービスを利用された場合、当規約に同意したものとみなします。第2条 定義当規約における用語の定義は、別途定めるものを除いて、以下の通りとします。1. 「利用契約」とは、当社から本サービスの提供を受けるための契約をいいます。2.「自分史」とは、利用者の幼少期から現在に至るまでの歴史をいいます。3. 「申込者」とは、当社と利用契約を締結している個人・法人をいいます。4. 「利用者」とは、本サービスの自分史を作成するにあたって取材を受ける対象者個人のことをいいます。利用者の選定は申込者が実施するものとし、申込者は、事前に利用者に対し事前に本サービスの利用(取材等への協力を含む)について承諾を得るものとします。5.「コミュニケーター」とは、当社において本取材を実施する担当者のことをいいます。第3条 本サービスの内容本サービスの内容は、次のとおりです。1.利用者に対する取材①取材・写真撮影等コミュニケーターが利用者に対して、1~2時間程度、面談し取材を行います。取材の際には、利用者や自宅等の写真撮影も実施いたします。取材において過去の写真や利用者所有の品を撮影したりお預かりすることがあります。②電話取材コミュニケーターが事前に指定された番号に電話を架電し、電話で利用者に対する取材を行います。1回あたりの電話時間は20分程度、合計1~3回を想定しております。ただし、電話取材が困難と判断する場合には電話取材を実施しないことがあります。③その他利用者または申込者から、自分史作成にあたって必要な過去の資料、写真等の一時預かり、提供をしていただく場合もあります。2. 原稿の作成と確認①原稿の作成当社は、本取材実施後、自分史の完成に向けての原稿(以下「本原稿」という)を作成いたします。なお、本原稿は、写真等を含むレイアウトおよびデザイン作業を行っていない、文章のみの原稿のことをいいます。②原稿の確認当社は、申込者が指定した者に対して、所定の期間内での本原稿の内容の確認を求めます。申込者は、確認を実施した原稿(以下「完成原稿」という)の再度の確認および修正を求めることができません。3.「親の雑誌」制作と送付 ①当社は、完成原稿をもとに、「親の雑誌」として自分史および写真等を編集した雑誌(以下「本雑誌」という)を制作します。当社は、申込者が事前に指定した部数印刷し、指定部数を指定の住所にお送りします。②申込者は、不在または住所の不備等により本雑誌が返送された場合または再送となった場合、これにかかる送料を負担するものとします。③当社は、本雑誌が申込者の指定した住所に到達しない(受領拒否を含む)場合、当社による発送の日から2か月以内に申込者からの申し出がない限り再送等の措置をしないものとします。④申込者は、以下の理由による交換を求める場合は、本雑誌の到着日から7日以内に、当社に連絡を行うものとします。本雑誌の到着日から7日が経過した場合、交換を求めることはできません。(1)ページの乱丁、落丁など、完成原稿と明らかに違う場合(2)版ズレなど印刷上の不良(3)その他印刷工程上の不良⑤前項による交換の場合、交換にかかる送料は当社が負担するものとします。4.ウェブサイトおよびソーシャルネットワーキングサービス等への掲載当社は、申込者の合意の上でウェブサイトおよびソーシャルネットワーキングサービス等に『親の雑誌』の内容の一部または全部を掲載する場合があります。第4条 本サービスにおける留意事項1.取材内容の中で、利用者から申込者を含む第三者に対して開示したくないことの要請があった場合には、当該事実関係等を申込者等に対して開示いたしません。ただし、当社が利用者または申込者等にとって報告が適切だと判断する場合には報告させていただくことがあります。2.利用者および申込者からコミュニケーターへ直接連絡を行うことは受け付けておりません。3.当社は、作成した「親の雑誌」について、正確性、網羅性、真実性を一切保証するものではなく、「親の雑誌」の内容に疑義が生じた場合には、申込者および利用者において解決するものとします。4.当社は必要に応じて本サービスに新しいサービスを追加したり、本サービスの内容または名称を変更したりすることがあり、申込者はそれをあらかじめ承諾したうえで本サービスを利用するものとします。第5条 利用料等1.申込者は、当社が別途定める利用料および費用(以下「利用料等」という)を支払うものとします。2.申込者は、利用料等を所定の期日までに、当社が指定した金融機関口座への振り込み、または当社指定のクレジットカードにて決済を行うものとします。3. 当社は、当規約で定める場合を除き、いかなる理由があっても利用料等を返還しないものとします。第6条 規約の変更1.当社は、各号に該当する場合、申込者に事前に通知することなく、いつでも当規約を改定することができるものとします。①当規約の変更が、利用者および申込者の一般の利益に適合するとき②当規約の変更が、本契約を締結した目的に反せず、かつ、変更の必要性、変更後の内容の相当性、変更の内容その他の変更に係る事情に照らして合理的なものであるとき2.当社が改定後の当規約を当社所定のウェブサイトに掲載したときに効力を生じます。効力発生後、申込者が本サービスを利用した場合、申込者が改定後の当規約に同意したものとみなします。第7条 契約の申込および契約の成立1.本サービスの利用を希望する者は、当社所定の方法により申込を行うものとします。2.当社は、本サービスの申込があった場合でも、当社の判断により本サービスの利用をお断りする場合があります。3.当社は、以下の各号の事由がある場合には、本サービスの利用契約の申込を承諾しないことがあります。①申込内容に虚偽の事項が含まれていた場合②過去に、本サービスその他当社サービスの利用を停止されていたことが判明した場合③その他当社の業務の遂行上または技術上支障をきたすおそれがあると当社が判断した場合4.当社から本サービスの利用契約の申込に対して承諾を受けた者が、当社に訪問取材希望日を連絡し、当社がこれを承諾した場合に本サービスの利用契約が成立するものとします。第8条 変更の届出申込者は、当社への申込時の届出内容に変更があった場合は、直ちに当社に変更の連絡を行うものとします。第9条 知的財産権本サービスの提供に際し、当社が作成した原稿、成果物である「親の雑誌」および当社が撮影した写真にかかる知的財産権(著作権法第27条および第28条の権利、並びに著作隣接権を含む。以下同じ。)、ノウハウ、並びに特許権、実用新案権、意匠権、回路配置利用権等およびこれらの権利にかかる設定の登録を受ける権利、並びに外国におけるこれらに類似する権利をいう。以下同じ。)その他本サービス提供の過程において発生した知的財産権は、すべて発生と同時に当社に帰属および移転するものとします。第10条 禁止行為申込者、利用者および本サービスの利用に関わる者(以下、総称して「本サービス利用者」という)は、本サービスの利用において以下の各号に定める行為をしてはならないものとします。①法令、公序良俗または当規約に違反すること②当社に対して虚偽または事実に反する情報提供をすること③正当な理由なく本サービスの提供を受けることを拒むこと④本サービスの提供を受ける権利を当社の承諾なく第三者に提供すること⑤本原稿、完成原稿、写真および成果物である「親の雑誌」など本サービスにおいて当社が作成、撮影したものの全部あるいは一部を、当社の承諾なく改変、複製、公衆送信、翻案、第三者への営利目的での譲渡をすること⑥申込者、利用者およびその親族間等において相手方の名誉もしくは社会的信用を毀損、相手方に不利益を与えること⑦本サービスの運営を妨害すること⑧反社会的勢力に関与すること⑨当社の事前承諾なく、録音、録画、撮影をすること⑩その他当社が不適切と判断すること第11条 訪問取材・電話日程の変更当社との間で設定した取材の日程を変更する場合、当該取材日の5営業日前までに弊社に連絡の上調整するものとします。ただし、変更は1回までとし、また、必ずご希望の日程に変更できることを確約するものではありません。2回以上の日程変更はお受けできません。第12条 連絡または通知1.当社からの本サービス利用者に対する連絡は、申込者からの所定の届け出事項に定められた連絡先に対して行います。2.申込者が当社に対して正確な連絡先の情報を提供しないことにより、本サービスの提供を受けることができない場合であっても、当社はその責任を負わないものとします。第13条 第三者による本サービスの紹介・案内・提供当社は、本サービスの紹介、案内、提供義務の全部または一部を第三者に委託することができるものとします。第14条 サービスの中断1.当社は、以下のいずれかの事由が生じた場合には、一時的に本サービスの全部または一部の提供を中断することがあります。この場合、本サービスを中断した期間に関する利用料およびその他費用は中断された期間に応じて再開後の利用料に繰り越すものとします。本サービスの中断は、事前にオンライン上での告知に努めますが、緊急時はこの限りではありません。①本サービス用設備のメンテナンス、障害に対する復旧作業等を行う場合②火災、停電等により本サービスの提供ができなくなった場合③地震、噴火、洪水、津波等の天災による不可抗力により、本サービスの提供ができなくなった場合④戦争、動乱、暴動、騒乱等により本サービスの提供ができなくなった場合⑤利用者または申込者が当規約に違反した場合⑥その他、当社が本サービスの一時的な中断が必要と合理的に判断した場合2.当社は、前項各号のいずれかにより本サービスの全部または一部の提供に遅延または中断が発生しても、これに起因する本サービス利用者または第三者が被った損害に関し、当社に重過失がある場合を除いて、一切責任を負いません。第15条 サービスの終了1.当社は、営業上、技術上等の理由により、本サービスの全部または一部の提供を終了することがあります。2.当社は、本サービスの一部の提供を終了する場合は、第4条4項に定める本サービスの内容変更として取り扱います。第16条 解約1.申込者は、当社に対して通知することにより、利用契約を解約することができます。ただし、申込者は、以下に定める解約に伴う手数料(以下「解約手数料」という)を支払うものとします。取材実施日4日前-14日前 利用料等の20%同1日前-3日前 利用料等の40%同当日以降 利用料等の100%なお、取材実施日を変更した後のキャンセルの場合には、当初の取材実施日を基準に上記解約手数料を算出させていただきます。2.前項にかかわらず、すでにキャンセル料の発生する公共交通機関や宿泊施設等の予約をしていた場合には、キャンセルに伴う実費相当分を上記の解約手数料に加算させていただきます。3.取材実施日以降、本雑誌および電子データを含む一切の制作物について、返品、解約または利用料の返金は一切お受けできません。第17条 利用契約の解除1.本サービス利用者が以下のいずれかに該当する場合は、当社は、申込者に対して事前になんら通知または催告することなく、利用契約を解除できるものとします。①当規約に違反した場合②当社から本サービス利用者に対する連絡に対し1か月以上音信がない場合③反社会的勢力と社会的に非難されるべき関係を有していることが明らかになった場合④申込者の信用状態が悪化したと認められる相当の事由がある場合⑤その他、当社が行う業務に支障を及ぼすと判断した場合2.前項各号の事由により、当社が損害を被った場合、当社は利用契約の解除の有無にかかわりなく、申込者に対し被った損害の賠償を請求できるものとします。3.本条により解除した場合には、当社は申込者に対して利用料を返還しないものとします。4.本サービスの利用を再開する場合は、サービス再開費用の支払いが必要となります。第18条 利用規約違反1.当社は、本サービス利用者または申込者が当規約に違反した場合または違反するおそれがある場合、以下の措置を講じることができるものとします。①当規約に違反する行為またはそのおそれのある行為を止めること、および同様の行為を繰り返さないことの要求②利用契約の解除③本サービス利用の一時停止④その他、当社が適切と判断する措置2.本サービス利用者または申込者が当規約に違反した行為、または不正もしくは違法な行為によって当社に損害を与えた場合、当社は本サービス利用者に対して損害賠償の請求を行うことができるものとします。3.本サービス利用者または申込者は、本サービスの利用に際し第三者に対して損害を与えた場合、または第三者から法的請求を受けた場合、自己の責任と費用をもって解決し、当社に迷惑をかけないものとします。第19条 損害賠償当社の責めに帰すべき事由により申込者に損害が発生した場合には、当社は、申込者に対して、受領した利用料等の範囲内で損害を賠償する義務を負います。第20条 免責1.当社は、当社の責めに帰すべき事由によらず本サービスの利用により発生した本サービス利用者の損害(第三者との間で生じたトラブルに起因する損害を含みます。)について一切責任を負いません。2.取材の際に利用者の発病、病状の急変その他生命身体に影響が生じたとしても、その一切の責任を負いません。第21条 個人情報1.当社は、本サービスに関して提供いただく「申込者」、「利用者」、「連絡者」の個人情報を、当社ホームページに掲載するプライバシー・ポリシーに基づき、適切に取り扱うものとします。2.上記個人情報は、以下の利用目的にのみ利用するものとし、これら目的以外には利用しません。 ・本サービスの案内 ・本サービスの提供・維持管理・アフターサービス ・本サービスの運営管理 ・本サービスの改善・充実 ・マーケティングデータの調査および分析、並びにマーケティング施策の検討および実施 ・新たな商品等およびサービスの企画、研究および案内 ・その他本サービスに関連・付随する業務 ・当規約または個人情報保護方針記載の方法による第三者に対する提供 ・個人を特定できない形式に加工(匿名加工)した上での会話データの利活用3.当社は、本サービスによって知り得た本サービス利用者の個人情報について、本条の規定に基づく提供の場合および当該情報提供者より別途同意を取得している場合を除き、当該情報提供者以外の第三者に対し、法令に基づく正当な理由なく開示せず、秘密を保持する義務を負います。ただし、第13条(第三者による本サービスの紹介・案内・提供)に基づいて本サービスの紹介、案内、提供義務を第三者に委託した場合、個人情報を当該委託先に開示することができることとします。第22条 会話情報データの利活用1.会話情報データとは、本サービス提供プロセスで申込者・利用者同意の上で取得した個人情報および会話情報です。2.この会話情報データを個人を特定できない形式に加工(以下「匿名加工情報」という)したうえで、マーケティング分析および商品開発、社会問題解決等の研究に利活用します。3.匿名加工情報の分析、研究、開発は、提携先(大学等教育研究機関・行政機関・NPO法人・民間企業等)と行う場合があります。共同利活用の際は、提携先に対し、目的外の利用、第三者への提供を行わないように書面で義務付けます。第23条 合意管轄裁判所本サービス利用者と当社との間で訴訟の必要が生じた場合、東京地方裁判所または東京簡易裁判所を第一審の専属的合意管轄裁判所とします。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2026-03-04 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage-guide/ 特徴 「聴く」ことの専門家・コミュニケーターが取材することで、ご本人がそのまま話しているかのような、語り口調の記事ができあがります。 20ページの雑誌フォーマット活用により、低価格を実現しました。 ご注意事項 事前にインタビュー内容のご希望をご家族から承ることは可能です。ただし、「ご本人が話したいこと」をお聞きするのが特徴のため、出来上がりの記事内容はご本人のお話しに委ねられます。 当社指定のプロフィールシート以外の、ご自身で書かれた文書等の編集はできません。 ※ ご希望の方は特別編集プラン(50万円~)をご検討ください。 インタビューにお申込者を含むご家族(配偶者、ご子息等)のご同席は可能ですが、インタビューへのお答えは控えていただきます。 編集の一切は当社におまかせいただいております。原稿のご確認は、記事本文のみテキストで1回可能です。 ※ 写真を含む校正の事前確認をご希望の方は、オプションをご参照ください。 ご利用料金のお支払いは原則として訪問取材日の5営業日前までにお願いしております。お支払いはお振込みまたはカード払いが可能です。分割払いについては別途ご相談ください。※航空券等の手配が必要なエリアへの訪問の場合は15営業日前までのお支払いをお願いしております。 東京都23区以外に親御様がお住いの場合は出張経費(エリア別料金)が必要です。詳しくは親の雑誌出張経費一覧表を参照ください。 ※出張経費には公共交通機関等の往復運賃と日当が含まれます。 東京都23区内(ご家族・親戚宅、ホテル、喫茶店等)でインタビューを実施する場合は出張経費はかかりません。インタビュールームの手配代行オプションもご用意しております。 お申し込みから訪問取材日決定前まではキャンセル料がかかりません。なお、訪問取材日決定以降のキャンセル料については、親の雑誌キャンセルポリシーをご確認ください。 初回訪問取材は原則として平日に行います。 ※ 土日希望の方はオプション料金をご参照ください --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2022-01-04 - URL: https://oyanozasshi.jp/entry/ 自分史作成サービス「親の雑誌」にご関心をお寄せいただきありがとうございます。下記より「親の雑誌」のお申し込みが可能です。お申込み自体は無料で承っております。 お申込者のお名前必須 ふりがな 郵便番号必須 Japan ご住所必須 お電話番号必須 メールアドレス必須 紹介者/紹介コード 備考欄 『親の雑誌』を知ったきっかけ 資料請求 申込 個人情報のお取扱いにつきまして 当社は個人情報保護の取り組みの一環として、個人情報のお取扱いについて、本人の知り得るべき状態における内容とともに、公表すべき事項を以下の通り掲載いたします。(JISQ15001:2006に準拠) 1.個人情報取り扱い事業者の名称と個人情報保護管理者 株式会社こころみ 個人情報保護管理者 神山晃男 2.共同利用について 当社は、個人情報の共同利用はございません。 3.直接ご本人様から取得させていただく個人情報の利用目的 当社が、直接ご本人様より取得させていただくもので、主に同意書、同意文書、web上では同意の確認ボタンなどで同意をいただく情報を指しています。 当社では取得情報項目と利用目的を以下に記載いたします。この取得方法で得られた個人情報に関しましては、本人の権利として、開示等が必要な場合は遅滞なくお知らせすることが可能です。詳細は開示の項目をご覧ください。(例外事項により、開示事項の一部あるいは全部の開示に対応できない場合がございます。) 【資料、事業、製品などの請求及びお問い合わせ時などにお預かりした情報】 ≪利用目的≫: 当該お問い合わせ及びご相談などの対応のため 【お取引先様などの情報】 ≪利用目的≫: 当社が受託した取引内容を履行するため及び諸事項の連絡のため 【応募者及び従業者の情報(当社雇用者の場合は特定個人情報を含む)】 ≪利用目的≫: 採用業務及び人事・労務・社会保険、税務・納税などの事務処理及び管理業務のため 4.ご本人から直接取得させていただくもの 「以外」 の個人情報について 上記3.以外の方法で取得した個人情報で、主に当社の取引顧客様などから依頼を受け業務の一部または全部について履行するために必要に応じてお預かりした個人情報を指します。 利用目的は以下の通りです。 【当社の取引先様から、委託を受けた業務とそれに付随する図面、作業指示書類及びそれらのデータなど】 ≪利用目的≫: お取引様が当社へ委託された当該業務などを遂行するため 【官公庁などの公、或いはそれらに準じた機関などから委託を受けたデータなど】 ≪利用目的≫:データの作成や管理などのため 5.第三者提供について 第三者提供につきましては本人の同意がある場合及び、法などの例外がある場合を除きございません。 同様に個人情報を加工など行うこと及び、これを第三者に提供することも本人の同意がある場合と法などの例外がある場合を除きございません。 6.本業務の委託について 個人情報の取扱いにつきましては、お客様へのサービス向上と業務の適正化などを行うためお預かりしました情報の業務委託を行う場合があります。 委託を行う場合は個人情報保護の管理基準を十分満たしている委託先を選定し必要な契約などを取り交わした上安全レベルの管理向上に勤めます。 7.個人情報提供の任意性について 個人情報の提供は原則任意です。ただし、個人情報を提供いただけない場合は、該当事項につきまして当社からの情報やサービスなどのご提供が出来ない場合がございます。 8.開示対象個人情報の「利用目的の通知」「開示」「訂正、追加又は削除」「利用又は提供の拒否」に関して 個人情報を提供されたお客様は、該当情報に関して「利用目的の通知」、「開示」、「訂正、追加、削除」、「利用又は提供の拒否」を要求する権利を有しております。必要に応じて窓口までご連絡ください。 《個人情報相談窓口》 株式会社こころみ 個人情報相談窓口責任者:神山晃男 個人情報保護管理者: 神山晃男 電話:03-6276-0025 email:info@cocolomi. co. jp 9.個人情報の保存期限、廃棄など お預かりしました個人情報は、法定保管年数の保有を行います。 その後の廃棄は厳重に処分及びデータの廃棄を実施してまいります。 こころみの「個人情報のお取り扱いにつきまして」に同意します Δ このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシーと利用規約が適用されます。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2020-12-21 - URL: https://oyanozasshi.jp/entry-thanks/ お申し込みが完了しました。自動返信メールをお送りしております。メールが届かない場合は通常の処理ができておりませんので再度フォームよりご依頼いただくか、以下の連絡先にご連絡ください。ご登録内容を確認し、ご案内をメールでお送りいたしますので、今しばらくお待ちくださいませ。その他、何かご不明な点等ございましたらお気軽にお問い合わせください。フリーダイヤル 0120-042-488 (平日9時‐18時)メール info@oyanozasshi. jp --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2022-12-12 - URL: https://oyanozasshi.jp/company/ 会社概要商号株式会社こころみ本社 〒108-0014 東京都港区芝5丁目26−24 田町スクエア2F代表電話番号03-6276-0025代表取締役神山 晃男顧問佐藤 眞一 (大阪大学大学院 人間科学研究科臨床死生学・老年行動学分野教授)長谷川 嘉哉 (医療法人ブレイングループ理事長)小沼 朝生 (俳優・著述家)増田 由美子(株式会社消費者の声研究所代表取締役)設立年月日2013年6月17日こころみWEBサイトhttps://cocolomi. co. jp資本金40,998,300円(資本準備金を含む)業務内容・高齢者向け会話型見守りサービス・自分史作成サービス・高齢者関連ロボット開発支援・その他高齢者関連事業支援沿革2013年6月17日株式会社こころみ会社設立2014年2月1日一人暮らし高齢者向け会話型見守りサービス「つながりプラス」開始2015年5月1日親のための自分史作成サービス「親の雑誌」発売開始2015年5月16日「Chikirinの日記」で紹介されました2016年2月14日TBS「がっちりマンデー」で紹介されました2016年3月14日経産省主催「ジャパンヘルスケアビジネスコンテスト」優秀賞 獲得2016年9月8日フジテレビ「トクだね!」で紹介されました2017年2月24日よみうりテレビ「大阪ほんわかテレビ」で紹介されました2017年3月1日「親の雑誌‐新装版‐」発売開始2017年6月26日インターネットテレビ Abema News「噂のネットパトロール」で紹介されました2017年9月23日フジテレビ「ノンストップ」で紹介されました2018年3月26日Yahoo! ニュースに親の雑誌が掲載されました2018年5月7日テレビ朝日スーパーJチャンネルで紹介されました2018年3月8日「親の雑誌」米寿記念セット発売開始 2018年8月インタビュー社史作成サービス「創業の雑誌」開始 2018年10月東京都主催「世界発信コンペティション」サービス部門・特別賞受賞2019年6月Plug and Play Japan株式会社主催 Summer/Fall 2019 Batchに採択2019年10月CCCグループの協業プログラム 第六期「T-VENTURE PROGRAM」最終審査会に選定2020年8月港区赤坂にオフィス移転 2021年3月時代を織りなす人々を綴る人生メディア「親の雑誌 電子版」開始 2022年6月馬と歩んだ人生をまとめる人生史作成サービス「愛馬の雑誌」開始 2022年12月港区芝にオフィス移転 ※サービス開始からテレビや新聞に取り上げていただく機会多数。上記はメディア掲載歴は一部です。役員・編集長代表取締役社長 神山晃男1978年5月12日生まれ 長野県伊那市出身慶應義塾大学法学部政治学科卒業・投資ファンドのアドバンテッジパートナーズに勤務。 コメダ珈琲店、ウイングアーク1st等を担当。・「コミュニケーション」と「高齢者マーケティング」の専門家として数々のセミナーや勉強会に出演中。・2014年10月より「日常会話形式による認知症スクリーニング法の開発と医療介護連携(代表研究者:佐藤眞一大阪大学大学院教授)」の共同研究者に就任。・2014年11月より「介護のほんねニュース」公認パートナーとして、超高齢社会問題やコミュニケーションに関する記事の寄稿を開始。<社長メッセージ>「親の雑誌」は目に見える「雑誌」がお届けする商品ですが、私たちはむしろ家族のコミュニケーションを支援するサービスである、と考えています。親の雑誌の申し込みをきっかけに、親子でいっしょに写真を整理したり、インタビューに同席して思わぬ話を聞いたり、意外とおしゃべりな一面を見て頂いたり。そしてもちろん、完成後に一緒に雑誌を見て、いろいろなことについて語り合っていただく。そんな形で、親の雑誌をきっかけにして、普段なかなかできない話をしていただければ、これ以上の喜びはありません。親御さんは普段なかなか言えない子供たちや孫たちへのメッセージを伝えていただき、お子様は、普段聞くことができない親御さんへの質問や、語ってほしいことをリクエストする、そんな機会の一つとして、親の雑誌を使っていただければ、と考えております。編集長 長経子1977年生まれ 佐賀県出身・ベンチャー企業で顧客対応業務に従事・2016年3月 株式会社こころみ入社親の雑誌・創業の雑誌 編集長インタビュー事業本部 副本部長<編集長メッセージ>「親の雑誌」に長期間、関わらせていただいております。ご家族、親御様と共に親の雑誌を作成させていただく中で、家族、人とのつながりの大切さを日々感じております。親御様の自分史作成を通して、親御様だけではなくお子様、お孫様も楽しんでいただけるようなサービス提供を目指してまいります。  --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2024-06-11 - URL: https://oyanozasshi.jp/cancel/ 1.申込者は、当社に対して通知することにより、利用契約を解約することができます。ただし、申込者は、以下に定める解約に伴う手数料(以下「解約手数料」という)を支払うものとします。・取材実施日4日前 - 14日前 利用料等の20%・取材実施日1日前 - 3日前 利用料等の40%・取材実施日当日以降 利用料等の100%なお、取材実施日を変更した後のキャンセルの場合には、当初の取材実施日を基準に上記解約手数料を算出させていただきます。2.前項にかかわらず、すでにキャンセル料の発生する公共交通機関や宿泊施設等の予約をしていた場合には、キャンセルに伴う実費相当分を上記の解約手数料に加算させていただきます。3.取材実施日以降、本雑誌および電子データを含む一切の制作物について、返品、解約または利用料の返金は一切お受けできません。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2025-07-14 - URL: https://oyanozasshi.jp/price/ バリュープラン22万円(税込)訪問取材(オンライン対応可)写真掲載30枚全16ページ雑誌(自分史)3冊をお届けデザイン校正紙送付--親の年表に沿って、出生から今に至るまでの歴史を、ご本人の言葉で表現していただく、いわば、ご本人の歴史。 おすすめベーシックプラン26. 4万円(税込)訪問取材(オンライン対応可)写真掲載40枚全20ページ雑誌(自分史)5冊をお届けデザイン校正紙送付電話取材(3回)-バリュープランのご本人の歴史に加えて、ご本人にとっての家族とは、幸せとは等、価値観も織り込んだ ご本人の歴史と想いを込めた自分史。スペシャルプラン30. 8万円(税込)訪問取材(オンライン対応可)写真掲載50枚全24ページ雑誌(自分史)10冊をお届けデザイン校正紙送付電話取材(3回)ご家族インタビューベーシックプランの自分史に加え、ご家族のためのページをご用意。ご家族代表者のお話を掲載することができます。雑誌は1冊につき2,750円~(税込)で増刷が可能です。(雑誌完成後の追加注文の場合は発送手数料別でお申し込みいただけます)東京都23区以外に親御様がお住いの場合は、別途出張経費(交通費等)を申し受けます。詳しくは下記出張経費一覧表を参照ください。【各種特別パッケージ】両親の雑誌お父さま、お母さまの雑誌をそれぞれ作成するパッケージです。金婚式のお祝いなどにもお勧めです。お2人目は料金から10%引きさせていただきます。*お父さまとお母さまの取材日が同日に限ります。 「両親の雑誌」詳しくはこちら 創業の雑誌(法人様向け別サービス)・・・お見積りいたします「社史」に代わる新タイプの会社紹介雑誌です。創業者など代表者の引退や事業承継等のタイミングにお使いいただいております。*従業員数が数十人~数百人規模の中小企業向けのサービスです。 「創業の雑誌」公式サイトはこちらオプション(※すべて税込)各オプションメニューの詳細については、お気軽にお問い合わせ、ご相談ください。オプション料金備考 増刷 2,750円~/冊 バリュープラン 2,750円/冊ベーシックプラン 2,970円/冊スペシャルプラン 3,190円/冊「親の雑誌」納品後の増刷は、発送手数料1,210円が必要です。 取材土日祝対応 11,000円 追加1回ごと(訪問・オンライン共通) 特急対応 33,000円 訪問/オンライン取材日から6週間で作成 フォトギャラリー作成 33,000円~ 追加4ページごとに33,000円キャプション付の場合は、別途11,000円写真選択を「親の雑誌」担当者にお任せいただく場合は、別途33,000円 オリジナル企画ページ 33,000円~ 追加4ページごとに33,000円内容によって料金は異なります。ご相談ください。 家族インタビュー(お電話) 11,000円 20分の電話インタビュー+原稿作成 PDFデータ(高解像度) 44,000円~ バリュープラン 44,000円ベーシックプラン55,000円スペシャルプラン 66,000円 PDFデータ(低解像度) 22,000円~ バリュープラン 22,000円ベーシックプラン 27,500円スペシャルプラン 33,000円 訪問取材時の写真データ 14,300円訪問取材時に撮影した写真データ(約40枚)をオンラインファイル共有アプリでお渡し ※USBメモリ送付の場合は、データ移行料と発送手数料で3,300円が必要です。 訪問取材時の音声データ/オンライン取材時の映像データ 11,000円 オンラインファイル共有アプリでデータお渡し 「親の雑誌」紙面データ共有用クローズドURLの作成 11,000円紙面の閲覧が可能なURLを共有。ダウンロード不可 「親の雑誌」掲載文章の翻訳(日本語から英語) 33,000円 掲載写真のセレクトサポート 11,000円/1時間写真が多すぎて選べない方など、取材当日に当社担当者と一緒に写真を選別することをご希望される場合 インタビュールーム手配 23,100円~ プロカメラマンによる写真撮影 66,000円 東京都23区以外は出張経費が別途必要撮影データ付き オリジナルソング作成 242,000円 「親の雑誌」の内容を元にプロの音楽家が作詞・作曲出張経費一覧表 (※すべて税込)東京都23区以外に親御様がお住いの場合は出張経費(エリア別料金)が必要です。出張経費には公共交通機関等(新幹線自由席、特急、航空券、タクシー等)の往復運賃と日当が含まれます。離島は別途お見積りいたします。お問い合わせください。下記は2024年4月1日現在の価格です。公共交通機関の価格改定等により変更する場合がありますので、予めご了承ください。東京都23区内(ご家族・ご親戚宅・ホテル・喫茶店等)でインタビューを実施する場合は出張経費がかかりません。東京都(23区)での取材実施もご検討ください。取材場所や日時のご相談も承ります。 関東地方東京都23区以外(以下を除く)6,000円奥多摩町・檜原村17,000円神奈川県厚木市・綾瀬市・伊勢原市・海老名市・鎌倉市・川崎市・相模原市・座間市・逗子市・茅ヶ崎市・平塚市・藤沢市・三浦市・大和市・横須賀市・横浜市・愛川町・大磯町・寒川町・葉山町・清川村6,000円小田原市・秦野市・大井町・開成町・中井町・二宮町11,000円南足柄市・箱根町・松田町・真鶴町・山北町・湯河原町17,000円千葉県我孫子市・市川市・印西市・浦安市・柏市・鎌ヶ谷市・佐倉市・白井市・千葉市・流山市・習志野市・野田市・船橋市・松戸市・八街市・八千代市・四街道市・栄町6,000円大網白里市・市原市・香取市・木更津市・君津市・山武市・袖ヶ浦市・東金市・富里市・成田市・富津市・茂原市・一宮町・九十九里町・神崎町・酒々井町・芝山町・白子町・多古町・長南町・長柄町・睦沢町・横芝光町・長生村11,000円旭市・いすみ市・勝浦市・鴨川市・匝瑳市・館山市・銚子市・南房総市・大多喜町・御宿町・鋸南町・東庄町17,000円埼玉県朝霞市・入間市・春日部市・川口市・川越市・越谷市・さいたま市・坂戸市・狭山市・志木市・草加市・鶴ヶ島市・所沢市・戸田市・新座市・飯能市・日高市・富士見市・ふじみ野市・三郷市・八潮市・吉川市・和光市・蕨市・越生町・松伏町・三芳町・毛呂山町6,000円上尾市・桶川市・加須市・北本市・行田市・久喜市・熊谷市・鴻巣市・幸手市・白岡市・秩父市・蓮田市・羽生市・東松山市・深谷市・本庄市・伊奈町・小鹿野町・小川町・神川町・上里町・川島町・杉戸町・ときがわ町・長瀞町・滑川町・鳩山町・美里町・皆野町・宮伏市・横瀬町・吉見町・寄居町・嵐山町東秩父村11,000円茨城県つくばみらい市・取手市・守谷市・利根町6,000円古河市・常総市・つくば市・坂東市・五霞町・境町11,000円潮来市・かすみがうら市・神栖市・下妻市・結城市・八千代町17,000円石岡市・稲敷市・牛久市・小美玉市・笠間市・鹿嶋市・北茨城市・桜川市・高萩市・筑西市・土浦市・那珂市・行方市・常陸太田市・常陸大宮市・日立市・ひたちなか市・鉾田市・水戸市・龍ケ崎市・阿見町・茨城町・大洗町・河内町・城里町・大子町・東海村・美浦村45,000円栃木県・群馬県各県全域45,000円 北海道・東北地方北海道全域109,000円青森県・秋田県・岩手県各県全域99,000円宮城県・福島県・山形県各県全域77,000円 甲信越・東海地方山梨県全域45,000円静岡県熱海市・伊豆市・伊豆の国市・伊東市・御殿場市・裾野市・沼津市・富士市・富士宮市・三島市・小山町・函南町・長泉町・清水町45,000円磐田市・御前崎市・掛川市・菊川市・静岡市・島田市・下田市・浜松市・袋井市・藤枝市・牧之原市・焼津市・河津町・川根本町・西伊豆町・東伊豆町・松崎町・南伊豆町・森町・吉田町55,000円長野県全域55,000円愛知県・岐阜県・新潟県各県全域66,000円 近畿地方大阪府・京都府・三重県・滋賀県・奈良県・和歌山県・兵庫県各府県全域77,000円 北陸地方富山県・石川県・福井県各県全域88,000円 中国地方岡山県・広島県各県全域88,000円鳥取県・島根県・山口県各県全域99,000円 四国地方徳島県・香川県・愛媛県・高知県各県全域99,000円 九州・沖縄地方福岡県・大分県・宮崎県・鹿児島県・熊本県・佐賀県・長崎県各県全域99,000円沖縄県全域109,000円 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-10-16 - URL: https://oyanozasshi.jp/meeting-entry/ 自分史作成サービス「親の雑誌」にご関心をお寄せいただきありがとうございます。フォーム入力の所要時間は約45秒です。必須 の項目は、必ずご記入下さい。エラー: コンタクトフォームが見つかりません。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-09-04 - URL: https://oyanozasshi.jp/meeting-entry-thanks/ 無料相談会のお申込みが完了しました。自動返信メールをお送りしております。メールの返信がない場合は通常の処理ができておりませんので再度フォームよりご請求いただくか、以下の連絡先にご連絡ください。お申し込み内容を確認し、参加票をメールにて送付いたしますので今しばらくお待ちくださいませ。その他、何かご不明な点等ございましたらお気軽にお問い合わせください。フリーダイヤル 0120-042-488(平日9時‐18時)メール info@cocolomi. net --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2022-12-12 - URL: https://oyanozasshi.jp/sctl/ 事業者株式会社こころみ代表者神山晃男所在地〒107-6229東京都港区芝5丁目26-24 田町スクエア2F03-6276-0025WEBサイトhttps://cocolomi. co. jp/商品価格各プランによります。詳しくは、ご利用料金をご覧ください。代金清算方法銀行振込またはクレジットカード決済お申込みいただきました後、当社より資料を送付させていただき、お電話(メール)にて、インタビュー等の訪問日程調整等をさせていただきます。その後、当社よりご請求書をご送付させていただきますので、当社の訪問日の5営業日前までに、当社指定銀行口座へお振込いただくか、当社指定のクレジットカード決済にてお支払いください。なお、航空券等の手配が必要なエリアへの訪問の場合は10営業日前までのお支払いをお願いしております。クレジットカード決済の場合には、カード会社の会員規約に定められた振替日が支払時期です。※振込手数料は、お客様のご負担となります。成立時期当サイトを利用してご契約いただいた場合、お客様からのご入金が完了した時点をもって、契約の成立とさせていただきます。提供時期訪問日確定後、訪問日にインタビューを実施させていただきます。キャンセルキャンセルの場合は通知時点により、以下の解約に伴う手数料をお支払いいただきます。訪問取材実施日4日前-14日前 利用料等の20%同1日前-3日前 利用料等の40%同当日以降 利用料等の100%※訪問取材実施日を変更された後のキャンセルの場合には、原則として訪問取材実施日を基準に上記解約手数料を算出させていただきます。※訪問取材実施場所が遠隔地等で事前にキャンセル料の発生する公共交通機関や宿泊施設等の予約をしていた場合には、キャンセルに伴う実費相当分を上記の解約手数料に加算させていただきます。お問い合わせ先株式会社こころみTEL:0120-042-488(平日9時~18時)mail: info@cocolomi. co. jp --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-05-06 - URL: https://oyanozasshi.jp/media/ 主な掲載実績 新聞 日経産業新聞3面(2015年5月1日発行) 日経流通産業新聞(日経MJ)「いち早チェック!」(2015年5月13日発行) 東京新聞30面「NEW!」(2015年6月28日発行) 産経新聞朝刊21面生活面(2015年9月11日発行) ※WEBニュースでも紹介 日経産業新聞16面生活・シニア欄(2015年9月15日) 特集「シニア市場に挑む」 中日新聞(長野版)(2016年4月14日) 時事通信配信記事(2018年1月配信) ※聖教新聞などで掲載 夕刊紙・雑誌 「月刊事業構想」12月号(2015年11月発行) 特集「2015超高齢社会の新ビジネス」 夕刊フジ8面「こんな時代のヒット力」(2016年5月9日) テレビ テレビ東京系「ワールドビジネスサテライト・トレンドたまご」(2015年5月8日放送) TBS系「白熱ライブ・ビビット」(2015年5月12日放送) フジテレビ系「めざましどようび」(2015年6月20日) TBS系「アッコにおまかせ」(2015年6月21日) TBS系「あさチャン」(2015年7月15日)名物コーナー「チャン知り」で紹介 テレビ朝日系列 「モーニングバード!」(2015年8月20日) 「ニュースアップ」にて約9分にわたり特集 日本テレビ系 「スクール革命」(2015年11月22日) TBS系『がっちりマンデー』(2016年2月14日) 特集の1つとして約8分にわたり紹介 関西テレビ『知ってトクするニッポンの今 解体!新ジョー式』(特番)(2016年3月21日) NHK名古屋放送局「ウィークエンド中部」(2016年6日月18日) フジテレビ系『情報プレゼンター「とくダネ!」』(2016年9月8日) 読売テレビ系『大阪ほんわかテレビ』(2017年2月24日) フジテレビ系「ノンストップ!」(2017年9月22日) ラジオ Bayfm「with you」(2015年6月16日放送) ZIP-FM「「FABULOUS RIDE / ファビュラスライド」(2015年6月16日放送) FM NACK5「monaka」(2015年6月27日放送) 文化放送「福井健二グッモニ」(2015年7月23日) WEB exciteニュース「Excite Bit」(2015年6月13日掲載) 人気ブロガーちきりん氏による紹介「Chikirinの日記」(2015年5月) 産経ニュース(2015年9月11日) 原宿 Abema news「ネットの噂パトロール」(2017年6月26日) Yahoo! ニュース(Abema news)(2017年6月28日) --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-03-09 - URL: https://oyanozasshi.jp/seminar-entry/ フォーム入力の所要時間は約約45秒です。※ の項目は、必ずご記入下さい。エラー: コンタクトフォームが見つかりません。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2026-04-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/complete-image/ ベーシックプランの場合:ページ構成20ページ、フルカラー表紙※ 3種類からお選びいただけますP2写真(趣味のものや記念品の写真など)P3目次P4人物紹介P5~7年表P8~14創刊記念インタビューP15Short Srories 01P16~17特集インタビュー「幸せについて」P18Short Srories 02P19家族写真&ご家族メッセージ&編集後記裏表紙 上記構成内容は内容により一部異なる場合があります。記事内にはご提出いただいた写真や初回訪問時撮影の写真が入ります。人物紹介と年表は、申込時にお渡しするシートにご記入いただきます。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-03-09 - URL: https://oyanozasshi.jp/seminar-entry-thanks/ 無料セミナーのお申込みが完了しました。自動返信メールをお送りしております。メールの返信がない場合は通常の処理ができておりませんので再度フォームよりご請求いただくか、以下の連絡先にご連絡ください。その他、何かご不明な点等ございましたらお気軽にお問い合わせください。フリーダイヤル 0120-042-488(平日9時‐18時)メール info@cocolomi. net --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2024-06-11 - URL: https://oyanozasshi.jp/privacy-policy/ 個人情報保護方針 株式会社こころみ(以下「当社」という)は、高齢者向け会話型見守りサービス、・自分史作成サービス、高齢者関連ロボット開発支援、その他高齢者関連事業支援を行っております。当社は企業活動および社会貢献の使命達成のため取引先企業やお客様、および当社従業者からお預かりした個人情報は、その取扱いに関しまして本個人情報保護方針を定め、厳正な管理のもとでその責務を履行してまいります。 なお、当社は、個人情報保護方針を随時変更する場合があり、変更した場合には、ウェブサイト上に掲載します。お客様は、ウェブサイト上に掲載される個人情報保護方針の内容を十分にご確認ください。当社方針1.当社は、事業目的遂行のため、利用目的を明確化した上で、適切な方法での取得、利用、提供などを行い、取得した個人情報は利用目的の範囲内の利用とし、目的外の利用を行わない様に措置を講じます。2.当社は、取扱う個人情報(特定個人情報を含む)の全てにおき個人情報の取扱いに関する法令、国が定める指針およびその他の規範を遵守いたします。 3.お預かりした個人情報の一部または全部を委託する場合は、管理水準の基準を満たした企業および個人を選定し、契約を行い、適切な措置と管理を講じます。4.当社は、個人情報の漏洩、滅失,き損および破壊などの危険な状況に対し十分に安全管理および対策を行い、是正措置を講じます。5.当社は個人情報をお預かりした本人からの個人情報の開示、利用の停止または第三者提供の停止等のご要請にお答えし対応します。 6.個人情報に関するお問い合わせ、ご意見、苦情のご相談に対しては以下のご相談窓口を設け、誠意を持ち迅速に対応をいたします。住所:東京都港区芝 5丁目26-24 田町スクエア2FEmail:info@cocolomi. co. jp電話番号:03-6276-0025(受付時間:9:00〜18:00〈土日祝除く〉)7.当社は、当社の個人情報マネジメントシステムを継続的に見直すとともに随時改善に取り組んでまいります。尚、当社の個人情報マネジメントシステムは日本工業規格JISQ15001-2006に準拠しております。個人情報の取扱い、その他詳細項目は関連ページに掲載しております。株式会社こころみの「個人情報のお取り扱いにつきまして」はこちら 制定日:2013年6月26日 最終改定日:2024年6月11日 株式会社こころみ 代表取締役 神山晃男 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-03-04 - URL: https://oyanozasshi.jp/trigger/ 「会話で元気に!」をコンセプトとした、高齢者向け会話型見守りサービスから派生的に生まれた、自分史作成サービス『親の雑誌』。誕生のきっかけは、お客様のこんな言葉。"送られてくる親のレポートが面白くて、毎回印刷してファイリングしてるんです"お客様の仰るように、確かに親御様の幼少期や、戦争時代、学生時代、お仕事や結婚生活、子育て、趣味、最近のお暮らしぶりなど、どのお話しも本当に興味深いものばかり。そこで、私たちは、これらの一つ一つのお話しをご家族にとっても、親御様にとってもより価値のあるものとしてご提供したいと考え、2015年5月に子どもから親に贈る自分史作成サービスとして『親の雑誌』を立ち上げ、スタートさせました。出版会社でも、印刷会社でもない、コミュニケーションサービスの会社が作る、親孝行の新しい形。世界に一つだけの宝物と、笑顔があふれる体験をお届けいたします。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2022-02-01 - URL: https://oyanozasshi.jp/document-entry/ 自分史作成サービス「親の雑誌」にご関心をお寄せいただきありがとうございます。 下記より、「親の雑誌」のページ構成等を掲載した詳細資料のご請求が可能です。 ご入力いただいたメールアドレス宛に資料に関するURLを送付いたします。ダウンロードしてご覧ください。 制作をお急ぎの方は、お申し込みフォームからのお申し込みをお勧めしております。お申し込みいただいても、取材日が決まらなければ費用は発生いたしません。 お申込者のお名前必須 ふりがな メールアドレス必須 『親の雑誌』を知ったきっかけ 紹介者/紹介コード 資料請求 申込 個人情報のお取扱いにつきまして 当社は個人情報保護の取り組みの一環として、個人情報のお取扱いについて、本人の知り得るべき状態における内容とともに、公表すべき事項を以下の通り掲載いたします。(JISQ15001:2006に準拠) 1.個人情報取り扱い事業者の名称と個人情報保護管理者 株式会社こころみ 個人情報保護管理者 神山晃男 2.共同利用について 当社は、個人情報の共同利用はございません。 3.直接ご本人様から取得させていただく個人情報の利用目的 当社が、直接ご本人様より取得させていただくもので、主に同意書、同意文書、web上では同意の確認ボタンなどで同意をいただく情報を指しています。 当社では取得情報項目と利用目的を以下に記載いたします。この取得方法で得られた個人情報に関しましては、本人の権利として、開示等が必要な場合は遅滞なくお知らせすることが可能です。詳細は開示の項目をご覧ください。(例外事項により、開示事項の一部あるいは全部の開示に対応できない場合がございます。) 【資料、事業、製品などの請求及びお問い合わせ時などにお預かりした情報】 ≪利用目的≫: 当該お問い合わせ及びご相談などの対応のため 【お取引先様などの情報】 ≪利用目的≫: 当社が受託した取引内容を履行するため及び諸事項の連絡のため 【応募者及び従業者の情報(当社雇用者の場合は特定個人情報を含む)】 ≪利用目的≫: 採用業務及び人事・労務・社会保険、税務・納税などの事務処理及び管理業務のため 4.ご本人から直接取得させていただくもの 「以外」 の個人情報について 上記3.以外の方法で取得した個人情報で、主に当社の取引顧客様などから依頼を受け業務の一部または全部について履行するために必要に応じてお預かりした個人情報を指します。 利用目的は以下の通りです。 【当社の取引先様から、委託を受けた業務とそれに付随する図面、作業指示書類及びそれらのデータなど】 ≪利用目的≫: お取引様が当社へ委託された当該業務などを遂行するため 【官公庁などの公、或いはそれらに準じた機関などから委託を受けたデータなど】 ≪利用目的≫:データの作成や管理などのため 5.第三者提供について 第三者提供につきましては本人の同意がある場合及び、法などの例外がある場合を除きございません。 同様に個人情報を加工など行うこと及び、これを第三者に提供することも本人の同意がある場合と法などの例外がある場合を除きございません。 6.本業務の委託について 個人情報の取扱いにつきましては、お客様へのサービス向上と業務の適正化などを行うためお預かりしました情報の業務委託を行う場合があります。 委託を行う場合は個人情報保護の管理基準を十分満たしている委託先を選定し必要な契約などを取り交わした上安全レベルの管理向上に勤めます。 7.個人情報提供の任意性について 個人情報の提供は原則任意です。ただし、個人情報を提供いただけない場合は、該当事項につきまして当社からの情報やサービスなどのご提供が出来ない場合がございます。 8.開示対象個人情報の「利用目的の通知」「開示」「訂正、追加又は削除」「利用又は提供の拒否」に関して 個人情報を提供されたお客様は、該当情報に関して「利用目的の通知」、「開示」、「訂正、追加、削除」、「利用又は提供の拒否」を要求する権利を有しております。必要に応じて窓口までご連絡ください。 《個人情報相談窓口》 株式会社こころみ 個人情報相談窓口責任者:神山晃男 個人情報保護管理者:神山晃男 電話:03-6276-0025 email:info@cocolomi. co. jp 9.個人情報の保存期限、廃棄など お預かりしました個人情報は、法定保管年数の保有を行います。 その後の廃棄は厳重に処分及びデータの廃棄を実施してまいります。 こころみの「個人情報のお取り扱いにつきまして」に同意します Δ このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシーと利用規約が適用されます。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2022-02-01 - URL: https://oyanozasshi.jp/document-entry-thanks/ 資料ダウンロード請求が完了しました。メールをお送りしております。メールが届かない場合は通常の処理ができておりませんので再度フォームよりご請求いただくか、以下の連絡先にご連絡ください。その他、何かご不明な点等ございましたらお気軽にお問い合わせください。フリーダイヤル 0120-042-488 (平日9時‐18時)メール info@oyanozasshi. jp  --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2021-03-31 - URL: https://oyanozasshi.jp/privacy_rule/ 個人情報のお取扱いにつきまして当社は個人情報保護の取り組みの一環として、個人情報のお取扱いについて、本人の知り得るべき状態における内容とともに、公表すべき事項を以下の通り掲載いたします。(JISQ15001:2006に準拠)1.個人情報取り扱い事業者の名称と個人情報保護管理者株式会社こころみ 個人情報保護管理者 神山晃男2.共同利用について当社は、個人情報の共同利用はございません。3.直接ご本人様から取得させていただく個人情報の利用目的 当社が、直接ご本人様より取得させていただくもので、主に同意書、同意文書、web上では同意の確認ボタンなどで同意をいただく情報を指しています。 当社では取得情報項目と利用目的を以下に記載いたします。この取得方法で得られた個人情報に関しましては、本人の権利として、開示等が必要な場合は遅滞なくお知らせすることが可能です。詳細は開示の項目をご覧ください。(例外事項により、開示事項の一部あるいは全部の開示に対応できない場合がございます。)【資料、事業、製品などの請求及びお問い合わせ時などにお預かりした情報】 ≪利用目的≫: 当該お問い合わせ及びご相談などの対応のため【お取引先様などの情報】 ≪利用目的≫: 当社が受託した取引内容を履行するため及び諸事項の連絡のため【応募者及び従業者の情報(当社雇用者の場合は特定個人情報を含む)】 ≪利用目的≫: 採用業務及び人事・労務・社会保険、税務・納税などの事務処理及び管理業務のため4.ご本人から直接取得させていただくもの 「以外」 の個人情報について 上記3.以外の方法で取得した個人情報で、主に当社の取引顧客様などから依頼を受け業務の一部または全部について履行するために必要に応じてお預かりした個人情報を指します。 利用目的は以下の通りです。【当社の取引先様から、委託を受けた業務とそれに付随する図面、作業指示書類及びそれらのデータなど】 ≪利用目的≫: お取引様が当社へ委託された当該業務などを遂行するため【官公庁などの公、或いはそれらに準じた機関などから委託を受けたデータなど】 ≪利用目的≫:データの作成や管理などのため5.第三者提供について第三者提供につきましては本人の同意がある場合及び、法などの例外がある場合を除きございません。 同様に個人情報を加工など行うこと及び、これを第三者に提供することも本人の同意がある場合と法などの例外がある場合を除きございません。6.本業務の委託について個人情報の取扱いにつきましては、お客様へのサービス向上と業務の適正化などを行うためお預かりしました情報の業務委託を行う場合があります。 委託を行う場合は個人情報保護の管理基準を十分満たしている委託先を選定し必要な契約などを取り交わした上安全レベルの管理向上に勤めます。7.個人情報提供の任意性について個人情報の提供は原則任意です。ただし、個人情報を提供いただけない場合は、該当事項につきまして当社からの情報やサービスなどのご提供が出来ない場合がございます。8.開示対象個人情報の「利用目的の通知」「開示」「訂正、追加又は削除」「利用又は提供の拒否」に関して個人情報を提供されたお客様は、該当情報に関して「利用目的の通知」、「開示」、「訂正、追加、削除」、「利用又は提供の拒否」を要求する権利を有しております。必要に応じて窓口までご連絡ください。《個人情報相談窓口》 株式会社こころみ 個人情報相談窓口責任者:神山晃男 個人情報保護管理者: 神山晃男 電話:03-6276-0025 email:info@cocolomi. co. jp9.個人情報の保存期限、廃棄などお預かりしました個人情報は、法定保管年数の保有を行います。 その後の廃棄は厳重に処分及びデータの廃棄を実施してまいります。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-24 - URL: https://oyanozasshi.jp/watashinoashiatoc_entry/ ※※受付を終了しました※※フォーム入力の所要時間は約約45秒です。※ の項目は、必ずご記入下さい。エラー: コンタクトフォームが見つかりません。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-24 - URL: https://oyanozasshi.jp/watashinoashiatos_entry/ ※※受付を終了しました※※フォーム入力の所要時間は約約45秒です。※ の項目は、必ずご記入下さい。エラー: コンタクトフォームが見つかりません。 --- --- ## 料金プラン - Published: 2021-04-09 - Modified: 2025-05-21 - URL: https://oyanozasshi.jp/plan/ryoushinnozasshi/ 両親の雑誌ご両親2人分の雑誌をお得に作成!お父様、お母様、それぞれの想いを雑誌にしませんか?お父様、お母様それぞれの自分史を同日取材でお得に作成できる特別パッケージ「両親の雑誌」をご用意しております。2人同日・同じ場所での取材で、お2人目は料金から10%引きさせていただきます。長年連れ添ったご夫婦でも、幼少期や学生時代の思い出、結婚までの歩み、仕事や人生への考え方、家族への思いはそれぞれです。これまでに作成されたお客様からは、「(夫婦の)お互いの気持ちがわかった」「結婚のきっかけの話が食い違っていて笑った」など、お父様、お母様それぞれの雑誌を作成してよかったという反響が多く寄せられています。金婚式や敬老の日、いい夫婦の日(11月22日)、良い夫婦の日(4月22日)、退職記念などのプレゼントにぜひご検討ください。親の雑誌 特別パッケージ「両親の雑誌」概要2人分の訪問取材*お2人が同じ日・同じ場所での取材の場合に適用+バリュープラン、ベーシックプラン、スペシャルプランから選択お2人目は料金から10%引き取材時間の一例10:00~お父様(お母様)取材12:00~昼休憩13:00~お2人分の写真撮影13:30~お母様(お父様)取材15:30~お持ちの写真スキャン16:00 終了「両親の雑誌」発売の背景「親の雑誌」は、1人1人に焦点を当てて作成することをモットーとしています。誰もがその雑誌の主人公、主役になることができ、丸ごと1冊でその方の人生の足跡が分かり、思いが伝わることを特徴としています。そんな中で、発売当初より「両親分の雑誌を1冊にまとめてほしい」というご相談を多くいただきました。ご家族にとってみると、両親は一緒の人生を歩んできたのだから、1冊にまとめてあげたいという思いがあられたようです。ただし、当社には前述の通り、「1人1人に焦点を当てる」「誰もが主人公」というモットーがあり、こだわりがありました。そのため、ご相談いただいても一緒の雑誌にすることはお断りし、それぞれの雑誌を作成することをご提案しておりました。結果として、相談いただいたすべての方が喜んでいただき、「それぞれ作成して良かった」「父と母の思いや、考え方の違いがわかった」と言っていただけました。実は、「親の雑誌」でお話される自分史のエピソードのうち、幼少期や学生時代など20歳前後くらいまでのお話が半分くらいを占める方が多くいらっしゃいます。つまり、ご両親が結婚して共に人生を歩む前の話が約半分ということです。結婚してからもお父様は仕事に没頭、お母様は子育てや家事に勤しむなど、生活や家族との過ごし方、考え方、エピソードは大きく異なる場合が多いです。そんなことも、両親2人の人生をあえて1冊にまとめない」という当社のこだわりを生んだとも言えます。お父様、お母様それぞれを主人公に、そんな願いをこめた「両親の雑誌」。ぜひご検討いただければ幸いです。 --- --- ## ご利用シーン・贈る場面 - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-01-31 - URL: https://oyanozasshi.jp/scene/birthday/ お誕生日のお祝いとして、自分史(親の雑誌)を贈ることは、とても喜ばれます。親御様が1年1年歩み続けられてきた道のりを一度に振り返り、形にしていくという経験は、自分史を作成する以外にはなかなかチャンスがありません。年を重ねるごとに、自分の人生をまとめておきたい、話しておきたい、整理して次に伝えたいという思いを持たれる方が増えてきます。その反面、そのような想いは持ちつつも、なかなかそういうことを話す機会に恵まれないというケースをよく耳にします。だからこそ、お子様から自分史作成サービスをプレゼントされたら、親御様にとっては何よりも嬉しいに違いありません。 ご両親が歩んでこられた人生を振り返る良いきっかけとして、自分史(親の雑誌)のプレゼントをぜひご検討ください。お誕生日のお祝いとして最高のオリジナルプレゼントになります。誕生日今でこそ個人の誕生日を祝うことが当たり前になっていますが、もともと日本には、個人の誕生日を祝うという習慣がありませんでした。なぜなら、昭和24年に「年齢のとなえ方に関する法律」が制定されるまでは、「数え年」で年齢を数えるのが一般的だったからです。「数え年」というのは、誕生日に年を取るというものではなく、お正月(新年)を迎えると、全員が一斉に年を取るという考えです。このように歴史を振り返って考えてみると、個人の誕生日を祝うようになったのは比較的、最近のことなのです。定番のプレゼント:アクセサリー、雑貨、花、インテリア、旅行、食事(ケーキ含む)プレゼント方法2種類の方法から、プレゼント方法を選べます。自分史作成は取材から完成まで通常3か月~4か月ほどかかりますので、それを加味した上でプレゼント方法を選びましょうプレゼントチケット(目録)を渡すプレゼントチケット(目録)をまずはお渡しいいただき、その後のご都合に合わせて取材日を調整し、制作をスタートするプランです。サプライズでプレゼントしたい場合や、時間の余裕をもって自分史の作成を行いたい場合に最適です。自分史(完成品)を渡す誕生日に自分史を渡すためには、数か月前にお申し込みをいただき、取材および制作を進めておく必要がございます。※取材から6週間で仕上げるオプションもございますお申し込みの際に、誕生日に完成品をお渡しになられたい旨をお伝えいただければ、最適な方法や日程をご案内いたします。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-01-31 - URL: https://oyanozasshi.jp/scene/silver-gold-weddinganniversary/ 銀婚式・金婚式のお祝いとして、自分史(親の雑誌)をプレゼントすることは家族の絆を実感できるいい機会となります。結婚からの周年を祝う機会として銀婚式と金婚式は特別な存在です。そのようなタイミングでオリジナルのプレゼントを贈られることは、忘れがたい思い出となります。ご両親様がここまで一緒に歩んでこられた道のりの中で、感じた想いや思い出を銀婚式・金婚式のタイミングであらためて振り返り、自分史(親の雑誌)を作ることは、その後のお二人の人生を明るく照らします。また、それがご家族にとってもかけがえのない宝物となります。ご両親が歩んでこられた人生を振り返る良いきっかけとして、自分史(親の雑誌)のプレゼントをぜひご検討ください。銀婚式・金婚式の最高のオリジナルプレゼントになります。銀婚式結婚記念日を祝うという習慣は、イギリスで発祥と言われており、その後ヨーロッパ中へ広がって行きました。日本では、1894年に明治天皇が銀婚式のお祝いを行い、それが徐々に一般家庭にも定着していきました。その銀婚式には、ここまで2人が一緒に25年間の道のりを歩んできたことへの感謝と、銀のように輝く夫婦への祝福、夫婦の絆をより一層深めていくという意味があります。定番のプレゼント:銀製品、アクセサリー、旅行、食事、花金婚式結婚から50年を迎えて祝う金婚式は、これまで半世紀をかけてご夫婦が「金色の輝きを得て、豊かさを得た夫婦を祝う式」です。昔は、金婚式の「金」にちなんで金製品の贈り物をする習慣があり、日本では夫婦の名前を刻んだ金杯を贈る習慣が有名です。この結婚記念日は、夫婦にとっても家族にとっても最も特別な日です。それぞれへの尊敬や感謝を込めると同時に、末永い健康を祈って家族全員で集まり特別なお祝いをされるケースが多いです。定番のプレゼント:旅行、アクセサリー、食事、色紙、似顔絵、花プレゼント方法2種類の方法から、プレゼント方法を選べます。自分史作成は取材から完成まで通常3か月~4か月ほどかかりますので、それを加味した上でプレゼント方法を選びましょうプレゼントチケット(目録)を渡すプレゼントチケット(目録)をまずはお渡しいいただき、その後のご都合に合わせて取材日を調整し、制作をスタートするプランです。サプライズでプレゼントしたい場合や、時間の余裕をもって自分史の作成を行いたい場合に最適です。自分史(完成品)を渡す銀婚式・金婚式に自分史を渡すためには、数か月前にお申し込みをいただき、取材および製作を進めておく必要がございます。※取材から6週間で仕上げるオプションもございますお申し込みの際に、銀婚式・金婚式に完成品をお渡しになられたい旨をお伝えいただければ、最適な方法や日程をご案内いたします。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2021-02-17 - URL: https://oyanozasshi.jp/scene/longevitycelebration/ 長寿の祝いに、自分史(親の雑誌)を贈ることは、人生を振り返りの良い機会、特別な思い出となります。長寿の節目というのは親御様自身にとっても、ご家族にとっても大きなイベントです。このような記念日に世界に1つだけの特別なプレゼントを家族から贈られたら、親御様としても誇らしい気持ちになります。また、こういう節目のタイミングは、普段できないことを思いきってやってみようという気持ちになれます。長寿祝いのような節目のタイミングは、長い人生の中で多く訪れるものでないため、タイミングを逃さず、思いきってお申込、ご相談をご検討ください。プレゼントの際の注意点やアドバイスもお伝えしております。まずはお気軽にご相談ください。自分史作りは、親御様だけでなく、ご家族も全員が喜ぶサービスです。自分史作成を通して家族のつながり、コミュニケーションがより深まります。 『長寿祝いに自分史』をぜひ前向きにご検討いただけたらと思います。長寿祝い長寿を祝う節目の年齢ごとに、還暦や古希、喜寿、米寿などの名称があります。元々は数え年で祝うものでしたが、現在では満年齢で祝うことが多いようです。ただし、還暦だけは数え年で61歳、満年齢60歳でお祝いします。 長寿祝いのそれぞれ名前と由来は一覧にすると以下の通りです。定番のプレゼント:旅行、食事、花、色紙、似顔絵、フォトアルバム還暦(かんれき)数え年61歳(満60歳)。イメージカラー「赤・朱」。生まれた年の干支に還ることから、「還暦」と呼ばれるようになりました。赤いちゃんちゃんこを着る風習があります。古稀(こき)数え年70歳(満69歳)。イメージカラー「紫」。中国の唐時代の詩人、杜甫の詩の一節である「人生七十古来稀なり」に由来しています。昔は70歳まで生きる人は稀でしたが、現代では稀ではなくなりました。現在でも昔の名残で「古稀」が使われています。喜寿(きじゅ)数え年77歳(満76歳)。イメージカラー「紫」。「喜」という字の草書体が七を3つ重ねた形(㐂)となり、その形が七十七と読めることに由来しています。傘寿(さんじゅ)数え年80歳(満79歳)。イメージカラー「黄・金茶」。「傘」の略字が八と十を重ねた形(仐)となり、その形が八十と読めることに由来しています。米寿(べいじゅ)数え年88歳(満87歳)。イメージカラー「黄・金茶」「米」の字をくずして見ると、その形が八十八と読めることに由来しています。卒寿(そつじゅ)数え年90歳(満89歳)。イメージカラー「白」。「卒」の略字である九と十を重ねた形(卆)となり、その形が九十と読めることに由来しています。白寿(はくじゅ)数え年99歳(満98歳)イメージカラー「白」。百から一を引くと「白」となることに由来しています。あと1歳で100歳というお祝い。紀寿(きじゅ)・百寿(ももじゅ)数え年100歳(満99歳)。イメージカラー「白」。100年が一世紀ということから紀寿、また100歳であることから百寿と呼ばれています。上寿(じょうじゅ)数え年100歳以上の長寿のお祝いで毎年使える特別な名称。茶寿(ちゃじゅ)数え年108歳(満107歳)。「茶」の字は「十・十・八十・八」に分解でき、それらすべて合わせると108(10+10+80+8)になることに由来しています。皇寿(こうじゅ)数え年111歳(満110歳)。「皇」の字を分解すると「白」が白寿の九十九、「王」は十がひとつ、一がふたつに分解でき、それらすべて合わせると111(99+10+1+1)になるに由来しています。大還暦(だいかんれき)数え年120歳(満119歳)。還暦を2回迎えることに由来しています。プレゼント方法2種類の方法から、プレゼント方法を選べます。自分史作成は取材から完成まで通常3か月~4か月ほどかかりますので、それを加味した上でプレゼント方法を選びましょうプレゼントチケット(目録)を渡すプレゼントチケット(目録)をまずはお渡しいいただき、その後のご都合に合わせて取材日を調整し、制作をスタートするプランです。サプライズでプレゼントしたい場合や、時間の余裕をもって自分史の作成を行いたい場合に最適です。自分史(完成品)を渡す長寿祝いで自分史を渡すためには、数か月前にお申し込みをいただき、取材および制作を進めておく必要がございます。※取材から6週間で仕上げるオプションもございますお申し込みの際に、長寿祝いに完成品をお渡しになられたい旨をお伝えいただければ、最適な方法や日程をご案内いたします。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-12-18 - URL: https://oyanozasshi.jp/scene/retirementcelebration/ 自分史(親の雑誌)作成は、退職・退任祝いのプレゼントとして贈るのにも最適です退職・退任のタイミングは、人生の多くの時間と情熱を注いできた仕事人生を振り返り、未来に向けて過去を整理するのにとても最適です。退職・退任によりできた時間を、自分史作成の準備にも使え、作成前から有意義な時間になります。また、完成したあともご自身の人生を写し取った自分史を読むことで、懐かしむとともに、過去を肯定的にとらえることができます。退職・退任のタイミングで、ぜひ自分史作成をご検討いただけますと幸いです。第二の人生を明るく照らす、世界に1つだけの宝物となります。退職・退任60歳、65歳の定年退職、退任が一般的。ただし昨今では70代、80代までお仕事を続けられるケースも増えている。特に創業者、経営者の場合は、長く続けられることが多い。定番のプレゼント:花、色紙、食事、旅行、趣味の物プレゼント方法2種類の方法から、プレゼント方法を選べます。自分史作成は取材から完成まで通常3か月~4か月ほどかかりますので、それを加味した上でプレゼント方法を選びましょうプレゼントチケット(目録)を渡すプレゼントチケット(目録)をまずはお渡しいいただき、その後のご都合に合わせて取材日を調整し、制作をスタートするプランです。サプライズでプレゼントしたい場合や、時間の余裕をもって自分史の作成を行いたい場合に最適です。自分史(完成品)を渡す退職・退任祝いの日に自分史を渡すためには、数か月前にお申し込みをいただき、取材および政策を進めておく必要がございます。※取材から6週間で仕上げるオプションもございますお申し込みの際に、退職・退任祝いで完成品をお渡しになられたい旨をお伝えいただければ、最適な方法や日程をご案内いたします。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-12-18 - URL: https://oyanozasshi.jp/scene/everydaythanks/ 自分史(親の雑誌)作成は、日頃の感謝を込めたプレゼントとして贈るのにも最適です。「お父さん・お母さんの人生をもっと知っておきたい」、「お父さん・お母さんの人生を家族の記念として残しておきたい」と想われること自体が、日頃からの親御様への感謝の気持ちを表しています。“子どもから親に贈る自分史作成サービス”としてスタートした「親の雑誌」は、まさにそのようなお気持ちを持たれているお客様にご利用いただきたいです。今までの自分史は親御様世代の方が、ご自身の意思で自費出版の形で作られたり、個人的にまとめられるケースが大半でした。そこに私たちは、子どもが知りたい、残したいと思ったときに贈る自分史作成サービスがあってもいいのではと考え、自分のため、親のためだけでなく、『家族のため』の自分史作成サービスを作りました。“子どもから親に贈る自分史作成サービスのパイオニア”として、現在も多くのお客様にご利用いただき、テレビや新聞等のメディアでもご紹介いただいております。誕生日や長寿祝い、金婚式、銀婚式等の節目のタイミングももちろん大切ですが、それらのタイミングを待たず、作りたいと思ったときが作り時でもあると思います。作成のタイミングはご相談が可能ですので、まずはご相談ください。プレゼントして自分史作成を贈るというのをご検討いただけますと幸いです。日頃の感謝産んでくれたこと、育ててくれたこと、見守ってくれていること、しかってくれること、心配してくれること、愛してくれること。親への感謝をあげたらキリがありません。定番のプレゼント:花、手紙、食事、旅行プレゼント方法2種類の方法から、プレゼント方法を選べます。自分史作成は取材から完成まで通常3か月~4か月ほどかかりますので、それを加味した上でプレゼント方法を選びましょうプレゼントチケット(目録)を渡すいきなり自分史(親の雑誌)を作成すると言っても、びっくりされて何か仰々しいことが始まるのではないかと親御様がご不安に思われてしまうケースがあります。そういう心配や不安がある場合は、プレゼントチケット(目録)をぜひご活用ください。プレゼントチケットを入れた封筒には、親御様向けの資料も同封しておりますので、まずはそちらをぜひお使いください。プレゼントチケットや親御様向けの資料を使って、まずは自分史を作成したいというお気持ちだけ伝えると、その後がスムーズに進みます。プレゼントチケット(目録)を渡さずに進めるいろいろ事前に説明してしまうと、逆に不安に思われたり、面倒に思われてしまうケースもあります。そういった場合は、自分史を作りたい、協力してほしいと言うことだけ伝えて、お申し込み・日程調整・取材実施と進めていただけたらと思います。取材時にも担当からご説明はいたしますので、取材前に全てを把握している必要はありません。また、弊社の自分史作成はインタビュー受けるだけ完成するというお手軽さが特徴でもあります。そのため、あまり身構えずに進められる方法を選んでいただけたらと思います。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-01-31 - URL: https://oyanozasshi.jp/scene/father-mother-day/ 自分史をプレゼントすることは、お父様、お母様への感謝を表すのに最適です「父の自分史を作りたい、作ってあげたい」、「母の自分史を作りたい、作ってあげたい」というお気持ちは、それだけで親御様の人生を肯定し、産んでくれたこと、育ててくれたこと、そして今も生きていてくれていることへの感謝を表すことができます。親御様への感謝の気持ちを、自分史を通して伝えるとともに、親御様の人生を改めて知る機会にしてみてはいかがでしょうか。父の日・母の日の最高のオリジナルプレゼントになります。父の日父に感謝の気持ちを表す日。アメリカのドッド夫人が『母の日』にならい、父親に感謝の気持ちを伝えるために白いバラを送ったのが始まり。定番のプレゼント:ネクタイ、ベルト、お酒、食事、旅行母の日母の日頃の苦労を労り、母への感謝の気持ちを表す日。アメリカ・ウェストヴァージニア州で、アンナ・ジャービス(女性)が亡き母の追悼ため、フィラデルフィアの教会で赤いカーネーションを配ったのが始まり。(1908年5月10日のこと)※諸説あり定番のプレゼント:カーネーション、小物インテリア、食事、旅行プレゼント方法2種類の方法から、プレゼント方法を選べます。自分史作成は取材から完成まで通常3か月~4か月ほどかかりますので、それを加味した上でプレゼント方法を選びましょうプレゼントチケット(目録)を渡すプレゼントチケット(目録)をまずはお渡しいいただき、その後のご都合に合わせて取材日を調整し、制作をスタートするプランです。サプライズでプレゼントしたい場合や、時間の余裕をもって自分史の作成を行いたい場合に最適です。自分史(完成品)を渡す父の日・母の日に自分史を渡すためには、数か月前にお申し込みをいただき、取材および製作を進めておく必要がございます。※取材から6週間で仕上げるオプションもございますお申し込みの際に、父の日・母の日に完成品をお渡しになられたい旨をお伝えいただければ、最適な方法や日程をご案内いたします。 --- --- ## お客様の声・体験談 - Published: 2024-12-12 - Modified: 2024-12-17 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/3004/ お申込者であるお子様(S. Y様)にお話を伺いました。【S. Y様プロフィール】1962年新潟県糸魚川市生まれ。1981年、高校卒業を機に上京し、東京都大田区の企業に事務職として勤務。結婚を経て2人の息子を出産。その後、主人の起業により約15年間、同事業に従事。現在は近くの生協で週4日パート勤務。東京都八王子市在住。―「親の雑誌」を制作したきっかけを教えてください何年か前にテレビで、「親の自分史をつくる」という特集を見たんです。私は父から幼少期の話をある程度聞いてはいたのですが、私の妹や息子たちはほとんど知りません。あやふやになる前に、文章にしておけば次の世代にも残っていくと思い、制作会社を調べました。ただ、そのころ私は忙しかったので、問い合わせまではしても、なかなか実行には移せませんでした。その話を息子にしたら、「自分がつくってみようかな」と言ってくれたんです。父に伝えると、驚きながらも喜んでいる様子でした。息子は父に昔の話を少しずつ聞いていたのですが、仕事が忙しくなったり、そうそう帰省することもできず、進まない状況でした。その後、新型コロナウイスル感染症の影響があったりして、制作がストップしてしまったんです。余裕ができたら、息子視点での父の自伝の制作は再開してくれたらいいかなとは思っています。新型コロナの影響で父は外に出る機会が減り、90歳を超え動くこともおっくうになっていました。それでもう一度インターネットで調べて、『親の雑誌』を見つけました。インタビューに来てくれるというのがいいと思いましたし、電話で問い合わせた時の印象もよかったんです。資料を取り寄せた後は制作がトントン拍子に進みました。―「親の雑誌」をつくりたいと伝えた時の親御様のご様子は?父に伝える前に、電話で母に伝えました。父の耳が遠いこと、インタビューの経験なんてないこと、どんな人が来るのか、など少し不安はあったようです。母には「お母さんは何もしなくて大丈夫。私たち夫婦がアシストするから」と伝え、納得してもらえました。その後、父に『親の雑誌』の資料と取材前に提出する「プロフィール」「年表」の書類を送りました。そこに「この度、お父さんの自伝本をつくることにしたので、記入をお願いします」と手紙を添えて。父はまんざらでもないうれしそうな様子だったようです。―事前準備(プロフィール、年表の作成、掲載写真の準備)はどうでしたか?プロフィールと年表は、父が途中まで書いてくれたんですが、疲れてしまったようでした。私は東京、両親は新潟に暮らしているのですが、2カ月に一度は帰省しているんですね。だから帰省した時に一緒に書くことにしました。父は几帳面な性格で、何十年も日記をつけています。その日記を父が1冊のノートにまとめていたんです。もしかしたら、息子が父の本をつくると言った時にまとめたのかもしれないです。それがあったので、年表はつくりやすかったですね。写真についても、父は数十冊もあるアルバムをきれいに整理していました。だから、日記と年表から掲載写真は比較的迷わずに選ぶことができましたね。実家にあったアルバムのうち20冊ほどを私の家に持ち帰り、掲載したいと思う写真を厳選してスキャンしました。ただ、最初に掲載したいと思っていた写真以上にいい写真がたくさん出てきたんです。それで取材の時に、『親の雑誌』のスタッフさんと相談しつつ、最終的に入れる写真を選びました。父は普段からとてもおしゃべりなんですけど、知らない人が家に来て取材されることに緊張するかなと思っていました。実際に取材では、話しやすい方がきてくれ心配はありませんでした。とっぴな爆弾発言や、私が赤面するような自慢話にも丁寧に耳を傾けていただきありがたかったです。―制作中、親御様とのコミュニケーションの量は増えましたか?私は実家に定期的に帰っていますし、妹家族、息子家族、いとこ、親戚なども寄ってくれるような、コミュニケーションが多い一族なんです。だからそこはとくに変化はなかったです。―「親の雑誌」が完成した時の親御様はどのようなご様子でしたか?父と母に1冊ずつ、父のきょうだいにも1冊ずつ送りました。直接渡したかったんですが、タイミングが合わず郵送しました。でもその方が、じっくり読めてよかったと思っています。父はとても喜んでいました。実は、文字原稿を確認する段階から何度も何度も読み返していたそうなんです。文字原稿は、私の妹にも見せていたようです。完成後、父は自分の雑誌をいつも手元に置いているようです。愛読書になっているんじゃないかな。私が帰省した時も見えるところに立てかけてありました。―「親の雑誌」が完成して、親御様に対して気持ちの変化はありましたか?私は父の子ども時代、どうやって学び、働いてきたのかなど大変さを聞いてはいたんです。ですが、雑誌としてまとめたことで、改めて父の過ごしてきた時代が大変だったこと、生き抜いてきた強さを感じましたね。90歳を過ぎた父のことを、これまでのことを含め尊敬しなおしました。私たち姉妹は、父と母に返すことはできないほどの愛情を与えられて成長しました。そして、両親のおかげで幸せな時代を生きることができています。昔から両親には感謝しかありません。私は田舎の3人姉妹の長女で、お婿さんをとって家を継ぐのが当たり前という中で育ちました。ただ、一度は外に出てみたいと東京に出てきたんです。そして、そのまま今も東京で暮らしています。東京に出ると言った時、両親は困惑したと思いますが、それでも送り出してくれました。両親には家を継がなかったという申し訳ない気持ちと、私の意思を尊重してくれたという感謝の気持ちがあります。感謝は日ごろからそれとなくしているつもりですが、面と向かって言うには照れ臭い言葉も、雑誌内の家族メッセージで伝えることができました。感謝の気持ちが文章として残ることも、父に喜んでもらえたかなと思います。愛読書でもありますしね(笑)。―ご家族はどんなことをおっしゃっていましたか?父のきょうだいにも喜ばれました。父の両親やきょうだいのことも雑誌には掲載しているんですよ。90歳近いおばやおじから電話があり「いい本をつくったね。えらいね」とほめられました。妹夫婦も「いい本ができたね。ごくろうさま」と言ってくれました。いとこたちは「おじさんの苦労がわかった」と言っていましたね。―「親の雑誌」制作を通して感じたことがあれば教えてください雑誌に掲載したいことが多すぎて、確認用の文字原稿を読んだあと、パソコンの前で3日くらい考え込みました。それは苦労ではなくて楽しい時間でしたね。読み返すたび、あれも入れたい、これも入れたいという思いが強くなったんです。雑誌を渡したおばやおじのことも、父の日記から抜粋して加筆しました。実は取材の翌日、私が父にそれとなく取材の続きをおこなって追加した内容もあります。文章を書くこともない生活の中でちょっと編集者気分も味わえました。それも「こころみ」さんの取材のベースがあってのことですが。出来上がった雑誌は、文章も写真のレイアウトもすばらしかったです。家族からのメッセージとして、妹や息子からの文章も掲載し(オプションでページ追加をおこない、メッセージページとしました)思い通りの雑誌をつくることができました。本当にすばらしくて、大満足です。大満足ではありますが、もう少し早めにつくればよかったという気持ちもあります。父は耳が聞こえにくくなったし、受け答えも遅くなってしまっていたので、伝えきれなかった事柄もありました。制作を始めるタイミングは、子ども側に時間があるかどうかも含め、難しいと感じました。私の自己満足で制作を始めたところもあるのですが、完成品を手にしてみて、つくって本当によかったと思っています。親しい知人や友人には『親の雑誌』のURL(オプション:「親の雑誌」紙面データ共有用クローズドURL)を送って、父のことや『親の雑誌』のことを知ってもらっています。「こころみ」さんを見つけてよかったです。親孝行ができました。申し込みから完成までの半年間ありがとうございました。 --- - Published: 2024-10-02 - Modified: 2024-12-17 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2931/ お申込者であるお子様(K. M様)にお話を伺いました。【K. M様プロフィール】東京生まれ。接客業・企画の仕事、リトミック教室運営、保育の仕事に携わる。31歳、28歳、24歳(2024年現在)の3人の母。―『親の雑誌』を制作したきっかけを教えてください私の祖母の自分史がきっかけです。祖母の子どもが作ったのですが、100ページほどの立派なものでした。祖母の日記を軸に、知り合いからの手紙や、知り合いから見た祖母の話が掲載されていました。その自分史は、作り手や周囲の思いが見えるというか、愛情を感じられる、温かいものだったんです。それを見て、私も父の自分史を作りたいと思うようになっていました。父の若いころや、仕事のこと、断片的に聞いていた話をつなげたい、まとめたい、父のことをもっと知りたいと思いました。私は父のことが大好きなんです。だから、父に対して私の思いをまとめ、形にしたものがほしいという、自己満足的な気持ちもありましたね。そうして、退職してすぐ時間ができたこともあり、前々からやりたかった父の自分史作りを始めました。―『親の雑誌』を作りたいと伝えたときのお父様やご家族の反応は?父は仕事の関係上、表に出ることに慣れていたので、取材されたり、雑誌に掲載されたりすることに抵抗がなかったようです。作りたいと伝えたときは「うん、いいよ」という感じでした。説得しなくてよかったのは楽だったと思います。母からは、準備を急ごうとしたら予想していない言葉が返ってきました。「私たちはまだ死なないから大丈夫よ。だから慌てないでちょうだい」と。母は「人生の終わり」を意識したようです。そういうふうに思うのだと知りました。私は、母の気持ちを考え、父のことをまとめたいという私の気持ちと「作る過程を通して、みんなが楽しめる」ものだからと伝えました。きょうだいたちからは「ありがとう」と言ってもらいました。父のこれまでのことを形にしたいという思いはきょうだいにもあったんですね。相談にのってくれたり、写真選びなども全面的に協力してくれたので、私も「ありがとう」という気持ちです。家族メッセージ(『親の雑誌』にはご家族からのメッセージを掲載できるページがあります)はきょうだいで考えました。―『親の雑誌』制作を通して感じたことがあれば教えてください。両親と一緒に暮らしているわけでないので、両親の家に行って準備することが大変でした。数年前、両親が引っ越したときに、父の著作や会社関係の資料を整理しようと保存していたんです。年表はそれをもとに作りました。年表の作成や写真選びなど、全部を自分たちでやらないといけないのも大変でしたね。アルバムが数十冊もあるのですが、両親は高齢ですし、父は認知症でもあるので、写真を選ぶことが難しくて。でも、私には、どれが父の心に残る写真なのかわからないんです。私は父がいい表情をしている写真を載せておきたいし、保存しておきたい。だからひとつひとつ見ていきました。それでも、写真がいつのものなのか、年表やインタビュー原稿の内容が正しいのかは、父でないとわからないことがあります。母にも写真選びに協力してもらいました。父は写真ひとつとっても、母に何度も同じような質問をするので、疲れてしまうこともあったようです。両親が「親の雑誌」を作ることを面倒に感じ「こんなことやめたい」と言わないよう無理に進めないよう気を付けました。―『親の雑誌』が完成したときのお父様はどのようなご様子でしたか?父は、文字原稿を確認するときから何回も読んでいました。普段はすぐに疲れてしまうので、ごく短時間しか読書できないんですけどね。認知症の影響もあるのか、感想は聞けていませんが、読み終わると最初に戻ってまた読み直して、と何度も読んでくれています。目の前にあるとずっと読んでいるんですが、感想が聞けないことは残念ですね。―完成した『親の雑誌』を読んで感じたことはありますか?私は、父が言ったことを、言ったままの言葉で残したかったんです。父が何度も言っていたことを載せたいと思っていました。父が私に向けて細切れにしゃべったことは、父と私にしかわからないことなので、客観的に読むとよくわからない内容があったかもしれません。でも、父の言葉をそのまま載せることで、私は思い出がよみがえるんです。父の雑誌を読んでいると父の声が聞こえてくるんです。読むたびによみがえる声や情景があるものができたことがありがたかったです。だから、文字原稿を読んだときから、とてもうれしかったんです。『親の雑誌』に頼んで良かったと思いました。孫たち(子世代)も父がいろいろな仕事をしていたのは知っていて、「私はおじいちゃんみたいになりたい」と言っていたんです。でも父が具体的にどんなことをしてきたかは伝えられていなかったので、それが残せたのも良かったです。―自分史作成サービスの中から『親の雑誌』を選んだ理由はなんですか?ウェブ広告やウェブサイトが温かい感じだなと思い問い合わせました。そうして誠実なお返事をいただけたことでしょうか。何度か質問しましたが、最後まで誠実に対応してもらいました。自分だけで父の自分史を作ることはできなかったので、『親の雑誌』というサービスがあって助かりました。制作には時間も手間もかかりますが、出来上がったものに満足しています。 --- - Published: 2024-03-19 - Modified: 2024-12-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2826/ (写真:お父様の「親の雑誌」とお父様が「親の雑誌」を配った際に同封したお手紙)お申込者であるお子様(飯塚悦子様)にお話を伺いました。【飯塚悦子様プロフィール】栃木県日光市出身。茨城大学教育学部卒業後、栃木県日光市のホテルに勤務。結婚と共に宇都宮市に移り、ビューティアトリエグループに勤務。理美容室の運営本部にて、企画やセミナー事業、飲食事業に携わっている。大学1年、中学3年、小学5年の三姉妹の母。―「親の雑誌」を制作したきっかけを教えてください父は本や新聞をたくさん読むんですが、自分史が作れることを新聞の記事で知ったらしく、原稿を書き出しました。そんな父を見て、私は仕事でつながりのある印刷会社に、自分史を作れるにはどうしたらよいか相談しました。そうしたら自分史を作るには100万円以上かかるという話でした。さすがにそんな費用は出せないけれど、どうにか形にしたいとネットで調べていたときに「親の雑誌」を知りました。父は年を重ねてから、昔の話をするようになったんです。6年前に母が他界して、一人暮らしになったんですが、それからさらに昔の話をするようになりました。私も父の話を聞いて、波乱万丈な人生を送ってきていることを知り、残したいと思いました。 きょうだい共通の話題としても、父が自分史を作りたがっているというのがありました。2023年3月で父は88歳になったんですが、米寿のお祝いのプレゼントは何にするかと相談していたこともあり、「親の雑誌」制作をきょうだいからのプレゼントとして渡しました。―「親の雑誌」の制作をお父様に伝えたときのご様子は?まず資料を読んでもらいました。最初は、自分で書いたものをどうにかしたいと思っていたようです。私たちが「プロに聞いてもらってまとめてもらうのが、スピード感もあるし、現実的じゃないかな」と伝えて理解してもらいました。―事前準備(プロフィール、年表の作成、掲載写真の準備)はお父様と一緒に行われたのでしょうか?基本的には私が父に聞きながら準備しました。年表は、父はかなりしっかり覚えていました。尊敬の域ですね。ただ出来事一つ一つの話をしてしまうので、なかなか進まないんです(笑)。写真選びはとても大変でした。昔の写真はあるんですが、しまっている場所が分からなくなっていたので、探し出すのが大変でした。父の記憶の中にある「あんな写真」がなかなか見つからなかったです。写真選びは姉にも手伝ってもらいましたね。―取材に同席されて感じたことはありますか?長時間、取材していただいてありがたかったです。身内だとああいう聞き方はできないです。インタビュアーの方の聞き出すうまさもあるとは思いますが、うなずきながら、前のめりで聞いていただいたことが、うれしかったんだと思います。プロの方に聞いてもらうことで大満足していたようです。取材が終わった後に、「こんなに長い時間しゃべっていたのか」と言っていました。私の長女も取材には同席しました。長女はおじいちゃんが大好きなんですが、そのおじいちゃんの話を聞いて、尊敬の念が増したようです。取材を通して知れてよかったことがあります。ひとつは、父の母への思いです。父は昔の話をよくしますが、母に対する思いを聞くことがなかったんです。こんなふうに思っていたんだ、と知れたことはよかったです。もうひとつは、父は幼少期の悔しさをバネに生きてきたということ。私は会社員ですが、兄は医者、姉が薬剤師なんですね。父は苦労しながら、子どもに質の高い教育を与えたんだなと思いました。もちろん、父の期待に応えた兄と姉もすごいと思います。父には「財産は教育で残す」と言われていたんですが、それは幼少期の悔しさからきているんでしょうね。―完成した雑誌はいつお父様へ渡されたんですか?父からはいつできるのかと、頻繁に催促されていたんです。本当は、兄と姉にも協力してもらったので、みんながそろうお正月に渡したかったんですよ。でもあまりにも頻繁に催促されるので、兄と姉に許可を得て先に渡しました。原稿を確認しているので、ある程度は分かっていたと思いますが、とても喜んでいました。雑誌が届く前に知り合いに送るときの手紙を書いていたんです。それくらい待ち遠しかったのだと思います。「俺の人生に興味を持っている人に送るんだ」と言っていましたね。 制作の過程で、デザイン校正紙(文字原稿と写真がレイアウトされたもの)が私のところに送られてきたので、父に渡して確認をお願いしたんですが、最後の家族メッセージのページはその段階で父に渡していないんですよ。出来上がってきてからのお楽しみにしてほしくて。それも喜んでもらえました。―完成した雑誌を見たご家族からの反応は?兄に感謝の言葉をもらいました。「自分には、こういったことはできない。感謝している」と言われましたね。兄は「親の雑誌」を読んで、孫たちに一冊ずつ渡した方がいいということで増刷もお願いしました。―「親の雑誌」を作ってみて、どのような方がこのサービスを利用するのがよいと感じられましたか?私にとって、「親の雑誌」を作ることは、父への感謝と尊敬の気持ちを形にすることでした。親御さんへの感謝や尊敬を形にしたい人にはいいサービスだと思います。自己満足もあると思いますが。一緒に作業をするのもいいですよね。プロフィールや年表を作れることで、改めて趣味や座右の銘を知る機会になりました。一緒に取材に行ったり、原稿を読んだりするのも、「親の雑誌」を通してしかできないことですから、そういった体験をしたい人にも向いていると思います。作る前に「親の雑誌」の資料を見ただけでは分からなかったんですが、作る過程も楽しかったのは、いい意味で予想を裏切られましたね。出来上がってみて、リーズナブルだと感じました。話を聞いてもらって、細かいやり取りをしてもらって、こんなに安くていいのかなって。申し込む前は高いと思いましたが、過程や工程を知ると、価格に対しての満足度はとても高いです。親御さんへの感謝や尊敬を形にしたい人であれば、作ってよかったと思えるものが出来上がるんじゃないでしょうか。 ▶『親の雑誌』お申し込みはこちらから▶『親の雑誌』資料請求はこちらから 株式会社こころみ --- - Published: 2024-02-21 - Modified: 2024-12-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2816/ 写真:お申込者の尾堤智様とおじい様の「親の雑誌」お申込者であるお孫様(尾堤智様)にお話を伺いました。【尾堤智様プロフィール】1990年生まれ埼玉県出身。幼少の頃より病気を患い入退院を繰り返すが、医師から「無理のない運動を」と勧められ野球を始める。そこから野球に没頭し体調も良くなる。 2013年に獨協大学経済学部を卒業後、家業を継ぐ前提で修行のため仙台市の経営コンサルタント会社に就職。2018年に佐野市の会社に転職し多くの業種を請け負う。 2022年ごろから家業の仕事に携わるようになり、現在は家業の新業態ヨーグルト店の店主を務める傍ら、佐野市でチームビルディング研修などにも取り組んでいる。―おじい様のために、「親の雑誌」を申し込んだ理由を教えてください。祖父が体調を崩したことがきっかけで、私は祖父と同居し、2人暮らしが始まりました。その時に、祖父が自分の年表を書き始めたんですよ。雑紙(ざつがみ)に書いているのを見て、形にしてあげたいと思いました。方法を模索している時に、友人のSNSで「『親の雑誌』を作るために、都内でインタビューを受けた」という投稿を見てこのサービスを知りました。ウェブサイトを見て、自分でゼロから作るより、時間もかからないだろうし、料金も良心的だと思って申し込みました。―「親の雑誌」を作りたいと伝えた時、おじい様はどんな反応をされましたか?最初は断られたんです。ただ、作りたくないというわけではなく「いや〜、いいよ〜」と照れ臭そうな雰囲気だったんです。興味は持ったようなので、私が口で説明するよりもと思い、ウェブサイトのトップにあるYouTubeの動画を見せたんです。そうしたら「作ってもいいよ」と言ってくれました。―事前準備(プロフィール、年表の作成、掲載写真の準備)は、スムーズに進みましたか?年表は祖父が作っていたものを参考にしました。とは言ってもきれいにまとまってはいなかったので、方々から情報を集めるのは大変でした。祖父から、仕事関係で絶対入れてほしい項目を伝えられたり、その事柄がいつだったかというのを調べたり、それらを50行に収めるという調整が大変でしたね。※年表は50行までとさせていただいていております。掲載用の写真集めは、家族みんなが協力してくれましたが、選定が大変でした。祖父の写真という形でカテゴライズしておらず、イベントごとにフォルダーを分けていたんです。そこから祖父の写真をピックアップしたので時間がかかりました。でも、「こんな写真があったんだ」ということを家族も祖父本人も思い出すきっかけにもなったんです。お互いにとって面白い時間でしたね。写真はある程度の量がありました。祖父は体調を崩すまでずっと現場にいましたし、仕事柄写真を撮られる機会もあったので。それに、父も私も写真を撮るのが好きなので、こまめに撮影していたんですよ。写真の選定で、私なりに工夫したやり方があります。パソコンの画面上で見ているだけだとどの写真を選んだのか、満遍なく選べているのかが分からなくなるんです。それで、一度集めた写真すべてをA4サイズの紙に16分割ぐらいで出力し、出力した写真を見て◯をつけるということをしました。このやり方だと、どの写真を選んだのかが分かりやすかったです。―制作中、ご家族とのコミュニケーションの量は増えましたか?増えましたね。祖父の雑誌なので、孫の私は祖父の年表では後半に登場します。だから、年表の年月を確認するために「結婚は何年だった?」と両親に聞いたり、「この写真は何?」と祖父に聞いたり、写真の収集を家族にお願いしたり、コミュニケーションを取りながら進めていきました。―インタビューを受けた後のおじい様はどのようなご様子でしたか?実は、インタビューの翌日から祖父は手記を書き始めたんです。小さい頃のこと、兄弟のことなど、インタビューで話した内容を元により詳細な事柄をノートにびっちり書いていきました。映画で言うディレクターズカット版ですね。筆が乗っている時は、夜の11時半くらいまで書いていました。結局書き終わった時、200文字詰め原稿用紙で50枚以上になりました。それは私がテキスト化したので、印刷する予定です。 インタビューを受けて、どんどん熱があがっていったんでしょうね。インタビューがあったから手記を書き始めたんだと思います。―「親の雑誌」が完成した時のおじい様の反応は?恥ずかしそうにしながらも「どこに配ろうか」と配布先のリストを作り始めました。来客があった時にも「手前みそで恐縮ですが... ... 」と言いつつ、配っていましたね。雑誌は最初に50部申し込んでいたのですが、結局足りなくなって100部増刷し、今も配布しています。 家族もみんな喜んで、それぞれがいろんな所へ配りました。―「親の雑誌」制作を通して感じたことがあれば教えてください。祖父の人生について、大変な時代を生きてきたこと、ゼロから家業を立ち上げたことなど、なんとなく聞いたことはありました。ただ、戦争の話や家業での苦労話などは知らないことが多かったです。孫の私だけではなく、父も知らない話があったようです。祖父のこと、家業のことを知るきっかけになりました。私自身は、改めて祖父が立ち上げた家業をなくしたくないと思いました。祖父の雑誌では、両親へもインタビューしてもらいました。祖父の家業を父が継いでいるので家業の話が多かったですが、次の世代である私には仕事をする上で知ることができて良かった内容でした。インタビュアーさんが聞き上手であるからこそ、普段聞けないことが聞けたんだと思います。最終的に「雑誌」という形に残るものができましたが、それ以上に残るものがありました。―今回はご要望をいただき、表紙のタイトルをおじい様の手書き文字にしました。祖父は書くことも好きですが、達筆でもあります。祖父が書いた字を使った商品デザインもあるんですよ。そういったことから、表紙に祖父の字を入れたいと思ったんです。名前ではなく、祖父の座右の銘を入れるという選択肢もありましたが、いろいろ試してやはり名前にしよう、となりました。祖父には、自分の名前を何回も書いてもらって、その中から一番良いものを使いました。「親の雑誌」のオプションは複数ありましたが「表紙タイトルに手書き文字を使用できる」を加えたほうがいいと思いました。手書きならではのあたたかみが生まれるんですよ。「親の雑誌」の文章は口語体ですよね。そこにもあたたかさを感じて気に入っていますが、さらに手書き文字が表紙になっていると相乗効果でよりその人らしさを伝えられると思います。※表紙タイトルに手書き文字を使用にご興味がある方は、お申込時にお知らせください。―「親の雑誌」制作を振り返って、どのような点がよかったですか?「親の雑誌」はフォーマット化されているからゼロから作るより安価です。ただ、私の場合は、表紙タイトルを手書き文字にしたり、両親へのインタビューも行ってもらったりしたので、決まったフォーマットがありつつも、できる範囲で融通をきかせてもらえました。そういった意味でも感謝しています。「親の雑誌」に興味がある人は多い気がして、実際に私はいろんな人に勧めているんですよ。「ゼロからこういう雑誌を作ると考えたら、安い」「申し込み側の仕事量は多いですが、丁寧に対応してくれる」「聞き上手なのでインタビューでいろんなことを聞き出してくれる」と伝えています。 丁寧な対応もしていただき、形に残る以上のものを残してくれました。私は、祖父の「親の雑誌」をつくって大満足です。 ▶『親の雑誌』資料請求はこちら▶『親の雑誌』お申し込みはこちら --- - Published: 2024-02-16 - Modified: 2024-12-17 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2805/ 「親の雑誌」は家族で作る自分史として、ご家族皆様で制作の過程から楽しんでいただきたいというコンセプトのもと、サービスを提供しています。「親の雑誌」をお申込みいただく方たちの理由は様々ですが、中には、親御様が以前より元気がない、病気になってしまったので、という方もいらっしゃいます。今回はあるお子様から頂戴したコメントをご紹介いたします。特に、ご高齢の親御様を持つお子様に読んでいただければと思っております。お客様から頂戴したコメント正直に申し上げると、母は雑誌を気に入っていないのです。それは取材時のやり取りや雑誌の仕上がりなどとは全く関係なく、おそらく母の認知症が原因です。実は母に自分史を作ってもらおうと思ったきっかけは、母の様子が変だなと感じた事でした。趣味が多く仕事が早くいつもチャキチャキしている母が昨年の春頃から急に元気がなくなって、電話の度に「もう急に何もできなくなっちゃって。つまんない。」と言うようになったのです。それで私は母に「『親の雑誌』作ってくれない?」と頼みました。きっと母も楽しいだろうと思ったのです。母も二つ返事で了承してくれました。しかし母の様子が変だと感じる事は更に増えていきました。取材の準備について電話で打ち合わせをしても何だか話がぼんやりしているというか、まるでどうでもいいのでいいかげんに返事をしている様な、今までの母とは違った印象を抱きました。雑誌の取材に合わせて2023年8月に帰省すると母の姿の変わりように驚きました。すごく痩せてしまい、ちょこちょこ歩くようになっていました。雑誌用の写真を選ぶ際に、良い写真だけを集めて自分で作り直したアルバムの存在を忘れて、古いアルバムから写真を選んでいたので私がほとんど選び直しました。取材当日はとても楽しそうに話をしていましたのでほっとしましたが、やはり内容に多少の違和感を覚えました。子どもができた時の感想とか昔聞いたのとは違う内容だなと思う所がいくつかありましたので。2023年9月に頂いた原稿を母に送ると、「これ誰が書いたの?誰からこんな内容聞いたのかしら」などと言い、取材で自分が話したという事を忘れていました。それでも原稿を読んで誤字を見つけたり、子どもができた時の感想の部分を「これはちょっとひどいから変えたいわ」と言ったり、以前の母に戻ったかの様な時もありました。しかし、デザイン校正紙に載っていた昔の自分の写真を見て「これは私じゃなくておばさま(母のすぐ上の姉)よ」と言ったり、訂正について話をしても「まあどうでもいいんだけど」と投げやりだったりでした。※親の雑誌の制作過程には、文字原稿の確認と、文字原稿とお写真がレイアウトされたデザイン校正紙を確認したいだくステップがあります。年末に帰省して母に雑誌の完成版を渡すと「恥ずかしい」と見るのを嫌がりました。年が明けて1月4日に電話があり暗い声で「雑誌が届いてますけど」と。年末に手渡した母の雑誌の事でした。「年末に私が渡したのだよ」と言うと「そうだったっけ?」と。そして「なんか恥ずかしいわ」と。「誰にも見せないから。家族が持ってるだけだから」と言うと「そうね」と少し安心した様な感じでした。もしかしたら、母は最初から自分史を作るのは乗り気じゃなかったのかもしれません。しかし私が母を喜ばせたいと思って自分史制作を勧めているというその私の気持ちを汲んで、作ると言ってくれたのかもしれません。ところが作っている内に認知症が進んでしまって本音がぽろぽろとこぼれてしまったのかもしれません。「もっと若い時に、しっかり色々覚えている時に作りたかったわ」とも言っていました。結局、母の為ではなく私の為でした。少しほろ苦い気持ちになってしまいましたが、それでも私は作って良かったと心から思っています。弟は全然知らなかった母の過去を知る事ができて感慨深いと言っていましたし、孫たちにもおばあちゃんを知ってもらうきっかけになって良かったです。そして少なくとも「私が見聞きした母の歴史」が形になって良かった、間に合った、という気持ちです。 --- - Published: 2024-02-14 - Modified: 2024-12-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2787/ (写真:申込者及川厚博様とお父様の「親の雑誌」)お申込者であるお子様(及川厚博 様)にお話を伺いました。【及川厚博 様プロフィール】1989年北海道生まれ。2011年アプリ開発の会社を起業。別事業に集中するため、2015年に同事業を事業譲渡。その際、譲渡先の探し方がアナログだったため、事業譲渡に苦労した。また、自身が事業承継問題の当事者でもあるため、中小ベンチャーのM&Aに興味を持つ。これらの課題をテクノロジーの力で解決したいという思い、株式会社M&Aクラウドを設立。―「親の雑誌」を制作したきっかけを教えてくださいFacebookで「『親の雑誌』を作った」という投稿を2回くらい目にしました。その投稿が印象に残っていて、父の還暦祝いに作ろうと思いました。『親の雑誌』をいいなと思った理由は2つあります。1つ目は事業承継です。私には2人弟がいて、昨年、父が経営している会社に就職しました。弟たちが事業承継するときに、父の思いを形に残しておくことが大事だと思ったんです。2つ目は私は歴史が好きなんですね。人の生きた証しを残したいという思いがあります。私の価値観としてそれがあるので、父の歴史を形に残すのに『親の雑誌』はちょうどいいなと思いました。今回は父の還暦祝いで作成したので、私1人からではなく、兄弟3人から父へのプレゼントにしたかったんです。だから、雑誌作成の過程だけではなくて、料金の一部を弟にも負担してもらいました。1人で払うには『親の雑誌』は安くはない金額ですが、兄弟で分割すると負担は減るので、制作へのハードルも下がると感じました。―「親の雑誌」を作りたいと伝えたとき、親御様はどんな反応をされましたか?確か父にLINEでお願いしました。『親の雑誌』のウェブサイトのURLも一緒に送ったら、「よくわからないけど、いいよ」と言ってくれました。父は経営者なので、さまざまな媒体に出ています。会社がある北海道ではテレビCMに自分の顔を出すくらいなので、インタビューを受けることにも抵抗はなかったと思います。―事前準備(プロフィール、年表の作成、掲載写真の準備)はスムーズに進みましたか?事前準備は大変でした。私は自分の結婚式でもそうでしたが、準備が苦手です(笑)。なので、仕事だと思って割り切ってやりました。仕事だと思うと動けるんですよ。 母と弟2人に仕事を振り分け、私はプロジェクトマネージャーとして業務を動かすようにしました。年表は母に会って一緒に作成し、それを母から父に確認してもらい、修正するという手順です。プロフィールも母と私で作りましたが、母の協力がないとプロフィールと年表の作成は厳しかったと思います。写真は母、弟2人、私の4人で実家に集まって選びました。表紙に掲載した写真は北海道の実家に私が帰ったときに撮影しました(今回は都内でインタビューをおこなったため、表紙用のお写真は北海道のご実家の前でお申込者様に撮影していただきました)。その他に、費用の振り込み、取材日の調整、取材場所の調整(今回は及川様に予約していただいた都内の会議室でインタビューを実施しました)などもありました。原稿確認は、家族以外に見せても気にならない内容かを検討した後に、父に確認するという流れで行いました。家族全員、大変だったと思います。―制作中、ご家族とのコミュニケーションの量は増えましたか?増えました。ただ、もともと家族仲がよくて、年に1~2回は集まります。だから、制作中のやりとりは増えましたが、「親の雑誌」を作ったからコミュニケーションが増えたということではないですね。―「親の雑誌」が完成したときの親御様はどのようなご様子でしたか?今年の元日に家族で「開封の儀」をしました。残念ながら私は第二子が誕生した直後で、実家には行けなかったのでオンラインでの参加でしたが、実家に家族みんなが集まっていました。もりあがっていましたね。父も楽しそうに読んでいて、よくできていると言っていました。―「親の雑誌」が完成して、親御様に対して気持ちの変化はありましたか?父への感謝の気持ちが増しました。それに、私も波のある人生ですが、父も波のある人生だと知れたので自己肯定感があがりました(笑)。 父は家庭では巨人の星の「星一徹」みたいな感じなんですよ。私はインタビューに同席したんですが、横で話を聞いていてどうしてそうなったのか理解できました。父の両親のことや、今までどういう人生を歩んできたのかを聞くことで、父の人格形成の過程を知ることができました。そういった生き方をしてきた父が私に接してきたのであれば、私はこんな性格になるよな、と腑に落ちました。父の人生の道のりを知ることで自分自身の人格形成に納得感も生まれ、自分への理解度があがりました。事前準備で作成した年表もよかったと思っています。私が作成した年表には父の年齢も記載していました。『親の雑誌』ではフォーマットに年齢を記載できなかったので、完成した雑誌には載っていないのですが、年齢も掲載できるといいと思いました。というのも、年表を見て「今の自分の年齢で父は転職したんだ」とか、「40歳のときに起業したんだ、すごいな」などと自分の生きた時間と重ね合わせて、父の時間を見ることができるからです。また、これは想像ですが、弟である次男は今32歳、三男は27歳なんですね。父の『親の雑誌』を見て、父の破天荒な軌跡をたどると、安心することもあるのではないかと思います。※年表への年齢掲載についてご希望の場合は申込時にご相談ください。―「親の雑誌」をつくってみて、どのような方がこのサービスを利用するのがよいと感じられましたか?親御さんが会社を経営していて、事業承継を考えている人や、自己分析、自己理解を高めたい人にお薦めですね。私は、弟が父の経営する会社に入社したタイミングでもあったので、事業承継という観点でも得るものがありました。 父への理解も深まるので、親御さんのことを知りたい人にもいいサービスだと思います。自分の性格には父の経験してきたことが間接的に影響しているんだとか、父は〇歳のときにこんなことをしていたんだと知れたのは自分自身にとってもよい体験でした。 準備に時間もかかりますし、家族に相談することも複数あり、正直大変ではありましたが、それを上回る満足を得られると思います。 ▶『親の雑誌』お申し込みはこちらから▶『親の雑誌』資料請求はこちらから 株式会社こころみ --- - Published: 2024-02-14 - Modified: 2024-12-17 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2800/ 写真:お申込者K. H様、娘様とお父様の「親の雑誌」お申込者であるお子様(K. H様)にお話を伺いました。【K. H様プロフィール】大阪府出身。総合商社でキャリアをスタート、インドネシア駐在後に米国留学。大学院で修士課程を修了(経営学、情報工学)。帰国後は、コンサルティングファーム、投資ファンド、外資系のIT/通信会社2社で代表取締役社長を歴任。現在は上場会社2社の社外取締役を務める。2022年に長野県に移住。―「親の雑誌」を制作したきっかけを教えてくださいきっかけはいくつかあります。一つは、妻の父が昨年亡くなったこと。もともと「親の雑誌」のことは知っていたので義父に作りたいと思っていたんです。ですが、検討しているうちに容態が悪くなり、話すことも難しくなりました。そういうことがあると、自分の親のことを考えますよね。父はがん闘病中ではあるけれど、まだ元気で話すこともできる。じゃあ父の雑誌を作ろうと。父が人生を振り返ることで、忘れていたことを思い出すこともあるだろうし、おふくろを含め家族に伝えたいことがあれば、元気なうちに聞いておきたいという気持ちもありました。―「親の雑誌」を作りたいと伝えた時のお父様のご様子は?正直、積極的ではなかったです。最初は「あなたの人生を振り返ってほしい」と伝えました。「どうやって作るんだ?」と聞かれたので、「プロの方が家に来て質問するから、それに答えればいいだけだよ」って言ったんですが、「いや、そんなんでけへん」って。なので「普段通りに話せばいいよ」とか「小学生の時どんなことをしていたのかとか、そういう話をすればいいよ」、「何にも気負うことないよ」など話をしました。それで「そんなら頑張ってみるわ」って言ってくれましたね。―不安を感じていらっしゃったんですね父はずっと自営業をやってきました。おふくろと2人だけで何十年も仕事をしてきたので インタビューを受ける機会なんてなかったんですよ。抵抗感と不安はあったでしょうし、相当プレッシャーだったと思います。インタビュー前日は「大丈夫かな」、「いけるかな」、「コーヒー準備した方がいいかな」なんて言っていました。インタビュー当日はおふくろに隣にいてもらったようです。―事前準備(プロフィール、年表の作成、掲載写真の準備)中に感じたことはありましたか?プロフィールと年表は父とおふくろに作ってもらったんですが、おふくろが「振り返るのはいいね」と言っていました。おふくろにしても、「お父さんは、鹿児島の犬迫町で生まれて、こんなふうに育った」ということを知れたんだと思います。おふくろも楽しそうでした。妹と私は父の若いころや、鹿児島から大阪に出てきたころのことを何となくは知っていましたが、知らないことの方が多かったです。こんな仕事もしていたんだとか、大阪に出てきた後に一度鹿児島に戻っていたんだとか、そういったことですね。 残念だったのは、写真をインタビューの少し前にかなり捨ててしまっていたんです。「あの写真があれば」って言っていました。―制作中、コミュニケーションの量は増えましたか?父が発信することはあんまりないんですが、普段から会話の量は多いんですよ。それと、父は孫である私の娘が大好きなので、娘の写真をLINEで頻繁に送っています。それにおふくろや妹が反応して家族で盛り上がるんです。 それでも制作中は、通常より会話は増えました。訪問でのインタビューを受けた後もすぐに電話がかかってきました。「話しやすかった。ほっとした。今日は早く寝る」って。 インタビュー終了後も、私に原稿を送っていただいたので、それに関してやり取りはありましたね。―ご家族の関係は以前から良好だったんですか?そうではないですね。私が小さいころ、父はとても厳しかったんです。だから避けまくっていました。高校までは避けていたので、家族で旅行に行くことは小学生まではありましたが、中学・高校生時代は、行こうと誘われても行かなかったです。それくらい避けていたんです。 私が大学に入ったころから少しずつ変化していきました。物理的に距離ができたことも大きいと思います。社会人として仕事をするようになって、その大変さを知ったことも気持ちに変化を与えました。父は朝から晩まで立ちっぱなしで働いていましたからね。私は高校、大学と私立に行かせてもらったので、学費も苦労しただろうと実感できるようになったんです。 とはいえ、こうなるまでは時間がかかりました。お互いに感謝できるようになったのは20年くらい前です。約25年前、私はアメリカに留学していたんですが、帰ってくる時にお金が底をついて引っ越しができそうになかったんです。それで父に「申し訳ないけど、引っ越し代を貸してほしい」と言ったんです。今もあまり詳しく話してくれないんですが、そのお金を捻出したことで、ローンを返せなくなり、一時期は大変だったようです。その後、私が返済をサポートするようになったころから、父も私に感謝してくれるようになりました。あとは妹が両親の近くにいてくれることが家族をいい関係にしてくれています。彼女の存在は大きいですね。―「親の雑誌」が完成してからお父様に対して気持ちの変化はありましたか?ありました。もともと、父が苦労しことは知っていました。子ども時代の話をよく聞いていましたから。その聞いていた話が文字になると、この人を大事にしたいと改めて感じました。父は今、がんの闘病中ですが、最後はいい人生を送ってほしい、楽しく暮らしてほしい、そういった自分の気持ちを再確認できました。文字にできてよかったです。私の娘が、今小学2年生なので、まだ自分で「親の雑誌」を読むことはできないんですね。なので、読み聞かせじゃないけど、おじいさんはこんな苦労をしてきたんだよ、ご飯を食べることにも苦労したんだよ、というのは伝えたいです。父もおふくろも妹も「親の雑誌」を作って本当によかったと言ってくれます。―どんな人が「親の雑誌」を作ったらいいと思いますか?私はことあるごとに人に薦めていますよ(笑)。ただタイミングはあるのかなとも思います。 今、親御さんが元気な人は考えにくいんじゃないかな。親御さんとの関係性もあるので軽くお薦めしています。▶『親の雑誌』お申し込みはこちらから▶『親の雑誌』資料請求はこちらから株式会社こころみ --- - Published: 2023-10-26 - Modified: 2024-12-17 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2740/ お申込者であるお子様(C. M様 神奈川県在住)と実際に「親の雑誌」を作成されたお母様にお話を伺いました。【C. M様プロフィール】山口県生まれ。看護短大卒業後、看護師資格を取得し大学病院に勤務。その後、看護大学に編入学し保健師資格を取得。地域包括支援センターで勤務。専業主婦を経て、認定NPO法人フローレンス入社。現在は小児科クリニック、発達外来、病児保育室の運営等を担当している。―「親の雑誌」を申し込んだきっかけを教えてください。お子様:以前病院で勤務していたこともあり、他の人たちに比べ人が亡くなるということが身近にありました。なので、両親のことを残したいというのはもとからありました。少し前に夫の母が他界したんですが、インタビューを受けてもらいたいと思っても、母にその体力がなくなってしまい実現しなかったんです。親が元気なうちに色々残しておきたいというのもあります。また、大学時代の研究室の教授の研究テーマが自分史だったんです。高齢者が自分史を作成することで、その人の人生の意味をとらえなおせる、自己肯定感が増して、老年期の発達を促すというものでした。自分史を作ることが本人によい影響を与えるのは、以前から知っていたんです。だから両親に「親の雑誌」を作りたいと言った時もすんなりと受け入れてもらえました。―お子様から「親の雑誌」を作りたいと言われたときはどのように思われましたか?お母様:自分史をつくるというので、わかったわという感じでした。私の父も自分史を作っていました。私もそれを読んだことがあって、残っていてよかったと思っていたので「親の雑誌」を作ることに抵抗はありませんでした。主人はしゃべることあるかな、と不安そうでしたが実際取材になるとたくさん話していましたよ。―事前準備(プロフィール、年表の作成、掲載写真の準備)で感じたことは?お子様:母親の方は幼少期からの写真がたくさんあったので、選ぶのに時間がかかりました。手間暇がかかると言えばそうなのですが、その時間を共に過ごすことが貴重な体験でした。親の雑誌をきっかけに家族が集まって、色々話しながら思い出話をするので、絆が深まると思います。広島に住んでいる妹も帰省して、一緒に選びました。―インタビューを受けてみていかがでしたか?お母様:取材に来ていただいた方に上手に話を引き出してもらえて楽しくしゃべることができました。―インタビューに同席されてみてどうでしたか?お子様:以前から色々昔のことを聞いていたので、知らない話はほとんどありませんでしたが、楽しかったです母も楽しそうに話していました。話を引き出すのが上手いなと思いました。―完成した「親の雑誌」を見てお母様:私が話したことをとてもうまくまとめていただいていました。写真もいい位置にレイアウトしてもらっていました。あと意外だったのは私の弟が家に来た時に読んでいたことです。弟とは10歳以上年が離れているので、私が子どもだったころのことは知らないんですよね。だから、興味を持ってくれたんだな、と思いました。お子様:素敵な仕上がりになっていました。文章だけではなく写真がたくさん入っているのも伝わりやすさのひとつになっていると思います。雑誌ができたことは私たち子どもではなく、孫たちへのプレゼントになったかな。私は両親のことをいろいろ聞いて知っていますが、孫たちは知らないことの方が多いです。だから、孫たちの世代に両親のやってきたことや思いを伝えるツールができたと思っています。 ▶『親の雑誌』お申し込みはこちらから▶『親の雑誌』資料請求はこちらから 株式会社こころみ --- - Published: 2023-07-24 - Modified: 2025-01-30 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2678/ (写真:辻健之様の「親の雑誌」とご職業に関連する西陣織の帯)お子様の(K. T様)にお話を伺いました。【K. T様プロフィール】1968年、京都府生まれ。1991年同志社女子大学英文学科卒業後、旭化成工業株式会社に4年間勤務。その後、派遣社員などで10社以上に勤務後、株式会社パールトーンで呉服関係の受注業務を経験。2023年から西陣織を広めるため「京都『西陣織』にまつわるあれこれ」というブログを開始。『西陣織』を世界に広げるための活動を行っている。「親の雑誌」は家族で作る自分史として、ご家族皆様で制作の過程から楽しんでいただきたいというコンセプトのもと、サービスを提供しています。このため、お子様が親御様の自分史を制作したいと申し込まれることがほとんどです。ですが、中にはご自身の自分史を作りたい、とおっしゃる方からお申し込みいただくことがあります。今回は、親御様ご自身が申し込まれて制作した「親の雑誌」を読んだお子様からのお声をご紹介いたします。「親の自分史を作る意味って何だろう?」と思われる方に読みいただければと思います。 --K. T様から弊社にご連絡いただきましたが、理由を教えていただけますか?7年前、父が80歳のときに「親の雑誌」を作っていただきました。「親の雑誌」を作った頃はまだ元気だったんですが、肺気腫を患い入退院を2~3年繰り返し、今年(2023年)1月1日に亡くなったんです。その後に「親の雑誌」を読み返し、思うところがありご連絡しました。――思うところというのはどのようなことでしょうか?父は京都で西陣織の帯地の製造販売を行っていました。祖父が創業した会社で、今は兄が継いでいます。私は幼い頃は帯地を織っていた会社と同じ建物で暮らしていましたが、4、5歳の頃今の家に引っ越してからは家業には殆ど関わることなく生きてきました。西陣織は私が子供の頃はまだ景気が良かったと記憶していますが、私が成人する頃には衰退していき、同業者で倒産するところもでてきたんです。私は和装業界の未来に希望を感じられず、就職するときも、そのような職種が候補に挙がることはありませんでした。兄も若い頃は継ぐ気がなかったようで、サラリーマンをやっていました。その後、兄は家業を継いでいます。父が3年くらい前から入退院を繰り返すようになり、母も6年ほど前に認知症のため施設に入ったので、実家にいた私が主に病院に行くようになりました。それで、フルタイムで働くのが難しくなったんですよ。そんなとき、兄から家業を少し手伝わないかと言われ、初めて家業を手伝うようになりました。それまで、家業に関する知識は全くなかったんですけれども、帯のラベルをつけたり、事務作業をやる中で、西陣織の素晴らしさに気づいたんです。私は学生の頃、英文科だったこともあり、英語を使った仕事がしたいと思っていましたし、海外にばかり目が向いていました。伝統文化は嫌いではなかったですが、それを仕事にしたいとは考えたことがなかったんです。ですが、手伝ってみて、これはなくしてはいけない、守っていかないといけないと強く思ったんです。それからが大転換でした。兄の会社もほそぼそとやっているのでもう少し関われるところをと思い別の会社を探し、昨年の春から呉服を中心に防水や防汚加工を行っている会社で仕事しています。そういった経緯から、着物を着る人を増やしたいという願いが強くなっていったんです。今、あるコミュニティーに入ってるんですが、そのコミュニティーで自分のこれからの生きていくうえでのビジョンを定めるというワークをやったんですね。私のビジョンは着物を着る人を増やして、日本の伝統文化の素晴らしさを多くの人に伝えることだと思いました。そのためにSNSやブログを使った情報発信をしていき、最終目標として出版をしたいと考えています。祖父と父が生業としてきた西陣織について勉強し、その素晴らしさを情報発信する。そして、ゆくゆくは出版をしたいと思い、少しずつ勉強しています。その中で、父が80歳のときに「親の雑誌」を作ったことを思い出したんです。当然、父の人生について書かれていますけれど、祖父が創業したときのことも書いてあります。それに、幼い頃に戦争を経験したことや、祖父が起業したけれど戦争で一旦は廃業を余儀なくされて、そこから再興して今は兄が継いでいることなども書かれていました。歴史というと大げさかもしれませんが、つながりを感じました。「やはり私は父の子なんや、こういう歴史があって今の私があるんやな」って実感させてくれたんですよね。先祖があって父母がいて、私がいると思ったら、これからどういうふうに生きていくかを考えさせられました。「親の雑誌」がなかったら考えることはなかったと思います。それがありがたかったんです。――完成してすぐ「親の雑誌」はご覧になったのでしょうか?父に渡されたとき、面白いなとは思いつつパラパラっと見たくらいです。じっくり読むことはしていません。当時はまだ父も元気で、「こういうのを作った」とふざけた感じで見せてくれました。私もきょうだいも「ああ、できたんや」というような反応でした。まだまだ元気な父の自分史を読むのが気恥ずかしいという思いと、戸惑いがありました。なので、そのときはちゃんと目を通していないんです。――「親の雑誌」を親御様が制作されることは聞いていらっしゃいましたか?取材のために横浜に行くという話を聞いたのが最初だったと思います。当時、孫が横浜に住んでいて、取材の後に会う、ということで楽しそうに出掛けていったのを覚えています。「親の雑誌」を作ると言われたとき、私は「そうなんや」と答えたと思います。その当時は、興味が湧かなかったので、どうして作りたいと思ったのかも聞いていないんです。父は、自分を持ってるというか、ちょっと人とは違うことをやるのが好きではあったので、父らしいなとは思いました。――では、最近お読みになったのでしょうか?父が亡くなって、妹が告別式のときの写真を探すときに「親の雑誌」も出してきてくれたんです。そのときもバタバタしていたので、ちゃんと読めていなかったのですが、落ち着いたら読もうと思っていました。最近、出版に向けた活動をする中で、企画書を作るという取り組みをした時に、着物や帯のことを書くんだったら、父の「親の雑誌」も読んでおかないといけないと思い、読み始めました。父は生前、自分のことを話すことはありませんでした。人に弱みを見せないというか、弱みを見せたくないというか、そういう気持ちだったんだと思います。だから「親の雑誌」を残しておいてくれて本当にありがたいと思いました。これがなかったら、知らずにいたことってすごくたくさんあったと思います。父の、正直な素直な言葉で書かれたものが形として残っていることがありがたかったですね。――「親の雑誌」はK. T様にとってどんなものでしょうか?私はこれから西陣織についての情報発信をしていき、いずれは出版したいという夢もありますが、そういった活動をしていく中での核というか礎になりました。父の考え方や、1人の人間としてどう生きてきたのかなんて、生前は全く考えませんでした。亡くなった後に「親の雑誌」を読んで、1人の人間として見られるようになった気がします。大変なこともあったけれど頑張ってきたのだなと思いました。父がどういった思いで「親の雑誌」を作ったのかはわかりませんが、人って亡くなってしまうんですよ。形として残るものがあると、その人が生きた証しというか、人生があったことを時間がたっても感じることができるんです。思い出はもちろんあるんですけど、日常生活を送っていると日々の忙しさもあり、薄れてしまうことものもあると思うんです。でも「親の雑誌」のように形として残っていると何度でも見返すことができますし、何度でも思い出せます。だから、形として残っていることに意味があるんじゃないかなと私は思っています。 --- - Published: 2023-02-09 - Modified: 2025-01-30 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2558/ (写真:申込者松本悠平様とおばあ様の「親の雑誌」)お申込者であるお孫様(松本悠平様)にお話を伺いました。【松本悠平様プロフィール】1984年大阪府生まれ。2008年に東京大学卒業後、外資系金融機関およびプライベート・エクイティ・ファンドにて勤務。その後教育系サービスを立ち上げる、上場企業の社外役員を務める、スタートアップ企業の成長をサポートする業務を行うなど、幅広い活動を推進中。 ―「親の雑誌」を制作したきっかけを教えてください。サービス自体は以前から前から知ってはいました。昨年(2022年)たまたまFacebookで「このサービスがよかったです」というコメントを読んで思い出したのが、制作のきっかけです。―親御様ではなく、おばあ様の雑誌を制作された理由はなんでしょうか?私の家族はどちらかというと仲がいい方だと思います。年末年始やお盆などで年に2回くらいは集まるのですが、その中心にいるのが祖母なんです。祖母は自分から「私のところに来なさいよ」というタイプではなく、常にニコニコしているから人が集まってくるという人です。周りからとても愛されているのでしょう。私も昔から祖母を慕っていて、おばあちゃん子でした。祖母はまだ元気ですが、95歳なのでよく考えたらいつ亡くなってもおかしくない。会いに行くたび「もしかしたらこれが最後になるかしれない」とも多少は思っていました。そういったことから、形になるものを残したいという気持ちはどこかにありました。 7、8年くらい前だったと思いますが、祖母にどんな人生を送ってきたのかなんとなく聞いてみたのです。そうしたら、うまく時系列に沿って話を聞き出すことができなかったし、よく理解できない部分もありました。それらも含めて、祖母らしくてかわいらしかったのですけどね。私自身も本当に興味があれば母親に聞けばいいかな、くらいに思っていました。ただ、深掘りしてみたいというのと、形になるものを残してあげたいという気持ちは常にどこかにありました。Facebookを見た時にそういえば「親の雑誌」があったなと再認識し、パキッとハマった感覚がありました。 私が申し込んだのは、祖母、母、叔母含め、期せずして女系家族のため、私が大黒柱のような役割を果たしているからです。兄弟もいますが、僕がやるのが一番自然なんだろうという判断でした。 ―「親の雑誌」を作りたいと伝えた時のご家族の反応は?母はとても喜びました。祖母には母が説明したので又聞きですが、「そんなのやってくれるの!?」と大変喜んでいたそうです。結果的には、発起人が僕で、事前準備などは祖母と同居している母がやる形になりました。―事前準備(プロフィール、年表の作成、掲載写真の準備)担当のお母様のご様子は?母が事前準備を喜んでやるだろうとは想像していました。母もいろんな趣味を持っていてアクティブではありますが、祖母のサポートが生きがいのひとつになっているのですね。祖母の年表をまとめたりすることを2人が共同作業でやって、絆を確認しながら生きがいにするというのは、事前にイメージできました。その想定で申し込んで、実際にそうなったと思います。―事前準備の感想などはお聞きしていますか?祖母が若いころの基盤は九州にあったのです。何分昔のことなので難しいけれど、写真という形でその時期のことを掘り起こして残したい、という思いが母にはあったようです。働いていた病院や、働かれていた先生方、色々なところに手紙をお送りして、協力をお願いしたそうです。10数枚に渡る手紙を送ったりもしていました。「駄目でもともと」と言いながらやること自体を楽しんでいたようで、かなり熱を入れていました。 ―完成した雑誌を渡したご家族、おばあ様の反応は?私の兄弟は(直接渡したわけではないですが)、「読んで泣かずにはいられなかった」と言っていました。祖母への感謝と、その人生を知れてよかったという思いを持ったのだと思います。母は、取材にも同席していましたし、原稿の校閲もしていて内容は全て知っていたので、渡した瞬間という意味では泣いたりはしていませんでした。それでも、その後何度も私に感謝の電話なりLINEなりがくるあたり、非常に感謝しているのだと思います。そんな私自身ですが、初めて原稿を読んだ時、自分のルーツとでもいうのでしょうか、自分の性格に、祖父、祖母それぞれの生まれと育った環境、もちろん両親から来ているものもありますが、そういうものが混じって今の自分を形成しているのだと強く実感しました。急に自分自身の解像度が上がった感覚を持ったと言うか。自分のアイデンティティーを強く感じた経験だったと思います。 肝心の祖母は完成した雑誌を読んで、泣いて、その場で人形みたいにじっとしていました。祖母の妹が同居しているんですが、その大叔母も、同じようにじっと座って読んでました。彼女も、自分のことのように感じていたようです。その2人の姿はとても愛おしかったです(笑)。祖母は僕に「ゆうちゃん、ありがとうね」と繰り返すばかりでした。翌日も朝起きてから「昨日も読ませてもらって、涙が出てきてね」って言われました。僕が家に帰ったあとも何度も電話がかかってきて「昨日も3回読ませてもらったけど、そのたびに泣けてね。ゆうちゃんありがとうね」って(笑)。それだけ喜んでくれたのだなと思いました。 祖母は、今もある程度健康ではあるものの、やはり95歳という年齢もあって少しずつ弱っている様子が出てきているように見えます。少し体調が悪いと連絡があったので、電話で話したのですが「木が枯れていくように、人も枯れていくからね」と言っていました。生きる気をなくしているわけでは全くないですが、人生の最期は少し意識し始めていることがどこかしら伝わってきます。その意味では、非常に良いタイミングで渡せたんじゃないかなと思っています。 ―「親の雑誌」を制作して思うこと今回、本当によかったのは、愛情があって、残してあげたい、という気持ちを家族が持っていたこと。年齢だけ見ればいつ亡くなってもおかしくない、という前提がある中で、ちゃんと間に合った。間に合わなかったということも当然起こり得るわけです。そうならなかったのは、本当によかったと思っています。どのタイミングで作るのがいいのか判断するのは難しいですね。私としては、人生の終わり方を少し意識し始める時期が良い気がします。イメージとしては80歳前後とかでしょうか。でもある程度健康な内に渡してあげたいですし、その見極めというかバランスは難しいところですね。 私は、(悪い意味ではなく)祖母はこれを読んだことで、納得してあの世に行けるという気持ちになったのではないかと思う部分があります。僕はそれを非常に良いことだと感じています。人には当然、死期があります。長生きしてくれるのは勿論うれしいですが、ただただ延命すればいいというわけでもなく、納得感と充実感を持って来るべき最期に備えられるなら、そんな素敵なことはないと思います。死生観は個々人で異なっていて、僕の考えでしかないですが。おそらく祖母もそれに近い考えなのではないかと勝手ながら思っています。祖母の「木が枯れていくように、人も枯れていくからね」という儚くも美しい言葉は、「その時がきたら、私は満足して逝ける」と言っているように聞こえました。そう思ってくれるなら、心からこのプロジェクトを進めてよかったなと思えます。 ▶『親の雑誌』お申し込みはこちらから▶『親の雑誌』資料請求はこちらから 株式会社こころみ --- - Published: 2022-08-24 - Modified: 2025-01-30 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/2355/ (写真:申込者伊藤浩樹様とお父様の「親の雑誌」)お申込者である息子様(伊藤浩樹様)にお話を伺いました。【伊藤浩樹様プロフィール】1986年兵庫県神戸市生まれ。2008年に東京大学卒業後、外資系金融機関、外資系コンサルティングファームを経て、2013年にWebサービスを運営するベンチャー企業に入社。2018年8月にアルプ株式会社を創業。―親の雑誌を制作したきっかけを教えてください2018年に父ががんを患っているということがわかったんです。厳しい状況でした。その後、「親の雑誌」のことは妻から教えてもらい、その存在を知りました。父親については、あまり自分で書いたり何か残すことはしなさそうだと思っていたので、これならやってもらえそうという期待もあり、お願いすることにしました。もともと母方の祖父母が自費出版で本を出したり、手記を残していて、私もそれを面白く読んでいたこともあり、私としては自分の両親にも何か書き残してほしいと常々思っていました。「親の雑誌」については、こういうアプローチもあるのかと新鮮な学びがありましたね。―「親の雑誌」を作りたいと言ったときの親御様の反応は?まず、母から「お父さんは、写真や資料の準備とか大変そうでなかなかやる気にならないんじゃないかな」と心配はされました。父は父自身がフィーチャーされるのがあまり好きではなさそうでしたし、病気で疲労もある中、あまりややこしく手間が増えても大変かなという懸念はありました。本当は、もっと早いタイミングでカジュアルにお願いしたかったんです。でも最期に作ってほしい、という感じになってしまいました。父もそれを察して承知したという部分もあったと思います。とはいえ、いざやり始めたら、家系図も入れたい、文章もしっかり納得いく形に仕上げたい、あの写真もこれもいれたいと大変前向きに作ってくれましたね。「親の雑誌」を作ってほしいと伝えるのは少し勇気が入りました。照れもありましたし、面と向かって残してよと伝えるのはためらわれました。なぜ作るのか?なぜ今なのか?を突き詰めていくと父の最期を先に受け入れてしまう気もして。でも、あまり長くないことは事実なのです。だからこそ、共同作業としてこれをやりたいと伝えやってもらいました。結果、作ったことは私にとってももちろんですが、家族全体にとって大変よかったです。かけがえのない共同作業でした。―制作の中で感じたこと雑誌に掲載する写真を準備するために、父の幼少期からのアルバムや家族のアルバムを掘り出しました。この行為自体、大変面白かったですね。結果的に、全員でこれまでの家族の歴史をおさらいするという機会になりましたし、父の幼少期の写真など滅多にみなかったので、父についても新しい発見がたくさんありました。ついでに昔の父の作文を見つけたり、楽しかったです。今も、その掘り出してきたアルバムが実家のリビングに置いてあります。帰省したときにはいつも眺めています。―完成した雑誌を見てどう思いましたか?やっぱり、感慨深いというか。本当にいいものができたと思いました。父の幼少期や若いころ、両親のなれ初めなど、私自身も知らないことも多かったので新鮮な気持ちで楽しめました。母のインタビューを読んで、今更ながらこんなことを考えていたのかと思うこともありました。周りの方にとっても、父や母のこと、父の仕事の歴史など、普段多くを語らぬ父だからこそ、この「親の雑誌」を通して知る父の別の側面があったようで、皆さん新しい発見があるとおっしゃっていました。―雑誌を作る前と作った後で気持ちに変化はありましたか?作ったことで、家族として、改めて父に感謝を伝えることができたと思います。私たちが父への気持ちを言語化し、また父も自身の考えをこの「親の雑誌」に落とし込んでいくことで、家族にとって最後の、大きな共通言語が作れました。最後の最後に共通の体験を家族としてできたこと、そしてそれをもって父に想いを伝えられたことは大きな意義がありました。私個人としても、それまで素直に向き合いきれなかった反省がありながら、「親の雑誌」を通してしっかり父親と、また家族というものに向き合えたという自負を持てました。何よりよかったのは家族だけで読むことにとどまらず、親族や周りの方に父の内面を新たな角度で知ってもらえたことです。父が亡くなったあとでも、この雑誌のおかげで父について語る人、父のことを知る人がむしろ増えたとすら思います。ちょうどお葬式の前日に牧師先生に見せたところ、お葬式の中で「親の雑誌」についても言及いただけました。それで親族や参列の方からも「その雑誌が欲しい」「見せてほしい」と言われて。結果として、たくさんの人に父のことを、新たな角度で知ってもらえたので作った意義はありましたね。選んだプラン(スペシャルプラン)は20冊雑誌がついていました。最初20冊は多くないか?誰に配ればいいんだ?と家族の中では話していました。ですが、気づいたら1部しか手元に残りませんでした。急いで増刷のお願いをしました。笑―お母様の反応は?母は「親の雑誌」があってよかったと思っています。母にとっても宝物になったと思います。今だと動画も写真も簡単に残せますが、その人らしい、思想、思考、言葉を残すのはまだまだ難しい。そういったものがしっかり言語化できて、形にできたことが何よりよかったです。私も読み返すことがありますし、母や妹も何かの折に読んでいると思います。それぞれにとっての気持ちのよりどころになっていると実感しています。―親の雑誌の意義「親の雑誌」は、家族での共同作業によってつくられます。単なる、親の歴史をなぞり、親の言葉を読む冊子ではないと、心底感じました。家族全体の貴重な共通言語の一つだと思っています。先日(2022年6月)、Facebookに「親の雑誌」のことを投稿しました。想像を超えて大変多くの反響をいただきました。自分たちも作りたかったとおっしゃられた方、10人以上いらっしゃったと思います。私の世代でも、「親の雑誌」を求めている人、探している人はたくさんいると感じました。思うに、「親の雑誌」を作るということを通じて、親/家族との共同作業を求めている人がいる、という気もしました。私の年代の親だと作るのはまだ早いと思うかもしれません。でもやった身としては、とにかく早くやった方がいい。あとからもう一冊作ってもいいんですから。▶『親の雑誌』お申し込みはこちらから▶『親の雑誌』資料請求はこちらから 株式会社こころみ --- - Published: 2021-11-15 - Modified: 2025-01-30 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/1937/ (写真:お申込者H. S様のお父様)お申込者である息子様(H. S様 東京都在住)にお話を伺いました。 おやじが何度も同じ話をするんで、「親の雑誌」を作ってすっきりしてもらおうと思ったのがきっかけです「親の雑誌」のことは、テレビで知ったと思います。そのときは、混んでいるだろうとしばらくしてから申し込みました。 実家に帰ると、おやじが何度も同じ話をするんですよ。子どもとしては、すっかり覚えてしまっている。それで、「親の雑誌」を作ってすっきりしてもらおうと思ったんです。渡りに船だと思い、申し込みました。 「親の雑誌」を作りたいと言ったら、おやじは比較的すんなり了承してくれました比較的すんなり了承してくれました。「いつもしている仕事の話をしたほうがいいんじゃない?」と持ちかけて、それで受けてくれましたね。 本当は母の雑誌も作りたかったんですが、「お父さんみたいなことはやっていなから」と言われました。母も子どものころが戦中でね。田舎に住んでいて、都会から和服を売りに来る人がいっぱいいて、和服を見る目が肥えた。そこから、和裁の資格を取って、という人なんです。そういうことを残したかった。残念でしたが、おやじは承諾してくれたのでほっとしました。 インタビュー中、おやじは私が聞いたことがないことも話してました私も営業経験があるので、話し慣れているほうだと思っています。でも、取材ではとても上手にインタビューしてもらえました。それまで、私が聞いたことがないことも話してましたから。インタビューで話して以来、おやじが同じ話をしなくなったんです。別の話はするようになりましたが(笑)。 おそらく、おやじは自分が成し遂げたことを記録に残したい、という気持ちがあったんでしょうね。自分の伝えたいことが伝わっていないと感じると、何度も繰り返し話すんですよ。今、私はキャリアカウンセラーとして働いているので、それがよくわかります。何度も同じ話をするのは、気持ちを汲み取ってほしいからなんですよね。 雑誌を作ってから5年くらい経ちましたが、いつも話していたことはこちらから振らないと喋らなくなりました。伝えきったと思えたんでしょう。 完成した「親の雑誌」をみて、おやじの記録を残せて整理できてよかったとほっとしました何度も聞かされて知っていますから、大きな変化はなかったです。もともと、何をやったか知っているので、認めていました。でも原稿の修正をしているとき、整理できてよかった、記録を残せてよかったと、ほっとしましたね。 父は、いろんなエピソードを持ってるんですね。営業、ものづくり、人の管理、いろんなことができる人。大変な目にも遭っていますが、マイナスをプラスに変えていく力があった。ものづくりと人管理をやってきたおやじって、すごいと思いますよ。キャリアコンサルタントとして働いてると、ものづくりと人を管理する、両方できる人ってなかなかいなんですよ。おやじは稀有な存在だったとわかりましたね。 ある程度の立場を経験した人が、その状態より下からセカンドキャリアを積むのは難しい。でも親父は技術で先に認められて、縁があって次の会社に行くことができた。 世間はそう言った部分を見てくれているんだと思います。最終的には辞退したそうですが、社判をあずかって欲しいと言われるまでになったんだから、たいしたものですよ。 「親の雑誌 電子版」に掲載されているので、どこでもみんなに見てもらえます作っていただいてよかったです。あれはいいアイデアだと思います。以前、おやじはこんな雑誌ができたって、常連のカラオケ屋で見せてたんですよ。でも、電子版ならどこでも見てもらえますよね。 今、父が86歳、母は84歳なんですが、ひ孫の動画をみたいばっかりに、タブレットの使い方を覚えたんですよ。すごいですよね。シニアだって、やり方が分かれば電子版ならどこでも見てもらえます。父親と同じ年代の親戚には、亡くなった人もいますが、もう少し下の年代の人たちには、電子版のURLを送れば見てもらえますから。 電子版を作ってもらったあと、Facebookに投稿したら友人から面白い父ちゃんだねと言われ、息子としても鼻が高かったです。お金や物欲から始まって功成り名を遂げた人は、銅像をつくったり自叙伝を作ったりしますよね。それがお手軽にできることが親の雑誌のいいところだと思います。自分史を作ろうとすると金額の桁が違いますから。ネットの時代ですから、電子書籍のハードルも下がってはいますが、インタビューのやり方、文章の作り方、校正などはプロじゃないとできないと思いました。 おやじが納得してくれているので、それがプライスレスです。 ※佐々木睦雄様の電子版は以下からお読みいただけます。 繰り返しお話になっていたというお仕事のこともでてきます。THE佐々木睦雄 ▶『親の雑誌』お申し込みはこちらから▶『親の雑誌』資料請求はこちらから 株式会社こころみ --- - Published: 2021-11-15 - Modified: 2025-01-30 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/1947/ (写真:お申込者M. H様のお父様)お申込者である娘様(M. H様 神奈川県在住)にお話を伺いました。―親の雑誌を制作したきっかけを教えてください発起人は主人なんです。亡くなった自分の父親に作ってあげたかったんだと思います。いいものだから、誰かにやってあげたいという気持ちだったんじゃないでしょうか。私の父が米寿になるタイミングで提案してくれたんですが、お祝いの品物を選ぶんじゃなくて、その人特有のものなので、私もこれはいいな、と思いました。最初、父は遠慮していたんですよ。日記を書いてるから、そんなことしなくてもいいと言って。主人がもらった資料と一緒に「僕からプレゼントしたいんです」と書いた手紙を送ったんです。私も援護射撃はしました。こんなに思ってもらえるなんて幸せなことだから、是非やってほしいと。―制作過程で感じたことやると決まってからは、父はとても協力的でしたね。プロフィールや年表を書いて、写真を選んで送ってくれました。プロフィールと年表は主人が清書して、(こころみに)送って。主人も事細かに段取りをしてくれたんです。父は、あの年齢にしては苦にせず、作業してくれたのでいいものが作れたのだと思います。子どもから「作りたい」と言われても、アルバムから写真を選んできれいにはがして送るのは大変だったんじゃないでしょうか。 掲載できる写真の枚数に制限がありますが、あれもこれもと送ってくれるので、遠隔で伝えるのは難しかったですね。主人のまめさと、父の頑張りがあったからこそです。写真は悩むんですよね。父が送ってくれたものと少しアングルが違うけれど、もっといいものがあったはず... 、と私が持っている写真もかなり探しました。入れたい写真もすぐにいっぱいになってしまうしね。同居されてるお子さんたちだと、いくらか準備も楽だとは思います。写真の準備は大変ですがあった方が絶対いいです。母は亡くなっていますが、笑顔のいい写真をたくさん載せてもらえたのはうれしかった。私は子どものころからアルバムを見ていたので写真にはさほど新鮮さはなかったですが、妹は初めて見る写真もあったようです。私も、台紙付の両親の結婚式の写真は初めて見た気がしました。―雑誌完成後に感じたこと私は、以前から父の話はよく聞いていたので、雑誌になった内容はほとんど知っていました。まず、食べられるようになること、人に迷惑かけないように働いてきたことなど、以前から話は聞いてはいたんです。でも、文章になったものを読むと、偉いなとか、この時はどんな気持ちだったんだろう、とかいろんな感情がわいてきました。息子のことで父に愚痴のようなことを言ったことがあるんです。そのとき「わしからしたら、ぜいたくな悩み」と言われたんですね。それが、文章を読むと説得力を増すんですよね。私は、妹が生まれる6歳まで一人っ子だったので、とてもかわいがられていたんですよ。ほしいものは何でも買ってもらえたんです。一度、指輪が欲しいと言ったことがあります。プラスチックのケースに赤や青やピンクの指輪がいくつかセットになったものを買ってもらった。そういったことも思い出しました。妹が生まれてから、貢ぎ物の記憶はないですけど(笑)。―周囲の方からのコメント妹は、私たちが小さいころは厳しかったけど、いいことしてたんだね、見る目が変わったと言ってました。故郷に桜を植えた話も初めて知ったようでした。一緒に生活してるときにはわからなかったこと、子どもには厳しかったけど、他人には優しかったこと、そういう今まで知らなかったことを知れて、読むたびに泣けると言ってましたね。父の妹にも読んでもらったのですが、感動して泣いたそうです。原爆の話とか、1人で大阪に行くくだりとか、推測ですけど、いろんな感情があふれたのだと思います。父は、仕事のことだけじゃなく、趣味についてもたくさん載せてもらえた。書いてある言葉が、よそいきじゃなくて普段着の言葉だったのがよかった。普段着の言葉だから、違和感なく読んでもらえたと言ってました。取材もしゃべりすぎたけど10点満点、満足だったそうです。昔の話を聞いてもらえたのはうれしかったと思います。電話取材でもじっくり話ができて、楽しんでいたようでした。ただ、一番読んでほしかった人(お世話になった方の娘さん)が年齢を重ね体調が悪くなってしまったので読んでもらうのが難しそうなのが心残りだとは言っていましたね。 親の雑誌最終ページ掲載写真より▶『親の雑誌』お申し込みはこちらから▶『親の雑誌』資料請求はこちらから 株式会社こころみ --- - Published: 2021-11-15 - Modified: 2025-01-30 - URL: https://oyanozasshi.jp/customer_voice/1951/ (写真:お申込者H. M様のお母様)お申込者である、娘様(H. M様、宮城県在住)にお話を伺いました。 「親の雑誌」を作ろうと思ったきっかけは、母が介護施設に移ったことでしたテレビで知って、いいなと思いました。母が高齢になったので一人で暮らしていた山梨県の甲府から、私の住んでいる仙台の介護施設に移ってもらうことにしたんですね。 母は甲府に50年以上住んでいたので、そこでの思い出を残したかったんです。それで、こちらに来る前にと2016年に制作をお願いしました。 思い出に「親の雑誌」を作りたいと母に言ったら、「いいね」とすんなり受けてもらえました母に、こういうものを作る企画があって甲府での思い出に作りたいと言ったら、「いいね」とすんなり受けてもらえましたね。自分のことを話すのに抵抗はなかったんだと思います。 きょうだい会といって親戚が毎年集まっているんです。そこに来ている甥や姪が母を慕ってくれていたので、その集まりで配りたいと思って雑誌の完成もそこに合わせてもらいました。離れて暮らしていたし、私も働いているので取材には同席していません。担当していただいた方には甲府へ行ってもらい、母一人で取材を受けました。 完成した「親の雑誌」を読んで、母がこんな気持ちで生きていたんだと思い直しました完成した直後に読んだときは、ちょっとカッコつけてると思いました(笑)。かなり苦労したはずなのに、そのことには触れていないんですよ。母はこういうものができる、というのを理解して取材を受けたんだと思いました。母は、今年(2021年)の春に96歳で亡くなりました。亡くなる1カ月くらい前、母の荷物を整理していたら、きょうだい会で配った後、しまったままになっていた親の雑誌が出てきたんです。久しぶりに読んでみたら、カッコつけてるんじゃなくて、こんな気持ちで生きていたんだと思い直しました。大変なこともあったけどいいこともあった、幸せだと思っていたんだって。ポジティブ思考だったんだなぁって。亡くなる1カ月くらい前は、コロナの影響もあり、半年以上面会できていない状況でした。食欲もなくなり、元気もないからと特別に配慮してもらって面会できるようになったんですね。そのとき、荷物を整理していたら親の雑誌がでてきたんです。「これがあったね」と言いながらテーブルの上に置いておくことでヘルパーさんへの話題提供にもなりました。 みんな興味を持ってくれました。話のきっかけにもなるし。2年くらい前から寝たきりでしたが、亡くなる直前までしっかりしてましたから話すことができて、母もうれしそうでしたね。ヘルパーさんたちからも「どうやってつくったの」とか、「これはいいね」と好評でしたよ。たまたま片付けていたら出てきたのはラッキーでした。 今でも何回も読み直してるんです、文章で残すことの大事さを感じました私は亡くなってからの方が何回も読み直してるんです。文章として残るのと、思い出になるんですね。 写真も撮ってもきれいでさすがプロだと思いました。母の遺影に使いたかったと後から思いましたね。その時はバタバタしていて思いつきませんでしたが。表紙を見て、写真用の服装もちゃんと用意していたんだとわかりました(笑)。 制作を依頼した当時は、甲府での思い出づくりくらいにしか思っていませんでしたが、作っておいてよかった。亡くなったあと、きょうだい会のメンバーも読んでくれたようです。「あれを見て思い出すよ」と言われるんですよ。みんなから、「年を取るならおばさんみたいになりたい、鏡だ」と言われるような人でしたから残せて良かったです。シベリア抑留の経験のあるおじが自分史を作っていたんですね。でも、自分史を作れる人はなかなかいないと思います。自分で書くのは簡単ではないですから。(親の雑誌という)企画があったから作れました。 最初にテレビで親の雑誌を知ったときは、高齢者だと誰かがじっくり話を聞く機会がない、それで喜ばれたと言われていたと、記憶しています。そういうよさって、ありますよね。子どもが親の話をじっくり聞くことってなかなかないです。私も母の話は断片的には聞いていましたが、じっくり聞くことはなかったですから。私の場合は、最初のきっかけからこうなることは想定していませんでしたが、文章で残すことの大事さを感じました。母がどう思っていたか、残せてよかったです。 ▶『親の雑誌』お申し込みはこちらから▶『親の雑誌』資料請求はこちらから 株式会社こころみ --- --- ## ご利用実績・制作事例 - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-02-19 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/1029/ 人物紹介 福井市深坂で9人きょうだいの七男として生まれ、自然の中でたくましく育った佐々木睦雄さん。中学卒業と同時に上京し、様々な仕事を経験したのちにフタバ食品に入社。ロングセラー商品となる「サクレレモン」を試行錯誤の末に開発するなど活躍した。自分史本文より■子ども時代母はうちの父親が早くに亡くなったから、兄や私をかばうのに精いっぱいだったでしょうね。私は国民学校第1期生であり、新制中学校の第1期生なんですよ。私のひとつ上の代では鳩ぽっぽの歌で始まるけど、私の代からは陸軍の歌ですよ。私たちは時代的にも戦争被害者だろうね。当時は教育なんてまともに受けられなかったんです。住んでた地域は敵前上陸があるかもしれないということで予科練がいて、三里浜にも飛行場を作ってました。小学校高学年くらいの年のときには3日学校に行って、それ以外の3日は木工をやったり、棒を持って飛行場を作りに行ってましたよ。昭和5年生まれくらいの人は基礎教育は受けられたんですけど、私とか昭和10年生まれくらいの人たちは応用編だけ習うから、結局何もできなかったです。小さいにときは学校に行ったら校庭にサツマイモを作ったり、桑の実を採ったり、彼岸花の根っこを掘ったりしてましたね。だから教育という学問はだめなんですよ。■フタバ食品に勤めて浅草で働いていたときの職長が宇都宮に行ってて、その人を頼って宇都宮にある現在のフタバ食品へ行ったんです。その時期は本当にいろいろ転々としてて、アメ横に行って浮浪者にならなきゃいけないんじゃないかと思ったこともあった。もう田舎にも帰れないから、金はどうでもいいからとにかく「寝る、食べる」をできるところを探さなきゃいけなかったね。だから17歳から20歳ぐらいまでは状況が悪かったよね。でも朝鮮動乱が起こる前までは働かせてもらえるところがあるだけいいって感じでしたからね。柳行李と布団1枚持って転々としてました。でも、宇都宮に行ってから生活も安定しましたよ。宇都宮に行ってから3年くらいはやっぱり甘納豆を作っていて、夏はアイスクリームの配達。そこには浅草にいたころの後輩が5、6人くらいいたから、そんなに新しいところに来たという感じはなかったね。3年くらい働いたら水戸の甘納豆屋を紹介してくれるって話だったんだけど、それがなくなって、結局そのまま同じところにいましたね。菓子問屋もやってたんで倉庫番をやりましたよ。いろいろなことをやっていた会社だったので、九尾ずしを作ったりもしてましたよ。1日2万食も売れてました。電車が黒磯の駅で15分くらい停車するんでそこで、すごい売れましたね。河内サービスエリアをフタバ食品で経営してたんで、そこでも売ってましたね。だから甘納豆のあとは食品部に移って、弁当売りもやりましたよ。社長にもかわいがられてたし、充実してたね。20代になるまでは苦労したけど、みんなそうだったと思うし、生きるのに精いっぱいという感じだったからね。営業のときに、橘屋というお店があって、そこに商品を売れたら一人前だって言われたんですよ。それで見本を持って行ったら、そこの親父さんに何年生まれやって聞かれて、昭和10年生まれやって言ったら、じゃあ低能やなっていきなり言われたんですよ。それが頭にきて言い返したら、奥さんが飛んで来て謝ってくれたんです。まあ言われてみれば、昭和10年のあたり子どもはまともに教育を受けられてないと思って、納得はしたけどね。でもそのまま怒って帰ろうとしたら親父さんが追っかけてきて、結局注文が取れたんですよ(笑)。それが営業の始まり。■サクレレモンの開発「サクレレモン」は大阪にいたときに私を助けてくれた商品。大阪にいたときに、最初はかき氷が全然売れなかった。原価をかけずに消費者に買ってもらうにはどうすればいいかを考えて、始まりました。自分で市場調査のために神戸を歩いて回りましたね。そしたらストローで歩きながら飲んでいる姿をみて、かき氷もあの形だなと思ってね。最初は断熱効果のある発泡スチロールの入れ物で、ストロースプーンを刺して売ったんですよ。それと硬くなり過ぎないようにアルコールと糖の割合で凍結度合いを調整したんです。娘の学校に持って行っては意見を聞いてね。それで売り出したら、これが売れてね!ひっきりなしだったよ。このひとつ前にかき氷バーを売ったんだけど、バーから落ちてしまうことが多くて、最初失敗したんです。でも氷の部分にコーティングするやり方を思いついて、その欠点がなくなって、これもすごい売れた。沖縄に毎週コンテナで運んでましたよ。でも「星空」っていう商品は自信があったのに売れなかったな(笑)。下手な鉄砲も数打ちゃあたるという感じでいろいろやりましたね。取材担当者のコメント仕事に必死に取り組んできた睦雄さんの話の面白さ、奥深さにとても惹きつけられました。ありがとうございました。ご家族の感想(お手紙から)私も聞いていないことをよくぞ聞き出してくださいました。プロの素晴らしい質問方法を見せてもらえました。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-03-06 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/1047/ 人物紹介 東京・品川で生まれ、少年時代から演劇や文学、浪曲が好きだった佐藤高さん。三味線、神楽、祭りなど様々な芸能を愛し、その伝承に力を注いできた。夢だった著書も数多く出版し、生まれ故郷品川で今なお精力的に活動を続ける。自分史本文より⬛小・中・高校時代小学校の6年間、成績が良くて、学芸会ではいつも主役だった。それで、演劇が好きになって、中学では木下順二の『三年寝太郎』をやったんです。それから俳優になりたくなっちゃった。中学くらいから、親の言うこと聞かなくなるじゃない。だんだん成績が落ちちゃって、小山台高校を受験したら落ちちゃった。それで、第二志望の大崎高校へ行ったわけ。元々女子高だったのが共学になったから、女性が沢山いたの。青春時代だから彼女が欲しい。でも、私はもてなくてね~(笑)。武者小路実篤の『友情』を読んで憧れたんだけど、3年間彼女できなかった。チャンバラが好きで剣道部に入ってね。だけど、後輩は殴られるんだよ、先輩に。こんなんだったら馬鹿になってしまうと、1年でやめたんです。あんまりいい思い出ないですよ。『三年寝太郎』を高校でもやってるんですよ。俳優になりたいと思ってたんだけど、そのころはいい男じゃないとなれない。お袋がさ、「そんな河原乞食みたいの!」って言うの。それで諦めた。高校時代は小説も書いてたね。本が好きで沢山読んでました。漱石、太宰、芥川、岩波文庫ですね。井上靖の本は全て持ってる。それから、直木賞系統の軽い本が好きになって、小説家になろうと思った。そしたらお袋に、「そんな三文文士みたいな売れない者になるんじゃない!」って言われて、それも断念。浪曲も好きだった。浪花節がすごく流行っててね。おばあちゃんがラジオを、聞いてて覚えちゃった。『浪曲天狗道場』って番組があって、入門で合格すると500円もらえる。次の初段へ行くか、ここでやめるか聞かれて初段に挑戦した。そうすると、「ドンドンドンドン!」って鳴って合格。そうやって2段まで行った。ここでやめておけばよかった。次に3段に挑戦して、「ドドンッ!」って落ちちゃった(笑)。賞金は全部パー。■本の出版芸能が好きで、子供の頃からいろいろなことをやってきた。昭和40年頃からかな、自分でできるものは自分で覚えよう、できないものは記録して本で残そうと思った。昭和54年に新潟県に単身赴任したけど、新潟県に越後三十三観音っていう観音霊場があることを知ったんです。それで調査をはじめた。その原稿を新潟日報に持っていったら、ちょうどこれから企画しようと思っていたということで出版してくれた。それで初めての本、『越後三十三観音 巡礼の旅』を出してもらえたわけです。営業なんて売れてれば自由ですから。だから、新潟はつらかったけど、嫌なことだけじゃなかった。昭和60年に会社がアメリカメルクって大きな会社に買収されちゃったわけ。そのときに社長が変わったんです。その社長が文化的な人でね。私が本を出したのを知って、「我が社にこんな文化的な奴がいたのか!」と、親しくしてもらった。「いい加減帰してくださいよ」と言ったら東京へ帰してくれた。本を出したのも、東京へ帰れたのも、芸は身を助けると言いますかね。新潟へ行ったから、本を出せた。帰ってきて2、3年、卸を監督する仕事をしてたら、社史をやってくれと、社長直属のお願いがあってね。そうして日本中のOBのところを探して歩いて、聞き取り取材に回った。そのころ、古事記が元になってる里神楽をやっててね。社史をやりながら、古事記の取材も始めた。高千穂に古事記の取材に行くとしたら、その近くにOBがいないかなと探したりして。だから逆なんだよ(笑)。芸能のおかげで、すべてのことがつながってきてるの。社史は4年ぐらいやったんだけど、社長が1年で変わって、完成する前に定年退職になった。結局、別の教授が完成させました。でも、私が取材した資料をもとにしたみたいですよ。退職が嬉しくってね。やっと自由、これからだ!と思った。今は楽しい。とにかくじっとしているのが嫌なんだ。習い事をいっぱいしてます。会社では喧嘩ばっかりして、課長殴っちゃったり、それが原因で新潟に転勤になったり(笑)。それでも、定年までいてね。いい会社だったよ。■頑張っていれば夢は叶う演芸や芸能が好きで、小学校から主役やってね。元々、人に見せたがり屋なんですよ。今は品川神社の祭りの責任者やってるんですけど、お祭りが好きなんです。営業時代、芸者遊びしてるうちに、端唄、小唄を覚えて。そして、三味線弾きたくなっちゃったの。親父に三味線習いたいといったら、三味線の師匠を紹介してくれた。そしたら、叔母が三味線を買ってくれた。師匠からなかなか筋がいいと言われて、地元の女郎屋の元主人たちがやっている「おとぼけ連」という仲間に入れられて三味線弾きになっちゃった。古いものが好きでね。昭和38年に東京オリンピックがあって、古いものが壊されちゃうってんで、古いものを写真に撮ってたんですよ。これは何とか保存しなきゃいけないなと。品川神社に太太神楽という神前舞があって、里神楽の間宮社中が奉仕してたんだけど後継者がいなくなって、昭和47年に太太神楽保存会ができた。以来、40数年やってるけど、今は後継者を育てている。里神楽の間宮社中も後継者が不足したので、それもやることにした。これも40数年やってるけど、これはまだ教わっている。今は、私のライフワークみたいなものだね。三味線に茶道に神楽。全部、自分でやって、できないものは記録して本にする。だけど、なかなか本を出版できなくてね。なんども諦めかけたけど諦めなかった。そして、平成4年についに本をだすことができた。自分の著書をだすことが夢だった。だから、授業で中学生に言ってるんです。夢は諦めなければ叶うんだよと。取材担当者のコメント御自身の本を出版されたり品川神社の年番長を務められたりと、人が羨むような人生を歩んでこられた佐藤高さん。お話をお聞きするうちに、その華やかな人生は、どんな逆境にも屈せず、たゆまぬ努力を重ねてこられた結果なのだという事が分かりました。「私ね、頼まれたら断れないんですよ」と笑いながら話してくれた高さん。そんな男気溢れる高さんの魅力がたっぷり詰まった一冊になっていたら幸いです。ありがとうございました。ご本人の感想(お手紙から)すばらしい雑誌をつくっていただき、ありがとうございました。取材で話した内容を十分に生かしてくれたし、写真も豊富に掲載してもらえました。良い自分史ができ、一生の思い出になります。子どもや孫たちに私の生きざまを知ってもらえて良かったと思います。幸せです。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-27 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/537/ 人物紹介北九州で生まれ、女学生時代には学徒動員も経験したという松浦みち子さん。結婚後はご主人の転勤に伴い、東京、浦和、高松と様々な土地で生活してきた。「総決算としては、いい人生だった」と語る松浦みち子さん。戦争中の生活一番上の兄が大学を卒業してから中国に渡って、製塩工場で働いていたんですよ。でも、がんになって帰ってきたんですね。療養していたんだけど、28歳の若さで亡くなってしまいました。私たちも育ち盛りだったし、両親も長男を頼りしてたのに死んじゃったでしょう。それが相当つらかったらしく、1カ月もたたないうちに、今度は父が肺炎で亡くなってしまってね。当時はいい薬もあまりなかったですから、そのことはすごくショックでした。それからはさらに生活が大変になりましたしね。 私の住んでたところは空襲はなかったんですけど、山の方にB29が落ちたり、爆弾が落ちたりというのはありましたね。直接の被害を受けたわけではなかったですけど、音がすごかったです。空襲警報が出ると、防空壕に避難したりしてました。女学校に通っていたときのことですが、学校からの帰り道を母親と歩いていたら機銃掃射に遭って。バチバチバチーッて音が聞こえてきました。怖かったので石橋の下に2人で逃げ込んだんですけど、今考えたらゾッとするような体験ですよね。 私が通っていた女学校は4年制で、女学校の2年生から4年生の夏の終戦まで、繭から糸を取る仕事を工場でしていました。勤労奉仕ですね。4年生の夏に終戦になって、そのあと9月からまた女学校に戻ることになりました。終戦の8月15日のときは、みんな仕事をお休みして放送を聞いたんですよ。でも、何を言ってるかよく分からない。その日はわけが分からない気持ちでしたよ。だけども、灯火管制が取れてほっとしましたね。繭の糸を取りながら、「もう死ぬ」って思ってましたから。そのころ、沖縄はもう駄目らしいって情報は入ってきてて、次に来るのは九州だって言われてたんですよ。海岸から敵が攻めてきたら、私たちは竹やりを持って立ち向かって死ぬんだってみんな思ってました。そういう切羽詰まった状況だったので、死を覚悟してましたね。そんな中でも、普通に日常生活を送ってましたけどね。取材担当のコメント戦時中の体験や、ご主人と共に歩んでこられたエピソードが心に残っています。何回もご経験された転勤でも、その土地ならではのエピソードを披露してくださり、とてもワクワクしながらお話をお伺いしました。ご主人の介護など、ご苦労もおありになっただろうに、ご自身で一歩一歩進んでいかれる姿には力強さを感じました。ご家族の感想(お手紙から)本になると時代背景を頭の中で整理することができました。家族だからこそ分かり合える部分があり、温かいぬくもりみたいなものを感じながら読ませてもらいました。これから、この本を開くたびに新たな気持ちを創り出してくれそうな、それでいて心の道標のように寄り添ってくれそうな気がします。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-03-06 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/1054/ 人物紹介 大戦中は陸軍少年戦車兵学校を卒業し、陸軍船舶部隊では事故で九死に一生を得た山田茂さん。復員後に専門学校で学び、京都市消防局に入り、昭和45年からは消防署長として活躍。退職後も精力的に働いたのち、15年間にわたり妻の介護に力を尽くした。自分史本文より■船舶部隊で迎えた終戦陸軍の元歩兵部隊の兵舎が空き家になっていて、20人の戦車兵出身の船舶兵が行きました。また一から勉強の3カ月で、まず手旗からですよ。何回やっても上手にならん。小さな子どもに見られて「兵隊さん下手ですねえ」って言われたのをよう覚えてます。船のエンジンの調子を見る仕事で、瀬戸内海をあちこち回りました。金毘羅さん行ったり、鞆の浦の仙酔島行ったり。陸路で大阪へ行き、船を受け取る回送の仕事もありました。船の中で台風が通り過ぎるのを待ったこともありましたね。その後部隊の移動で山口県徳山市へ。海岸沿いの山に手掘りで横穴の洞窟を掘る仕事をしました。物資を収納するための穴だったと思います。掘ってるときに落盤事故に遭い、埋まって死にかけました。「これで終わりや」と思ったけど、足の骨折だけで助かった。気が付いたら自分の足が「何であんな方向にむいてるんだ?」という、下腿の開放骨折でした。女学校の講堂に担架で運び込まれて、骨が出て見えてました。内科の軍医が骨が見えてるところを縫うてね。広島へ転送されました。汽車の二等車の座席の手すりの上に担架を乗せて、4人分の座席を占有するような感じでしたね。入院先では軍医が「縫うたらあかん」と怒っていてね。レントゲンもない時代、骨に穴開けてボルトでつないで、20日間重りをぶら下げてじっとしてなきゃならなくて。それで骨と骨が付くやろうということでした。しばらくして、立てるようになったら軍医が「両足の長さがそう違わないし、多少びっこひくくらいだから、骨はくっついてるから、別府へリハビリへ行け」と。毎日山登りをして温泉につかれ、と。あのころはもう、あちこち爆撃受けてるのに、毎日山登りと温泉なんて、結構なことやったけど。それが昭和20年の4月、5月のことです。治ってからは、傷痍軍人として銃後の仕事に就くかと言われたけれど、志願までしたのだからと「原隊復帰させてくれ」と言いました。それで元の部隊に戻って教育係をしているうちに、門司で終戦を迎えました。実感はなくて、戦争はまだまだ続くんちゃうかという思いでした。「負けるもんか」という気持ちがあったから、残念やったね。でも、あとから振り返ると、沖縄戦の悲惨な情報なんかは知らされてなかった。情報を隠さないで、もっと早くに知らせるべきやったね。終戦から9月10日までは、櫛ヶ浜にいました。命令を受ける「命令受領」という役目があって、毎日広島へ行きました。原爆直後の広島です。駅降りても何にもない。電柱しかない。毎日広島へ行ってたけど、幸い被爆の症状はずっとありませんが、今も被爆2世、3世の人が苦しんでると思うとね。骨折で入院していた陸軍病院は原爆ドームのすぐ裏にあって、入院中は銀色に光るドームを毎日眺めていたんです。早く治って外へ行きたいという思いで眺めていたんですな。その後のドームの姿を見て、「こんなんになるんやな」と思いましたね。もう戦争だけは、と思います。たくさんの人が亡くなりました。するりするりと何回も生き延びて「何で自分はこうも生き永らえてるのかな」と思いましたよ。■妻、家族への思い家内は言うことないですわ。頭も私よりいいしね。私はもう、全てお任せ。その代わり働く、ということで家のことを一切仕切ってもらった。子どものことも任せっきりで。でも「子どもの将来のことを考えるのは親の責任やで」と言ってくれる人があって、将来のことは考えました。それで、娘は公立の中高へ行ってから薬大へ。息子は京都で有名な進学校から医大へ。今は病理医として大学病院に勤めています。定年まで絶対行け、と言うてるんですわ。家内のお母さんも、毎日遠いところから来てくれて子らのことを見てくれて。おばあさん子でした。家内と家内のお母さんのおかげで子らがある、と思います。子どもが育ってくれたおかげで、何の心配もなしに、夫婦2人で最高の晩年を過ごさせてもらいました。家内は体調がすぐれなくなっても私にはあんまり言わなかったし、分からなかったですね。仕事もしてて、体が少し不自由になっても好きなアートフラワーをやってましたね。家内の作った花は全部残してあるんです。手間暇かけて、ようこれだけ作ったなと。手先が器用やったんやね。15年間はずっと付きっ切りで、毎日2時間から4時間車に乗せて、外の空気に触れさせて。まあ、介護は90点くらいやったかな。やれるだけのことはやった。最後のみとりまでね。寄り添いというか、同体のように思っていたね。数えで90歳まで生きました。極端にやつれることもなくね。「あんたの背中に付いてるよ」と言われてました。それから2年。今もその延長ですよ。家内には「あんた世界一や」とよう言った。日本一違う、世界一やと。5人の孫にも恵まれて、何も言うことないです。みな結婚して、ひ孫もおる。みなに感謝するしかないですな。自分が親の背中を見ていたように、子らも親の背を見てきてくれたのかな、と思います。みんなが実っていると思う。理想的な家族やと思うね。取材担当者のコメント聞かせていただいたお話のどれもが心に残っています。お仕事、戦争体験については、お孫さんやひ孫さんの皆さまにもぜひ心にとめていただきたいと思います。ご家族の感想(お手紙から)高齢の父親にわかりやすく問いかけてもらって、父親も話しやすかった。自分が知らなかった多くのことが知れた。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-03-07 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/1063/ 人物紹介 地元の名士の父と商売人の母のもと、鹿児島県指宿市で幼少期を過ごした阿野昭三郎さん。東京に出て兄と共に会社を起こすも、兄が倒れたことで急きょ会社を一手に引き受けることに。その後、苦労を重ねて事業を拡大させた。自分史本文より■7人兄弟の末っ子生まれは昭和18年。鹿児島県指宿郡山川町という港町だよ。昔は繁盛していた町だったんだ。20年前に帰ったときは過疎化していてね。港町だから、家は鰹節を作っていたよ。それと、お風呂屋・運送屋・貸店舗なんかしていたね。長くて大きい家でさ、相撲の巡業あるだろ?周りに旅館がないから、みんな家に泊まったんだ。小学一年のときだったかな、羽黒山がいたんだ。父が県会議員で、母が商売人。父は地元に貢献した人だった。漁業組合長もしてさ。台風の時期になれば、父は消防団で外を守りに行ったな。母と兄弟で家を守っていたよ。父親は地元に厚くした人だったね、誇りに思っている。人のために尽くす人で、人望があったな。私は、460匁(もんめ)で生まれてね。匁って単位、今の人分かるかな?要は未熟児で生まれてさ。ダメだろうって言われていた。7人兄弟で、男3人に女4人。私は一番下で、上の姉とは二回りも違うんだ。一番下だからかわいがられたよ。それに、50歳近い時に出来た子だからね。■肝っ玉母さん母親が商売人でね、魚を担いで行商人をしていたな。魚の入札をしたりね。家の事を全部母がしていたから、母の影響が大きいかな。物心ついたときが一番いい時期だったよ。母親は厳しい人だった。お線香をあげないとご飯はなし。父の前で胡坐をかいてはいけない。悪いことすると、お線香を手の甲にあてられて、痕ができたりしたよ。長櫃に入れられたりもしたよ。お仕置きだね。母親は仕事で忙しかったから、住み込みの女中さんのふみさんに育てられたんだよ。「金儲けは体で稼げ。」これは、母の言葉で、良く格言を言う母だったんだ。私の基本も「汗を流して稼げ」だね。今は通じないけど、頭を使ったり人それぞれの得意分野があるしね。あっぱれの母親、印象深いね。母は55歳で倒れて、10年寝たっきりだった。■人間関係が大切一番は人間関係だよ。ぶつかることが、1人対30人のときもあった。私はね、本音で付き合うことが一番だと思ってる。いつかは分かってくれるって思っている。裏切り行為は絶対にやってはいけないよ。倍になって返ってくる。その人から受けなくても、他の人から絶対返ってくるからね。例えばさ、孫請けが元受を飛ばすようなことはするな。それやったら、ダメだね。筋を通すこと。基本は人間関係だよ。自分は商売では苦労したほうだと思います。兄が早くに亡くなったからね。でも苦労したことは必ず成果が出る。出すように努力するということだと思います。私ほど失敗している人間はいないからね。■息子・娘・孫娘は自分に似ているよ。心配性で石橋をたたいて渡るタイプ。子どもが双子だから、子育て仕事に頑張っているなと思う。私の誕生日祝いは必ずやってくれる、気持ちの優しい子だよ。娘が小さなころ、練馬でネットボールコーチをやっていた。頬を叩くことはなく、手のひらを叩いてカツを入れていた。しごいてくれてありがとうと言われたよ。今は会社で仕事をやっている。決算表など作っていて、仕事はピカイチだね。息子は母親に似ているな。成果主義だね。私に出来ないことをどんどんやる。口ではかなわない。仲間作りが上手いよ。ポリシーを持っていて、見る目があるしね。欲しければ取りに来い!下をあげたいなら上から上げると考えていて、私とは180度違う。私は下から上げていくから。退職のときは腕時計をプレゼントしてくれてさ。まあ、かみさんが言ってくれたのかもしれないけれどね。玄関先にある自転車、素敵だろう?それも息子からだよ。自分より心があるかも。さりげなくやるからさ。孫は5人いる。孫たちに伝えたいことは、「親を大切に」それだけ。それ以上たくさん言葉にしても仕方ないでしょ?取材担当者のコメント仲睦まじいご夫婦のご様子や、ご家族や会社のみなさんのお話に心温まりました。目標を持つことの大切さ、健康のありがたさ、そして何より謙虚な姿勢など、お話をお聞きする中で多くのことを学びました。ご本人の感想(お手紙から)子どもたちからは「とても良い雑誌ができたね、貴重だね」と言われました。孫たちも「じいちゃんが雑誌に載った」と喜んでいます。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2021-04-12 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/1077/ 人物紹介 東京・赤羽で生まれ、東京大空襲の直前に群馬に疎開し命拾いしたという吉野芳郎さん。大学卒業後は福祉の世界に入り、群馬県職員として様々な施設で活躍する。退職後は専門学校で教鞭をとり、「福祉の心」を多くの学生に伝えてきた。自分史本文より ■東京大空襲直前に生まれて昭和20年2月24日、東京の赤羽で生まれました。東京大空襲が3月10日。そのまま東京にいれば死んでいたと思うんですけど、親の機転で母の実家の群馬に疎開してきたんですね。拾われた命、このときから自分の人生はおのずと何かに導かれてきた気がします。母親がいっさい戦争の話はしなかったんですよね。だから自分の原風景は、このふるさとの青い空と白い雲、そして緑の大地なんです。小さいときはおとなしくて、女の子と遊ぶほうが多かった。敗戦直後の何もない時代、自然を相手に遊ぶきりなかった。兄はひたすら勉強していて、中学卒業後、東京の高校、大学へ行きました。私も中学のときに東京の父親が声をかけてくれましたけど、母を誰が見るのかって田舎にとどまった。貧しくて、高校へ行かせてもらえる状態ではなかったけれど、桐生の商業高校を内緒で受験しました。母親はそのころ郵便局で働きながら農業もやり、本当にいつ寝ているんだろうかと思うくらい働いていました。何でも欲しいものを買ってあげるから農業をやれと言われたけど、やりたくなかった。お蚕様が苦手で、桑のアレルギーもあって。あの当時は人間よりお蚕様がえらかったんです。一緒の部屋で寝ていたんですけど、人間は端っこに寝ていました。■福祉の世界へ短大時代、障害児の施設に勤めていた高校の同級生から、働かないかと誘われて、生まれて初めて面接に行きました。教育実習先は山の分校だったので、就職はそういうイメージを持っていたんですけど、面接が終わって帰るとき、ある子が「先生いつ泊まり?」って声をかけたんですね。先生なんて言われたら、気分が良くなってね。それで勤めることにしました。知的障害児の施設です。ここが福祉の出発の場所だったんですね。2年勤めると内情も見えてきて、疑問を感じ始めた。本来の福祉とは、について施設長や職員と議論しました。というのは、比較的能力の高い子がいたんですけど、親御さんが知的障害で施設に入れたんです。そういう子に社会参加させる必要があるんじゃないかと言ったら、その必要はないと言われてね。これはもっと上を目指さなくてはいけないと思いました。自分がこうしたい、ああしたいというよりも、人に声をかけられて、それでどんどん展開してきたような人生です。 ■地域での活動65歳からは週3日の非常勤になりましたけど、今度は地域で副区長と区長をやることに。それが終わったら民生委員の依頼がきちゃって。地域の子育て家庭や、生活困窮者、高齢者、障がい者の支援をしています。福祉の世界にいたから苦にはならないんですけど、手が抜けないことばかりで、思った以上に大変でね。これは2足のわらじじゃ無理だと思って、68歳のときに専門学校はやめました。福祉大学でも講義を持っていて、こちらはそのまま続けています。私の専門は「障害児保育と社会的養護内容」。虐待などを受けて親が育てられない子どもたちをどう支援するかという講義で、二コマを持っています。今年の4月から専門学校からまた声がかかって、再び行くことになりました。今まで外にばかり向いていた自分がいるので、恩返しができたらいいかなと、70歳になったら食事処をつくろうと思っていました。年金で自分は生活できるわけですから、材料費だけが出ればいい。50代のころから食べ歩きしたり、食品衛生管理者の講習を受けたり、準備してね。保健所の許可を得るために、かなり改修費がかかりましたけど。ここがノーマライゼーションの場であり、癒しの場。翼を休める場所にしたいんです。ただし民生委員や学校の評議委員もあるし、お寺の檀家の世話もあるし、地域活動のためにこの店は完全予約制にしています。おかげさまでいい状況でお客様が来てくれています。68歳のときに前立腺がんの宣告を受けたので、「もし私の身に何かあったときには、予約は自動的にキャンセルとなりますので、ご了解ください」と宣言しています。いつなんどきお迎えがくるか分かりませんから。自分の人生を振り返るとね、必要とするもののために生きたいと思ってきました。こんな自分でも必要としてくれるんだと。だから私は、ある意味、自分がないですね。自分の意志ではなくて、目に見えないいろいろな糸に導かれていったと思います。青い空、白い雲、緑の大地... ... 教え子には、その中にある物語を自由に描いてみて、と言っているんですよ。取材担当のコメントご自宅をお訪ねしたとき、吉野さんはちょうど「食事処 芳埜」ののれんを出していらっしゃるところでした。そしてお話を伺う間、お年寄りのみなさんが三々五々集まって歓談される声が隣の部屋から聞こえてきました。どんな方も立ち寄れる、温かな場所。70歳になって新たなチャレンジをされている吉野さん。その人生をお聞きしていると、人との出会いや偶然に導かれながらも、福祉という一本のまっすぐな道を歩まれてきたのだと感動いたします。ご本人の感想(お手紙から)インタビューは、忙しい中での自分の憧憬を思い浮かべる良い時間でした。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-09-07 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/576/ 人物紹介大正12年に生まれ、昭和の戦前・戦中・戦後の激動期を、しなやかに生き抜いてきた比留間榮子さん。昭和19年に東京女子薬学専門学校(現:明治薬科大学)を卒業後、戦時中から多くの方の命と健康を守ってきた「榮子先生」です。現役の薬剤師として、74年間、今でも活躍されています。 *10月31日までクラウドファンディングサイト readyforにて、プロジェクト支援者を募集中です! 94歳の現役薬剤師。栄子先生の生涯を称えるために世界記録に挑戦 インタビュー記事より昭和の歴史とともに 私が生まれた頃は薬局をやっていたと思います。それから九十六年、今は四代目です。四代目が孫です。孫は池袋で薬局しています。孫の両親が薬剤師です。私の姉妹は女ばかり四人。今は三人になりました。 二.二六事件聞いたことあるでしょう?私の小六の時でした。あのころ皇居あたりを銃を乱射してたと聞きました。若い将校が。銃殺されたんじゃないかな。その日は東京では珍しい大雪で。小学校は休みでした。流れ弾が当たってはいけないと。その時分はラジオしかなかった。 私が女子高に行ったときに中国と戦争になりました。盧溝橋事件、日本がしかけた日支事変。その頃は日本が優勢で、南方陥落、万歳万歳で。旗行列、夜は提灯行列やらありました。それでもだんだん厳しくなって、昭和十六年に大東亜戦争、私が薬専に入ったとき。十二月八日は真珠湾攻撃。男子大学生は徴兵検査をまぬかれているのだけど、希望してその場で決めてしまいます。 私のいとこも大学二年生で自分だけですぐ決めて、海軍にひっぱられて呉に行って一、二ヶ月でフィリピンへ行き人間魚雷になったんでしょうか、帰ってこなかったです。昭和十八年か十九年には、B 29 も日 本を偵察に来ました。昼のサイレンが鳴ると防空壕へ逃げるんだけれど。東京には(その時分には)おとされなかった。空襲、疎開昭和十九年頃にはあっちこっちに焼夷弾が落ちてきて。昭和二十年にはいってから東京にも落とされました。三月十日に下町、四月に山の手に。東京も水平線が見えたんです。焼夷弾だから全部燃えちゃって。住んでいたところからも、東京駅や皇居が黒い建物として見えました。それから昭和二十年頃、婦女子は進駐軍が来るかもしれないと、両親は東京に残って、私らは田舎の方に疎開しました。家も畑もあったし。 小作の人に作ってもらってお米で貰っていた。田植えもしました。供出もしました。食べ物の売っているところがないんです。自分が食べる分だけ作って、買えるところがないから。(その時分は)百姓してました。東京にいたんではだめだと、一回目の荷物を三月の空襲前に信州に送りました。一回目の荷物は信州についたんです。小学校の時にお習字を習っていて上野美術館に出さないかと言われたものが残りました。今でもあります。いよいよダメかと四月に信州へ行こうかという前日に空襲があって。 二回目の荷物はダメでした。信州からも見えました、東京の空が赤く明るかったこと。何時間もかかる遠いところなのに。あくる日両親がひょこっと帰ってきた。鈴なりですって汽車が。煤けて真っ黒な顔して。それからは皆で百姓をしていました。八月に広島と長崎に原爆が落ちたでしょう。両親は空襲の夜に逃げて逃げて。目の前に焼夷弾が落ちた人を見たと言っていました。担架に乗せられた人も。人波に乗って逃げたときいています。音羽に東大病院の分院があって、たくさんの人が担架に乗せられて。でもどれだけの処置ができたかはわからないです。両親は弾の中をくぐって。子どもだけでも疎開させてあげて良かったと言っていました。信越線も当時は何本も出ないでしょうけど、汽車に乗れた細かいいきさつは聞いていないです。今は新幹線だけど当時は六時間かかって。高崎すぎると軽井沢まで二十六のトンネルがあるんです。小学生の時にトンネルを一つ一つ数えて、乗ってました。 戦争が激しくなって配給制度になって。隣近所で同じものを食べてました。米だけじゃ足りないのでサツマイモや大根をまぜたりふかしたり。小麦粉をまぜたり。今じゃトリの餌だけどふすま、アワ、ヒエ、それも配給されました。足りないと物々交換もして。お百姓さんは綺麗な物を喜んだ。お金は要らない。家にはサッカリンがあったので、お米と交換もしました。商売していると食物には困らかった。お金があっても物がない時代だった。毎月銀行で一人一万円しかおろせない、そういう時代もあって。昭和二十三年に、貨幣価値が変わった。銀行が封鎖されて。一万円で何が買える?買うものもなかったけれど。そうされても文句言う人もいなくて。どういう生活していたのか。仕方無かった、皆と一緒でした。 戦争は絶対にやってはいけない。あの時は命令で仕方なかったです。天皇のためにと。戦争は上からの命令で嫌だとはいってはいられなかったです。終戦、その後 八月に玉音放送がありました。私は気がつかなかった。山の中ですから。隣から隣へうわさで。終戦を本気にはなれなかった。山の中には攻めてこなかったけど、とにかくB29が。 戦後は信州からやってきて池袋で土地を見つけて。それぞれ妹も大学を卒業して。田舎にも百姓をして、行ったり来たりしながら。池袋の薬局を手っていました。主人と一緒に。そこに住まいもあって。にぎやかでした、父、母、主人、私、妹たち、皆家族一緒ですから。妹は順次結婚して出ていきました。私が薬剤師となったのも自然。当時は薬専は東京にほとんど集中していた。昔は男女共学ではなかった。空襲警報のサイレンの音を聞きながら学校に通っていました。当時はまだ、偵察のみで飛行機の音が聞こえていたのが耳に残っています。薬局の成り立ちと変遷 薬局を開いたきっかけは、父が信州長窪町で生まれました。父は三男で山の中で、やっぱりどうしても東京に出て勉強したいと。父は兄と一緒に東京に出て、兄は現東京歯科大学、父は薬学校に二人は分かれて東京で暮らしていたようです。卒業後薬局を開き、そして店も順調にいって。 薬局は支店と本店があって。本店は母の兄がやっていて。支店は父と母でです。春日通りで。昔は薬局は大塚の停留所のそばにありました。都電も昔は王子電車といっていました。三ノ輪と早稲田間で。軌道(路面電車)だったんです。昔は都電が主力で。銀座行くにも都電でした。春日町で乗り換えて。切符の値段が七銭でした。七銭でどこでも行けたんです。乗換の切符さえもらえば。第二次大戦の終戦直前まで昭和二十年頃まで通っていました。ヒルマ薬局への思い毎日毎日が仕事との戦いです。お客様 を笑顔でおむかえして、1 つ 1 つ処方箋 を見守りながら患者様の要諦をお聞き し、納得のいくお話をし、理解していた だき、喜んでお帰りになるのは大変うれ しく思います。 ―お店への今後の期待は? 新しい情報をしっかり取り入れ患者様 達が足をむけてくれる薬局にしていきた いと思います。若い人達の考えを尊重し、医療制度なども変わってくると思います。 今の目まぐるしい世の中と向き合って ゆく事は大変です。併し、それらに遅れ をとらず常に先進のみです。 何事も先へ先へと新しい考えをとり入 れみんなと相談し合ってお客様に喜ばれる 薬局作りをしてゆきたいと思っています。 ―薬局とは、どんなものであるべきで しょうか? 薬剤師として患者様の体の調子具合の 悪い事、悩んでいる事などその方の身に なって一緒に相談に乗ってあげ、薬の重要 性など幅広く見聞を広め、気軽に薬局へ足 が向くようになって欲しいと思います。取材担当のコメント数回お話をお聞きするうちに、榮子様のお話の内容だけではなく、穏やかな 中にも凛としたお人柄にも惹きつけられました。そして、戦前戦中戦後を生き てこられた人生の大先輩として尊敬申し上げます。この雑誌を手に取る方々にも、それを感じていただければ幸いです。ありがとうございました。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/344/ 人物紹介大阪府天王寺で生まれ、空襲に遭うも一命をとりとめ、丹波へ移住。静岡大学を卒業したのち、中学教諭として子どもたちの教育に力を注ぎ、校長としても活躍してきた。私生活では、最愛の妻とともに2人の子どもを立派に育て上げた。生徒に真摯に向き合って生きてきたという金子徹さん。寄宿舎生活しばらくして、兵庫県丹波の山奥に住職のいないお寺があって、来てほしいと言われたので、父は大阪の永元寺と兼務という形で行きました。中学2年のときに転校になって、私と下の弟は寄宿舎に入りましたけど、大変でしたね。中学校は1年生から5年生まであるんですけど、寄宿舎の各部屋にも1年生から5年生までいるんです。終戦前後ですから厳しくてね。起きるとまず上級生の洗面器に水を入れて、歯ブラシに歯磨きをつけて、どうぞと渡します。軍隊生活のようでした。下級生が掃除もやるんですけど、80メートルぐらいある廊下にずらっと並ばされて、上級生がそれっと掛け声をかけたら一斉に雑巾がけです。寄宿舎の消灯時間が9時ですから、テストのときの勉強は廊下の電気の下で上級生はやるんですけど、下級生はトイレの電気がついているところで勉強しました。食料事情も大変なころですから、朝はお粥みたいなのが出ます。イモご飯だってイモの中にご飯粒が入っているようなものだし、味噌汁にはイモの葉っぱが入ってました。唯一楽しみにしていたのは、月に1度か2度両親のもとに帰ることでした。母親の優しさを感じるんですよ。戻るときも食べ物を持たせてくれるんですけど、寄宿舎に戻ると上級生に取られてしまうんです。上級生が、これはこっち、これはかわいそうだから残しておいてやる、なんて言うんですが、おいしそうなものからなくなっていきましたね。僕らは上級生から散々いじめられて大変な思いをしましたから、自分たちが上級生になってからはやめようということで、僕が上級生になったときはそういう風潮はなくなりました。本を読むことが好きだったから、勉強も文学系が好きでした。僕たちの寄宿舎のすぐ近くに女学校の寄宿舎があったんですけど、上級生に「おい金子、彼女に出す手紙を書け」と、よくラブレターを書かされましたよ。「これじゃあ駄目だから、書き直せ」なんて言われてました。国語の教師になれたのも、上級生に鍛えられたからなのかもしれませんね。 取材担当のコメント取材にお伺いした際、きちんと整理されておられる資料から徹様の丁寧な暮らしぶりが伝わってきました。子ども時代から現在までの半生をお話なさる中に、ときおり挟まれる冗談から、生徒さんに慕われた先生でいらっしゃったことが容易に想像できました。お誕生日や結婚記念日にお電話取材できたことも幸運でした。  --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-09-18 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/601/ 人物紹介幼少期から、アルバイトをしながら勉学に励み、常に優秀な成績をおさめてきた。 日銀へ就職するも、かねてからの夢であった公認会計士の資格を取得し、独立。生涯のベストパートナーとなった妻と共に、充実の日々を過ごしてきたと語る寺田芳雄さん。インタビュー記事より日銀入行、妻との出会い小倉先生から日銀に行ってくれないかと言われたんです。先生が就職の係をやっていて、何人か日銀によこしてくれないかと言われたんでしょう。そういうときは、金融論などのゼミからいいのを1人送ってくださいよと言われるのが普通でしょう。だけど先生もちゃっかり自分のところから入れようとしたんですね。日銀から試験を受けに来いよと言われてるだけで受かるとは限りませんから、じゃあ取りあえず受けようと。大恩のある小倉先生からの話ですから、断るわけにもいかなかったんです。でも、怒ってた人もいたんですよ。山岳部に金融論をやっていたやつがいて。ホントはそいつが行くべきですよ。だから、気を悪くしていたと思うんですよね。私は原価計算だったから、今から思えば、日銀から少々変わったのを送ってくれとでも言われたんでしょう。その年は変わったやつが多かったから、人事部は失敗したと思ったんじゃないですか。それからは元に戻したようです。お父さんが頭取だとか、そういう人にね。だから、私の年の人は辞めていった人も多かったです。でも私はこれ、断れないでしょう。本当だったら自分で選んだ会社を受けて「あー落ちた」なんて言ってたでしょうけどね。先生は、私のためじゃなくて、学校のためにルートを作りたかったんですよね。だから予感はしてました。いずれ辞めるんじゃないかな、と。本店での面接なんて、聞かれたこと全部答えられない。金融論なんて知らないから。吉野俊彦さんっていう、日銀で理論家で通った人からの質問も「わかりません」で、2、3分で終わっちゃった。小倉先生に言われなければ、日銀なんて入らなかったですよ。日立製作所とかに行ってたと思います。なにしろ原価計算ですから、工場に行ってたと思いますよ。でも、そこもつまんないとか言って早く辞めてたと思いますけどね(笑)。 入って3カ月間、本店研修を受けて、函館支社に配属されました。ここで妻と知り合ったんです。私はもう仕事をやる気がないから、出掛けてくると言って外で寝てました。だから、上司の評価は悪かったですね。妻はね、一番良かったんですよ。気が付く女性だったし、男はそんなことやられると、乗せられちゃう。気を遣ってくれただけかもしれないのに、好かれてると思っちゃうんだよね。結婚してよくわかったけど、彼女は計算とか事務とか抜群です。それは本当に良かったですよ。気の付く女性って、そういうものでしょうけど。さっと気が付く、それが頭がいい証拠ですね。私は、そういう点では頭が悪いんですよ。 函館支店にいるときに結婚して、本店に異動したときに一緒に来ました。函館支店では、仕事はしないで結婚だけ。奥さんを見つけに函館に行ったというか、結果としてね。目的としては、仕事はゼロ。デートはものすごく行きました。だって仕事してないからね。給湯室で声をかけて「今日はどう?」なんて言ってましたよ。デートでよく行ったのは函館山です。立待岬の五島軒ってレストランに入ると、私は100円の定食。なのに女房は、150円の食べるんだよね。私が払ったと思うんだけど、財布が大変だったね(笑)。デートは町の中や山を歩くだけでしたけど、海が見えて素晴らしかったです。日銀時代は自分のしたいことだけしてましたから、楽しかったですよ。 取材担当のコメント自ら人生を切り開いてこられた方ならではの力強さとしなやかさを感じる取材となりました。目標に向かって一歩ずつ進んでいくお姿は、ご趣味の登山と通じるところがあるのではないでしょうか。ご本人の感想(お手紙から)これを読むと、私の顔つきや体つき、生き様、人生観、これからの生き方まで想像できるようです。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-09-18 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/622/ 人物紹介昭和3年に山梨県で生まれ育つ。炭屋を営む父を手伝い、小学生時代から兄と炭を運んだという。以来、様々な仕事を常に全力投球してきたが、とくにブドウ作りには誰にも負けないくらいの情熱を注ぎ、今でも早朝から作業を行っている阪本辰治さん(取材当時)。インタビュー記事より戦争と戦後小学生のころ太平洋戦争が始まりました。15才のころに少年兵を志願したけれど、小柄で身長が足りなかったから、身体検査で落ちて試験も受けられなかったんです。今思えば命拾いしたんですよね。戦争に行った同級生は戦死してしまいましたから。 小学校を卒業してからは主にブドウを作っていました。炭の需要がなくなってきたから、父がブドウを始めたんです。当時勝沼でブドウ作りが始まったときでね。甲州ブドウです。豚も50頭くらい飼っていて、食肉用に出荷していました。ブドウ園の下に畑も作りましたよ。じゃがいもとかほうれん草なんか作って、豚の餌にしてました。父はブドウと豚で財を成したんです。あとはね、市場で柿を買ってきて干し柿を作ったりね。やり手でした。父を誇りに思っています。終戦は17才で、実家のラジオで聞きました。戦争が終わって、自由に好きなことができると思いました。友達は3人ほど戦地に行ったと思います。弟は愛知県豊田の軍需工場にいたときに空爆されて、15才くらいで死にました。豊田に埋葬されましたから、お参りに行きました。 戦後、20才のときに東京に行きました。新宿に一間半くらいの店が立ち並ぶマーケットがあって、身内が店をやってたんです。そこの一画で立ち飲み屋をやって、山梨のワインを売ってました。父にお金を出してもらって、2年くらいやってたんです。ただ、うまくいかなかったので、店は売って山梨に引き上げました。新宿では店の上に住んでいました。商売に慣れるのも、人付き合いも大変だと思いましたね。借金はしないように生活していました。親の背中を見てきたから横道にそれることはなかったです。それで、戻ってしばらくは家業を手伝っていました。 酒は好きでしたね。ワインをたくさん飲みました。ビールも好きですね。ブドウ農家だから、自宅でお酒を造って飲んでました。毎晩コップ1杯、健康のために。取材担当のコメントとにかく小さいころから働き者だったという阪本辰治さん。口数は多くはなかったのですが、とつとつと語ってくださるお姿からは、ブドウ作りへの情熱と思いを強く感じることができました。「働くこと」と「育てること」について、深く考えさせられる取材でした。ご家族の感想(アンケートから)今回の取り組みで、親の知らないことを知ることができ満足しています。完成後に兄弟会を開き、父の米寿のお祝いをホテルで行いました。孫も同席して、楽しい会となりました。御陰様で、記念品として「親の雑誌」をプレゼントすることができました。がっちりマンデーで紹介させていただきました!平成28年2月放送のTBS系「がっちりマンデー」で、阪本辰治さんの雑誌を紹介させていただきました。    --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-01-24 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/896/ 人物紹介 東京の築地で生まれ、大所帯の中で家族にかわいがられて育った三浦恵美子さん。短大を卒業後、伊藤忠商事に就職。そこでご主人と出会い、結婚。3人の子宝に恵まれ、妻として、母として、家族のために生きてきた。現在は新橋に料理店を構え、いきいきと店を営んでいる。自分史本文より料理店を開店平成十七年に主人が定年退職しました。それに一番下の子どもも就職して大阪に行って、みんな自立したんです。主人が定年退職して不安があったこと、料理を食べるのも作るのも好きだし、人との交流も好きなので、思い切って料理のお店を新橋につくりました。主人とずっと二人でいる生活が不安だったのも理由の1つですけどね(笑)。主人の友達が協力してくれて、一緒にお店を探したり、アドバイスをもらいました。実際に始めてみたら主人の友人達が来てくれましたね。夫の顔の広さに感謝でした。自己流の店なんですけど、コンセプトを考えてやっていました。そうすると自分の考えに共感してくれるお客さまが来てくれます。赤字なんですけど、今でも続いているんですよ。「安ん座」という店の名前は、胡坐をかく、リラックスをするという意味。ゆっくりしていただきたいとつけました。趣味の城です。主人が七十七歳、私が七十歳になるので、決められたことがなければダラダラしてしまうし、やらなければならないことがあるので、それがぼけ防止になってます。それに雨が降っても、寒くても暑くても、家にいたくても、外へ出ないといけないので体力作りにもなってます。定休日は土日祭日と、旅行に行ってるときです。お店はフリーでも入れますが常連さんが多いですね。三週間くらい旅行で休んでも、お客さまが「今度はどこに行くの?」、「どうしたの?」、「具合が悪かったの?」と心配してくれます。有難いです。困難に打ち勝つために勉強していかないといけないですね。ガクッと突き落とされたり、落ち込んだりすることもあります。手だては分からないけど少しずつ、周りを見ながら感じるところに進んでいく。すると、いろんなことが見えてくるんです。見えたら、取りあえずやってみる、取り入れてみる。あとを振り返ったり、拘ったりしないことが大事です。他人を頼ってはだめ。やっぱり、他人は自分自身じゃないので100%は自分のためにやってくれないです。自分で考えて行動する。やりたいことは自分でやるんです。一歩ずつ行けば何か見えてきます。ちょっと行くと足元が見えてくる。そこから少しずつ広げていけばいいんです。 取材担当者のコメント本当に多くの趣味をお持ちで、様々なご経験をされてこられた恵美子さん。そのご経験を通して思われたこと、感じたことを常に大事にされていらっしゃるんだなと感じました。明るくポジティブで優しさにあふれる恵美子さまの素敵なお人柄が感じられる雑誌に仕上がったと思います。 ご本人の感想(お手紙から)取材では、インタビュアーの方の話の引き出し方が上手でした。できあがった雑誌もとても気に入っています。この雑誌があることで、家族や孫、知り合い、友人たちとの会話が弾みます。お世話になりました。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/385/ 人物紹介8人兄弟の末っ子として生まれ、父を早くになくし、兄弟とともに多くの苦労を経験。高校卒業後に入った海上自衛隊では、単身でアメリカに留学。以来、潜水の専門家として活躍。機雷処理、潜水艦沈没時の救助訓練など、52歳の定年まで厳しい仕事を堅実に勤めてきた。「海上自衛隊が好きだから、頑張れた」と語る兼光進さん。海上自衛隊でアメリカへ海上自衛隊でね、セーラーから始めて下士官になって。アメリカの海軍に1人で留学したんですよ。昭和38年、25、6歳の時かな。アメリカ海軍深海潜水学校というところ。ホワイトハウスまで10分くらいのところにありましたね。 このときに、ケネディ大統領が暗殺されてね。ケネディさんの葬儀に出たんですよね。「オーバーシースチューデント」ということでね、いちばん前に参列しましたね。 この留学では深水潜水課程の技術を持ち帰ったんです。150~160メートルも潜る訓練をしました。日本は当時、技術はもちろん、設備もなくてね。年に1人か2人、留学していましたかね。アメリカ留学中では、ハワイの学校にも行きましたね。ハワイでは、スキューバもやりました。スキューバで、空気で潜るのは、40メートルくらいまでね。深く潜るのは、ヘルメットでね。アメリカから帰ってからも、潜水の専門家としての仕事がほとんどでしたね。 海上自衛隊では呉、佐世保、横須賀、神戸、大湊、基地のあるところは回りましたね。アメリカに行った経験があって、その後幹部にもなったので、全国を回ったんですよ。基地があるのは、どこも港町でね。夜しか自由時間がないこともあって、よく飲みましたね。飲むくらいしか、することないしね。海上自衛隊は、全国で部隊が5~6つに分かれていてね、その全部に行ったけど、水中のことばかりでした。第二次大戦中にアメリカが落とした機雷の処理をしていましたね。危険手当が出たので、お金も儲かりました。こういう機雷はね、掃海艇のレーダーに引っかからないのがあって、目こぼれ、というんだけどね。最後は人間の目で見て、確認するんですよ。機雷というのは、細長くてね。火薬を仕掛けて、海の中で爆発させるんです。すると、周囲の魚が死んで浮かんでくる。地元の漁協との交渉なんかもあるしね、なかなかキツい仕事でしたね。もう一つ、自衛隊でしていた仕事はね。潜水艦が沈没した時に救助する訓練をしていたんですね。深さ140~150メートルまで潜ってね、外からバルブを操作して、まずはエアーを送る。そんな訓練です。冬は寒くてたまらなかったですね。あとは、江田島の海軍学校で教官もしていました。海上自衛隊の中では、転勤は多かったですね。ご本人のコメント(アンケートより)この度は本当にありがとうございました。後になっていろいろ記憶がもどりああいう事もこういうこともあったなァと思いだして大変楽しい一時を過ごすことができ本当にありがとうございました。みなさんの「こころみ」がみんなを喜ばせてくださりいいお仕事をしてくださり感謝感激しています。本当にありがとうございました。近くにこられたらぜひお電話なりお立ち寄りくださいませ。担当者コメントご苦労の多かった幼少期や海上自衛隊でのご活躍、今も変わらず続く自衛隊時代のご友人関係と、進様の貴重な思い出やお人柄が詰まった1冊になったかと思います。海上自衛隊時代のアメリカ留学のお話や潜水のお話など、とても興味深く身を乗り出しながらお聞きしました。そして、世界で活躍される娘様やそのご家族を温かく、優しく見守る思いを、言葉の端々に感じる時間でした。この雑誌を、ご家族みなさまに笑顔でお手にとっていただければ幸いです。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-02-09 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/902/ 人物紹介 石巻の大きな商家に生まれ、恵まれた幼少期を送った榮子さん。大恋愛を経て最初の結婚をするも、幼な子を残して離婚。その後、再婚して2人の娘を授かり、夫の仕事を全面的に支え続けた。100歳を超えた今は、娘たちに囲まれて穏やかな日々を送っている。自分史本文より■戦争の記憶 長女がまだ赤ん坊のころに戦争が激しくなってきて、石巻でも空襲警報がしょっちゅう鳴っていました。空襲警報が鳴ると、そのたびに長女をおぶってずっと田舎のほうに逃げるんです。知らない農家のうちに勝手に入って隠れたりしてね。それで、大丈夫だと分かると帰ってくる。明かりは全部消えていて真っ暗だったから、本当に大変でしたよ。それに、防空壕に入っているときに長女が泣くと、周りのみんなに「敵に聞こえる。泣かせるな」って言われてね。赤ん坊なんだから、「泣かせるな」って言われたってねえ。しょうがないから外に出て空を見てたら、飛行機がずっと向こうへ飛んでいくんです。秋田空襲があった日でしたから、秋田に向かっていたんでしょうね。そのとき、外の風が涼しくて気持ちよかったのをよく覚えています。 東京のほうでは、空襲に遭って赤ん坊の手が知らないうちに焼けていたという話もあったんです。それで、綿入れの袖を縫って長女の手が出ないようにしていたから、それを暑がって余計泣いたのかもしれないですね。食べ物にはそこまで困らなかったけど、それでも着物だとかいろんなものを田舎のほうに持っていって、食べ物と交換してなんとかしのぎました。とにかく戦争は大変でした。戦争が終わったときは、「やれやれ、やっと逃げなくていい」と思ってほっとしたものです。■テーラーの仕事 戦後、夫は石巻でテーラーを始めました。でも、夫は体が悪くてしょっちゅう寝てばかりいたから、私も仕入れに行ったり、いろいろやりましたね。戦後で物がないから、洋服の生地は東京や名古屋まで仕入れに行かないと手に入らないんですよ。仕入れに行くと、汽車がすごく混んでいて大変でした。子どもたちも一緒に連れていって、東京にいた姉に預けたりしてね。買いに行っても、お金を出せばすぐに買えるというわけではなくて、ずっと待ってやっと売ってくれるような感じでした。生地を買ったら、それを肩に掛けて持って帰るんです。洋服じゃなくて着物を着ていたから、動きづらくて本当に大変でしたよ。 でも、生地を見て、どれがいいかを選ぶのは得意でした。わりと目が利くんですね。「いいものを買ってこないと」といつも思っていたし、生地を選ぶのはけっこう楽しかったわね。お客さんからも「榮子さんが選んだものはセンスがいい」と喜ばれていました。うちのテーラーは舶来のいい生地を扱っていたから、いいお客さんが付いてくれましたよ。 それから帳簿付けもやりましたし、掃除をしたり、店で働く職人さんたちのご飯の用意をしたりという仕事もありました。職人さんは縫製の仕事をするだけで、掃除とかは何もしませんからね。職人さんは多いときで4、5人、少ないときで2人ぐらいだったかしら。住み込みの人もいましたね。取材担当者のコメント今も色鮮やかな帽子がよくお似合いで、とてもすてきなご婦人でした。「98歳まではほとんど年齢を意識しなかった」、「とにかく女の人がなんでもやんなきゃだめだと思うのよ」というお言葉が強く心に残っております。ご家族の感想(お手紙から)真面目で親切な取材で、とてもいい感じを受けました。母も楽しかったと言っていました。出来上がりも思った以上に立派に仕上がっていて満足しています。母にとって、完成した雑誌は新たな生きがいになっているようで、毎日手に取ってはうれしそうに見ています。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/414/ 人物紹介高知県で生まれ、2人の兄と4人の姉に囲まれ育ち、仕事は保育士として活躍。生涯の伴侶二男氏と出会い、一男一女に恵まれました。絵手紙、グランドゴルフなど多くの趣味を持ち、明るく楽しく暮らす今朝美さん。子どもの頃小さいころは私はいじめられっ子だったわ。体の具合が悪かったからいじめられてたの。 小学校のころは給食は家に戻って食べていたのね、それで家に帰るときになると虫を私に投げつける男の子がいたのよ。私が怖がっているのを知って、あるときお兄ちゃんがその子を馬に乗せちゃったのね。その子は馬に乗った事なんかないから怖がっちゃって。兄が私を守ってくれたの。 成績は良かったけれど、勉強は、好きじゃなかったの。クラスで20何人中、4番くらいだったかな、中学は小学校からそのまま上がって同じ感じだったわ。 高校に入ると、家から30分下がってバスに乗って通ってたの。バス停までの山道は街灯もないから冬なんて真っ暗でね。母が提灯持って迎えに来てくれて、カバンまで持ってもらってたわ。 兄姉にも、母にも手伝ってもらって何もしないで育ったわね。お弁当の世話もしてもらったもの。雪の日に歩くときには、靴にわらを滑り止めに巻いてもらって、きょうだいが前で雪を掃いてくれて、後ろは転んだら困ると支えについてくれてたしね。 保育士として高校卒業したら一休みしたいと思っていたのに、すぐ農協に就職が決まっちゃってそこで働いていたの。数字は得意だったから。成績も4でね。でもね、農協で一通り仕事覚えて4年やったら退屈しちゃったのよ。仕事は1時間で終わらせちゃって、それから保育士の資格を取る勉強することにしたの。十何科目あった資格の勉強をして、実技のピアノは最低限の曲だけ練習して受けたのね。今は孫とどっちが上手か、ピアノの競争してるわよ、だから内緒でちょっと練習しとこうと思って(笑)。 資格をとるのは家族に内緒にしていたのよ。試験合格者氏名が新聞に載ってそれで知られてしまったのだけど、資格さえ取ればよくて家族も反対せずに了解してくれたわ。 保育士の資格を取って最初の仕事は高知の矢井賀の保育施設で4年いたの。山から海へ出たわけよ。漁師町でね、夫は遠洋漁業で海に行っちゃうようなところ。ここで保母さんになって、子どもはかわいいし、親たちは協力的で楽しかったわ。イワシをバケツいっぱいもらったりもしたわね。 次に滋賀県の琵琶湖学園に人が足りないって雑誌に載っていたから行ってみるの。そこで看護師さんと仲良くなって神奈川に行かないかって誘われるのよ。先に看護師さんが移って欠員が出たら私も移るって約束して、結局2人で神奈川の肢体不自由児施設県立ゆうかり園に移ったんだけど、一緒に寮に入って楽しかったわ~。このころはお給料もどんどん上がっていったわねぇ。 自分より体の具合の悪い人をケアすること、手間がかかる子どもを褒めたりして認めてあげる、そうすると上達するのがとてもやりがいがあったのよ。主人との出会い ゆうかり園で働いていた時に、週に何回かで勉強会があったのね。そこで主人と出会ったの。最初の印象は面白くもなんともない人だったわ、ピンと来なかったしね。 そのうち主人がアメリカに留学することになって、文通をしようということになったの。アドバイスする人がいて「英語漬けの毎日だろうから日本語が恋しくなるはず」って言われて、1週間に1回手紙を出したの。そして主人から手紙でプロポーズされたわ。新婚旅行は伊豆に行ったわよ。 私って不思議なことがあってね、夢が現実になることがあるのよ。主人のことも結婚前に実家の庭に主人がいる夢を見ててね、あら~って思ったのよ。保育士の仕事は女の職場で、男の人はいないの。そのころはたいていの保育士は学校の先生と結婚したものよ。訓練士と結婚したのは私1人くらい。 主人は40~50歳のくらいの婦長クラスの女性によくモテたの!「大内さん、大内さん」ってよく声かけられてたわね。逆らわないからじゃない?フフフフ。主人は怒ったことがないのよ、でももっとはっきり自分のこと言えばいいのにね。 ご本人のコメント(アンケートより)初めてのことで驚きと、皆ほめてくれ満足しています。姉、兄から電話がありとても喜んでくれました。茨城と高知と遠いところに住んでますので、よかったと思います。よく話したことをまとめていただいたと思います。ありがとうございます。特に話すこともないと思ってましたが、思い出したことが多かったように思います。ありがとうございました。 担当者コメントお茶目で優しい今朝美さんは、じつは行動派であったり、他愛ない毎日がこんなにも輝いているのをご自身は気づいておいででしょうか。いろいろなお話を聞かせてくださってありがとうございました。 何でもない毎日というビーズを年月という糸に通すと、とてもきれいな首飾りができるのですね。これからもキラキラしたビーズの一粒を作り続けてください。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-02-19 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/935/ 人物紹介 青梅に育ち、自然に囲まれ思い出あふれる幼少期を過ごした坂理泰幸さん。大学卒業後は高校教員となり、校長まで務めた。学生時代の思い出、教師生活、ハンドボールとの出会いなど、多くのお話を伺った。自分史本文より■自然の中での遊び小さいころは、野ウサギを追っかけたり、コジュケイを捕るのに罠を仕掛けたり、動物捕りをいろいろやったな。ムジナは2回捕まえてね、そのうちの1回は、皮が売れるっていうんで、兄貴と一緒に皮をはいで持ってったら、「いや、こりゃ駄目だよ」って言われた。襟巻きにするには足から先もなきゃいけないんだって。ところが、われわれ何も知らないもんで、じゃまだから足の先は取っちゃったんだ。結局売れなくて「捨てとくから」って言われて。そんなこともあった。あと、マムシはあの当時1匹60円で売れたんです。あの当時の60円っていうのはすごい。捕まえて売りに行くんですよ。生きたまま捕まえるんだけど、当然マムシおっかないから、竹を割って、間に棒を挟む。その棒にひもをくっつけといて、ひもをパンと引っ張ると、パッと竹が閉じるように細工をするんです。マムシ、とぐろ巻いて、もう襲うようにぴゃーっと首上げますんでね、それを竹ではさむんですよ。はさんで、パンと引く。これがなかなか難しくてね。随分逃げられたりもしたけど、2回記憶であるんだな、捕まえたの。ところがね、もっと怖いのはそっから先なんですよ。はさんでありますよね。で、マムシは飛びついてくるんですよ。それを袋に入れるんです。袋ん中に入れちゃうとおとなしくなるから。その袋に入れるのがおっかない。開けてやるタイミングで失敗すると、かまれますから。あとはターザンごっこなんかやったな。青梅市内にターザンの映画を見に行って以来、もうターザン、ターザンで。あの当時、木から木に飛び移れたのは俺しかいなかった。ターザンごっこで木の上に板持ってって、小屋みたいなの作ったの。夕方、それが抜けて落っこってね、記憶がないんです。気がついたら、山の中で寝てた。そのときの傷が今も残ってますけどね。それから、福昌寺のお寺に竹やぶがあって、竹っていうのはしなりますよね。どんどん登ってって、ある一定のとこまで行くと、ぶわーって落ちるんですよね。これはおっかないけど快感なんですね。竹がしなって、びゅーっと落ちてきて、ちゃんと足が地面に着く。そういうのができんのも、ほかにはあんまりいなかったな。■命懸けの度胸試しもう青梅に移ってからだから、中学生になってるころかな。今でも恐ろしいなと思うんだけど、多摩川がものすごい大水になるんですよ。そこん中飛び込んでね、泳ぐなんてもんじゃないですよ。もう激流ですから、流されちゃう。もう溺れてんだか泳いでんだか分かんない。まあ、結局、度胸試しなんですね。一回それでね、水中に大きな石があって足ぶつけたんです。そんときは俺ね、死んじゃうかと思った。もう痛いなんてもんじゃなくてね。ガブガブ飲んじゃって。それで、やっとの思いで浅瀬にたどり着いた。あと危なかったのは、われわれ「モコモコ」って言ってたけどね、青梅の長渕に調布大橋ってあるんですよ、今でもありますけど。それはね、川が流れてきて、大きな岩盤にぶつかんですよ。そっから90度に曲がって川が流れてんだけど、すごい勢いで岩にぶつかってくるから、水ががーっと盛り上がるんです。でね、すごい下深いわけですよ。その盛り上がったところにうまく乗るとね、水の上に浮かんでいられるんですよ。一つ間違えて中に入ってくのに巻き込まれると、中にばーっと入っちゃうんですよ。そこに入ったらもう出られない、死んじゃうんじゃないかな。僕は2回ぐらい、いや、もっとやったなあ、そこ。で、ばーっと巻き込まれんだけど、そのとき、もう必死になって逃げるわけですよ。それで、まあ生きてるから(笑)。そういうあれはね、結構子どものころっていうのは、僕らやったですね。面白かったことは面白かった。でも今、川なんか見に行ったりして、川の流れ見ると怖い。そのころのイメージが(笑)。よくああいうとこ入ってったなあと思って。取材担当者のコメント小さいころのワイルドな遊びの数々や、教員、校長時代の思い出、ハンドボールへの情熱、ご家族への思いなど、たくさんのお話をお聞きしました。今は趣味で農業をされているということで、「今までずっと対、人間の仕事をしてきたけれど、今はこうして一人で自然と向き合っている。でも農業は教育とつながる部分もあるんだ」とおっしゃっていたのが強く印象に残っています。ご本人の感想(お手紙から)私の話した内容がきちっと表現されていた。レイアウトも魅力的で惹きつけられた。この雑誌ができてから家族が私の歩んできた道に興味を持ってくれるようになり、会話が増えた。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/184/ 人物紹介新潟県の中郷村で生まれ、大自然の中でたくましく育った幼少期。東京で父が始めた店を継いだこともあり、地域の様々な活動に積極的に参加。平成8 年に市議会議員選挙に初めて立候補し、見事当選。地域の発展に貢献してきた。「幸せってね、どこにでもあるんだよ。」と語る小俣文宣さん。演劇に打ち込んだ青春時代高校は、忍ケ岡高校。「学区一番の上野高校に行く力はあるけど、君には合わないよ。いい学校紹介してやるよ」と先生に言われて入った。6クラス中2クラスが女子クラス、4クラスが共学。人を蹴落とすこと、もまれることがない。先生のこの言葉が、今後の人生を決める第1歩、大きな転換となった。親も「先生が言うならいいんじゃない」と言ってましたよ。先生には、とても感謝してる。先生に、「榊原先生がいる。その先生を訪ねるように」 と言われた。榊原政常先生は、高校演劇の権威。学校は高校演劇が盛んで、東京大会優勝の常連。学校に入ったら、榊原先生は、ほかの高校に校長として転勤していたけど、演劇指導で来てたりとかしてた。演劇で、発声練習でなまりを治しましたよ。初めは裏方、そのうち舞台に出て、卒業時には脚本を書いてた。高校ではずっと演劇やってて、勉強してなかったですね。大学は早稲田を受けました。吉永小百合さんがいたから。小百合さん文学部ですけど、僕は政経。でも、落ちました。そこで世の中甘くないことを学んで、早稲田予備校に入った。予備校に通いながら「DEMON」という同人誌を作りました。次の年にも受験しましたが、また落ちた。本番に弱いですね。さすがに2浪はまずいと思い、2 次募集している成城と成蹊を受けた。ほかのやつは、上智、早稲田、学習院などに受かってましたね。そのうちの1人が持っていた「蛍雪時代」という受験雑誌を見て、成蹊の政経学部を受けようとしたら、「終わってる」と言われ、確認してみたら雑誌が去年のだったの。文学部で2次試験があるというから受けてみました。問題は3問だけで論文だった。これはもうダメだと思い込んで、上越市直江津に行ってたら、おふくろから「成蹊に合格したから手続きするよ」と連絡があった。2 次募集は5 人しか受かってなかった。どうやら早慶レベルだったらしいね。この時期に同人誌を一緒にやっていた友人の鈴木賢太郎が一つの分岐点。その大学の後輩が、私のかみさん。取材担当のコメント今回は息子様からお父様への贈り物として「親の雑誌」をご利用いただきました。和服をビシッと着こなし、優しい笑顔でまっすぐにいろいろなお気持ちや思い出を語られる様は、まさに「温厚篤実」そのもの。地域のため、家族のために働き続けてこられた生き様に、とても感銘を受けました。この雑誌を読むご家族やご友人の皆様にも、あらためて小俣さんの生き様がしっかりと伝わったことと思います。雑誌の完成後には、ご家族やご友人にも好評だったと感想をいただくことができ、担当者として、私もとても嬉しい気持ちになりました。ご本人の感想(お手紙から)友人・知人との絆が深くなりました。75歳を区切りの記念にしたい(第2号を作りたい) --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-10-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/701/ 人物紹介 日立に生まれ、辛抱強く愛情深い両親に育てられる。必要から選んだ看護師という仕事が、日々の中で天職となっていった。優しいご主人と出会い、3人の子どもたちを2人で育て上げた。「人と関わったことで、人生を明るく前向きに乗り越えてこれた」と語る横山クニ子さん。 自分史 本文より働きながら学校へ 私が17歳の時に、父が定年になりました。まだ妹たちが義務教育真っ最中だったので、引き続き仕事には就いたのですが、慣れない工場勤めで体調を崩し、それで12年間も闘病生活を送ることになるんです。母も働き始めました。私も、本当は学校に行きたかったけど、奨学金をもらいながら通信教育で水戸一高に行くことにしました。父が定年で日本鉱業所を辞めることになったら社宅にいられなくなるので、私は中学を卒業すると日本鉱業所中央病院付属看護婦養成所に入ることになりました。鉱業所付属の看護婦養成所に入って病院に就職することになれば、社宅に残れると思ったからです。それで日本鉱業所の入社試験を受けたんですけど、落ちてしまって。でも、住むところなくなると困るでしょう。私が総務に理由を聞きに行ったところ、「勉強で落ちたんじゃないよ、体じゃないの」と言われました。それでそのまま身体検査をした病院に行ったんです。担当の医師からは「身体検査で悪いところはないよ」と言われ、すぐに会社に交渉してくださいました。それで私は看護婦養成所に入れたんです。 養成所は地方から来る子たちが多くて、日立からは5人くらいでした。私も寮に入ったんですけど、なじめないんです。みんなは外出の日には友達と遊びに行きましたが、私は実家に戻っていました。だから、友達もできなくってね。私が寮に入ったので、家はいらないだろうと言われたんですけど、交渉して残してもらいました。それも、長屋から庭付き一軒家の社宅に移ることができたんです。私たちの生活を案じて、母の兄が栃木からバイクでよく様子を見に来てくれました。幼いころから、伯父が来てくれるのがとても楽しみだったのを覚えています。私はこうして働きながら、週に一度学校のある水戸に通いました。レポートをまとめて、病院の仕事が終わったら行ってましたね。水戸一高に通っている時、NHKのラジオ番組の人が来て学校代表として番組に出たことがあるんです。それを聞いた職場の人たちが応援してくれるようになって。働きながら「仕事が終わったら学校に行ける。みんなと会える」というのが楽しみでした。自分1人で勉強しているとやっぱり分からないことがたくさん出てくるんです。でも、学校に行けばみんなに会える、相談できる。それが励みになっていたんです。 水戸一高には、歩く会というのがあるんですよ。私たちは上野から水戸まで、泊まりながら2泊3日歩きました。有志50人くらいで歩いて、伴走してくれる人もいましたね。私たちは、卒業式の前日に歩き出して、卒業式に出ました。約100キロを完歩しました。途中の宿泊先が2階だったんですけど、もう足の裏が痛くて、とても上にあがれないの。水戸に着く時にはあまりに疲れてて、前から来る人を避けられなかったほどですから。でも、あの時一緒に歩いた人は、今でも友達です。取材担当のコメントクニ子さんに、ご詠歌は仏様の教えや生涯を唄い込んだものだと教えていただきました。今回、私は「クニ子さんのご詠歌」を聴かせていただいたということになるのではないでしょうか。クニ子さんのご詠歌は常に感謝と愛情に溢れたものですね。とても素敵なお歌でした。 ご本人の感想(お手紙から) 他の人と同じことができなかった記憶からつらく感じたこともあったが、「親の雑誌」を読み返すことで周りの人たちへの感謝の気持ちが芽生えた。今私にできることを、今感謝しながら相手の気持ちに寄り添っていきたいと思います。  --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/191/ 人物紹介小さいころから母の代わりに働き、結婚してからは夫とともに開拓に勤しむ。東京に出てからも夫の職場の飯場、魚屋経営、高齢者住宅など様々な仕事に打ち込んだ。母として3 人の子ども、里親として10 人の子どもを育て上げた、小柄な中に溢れるバイタリティを持つ女性が佐藤エイ子氏だ。結婚と開拓と19歳までは家業を手伝ってました。父は帰ってきましたけど、母が病弱だったからね。19歳から結婚前の1年間は、本家様に勤めに行きました。そこでは、田んぼ以外の仕事もすべて、家の仕事もやらなきゃいけない。でも、ご本家のおばあちゃまがとっても良い方で、いつも枕並べて寝食共にしたのが思い出です。ご本家のおばあちゃまと、ご当主とおばさん、若夫婦と子どもたちと暮らす1年間でした。昔、山火事があったところが開拓地になったんです。開拓に行くと土地がもらえるからということで、主人の村から主人ともう1人が入ったんです。開拓するのは大変だからと結婚の話が出たんですね。ご本家のおばあちゃまが私を主人にと、主人の父に話してくださったんですね。それで縁がまとまって結婚したんです。主人は小学校の同級生なんです。ご本家での1年の翌年に結婚して、開拓地に行ったんですが、そこは枯れすすきの荒地でした。黒いものがあって、何だろうと思ったら数年前に焼けた松の根っこがあちこちに残ってるんです。取らないと畑もできません。それを掘り出すのが大変でした。主人と2人で一生懸命やりましたね。主人の実家にもしょっちゅう呼ばれました。冬なんかは開墾できないから、子どもが生まれる前は、仕事がいっぱいあるので、行って手伝ったんです。1日いっぱい仕事してきて、夕飯食べた後、みんな休みますよね。でも私はね、休めなかったんですよ。主人の母の身内に豆腐屋さんがいて、村には豆腐屋さんもないし、豆腐を作ったら村の人たちも喜ぶんじゃないかという話が出たんですね。主人の母と兄が主になって、豆腐の機械を準備したんです。ご飯食べた後、主人の母が大豆をすりつぶす機械のスイッチを入れて、自分たちは寝ちゃうんです。だけど、豆腐を仕上げるまでは、私の仕事になっちゃったんです。お湯もありませんから、使った材料を全部水で洗ってね。終わるのが夜の11時半ごろで、それからやっと寝るんです。取材担当のコメント「明治生まれの母だから、女は一歩下がって、話なんてするもんじゃない。そう言われてきました。だから、これまでの人生でこんなに語ったことなかったです。今日が人生で一番、自分のことを話しました」インタビューを終えると、エイ子さんは涙を浮かべながらそう言って喜んでくれました。完成した雑誌はもちろん喜んでいただきましたが、あの日のあの時間を過ごせたことを、担当としてもうれしく思います。ご本人の感想(お手紙から)「何度も何度も読ませていただきました。私は今まで子どもたちや孫たちにも自分が生きてきた状況等はあまり話したことはなかったように思います。東京に移住した理由は息子さえも知らなかったと思います。このような素敵なご本をのこさせていただけますことは、本当にうれしゅうございます。」 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-10-15 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/705/ 人物紹介早くにご主人を亡くし、「解体屋」で働きながら 3 人の子どもを懸命に育ててきた。 今は子ども、孫、ひ孫に囲まれながら、幸せに暮らすシズエさん。自分史インタビュー記事より主人のこと 昭和 20 年、岡山県吉井町石村へ嫁に来てな。お百姓をしとった。いろんな野菜を作ってね。子どもが3人できたん。主人はいろんな仕事に手をつけよってね。私は豆腐の豆引きもしたね。まあ、分限者にはなれんかったけどね。あとは、ひよこを飼って卵を産ませていくつもりやったんやけど、ひよこは卵から育てないかんでしょ。時間がかかるやろ。だから、それもやめてね。縄網って、稲を刈ってそれを縄にするのは少しだけ儲かったんですよ。主人は姑さんが好きやったからね。甘えん坊やったね。主人は優しい人やったなあ。叩いたり、怒ったりはせんかったね。貧乏生活をして苦労しましたわね。 主人が 35 才で亡くなってしまって。主人は、胃潰瘍やってね。2、3カ月入院したんよ。当時は病院もそんな綺麗じゃないやろ。胃洗浄とかしてな。それで、輸血をしないといかんくてね、それが500円やったから実家の山を売ったんよ。姑さんと私と子どもで暮らしてたんやけど姑さんが厳しい人で苦労をしたん。主人は体の弱い人やったけんね。主人が亡くなったあとも1人でお百姓をしてね。牛を飼って畑を耕して。優しい牛やった。疲れた時は日陰で牛にもたれて休むんや。2年くらいお百姓を続けて、昭和 35 年に街の方へ出たん よ。姉に仕事を紹介してもらってね。それが解体屋の仕事やったんや。解体屋での仕事解体屋では、車の部品のいいとこを取って売るんですよ。休みがなかったね。ずっと会社に泊まって待機してないといけない。大変やったけど 10 年勤 めましたよ。子どもを一生懸命育てないといけないと思ってましたからね。子どもはみんな夜間の鳥城高校へ行きました。3人とも自分で学費を稼いでね。夜間高校やから4年かけて卒業しました。褒めてあげる人なんていないでしょ。だから私が「立派なもんだ」ってねえ。本当に立派なもんですよ。それで次の会社は藤田って解体屋に行って。給料は少し上がってね。前と同じ解体屋やったんやけどね。私は、女やったけどつなぎを着てね、頑張りましたよ。車の下にも潜ってね。5年くらい勤めたんよ。オイルショックのせいで潰れてもうてね。それで、藤田の親戚の会社へ勤めたんですよ。 先輩に「ポスト持ってきて」って言われたってなんのこと分からんくてね。専門的な部品の名前とかなんて分からんでしょ。覚えるのに難行しましたわ。「ホーンをくれ」って言われたんやけど何のことか分からんくてね。ホーンって車のクラクションのことやったんですよ。先輩に聞いても「仕事は見て盗むもんや」って言われるもんやから、仕事しながらいろんなこと覚えていったんです。本当になんでもやりましたよ。土方もやったね。ガソリンスタンドの穴を掘る会社でね。あとは、壁の枠を外したらある穴をセメントで埋めるんですわ。道具なんてなくてゴム手袋をしてそれでセメントを塗ってね。手が荒れてしまってほんまにえれえ目にあいましたわ。それが、1年くらいでしたね。子供、孫、ひ孫 この家を買ったんは 25 年前。子ども は3人とも優しい子やったね。長男は血圧が高くて 49才のときに死んでしまった。ボーナスをもらってご飯を食べに行って、寝て朝起きたもう亡くなってたんやな。長女は、もともと脳の血管が弱くて太くする手術もしてたんや。それはうまくいったんやけどなあ。バレーボールを小学校で教えよったんですけど、入院してる時に亡くなってしまったんよ。孫が剣道を習っててね。よく送り迎えをしましたよ。子どものために一生懸命だったんですよ。よく働きました。子育てを頑張ってね。本当にそのおかげで今は孫がよくしてくれて。昔いろいろしてあげたんを覚えていてくれるんですね。今はね、孫もひ孫も沢山おってね。若いころから苦労、苦労やったけど、苦労してきたから今があると思っとるよ。たけちゃんは本当にいろんな表情してね。癒されるね。 取材担当のコメント 子育てのこと、お仕事のことなどシズエさんの今までの「生き方」がたっぷり詰まった雑誌が出来上がったのではないかと思います。いつも温かく、力強くお話しされる姿やお 話しの内容の奥深さに惹きつけられていきました。ご本人の感想(お手紙から)宝物にします。デイサービスのみんなに見せてと言われる。今度見てもらおうと思う。正月、帰省した孫夫婦にも見てもらって喜んでもらった。家族みんな喜んでます。ご家族の感想(お手紙から)よく話をするばあちゃんですが、改めて文字で「川場シズエ」を知ることができました。本人、家族とも一生の宝物になりました。ありがとうございました。/孫より --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-02-19 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/962/ 人物紹介 名古屋で6人きょうだいの三男として、たくましく育った矢田晶嗣さん。学校を卒業した後は、トラック運転手、食品関係の営業などの仕事で活躍。「ドラゴンズは我が命」と語る、熱狂的なドラゴンズ党。自分史本文より■仕事車の免許を取って、トラックの運転手になった。昼は名古屋市内、夜は茨城県の日立まで、長距離トラックで働いた。よう働いた。七宝産業という10人くらいの小さい会社に4、5年おった。途中立ち寄った茨城の牛久沼の女の子に名古屋まで連れてってくれてと言われたけど、女房がおるから断ったこともあった。でも、女遊びはよくした。寅さんじゃないけど。運転は昼夜問わず、週に1、2回は必ず長距離があって厳しかった。死にそうになったことは、1回や2回じゃない。その後は、食品関係の営業をやり出した。店から返品されたのをまた売る。それが、よう売れた。安いから。3、4年したかな。そこで一緒だった人の兄が、ヤマザキパンの下請けで働いてて、サンドイッチ作るのを手伝ってくれんかって言われて。1年くらいで工場長になった。100人くらい女の人を使ってた。その当時、焼きそばだけの弁当がなかった。ドッグに挟むのもそうだけど、アイデアをヤマザキに持ち込んだら、それが、ものすごく売れた。300円くらいで。その後、他の企業がまねたりして、名古屋球場とか、いろんなところで売られた。家では、焼きそばってあったけど、弁当にはなかったから。私が最初に考えたんだ。■たくさんの趣味ボウリングは60歳過ぎてから始めた。いつ行ったって、友達がいるから。スコアもやればやるほど上がる。レーンを見れば、だいぶ使ってるなとか、油ぬったばかりだなって、いろいろ分かってくるから。ボウリングはレーンの読みが大事。スピード変えるし、レーンによっては投げる立ち位置まで変えたりする。ボウリングはものすごく深くて難しい。パーフェクト獲ったのは、海外旅行に出る日の午前中。セントレアに行くまでに時間があったからやってみたら獲れた。ボウリングを始めて10年くらい経ってた。パーフェクトのときは、ほんとに緊張する。299というのは何回もある。何回もね。また今日も獲れんと思ってた。パーフェクトのときは、7フレのとき、ポケットじゃなくて、裏にいっちゃって、それが偶然ストライクになって運が良く。裏のほうが取りやすいときもあるけどね。裏にいってくれたおかげでストライクが獲れた。何でも勝負事は運だけど、やっぱし興奮するね。いくら練習試合といってもうれしかった。陶芸もやるし、ミニ盆栽もやるし、いろんなことやる。興味を持ったら徹底的にやるんで。それも退職してから。陶芸は6、7年やってる。陶芸は難しい。めちゃくちゃ難しい。乾かして、削って、だいぶ日数がかかるから。でも面白いんだ。テレビはビデオで撮り、後からしか。昼は毎日忙しいので。「和風総本家」、「YOUは何しに日本へ」が好き。東京テレビの番組は面白い。それ以外の趣味は、食い道楽です。■ドラゴンズ生まれたときから中日ファン。地元なんでね。昭和29年に優勝したけど、その前から好きだった。名古屋球場に行ってた。私はドームの応援団は嫌いだから、ドラゴンズのファンクラブには入ってない。応援団というのは身勝手で、ドンチャン騒ぎするから。人の前に立つ。静かに見たいから、私の席は応援団とは離れてる。年間シートを持ってるから。外野だけど19年、同じところ。32列461。おととしまで、464まで4席持ってたけどね。18、19年間、ずーっと買ってる。今は弱いから、月に1度くらい。でもずっと好きなんだ。ドラゴンズは我が命。取材担当者のコメントお庭でお話ができたら素敵だとお考えになり、取材のために、ウッドデッキを作成してしまうその実行力とアイデアにびっくりするとともに、とても素敵だなと思いました。お家の中は、中日ドラゴンズの写真、相撲の番付表などがいっぱいで、晶嗣さんがお好きな物がたくさんあって、その中で毎日楽しく生活されている様子が伝わってきました。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/195/ 人物紹介大正14年1月17日生まれ。名古屋市中区に生まれ、自ら特攻隊員に志願。3回志願するが出撃せずに終戦を迎える。警察官、紡績会社、ボウリング場とさまざまな仕事を経験し、鍼灸院を開設。「馬鹿げているほど運がいい人生だ」とにこやかに語る戸谷さん。予科練時代予科練は楽しくて仕方なかったですよ。グライダーに乗ったりして。両親がおはぎを持って毎週のように会いに来てくれた。本隊は三重、奈良に分隊がありましてね。昭和18年12月に奈良に入って、昭和19年に滋賀に移ってね。その後、宝塚の分隊に配属されました。この時の大佐が歌劇が好きでね、舞台は宝塚の中劇場の客席で寝泊まりしていてね。1,2月に一度、観劇してたね。私は走るのも速くて、100メートル12秒で走ってたね。とにかく楽しくて仕方なかった。そうはいってもね、「海軍精神注入棒」というのがあって、何かあったら殴られる。外出から帰ってきて少し遅刻してきた人も殴られてね。倒れたらバケツで水をかけて、起きたらまた殴る。結局その人は死んでしまってね。「戦病死」という扱いでしたよ。誰も何も言いませんでしたね。私も当時は「弱い奴だな、戦場で真っ先に死んでいただろうな」と思っていたね。予科練はとにかく優遇されていたね。煙草も甘い物も何でも支給された。いつ死んでもいい、と思っていたね。昭和18年から20年頃には特攻隊の志願を募っていてね。「1歩前へ」と志願を募る。私も3回手を挙げましたよ。3回目の特攻隊に志願の後1週間帰省させられた。昭和19年3月25日、名古屋大空襲でね。お互いを殴らせるようなこともあってね。殴り方が少ないとやり直しさせられる。それで参ってしまうような奴はいない。今になってね、「自分はなんで予科練に行ったんだろう?」と思うんですよ。海軍兵学校に応募したはずなのに。予科練に行くことになって。海兵に行った人はみんな死んでいますね。戦艦大和に乗っていた友人も死んでしまった。特攻隊ではグライダーの練習ばかりしていたな。特攻隊が乗るのは秋水という戦闘機でね、ベニヤで作った。7分間しかもたない。ロケットみたいに打ち上げられて。B29は時速350キロ、秋水は時速700キロだから、B29の斜め後ろから突っこんで反転して。それを7回やったらエンジンが止まるから琵琶湖に着水しろ、と。そういう理屈だったけども、その前にグラマンにやられてしまうよね。おそらく、成績と運動能力、航空技術の優れた人は残されたんでしょうね。3回志願したけど出撃はしなかった。兵隊で嫌だと思ったことはないですよ。辛いことはあったけど。40歳過ぎたころまで苦労したことといえば痔くらいだったね(笑)。特攻隊志願の胸の内特攻隊に志願したときの気持ちね。何とも思わなかったですよ。死ぬのが当たり前。そういう教育だった。今でも歴代の天皇陛下の名前は全部言えますよ。天皇は現人神。神の子であるお前たちはアメリカ人や中国人と違うと。天皇のために死ぬのは当たり前。バカげた教育でしたね。終戦を迎えて、天皇陛下に対しては正直「腹も切らないバカモノ」と思いましたよ。マッカーサーと並んだ写真が公開されたのを見て、なんだアレはと思いましたね。予科練の仲間たちだって「天皇陛下万歳」と死んでいったのに。天皇は神様でした。神様のために死ぬ。みんな当たり前だと思っていた。死ぬのが嫌なんて言う人もいなかった。親の為に死ぬんじゃない、天皇の為に死ぬ。そういう時代でしたよ。8月15日は放心状態でした。何も考えられなかった。陸軍や海軍の中将や大将には切腹した人もいたでしょ、阿南中将とか。なのに天皇は切腹もせず。今はあちこち行って握手して。人気とりですよね。なぜ神様のまま偉そうにしていないのか。天皇陛下という神様、万歳、天皇陛下万歳。予科練は靖国におります。取材担当のコメント特攻隊に3回も志願して、結局出撃することをなく終戦を迎えたため、こうしてお話を伺うことができました。壮絶なお話に、思わず姿勢を正して聞き入ってしまいました。今、当時の状況を私たちが想像することは難しいのですが、それでもこうした方のお話を少しでも残しておくことが大事だと感じました。時に過酷な経験もされながら、「人生は面白い」「自分はツイている」と明るくお話される姿に、お聞きするこちらの背筋が伸びる思いでした。興味のあることを徹底して極める知的好奇心、常によりよく生きようとする姿勢が、この雑誌にも詰められたのではないかと思います。ご商売や東洋医学、短歌や俳句まであふれる才能はうらやましい限りです。正春さまの繊細な感性とチャーミングなお人柄を、この1冊から感じていただければ幸いです。この度はありがとうございました。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/451/ 人物紹介愛知県愛西市で生まれ、4 人きょうだいの長女として育った。津島高等学校卒業後、日本通運に入社し、経理担当として活躍。結婚後は、薬局、薬店をご主人と共に切り盛りしながら、4 人の子どもを育て上げた田島壽美子さん。子や孫に伝えたいこと子ども達はそれぞれにやってくれてるからね。主人と一緒に仕事をしてる時は、私も店頭に出てるのに、ご飯はいつなんだとか言われて大変でした。お店で買ってこれるような時代ではなかったですからね。とにかく、主人に先に食べてもらうようにって準備しました。今思うと、よう過ぎてきたなと思いますよ。今の人ならどうなることか分からないですよ。子ども達が車椅子を買ってくれているから、出かけた先で使いそうな時はそれをちゃんと持って行ってくれる。だから行くよって言われても、困ることはないんです。そういうことは子ども達が気を遣ってくれてありがたいですね。お店を閉めてから手術したり、病気したりで、みんなが買ってくれたんですよ。ありがたくて嬉しかったですよ。主人の両親にお店を作ってもらって始めたんで、主人がそのお店を閉めるなら良かったんですけど。私が閉めるということになったのは、すごく申し訳ない気持ちになりました。続けれるだけ続けたかった。長女は薬剤師の資格もとって、1週間に1度手伝いに来てくれていたんだけどね。主人がずっとやっててお店の歴史は全部で60年近く。私が1 人でやっている時期が13年位。だから、閉めたらめちゃめちゃ楽になるんじゃないかと思ったんですけど、だんだんと、続けていくうちに閉めるのが申し訳ない気持ちになってね。でも、なんか勘違いとかで事故を起こしちゃいけないから、元気なうちに閉めようとなってね。それからは病院に行ったりしましたけど、毎日重いものを持ちすぎたせいで、骨がねじれてて、どうしようもならんって言われました。それで手術したんです。おかげで前より、歩けるようになりました。でもその時に血小板が少なくなる病気になって。ステロイドの薬を飲むように言われて、飲んだら2週間で10キロも痩せちゃいましたよ。退院してからすぐは、フラフラで大変でした。今では畑仕事もできるようになったし、だいぶ元気になれたので良かったです。畑仕事といっても大したことはできないのですけどね。でも、やれることをやるというのが良いですよね。子どももお母ちゃんは畑に行くと元気になるって言いますよ。じっとしてて認知症になっても困るしね。それと、元気クラブっていうところに行って身体を動かしたりするんですけど、そこもいい人ばかりなんです。やりたいことがあるっていうのは、ありがたいですよ。 取材担当のコメントお話の中で壽美子さまが、何度も《めちゃめちゃ》というお言葉をご使用になられるのを聞いて、若い!!そして、とてもかわいいらしいと思いました。壽美子さまは、どんなに忙しいときでも、すごく、すごく周りに気を遣っていらっしゃって、それがすごく自然で、とても素敵だなと思いました。本当にありがとうございました。 ご家族の感想(お手紙から)母の学生時代の話や、自分が生まれる前の話を「親の雑誌」で知れた。掲載する写真探しをみんなでして楽しかった。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/455/ 人物紹介東京の本郷菊坂で生まれ、幼いころには学童動員や東京大空襲を経験。中学校卒業後、日本金属工業株式会社に入社し、歴代社長の専属運転手として活躍した松本友治さん。インタビュー記事より家族もそうだけど、これからの人、みなさんに伝えたいと私がいつも思っているのはね、「心」です。「心こそ大切に、誠実な心で相手と話をすれば、必ず勝利する」っていう信念を、心こそ一番大切だということを伝えたいですね。これは法華経の中にもありますけどね。例えば、「蔵の財より、身の財優れたり、身の財より心の財、第一なり」って法華経の経文があるんですよ。その心こそ一番大切なものだと思う。うちの家内のおじさんで詩を書く人がいるんですけど、その人からいただいた色紙に、「心」っていう一文字が書いてあります。これは強い心で生きなくちゃダメだっていう、正しいことは正しく、間違ったことは間違っていると言える、そういう強い気持ちで生きていってほしいっていう意味だからって。心こそ大切にっていうね。私がみなさんに伝えたいことはそれだけなんですよ。あと座右の銘としては、私は学生時代から、「至誠実行」という言葉がずっと頭にあるんですよ。これを大事にしてます。それ一筋にやってましたよ。一番上の孫が、独立してベトナムかなんか行ってやってるんですけど、私は漢詩も好きでね。尊王攘夷論のときにね、山口県のある人が故郷を出たときの詩があって、「男児志を立て郷関を出ず 学若し成り無かんばまた還らず 骨を埋むるに何ぞ期せん墳墓の地 人聞到る処青山有り」。これをよく孫に伝えてます。こういう決意で、故郷になんて帰らなくて良い、失敗してもチャンスはいくらでもあるからって。そういうことで、その詩が大好きでね。それと、婿さんがまた良い婿さんでね。お父さんが八百屋から漬物屋をやってて、それを手伝いながら自分で勉強して桐蔭から成蹊大学に行って、富士ゼロックスに入ってるんですよ。組合の委員長なんかもやったことあって、役員との話とかもいろいろ聞きました。昔はお父さんと野菜を買いに行って、大八車の手伝いしてたとか、そういう苦労もしてたみたいだけど。だから、娘は良い人と結婚したなって思いますね。だから、勉強っていうことは一切言わないですね。自分の好きな道を歩けっていうね。子どもたちにもね、孫に、あまり「塾、塾!」って言わないほうが良いよって言ってます。うちはそういう方針です。家内も色々苦労してるからね。東京の小岩の生まれだったんですけど、そのころ肺結核っていうのがはやりましてね。父親が警察の特高警察だったんだけど、肺結核になって田舎に帰って療養して、それで亡くなったんですよ。子どもは5人いて、一番下が家内です。いろいろ苦労してますからね、家内はしっかり者ですよ。私は仕事仕事だったから、うちをよく見てくれましたね。近所でも2 人で出かけるのが有名ですよ。いつも2 人で朝早くから、よく歩いてるって。家内にはいつも感謝だけですよ。それで家を支え合えていますね。子どもたちにも、できればそういうことをみんなで思ってもらいたいですね。そういう気持ちを大事にしてほしいですね。 取材担当のコメントさまざまなご苦労をされながらも、勉強や仕事に一生懸命に取り組んでこられた松本さん。「至誠実行」という座右の銘を本当に大事にされているのが、取材のときもとても伝わってきました。常に穏やかで優しさに溢れる松本さんの魅力がたくさん詰まった雑誌になったと思います。本当に貴重なお時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。 ご本人の感想 お二人とも穏やかで話の引き出し方がとてもお上手でした。世間話をするようにリラックスしてお話しすることができました。 今まで伝えていなかった昔の話をしたり、写真を孫に見せたり楽しい時間が増えました。ご家族の感想「自分の人生を振り返る」ことは、普段の生活の中ではなかなかできません。ましてそれを家族にゆっくり話す機会もありませんでした。今回雑誌を作成していただくことで今まで知らなかった父の人生、また父自身も忘れていた昔の記憶を呼び覚ますことができました。出来上がった雑誌は家族全員にとってとても愛しく、宝物になりました。何気ない会話からいろいろな思い出を引き出してくださったこと、本当に感謝しております。ありがとうございました。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-02-19 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/975/ 人物紹介 長野県で生まれ、複雑な家庭環境の中で親戚の“おじいさん“に育てられた小口康人さん。専門学校で無線を学び、大手メーカー等に勤務。家庭では父として2人の子どもたちを育て上げた。自分史本文より⬛幼少期の記憶うちの家は本当に複雑な環境でしたね。私の実の母親は亡くなって聞かされてたんですけど、実は生きてて、しかも小学校2年生くらいのときに一度復縁したんですよ。でも2、3カ月で出て行っちゃったんですよ。その復縁のことは少し記憶があります。たぶん農業が合わなかったんでしょうね。農家だから身体が弱いといっぱい嫌味を言われるんですよ。それに耐えられなかったんでしょうね。それでまた離婚したあとに、後妻が来たんですね。その人は弟と妹を生んだあとに27歳くらいで亡くなっちゃいましたけどね。僕が生まれ育ったところは、狸とか狐とかが出るような本当に山奥のところなんですよ。だから動物性のたんぱく質も取れないんで、トンボでもセミでも何でも食べましたよ。足ついてるものは机以外は全部食べましたね(笑)。トンボ、セミ、カマキリ、魚、ひき蛙とかね。ひき蛙は春先になったら10匹くらい捕まえてきて皮を剥いで食べました。蛙は皮を剥いでもまだ飛び跳ねるんですよ。たんぱく質はそれくらいしかないんです。そういう時代でした。それに犬や猫を食べたこともありましたね。鶏なんかは庭に出て、なたで頭をちょん切るんですよ。そしたらそのあと体だけ飛んで行ったことがありましたね。山の中にいたから戦争の被害はなかったけど、B29が飛んでいくのを見たことはあります。それに電球にじゃばら傘みたいのを付けて、B29が来たらそれを下して部屋を暗くしたり、ろうそくもたいまつを使ったりしてました。■専門学校へ小学校は初めて行った次の日から不登校になりました。何でかというと体が弱いから行かなくていいっておじいさんが言うもんだからそれに甘えてしまってね。学校まで4キロもありましたから。それで半年くらい行きませんでしたね。当時は現金収入ってほとんどないんですよ。お蚕くらいですね。春夏秋と3回。桑の葉を取りに行ったり、お手伝いはしましたよ。そのお蚕を売った現金収入はどうなるかというと、地元のお店で売掛け帳を使って買ってたものの支払いに全部使っちゃうんですよ。ツケで買ってるからね。田舎ではそれを竹の子生活っていうんです。竹の子って芽が出るとすぐ刈って食べちゃうでしょ。そういう生活が高校までは続いてましたね。実の父親は野菜を作ったりキノコを採ったりして売りに行ってましたけどね。当時はお金もなかったのに、東京の専門学校に私が行きたいって言って行ったんですよ。無線関係が好きだったからね。きっかけは兄と親戚の人が電気関係のことがすごく好きだったことです。これからはテレビも出てくるし、そういう道に進みたいなと思ったんです。それで専門学校に行きたいって言ったら最初、おじいさんは反対したんですけど、最終的には行ってもいいってなったんです。おじいさんは私のことをすごいかわいがってたから、何とかしようと思ってくれたんだろうね。財産としては森林があったんで、専門学校に行かせるためにその山を全部売っちゃったんですよ。それでお金を作って行かせてくれました。働いてから返そうと思ってたけど、自分の生活でいっぱいいっぱいで、返せなかったからそれはジレンマだったね。生まれ育った場所は、今はもう故郷の廃家という感じで、誰も住んでないからね。■母との再会今から10年くらい前に母親探しをしたんですよ。62、3のころだね。高校生くらいのときに、育ての母からもう亡くなってると聞いていたんだけど、線香だけでもあげたい、もしかしたらまだどっかで生きてるんじゃないかと思ってね。そしたら本当に生きてました。戸籍謄本とかから探しましてね。御殿場の特養ホームにいたんです。認知症だったけど涙ぐんでたんで、たぶん覚えてくれていたと思います。本当に感動しましたね。でも認知症はどんどん進むんで、もっと早く見つけてあげられたらと後悔しましたね。生まれた環境はどうしようもないけど、自分で判断できることをできなかったことっていうのは、人生の中でやっぱ少し問題だったのかなとは思いますね。第一の後悔はおじいさんに恩返しができていない。第二の後悔は母親を早く探せなかった。この2つは反省だね。母のことで言えば兄ものんびり構えてたからね。特養ホームにいるってことが分かって妻と2人で飛んで行ったけどね。でも、そのときも大ショックがあったんですよ。母は男が5人いるところに後妻として入ったんですよ。でも特養ホームのお金はその息子たちは出してないし、ほとんど来てもないってことが分かったんです。特養のホームのお金は生活保護のお金から出してたんですよ。5人も男がいるのにお金を出してないなんて信じられなかったね。その2年後に亡くなって、葬式に行ったらその息子たちは誰も来てなかった。でも生きていたうちに会えたのは本当に良かったね。どんな形でも生きているっていうのはいいことですよ。探すときは女房も協力して探してくれましたよ。どこかにいるんじゃないかってね。取材担当者のコメント「複雑な家庭環境でした」と語る小口さんでしたが、実のお母様を探したこと、モトローラで情熱を注いだことなどが心に残っています。ご本人の感想(お手紙から)インタビューの仕方が良く、私の言いたいことをうまく聞いてくれた。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2019-02-19 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/979/ 人物紹介 豊島区雑司ヶ谷に生まれ、3人きょうだいの長女として明るく育った富田オリヱさん。日本橋の喫茶店「さっぽろや」に勤めたことがきっかけとなり、ご主人と結婚。3人の子育てをしながら、神田の地で卸肉店「愛知屋」を経営する主人を支え続けた。自分史本文より■夫との出会い学校をやめたころ、近所の1級先輩の女の子が、日本橋の「さっぽろや」という喫茶店にお勤めしていたんです。その先輩に、「何もしてないなら、うちで働けば」と誘われて、働くようになりました。お店には、高島屋のお客さんがよく来ていましたね。メニューは、サンドイッチ、トースト、コーヒーくらいで、50円均一だったんですよ。テーブルが3つ4つの、入っても15人くらいの狭いお店でした。店員は3人くらいでしたね。日本橋の白木屋に下駄を納めている主人の友達が「さっぽろやに女の子がいるよ」と言ったそうで、それから主人がお店に来るようになったんです。主人は、会うときにはお風呂に入って、きちんと背広を着て来るから、肉屋だとは知りませんでした。1年くらい知らなかったですよ。付き合うことになったきっかけは、あまり覚えていないけど、「たまには遊びに行かない?」なんて話になったんですよ(笑)。デートでは、よくオートバイで遠乗りをしました。車がそんなに走ってないときだったから、目立ちましたね。バイク仲間は20人くらいいて、みんな、女の子を後ろに乗せて走っていました。当時、ヤマハの250は珍しくて、バイクを停めると子どもが寄って来て見てました。道が今みたいに良くなかったから、バイクに乗ったあとは、髪の毛がゴワゴワになってとかせないくらいでしたよ。鼻の中まで真っ黒でしたね。新潟まで行ったあと、春日町辺りで転倒したこともあります。私は大したことなかったけど、主人はけがをして田代外科まで行きましたね。新潟、江の島、鎌倉、いろんな場所に行きました。新潟のスキー場に行ったときに初めてスキー板を履いたら、ずるずる滑っていって、気付いたら馬の下ってこともありました(笑)。主人の友達と写っていた写真があったんだけど、主人がやきもち焼いて、その人の顔のところを切り抜いちゃってました(笑)。さっぽろやを辞めてからは、三共製薬の地下にある三共グリルに勤めました。三共の従業員向けのお店です。お店にはお姉さんが2人、男性が1人いたんだけど、みんな優しかったですよ。宣伝部の部長さんにカニのコキールを配達したり、社長さんのお家に材料を持って行ってパーティーしたり、いろんなことがあったわね。それから、帰りにはよく銀ブラをしましたよ。三共のすぐそばにあった「ブラジル」が、私が最初にお茶をしたお店です。地下鉄の丸の内線ができたばかりのころで、銀座には有名人がいっぱいいましたね。■結婚、3人の子に恵まれて主人とは、2年くらい付き合って、20歳になって結婚しました。主人から「結婚してくれ」と言われた覚えはないですけど、周りの人たちは結婚するものだと思っていたみたいですね。結婚式は、昭和34年3月に紅葉館で挙げました。本当は、自分の家で結婚式をしたかったんです。だから、式の当日に直井の家の近所を一回り、車で富田の家に行って周りにも挨拶しました。それから車で芝の増上寺のすぐそばにある結婚式場に行きました。お色直しでは、自分で持っていた留め袖を着たんですよ。仲人が2組いて、式には40人くらい来ましたね。新婚旅行は、京都、奈良、南紀白浜、瀞八丁、宝塚も回りました。周りには、「ご主人、優しくて良かったわね。あんたの方が強いから気を付けなさいね」って言われてたんです。何かというと私の方がババッと言っちゃって、主人は、私が何か言うと黙っちゃう。だから、あとで悪かったなと思うんですけどね。結婚してからは神田に住んでたんですけど、2人目が生まれるときに狭いからということで亀有に越しました。本当はその亀有の家を買おうとしてたんですけど、家の前にあった川に長男坊が落ちちゃったのね。「どぶ川があったんじゃ危ない」とおばあちゃんに言われて、草加の公団住宅に入ったの。長男は幼稚園に行くと泣いて泣いて、大変でした。次男は逆にやんちゃ坊主で、4歳くらいのときに工事現場に落ちて、いまだに足に傷があります。長女は朝・夕車の中で、お兄ちゃんが掛け算してると、横にいて暗算できるようになっちゃうし、けがもしなかったし、育てるのが全然苦じゃなかったですね。3歳から日舞を始めたり、全部私にそっくりですよ。今では、よく似てるなとハッとするときがあります。育てるときは夢中だったから気付かなかったけどね。私は、子どもたちが小さいときは、けっこう厳しかったですね。その分旦那さんが優しかったから、次男坊がいまだに「おふくろが一番怖かったな」って言いますよ。子どもたちは、きょうだい間ではけんかをしたことがないですね。野球をしたときに、久徳がこめかみにバットをぶつけられたって帰ってきたのですけど、誰にやられたかを言わなかったんです。そのうちに、友達が「大丈夫?」と心配して来たから、その友達に事情を聞いてぶつけた子の家に怒鳴りに行ったりしましたね。反対に、次男坊はよくけんかしてきました。「けんかしたら負けてくるな」って言って育てたから、次男はガンガン行きます。次男がポンポン言うのを、長男が止める感じですね。取材担当者のコメント初めてお会いしたときの第一印象は、ちゃきちゃきとした「頼れるお母ちゃん」でした。妻であり、母であり、家業の担い手であり、そして地域で関わる方を引っ張る存在であり... 多くの顔を持ち、時にはご苦労もあったと思われます。大変なことも経験してなお輝き、懐が広く厳しくも優しい。だから、今もって多くの人に慕われ、頼りにされているのだとお孫さんやお嫁さん、息子さんとお話しされる姿を見て、そう感じました。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-11-08 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/734/ 人物紹介優しい両親、きょうだいに囲まれて育ったという成田春子さん。19歳で結婚したのち、働きながら宅建の資格を取得。不動産事務所を設立し、忙しい中、5人の子どもを育て上げた。自分史インタビュー記事より■成和住宅設立 どうにか宅建の資格が取れたので、東大阪に不動産事務所を構えることができました。主人が友人の所で事業を習っていたので、始めるときは困りませんでしたね。うちの事務所は建売住宅を売ってるんです。初めは1軒建てて、それを売って。2軒、3軒と増やしていきました。元金が少なかったからね。そのうち銀行で借り入れができるようになり、順調に仕事が回るようになってきました。会社の名前は成田の「成」と、「和(なごむ)」という漢字を合わせて、成和住宅としました。始めて5年くらいして明治大学を出た番頭さんに入ってもらいまして、私と2人で切り盛りしてました。私、会社での肩書はなかったんですけどね。従業員は5人くらいでした。でも、皆さん長いこといてくれます。いやすかったんでしょう。 この仕事をしていなかったら、今も私は毎日のおかず代をもらっていたと思います。お金がどんだけ大事かわかりました。子どもが風邪をひいても病院に行くお金をくれと言えませんでした。何で風邪をひかせたんだと言われるからです。人生経験でお金の大切さがわかりました。お金があれば友達とも付き合えるし、自由に旅行にも行けます。 仕事を始めたころは、楽しくて楽しくてしょうがなかったです。1軒売れたら、こんだけ儲かったと喜んでました。私、普段はおとなしいんですけど、仕事となると言いたいことが言えるんです。支払いをきっちりしなくちゃいけない、これが一番気を付けてきたことです。そうすると、金融機関に話をしに行っても、支店長が別室で対応してくれるようになるんですね。銀行で借り入れができるようになって、軌道に乗ってからは1日店長だとか、銀行が持ってきてくれた企画にも協力しました。婦人会も作って30~40人で旅行やゴルフ、カラオケにも行ったしね。今思えば若かったから何をしても楽しかったです。 住んでいた所の隣が売りに出たので、土地を110坪買って家を建てることができました。家族が多いので1人1部屋と、ゲストルームも入れてと3階建てにしたんですよ。設計士さんに入ってもらって考えたんです。子どもたちのことが一番ですから、自分の部屋のことまで考えてませんでしたけどね。家ができたときの子どもたちの喜ぶ顔は忘れられません。■大切な子どもたち 5人の子どもたちには習いごとをさせました。私は習いごとをしていないので、自分が経験できなかったこと、習字や水泳をさせました。送り迎えが本当に忙しかったです。家の近くに空手道場があったんで、初めは上の男の子だけ入れたんですけど、それを見ていた下の子たちもやりたいと言いだしたので、女の子も入れたんですよ。それが割と強くなりまして、高校、大学と空手で行くように声をかけていただきました。小さいころは練習時間が夕方のアニメの時間に当たっていたから、それを我慢して練習してましたよ。空手は向いていたんでしょうけれど、本人の努力もあったと思います。三男は、大学を出てから留学したいと言って海外に出ましたけど、空手を教えたりしながら向こうの文化を勉強してきました。 取材担当のコメント 愛情豊かなご両親のことや、お仕事でのご苦労などのたくさんのお話をお聞きすることができました。特に、お子様たちのことについてお話になるときの優しい春子様のお顔が心に残っています。これからもお子様たちと共に、お元気でお過ごしください。ご本人の感想(お手紙から)私の身になり話を聞いてもらいました。私の言いたかったことを全部書いてくださったと思います。この本が出来上がったこと、感謝してやみません。 --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/486/ 人物紹介 国民学校を卒業後、大竹海兵団に入隊し、15 歳で海軍特別年少兵となった大野正行さん。終戦後に大工見習いとなり、その後も建築技術者、建築士、現場監督として数々の仕事に従事。昭和56 年に株式会社大発を設立し、社長として社員を守り、会社を育ててきた。■海軍特別年少兵 国民学校の高等科2年、14歳のときに、先生が私ともう1人の生徒に海軍を受けろって言ったんです。それで5月25日に大竹海兵団に入りました。他の人はまだ14歳でしたけど、私は4月生まれだったから15歳になっていました。第一志望が少年飛行兵でね、一次には受かったんだけど二次の身体審査で落ちました。それで第二志望の機関兵になったんです。機関士になれるとか、ボイラーの知識があると潰しがきくと言われてね。私は第三期海軍特別年少兵で1年間特別教育受けた後に横須賀の機関学校に行くんです。そこで習ったのが特攻兵器の海龍です。回天の一つ前だね。いわゆる人間魚雷。終戦があと半年遅かったら生きてなかったと思います。8月15日が卒業式だったから、その日の夜、各所轄に帰れと特別列車を編成して帰りました。その途中、広島駅で足止めを食らったときに被爆しました。被爆認定には原爆投下から2週間以内に8時間以上いたことが条件で、第三者で2人以上の証明が必要なんですよ。でも証明なんてできる人、誰もいないでしょ。そんなときに広島のほうからお呼びがかかって、私が作った戦友会、大竹三紫会で作った写真集がものをいうんです。それをもとに話をしたら、オッケーが出たんです。仲間同士で証明し合って、認定されました。だから会を作ったのは一生のうちの大事業だったと思ってますよ。私は15歳で特別年少兵になりましたけど、他の人は14歳がほとんどでした。国際規約違反なんですね。だから、資料は全部燃やされたそうです。幻の特年兵なんていわれてました。それを本にまとめた人は貴重なんです。 特別年少兵のときは、ハンモックを吊って寝ました。起きたら45秒以内に着替えて、片付けるのに1分です。それに間に合わないと樫の棒で叩かれました。午前は普通学で、午後は軍事学の勉強。夜も電気の下で勉強しましたよ。根性が育ったね。それと、「5分前」の精神が身についたよ。■戦後の生活戦争が終わってから実家に帰りました。そこで親父にくっついて大工の見習いになった。昭和20年に復員したんですけど、何とかここを出る機会がないかと考えていました。それで、たまたま親父の知り合いの人にくっついて昭和22年に東京に出てきたんです。戸田建設とかの下請をやってる大工の親方で大工が200人くらいいましたよ。 3年くらいやったんですけど、このままじゃダメだと思った。資金が少なくて独立ができるのは何かと考えてクリーニング屋の見習いになったんですね。でも、朝が早くて3カ月でお手上げ。それでいったん田舎に帰って半年後に再上京しました。取材担当のコメント長い間、建設業に関わってきた大野さん。お仕事はもちろんのこと、戦友会や趣味にも全力で取り組まれているお話を聞いて圧倒されるばかりでした。今も周りの人のために尽力されているのは、本当に素敵なことだと思いました。そんな大野さんの素晴らしさが、たくさん詰まった雑誌になっていると思います。私にとっても、とても貴重な経験になりました。本当ににありがとうございました。ご本人の感想(アンケートから)創刊号とはしゃれた事をするなと思った。自分史と言うから自分の生きざまを自分の言葉で表現するのかと思ったが、インタビュー形式だったから気も楽になった。  --- - Published: 2021-04-09 - Modified: 2018-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/usage_record/503/ 人物紹介上総湊で生まれ、幼いころから周囲の人たちにかわいがられたという。保健婦、助産婦の資格を取得し、役場で働いているときに出会ったご主人と結婚。ご主人の病気を契機としてホテル経営を始め、無我夢中で働いてきたという大岩律子さん。小学校小学校はうちの近くの天神山尋常高等小学校ってところに通ってました。学校では勉強は二番目くらいでした。1人優秀な子がいたから、勝てなかったわ。お金持ちの子が少年倶楽部なんて雑誌を買ってもらって、学校に持ってくるのよ。自分じゃうまく読めないから、「りっちゃん読んで」って頼まれるんです。読めばこっちも得ですから、読んであげるんだけど、私が読んでるとみんなが集まってくるんですよ。みんな頭を寄せてくるんだけど、その頭を見てるとシラミが髪の毛の綱渡りしてるの。それでみんなにうつっちゃう。だから私は家に帰ったら毎日のように梳き櫛で髪の毛をといてましたね。シーツを干してもノミのウンコだらけでしたよ。アメリカから白い粉が入ってきて、それからシラミはいなくなりましたね。私は、お手玉も上手でしたよ。たかーく上げるの。お手玉は作るのが大変で小さなきれが貴重品でしたよ。親戚のうちなんかでもらってきたら、大事にとってました。中身も普通は小豆を入れるんだけど勝手に使ったら怒られちゃいますから、数珠玉っていう丸くて固い実ができる植物からいっぱいとってきて、それを使うの。先生もすごくかわいがってくれたから、写真を撮るときも無意識にそばに寄ってました。みんなかわいがってくれたんですね。小学生のころは、女の子の髪はみんな長かったんだけど、それは床屋さんに行かれないからなの。今みたいにおしゃれで伸ばしてるわけじゃないのよ。お金持ちのうちの子はおかっぱなんだけどね。小学校のころは威張ってました。私の許可がないと遊びに入れないの。だって「りっちゃん入れて」って言ってくるんだもの。だけど悪く威張るわけじゃないのよ。人気者だったんじゃないのかしら。戦争のこと私は田舎に住んでましたから戦争で大変な目に遭ったってことはないんですけど、東京はひどかったらしいですね。焼けた新聞が風に乗って飛んできたことはありました。終戦の1年後くらいに東京に行ったんですね。おにぎり持って行ってたんだけど、そのおにぎりを上野の公園で食べてたら、いつの間にか、汚れた男の子が3人、後ろ立ってのぞいてたの。どうしようもないから、少しずつあげましたけど、それからは、ああいうところで食べるんじゃないなって思いました。兄は、ビルマに行ってラングーン作戦に参加しました。川でお米を研いでると、球が飛んで来たって言ってましたね。それほど向こうの兵隊さんの整備が精巧だったんですよ。もう1人は中国に行きましたが、おかげさまで、無事に戻ってきました。戦時中はうちの部屋を軍人さんに貸していました。少尉、大尉、中尉って住んでましたね。真ん中の部屋にその軍人さんの女中さんが3人も寝泊まりしてたよ。炊事班の人もいて料理を作って朝昼晩、お膳に乗せて持ってくるんですよ。それで、頭の上に捧げて、当番兵に渡すんです。農家だから食べるものは苦労しなかったです。野菜もお米もあるし、味噌や醤油も自分とこで作ってるでしょう。あとは魚を売りに来れば買うしね。でも、サバとイワシくらいしか知らなかったわ。姉が嫁に行ったところからもいろいろもらいました。お米は供出っていってどれくらい出すか決められてるから、雑炊にして食べたりしましたね。保健婦として働く高等小学校を出てしばらくしてから、保健婦の学校に行きました。看護婦学校と併設されていたから、午前中は看護婦の授業で、午後からが保健婦の授業でした。そこには2年通って、そのあと1年、助産婦さんの学校に行ったから3年くらい勉強しました。寮生活でしたから、夜になると寂しくて涙がこぼれたりもしましたね。卒業後はうちに戻って役場に勤めました。農家のお母さんが赤ちゃん連れて相談に来たりするんですよ。聞きかじりで栄養のことも少しは知ってますからアドバイスしたり、あとは婦人会に行って話したり。あのころ、婦人会がいろんなところで結成されたから、よく呼ばれたんですよ。ろくな話もできないのに、普段はどういうことしたらいいか、どんな食べ物を食べたらいいかとか話してました。あっちこっち引っ張りだこですよ。村にはそういう衛生的な知識を持ってる人が誰もいなかったから、ほかの人たちよりは、いくらかましですよね。お医者さんはいましたけど、お医者さんも忙しいからそんなところまで手が回らないでしょう。学校にも1週間に1回くらい行って、養護教員みたいなこともしてました。取材担当のコメント楽しそうな幼少期から、保健婦、助産婦として働き、さらにはご自身でホテルまで経営されたお話に、ただただ圧倒されていました。お仕事に、趣味にとまい進されてきた、律子さん。そんな律子さんのお話を私も楽しくお伺いしました。 --- --- ## 親の雑誌 電子版(自分史サンプル) - Published: 2021-04-09 - Modified: 2021-03-24 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/%e6%9f%b3%e6%be%a4%e4%bf%ae%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%a6%e7%94%9f%e3%81%8d%e3%81%a6%e3%81%8d%e3%81%a6/ 令和 2 年 10 月 19 日 「THE 柳澤修」の発行にあたり、彼が住む千葉県松戸市を訪ねた。 長野県埴科郡戸倉町に生まれ、わんぱくな子ども時代を過ごした柳澤修氏。 高校卒業後は東京の大学へ進学し、広告の世界に魅せられ協同広告に就職。 その後さまざまな業界を経験し、今は警備会社で働きながら忙しい日々を送る。 2 時間に及ぶインタビューから、柳澤修氏の半生に迫る― このコンテンツはパスワードで保護されています。閲覧するには以下にパスワードを入力してください。 パスワード: --- - Published: 2021-03-25 - Modified: 2021-03-26 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/yoshioterada/ 両親のこと 生まれは滋賀県東近江市、昔の八日市市です。14歳上の姉、4歳上の兄の3人きょうだいの末っ子です。父は滋賀県蒲生郡日野町の出身で、母親は死ぬまで八日市市で暮らしました。父は、高崎の大きな作り味噌屋で番頭をしていたんですけど、戦災で焼けましてね。その後、長野県上田の作り味噌屋の住み込み従業員となって、ずっと働いていました。高崎ではいい地位まで行ってたので給料も高かったでしょうけど、長野の上田では苦労したと思います。私たちの生活も大変でしたよ。住み込みの従業員ですから、送られてくる給料は少なかったです。家には、2年に1回、1カ月だけ帰ってくる。だから、おやじの顔は覚えてないですね。ただ、クルミを買ってきてくれたのは記憶にあります。長野県の名産ですからね。食べるのが楽しみでした。1日に1個だけ。決まっていたわけではないんですけど、持ってきたのはわずかですから。父の思い出といったらクルミです。 その後、病気で帰ってきたんですが、3年たって死んでしまいました。病気をしていた3年間は、静かに暮らしていました。いつもおふくろの尻に敷かれてましたけどね(笑)。私が高校2年のとき、学校が映画鑑賞に連れてってくれるんですけど、それを見て帰ってきたら、おやじは亡くなってました。当時はテレビなんてあってもないような時代でしたからね。「十戒」を見て、しっかりしなくちゃと思って帰ってきたら、亡くなっていたんです。前日から寝たきりで、調子は悪そうでした。息子孝行というか、妻孝行という感じの死に方ですよね。迷惑を掛けないというか。 母親は畑仕事のほかに、軍手編みの内職なんてのもしてましたけど、こちらも静かでおとなしい人でした。ただ、「男の子はダメね」とよく言ってましたよ。兄と私は料理なんてなんにもしませんでしたから。姉は早くに結婚して家を出てましたしね。母は、本当によく働いていました。畑仕事は手伝いましたよ。田んぼもしてましたから、脱穀とか、足で踏んで回す機械があるんですよ。小さいころは、体が軽いじゃないですか。だから、片足で踏んで動かすところを両足で乗っていました。私の行っていた学校は違いましたけど、農繁期になると学校が休みになるような地域だったんです。アルバイトと勉強 近所にかまぼこ屋がありましてね。兄と2人でアルバイトに行ってました。アルバイトは、小学2年生くらいからやってましたね。学校が終わってから、夜の7時、8時まで。12月だけは、12時過ぎまでやってね。労働基準法には違反してますから、事業主は外の門を閉めに行ってましたよ。小学生のころからアルバイトしてたわけですが、当時はそういう人もいなかったわけじゃない。まぁ、私たちは収入が低い方ではありましたけど。そんな生活でしたから、遊んだ記憶はないです。仕事が遊びだったんでしょうね。でも、楽しくないですよ。魚の頭と臓物を切っていくんですけど、かまぼこだから新鮮な魚ってわけじゃないんです。その骨が指に刺さって傷ができると、そこに汚い水が入って手が膨れ上がる。みんなそうでした。それに、魚臭い。私はあまり服がないから、古い学生服を着ていたんですけど、ひょっとしたら体も臭っていたかもしれないですね。でも、それでいじめられることはなかったです。頭は悪くなかったから、学校での勉強はいつもトップクラスでした。2年生のとき、運動会の絵を描いて県展に出されたこともありましたよ。 中学になったら、成績を貼り出しますよね。そのときはずっと一番でした。家では勉強できる状態ではなかったですけど、周りも勉強してなかったんでしょうね。中学3年のとき、育英会の奨学金の資格試験を受けに行けと学校から言われました。貧乏人で成績が少しましだったから言われたんでしょう。私が受けたのは特別奨学金の方で、当時は普通と特別の2種類の奨学金があったんです。もちろん、奨学金ですからそれは返します。私も相当な年まで返していました。くれるんならいいですけど、ローンですよ。でもそれは、普通奨学金の分だけ。プラスアルファされている特別奨学金の方は、返さなくていい。そういうのがあったんです。うちの学校から奨学金をもらう試験を受けたのは私と、もう1人、新聞配達をしている女の子が受験してたんです。私だけが受かりました。嫌だよね。中学生になると私も新聞配達していましたから、会うんですよ。仕方ないけど、あの子はこいつがいなけりゃと思っていたでしょうね。中学時代は、かまぼこ工場と新聞配達をして、新聞配達は、大学で家庭教師をやるまでやってました。収入がないと困るからね。 アルバイトでためたお金は、親が家を買うときに渡しました。別に、おふくろは金をよこせと言ったわけではないんです。私はケチだからためたというだけですね。 そのころから、公認会計士になりたかったんです。どこかに勤めるのが嫌だったから、1人でやりたかったんですよ。公認会計士は、図書館かなんかで調べたんじゃないかな。税理士っていうのは、知らなかったです。これ、いいなと思いました。これを知らなかったら、日本銀行で働き続けていたでしょう。日銀では、学歴と親のコネを誇示している人が多かったから、いづらいなというのはありました。いいと思っていたら、そこを出なかったでしょうし、順調だったら出なかったでしょう。日銀に勤めていたころは、資格を持っていなかったしね。辞めれば収入は落ちますけど、それは承知でしたから、よほど合わなかったんでしょうね。充実の大学生活 滋賀大学経済学部に入学しました。大学に入って良かったですよ。ゼミが一番楽しかった。先生がユニークで人懐っこくていい人でね。小倉栄一郎先生の「原価計算および管理会計」というゼミに入りました。授業熱心というより、みんなにいろんなことを話したい先生だったんですね。毎週木曜日の夜に、先生のご自宅に伺うんですけど、終わるのが夜の12時くらいになるんですよ。私は家のある八日市から先生のご自宅の彦根まで電車で通ってたんですけど、12時を回ると電車はないから自転車で帰ったんです。真っ暗な中を1時間以上かけて帰りましたね。それくらいしても参加したかったし、私は先生に気に入られていて、いわば秘蔵っ子でしたから。その小倉先生が、私を日銀に入れたんです。 大学では、山岳部と詩吟部に入っていました。山登りは楽しかったですが、危険ですよね。1年生のときに八ヶ岳に行ったんですが、先頭が間違えて道なき道を行ったこともあります。新人だった私たちは、ロープを張ってもらい、なんとか歩きました。そんな私も4年生のときには部長になってね。すごいのは、そんなところに行くのをおふくろから止められたことがないんですよ。おふくろは、薪を取るのに山に登っていましたけど、そんな山だと思っていたらしいんですね。貧乏だから、自分の知っている山を想像していたようです。それでも、元気が出るからと梅酒の梅を用意してくれたこともありました。結構危ないところにも行きましたが、写真を見せたことはないんです。 詩吟は、試合ではありませんけど、発表会なんかがありました。関西詩吟連盟っていうのがあって、他の大学の発表会があると行くんですよ。合宿では、日中は詩吟をやって、夜は旧制高校の寮歌なんかを歌ってました。 大学時代にやった家庭教師のアルバイトは、資金源でしたから頑張りましたよ。多いときだと10人くらい教えました。毎日のようにやってね。人に教えるのは楽しいです。小学生とか中学生相手ですから難しいこともないですし。本当に忙しい大学時代でしたけど、楽しかった。人生の満開の時期でした。 日銀入行、妻との出会い 小倉先生から日銀に行ってくれないかと言われたんです。先生が就職の係をやっていて、何人か日銀によこしてくれないかと言われたんでしょう。そういうときは、金融論などのゼミからいいのを1人送ってくださいよと言われるのが普通でしょう。だけど先生もちゃっかり自分のところから入れようとしたんですね。日銀から試験を受けに来いよと言われてるだけで受かるとは限りませんから、じゃあ取りあえず受けようと。大恩のある小倉先生からの話ですから、断るわけにもいかなかったんです。でも、山岳部に金融論をやっていたやつがいて。ホントはそいつが行くべきですよ。私は原価計算だったから、今から思えば、日銀から少々変わったのを送ってくれとでも言われたんでしょう。その年は変わったやつが多かったから、人事部は失敗したと思ったんじゃないですか。それからは元に戻したようです。お父さんが頭取だとか、そういう人にね。だから、私の年の人は辞めていった人も多かったです。でも私はこれ、断れないでしょう。本当だったら自分で選んだ会社を受けて「あー落ちた」なんて言ってたでしょうけどね。先生は、私のためじゃなくて、学校のためにルートを作りたかったんですよね。だから予感はしてました。いずれ辞めるんじゃないかな、と。本店での面接なんて、聞かれたこと全部答えられない。金融論なんて知らないから。日銀で理論家で通った高明な人からの質問も「わかりません」で、2、3分で終わっちゃった。小倉先生に言われなければ、日銀なんて入らなかったですよ。日立製作所とかに行ってたと思います。なにしろ原価計算ですから、工場に行ってたと思いますよ。でも、そこもつまんないとか言って早く辞めてたと思いますけどね(笑)。 入って3カ月間、本店研修を受けて、函館支社に配属されました。ここで妻と知り合ったんです。妻は、気が付く女性だったし、男はそんなことやられると、乗せられちゃう。気を遣ってくれただけかもしれないのに、好かれてると思っちゃうんだよね。結婚してよくわかったけど、彼女は計算とか事務とか抜群です。それは本当に良かったですよ。気の付く女性って、そういうものでしょうけど。さっと気が付く、それが頭がいい証拠ですね。私は、そういう点では頭が悪いんですよ。 函館支店にいるときに結婚して、本店に異動したときに一緒に来ました。函館支店では、仕事はしないで結婚だけ。奥さんを見つけに函館に行ったというか、結果としてね。デートはものすごく行きました。だって仕事してないからね。給湯室で声をかけて「今日はどう?」なんて言ってましたよ。デートでよく行ったのは函館山です。立待岬の五島軒ってレストランに入ると、私は100円の定食。なのに女房は、150円の食べるんだよね。私が払ったと思うんだけど、財布が大変だったね(笑)。デートは町の中や山を歩くだけでしたけど、海が見えて素晴らしかったです。日銀時代は自分のしたいことだけしてましたから、楽しかったですよ。公認会計士になって 本店に戻って、統計局で短期経済観測調査と卸売物価統計調査をやりました。その後、公正取引委員会経済部調査課課長補佐の在職中に、税理士試験と公認会計士の2次試験に合格しました。29、30歳のときに勉強して、試験を受けたんです。私は要領がいいですから試験勉強は得意でした。中学高校と働きながら勉強してましたからね。統計局は忙しかったですけど、調査期間以外は時間がありました。 31歳で銀行を辞めました。女房は、日銀を辞めるのを嫌がるのではないかと思いました。収入も減るしね。でも「あなたの好きにしたら」と言ってくれたんです。たいていの奥さんは反対しますよね。30歳で試験には合格したんですけど、3次試験もありますから。実務経験を2年して、3次試験に合格して、それでようやく公認会計士になりました。 筆記試験は問題が長いんですよ。その次に面接があるんですが、金融政策の問題だったんですよ。それで私が日銀出身とわかったら「ああ、いいです、いいです」となってしまって。面白かったですね。それで受かりました。公認会計士の仕事は地味なんです。膨大な帳簿と証拠資料の突合せというただただ地味な作業です。才能というより根気が必要ですね。1つ1つ積み上げる仕事なんですよ。 日銀にいたときには組織の一員で、上司がいて転勤もありますから、日銀村に住んでいる感じで、そういうのが嫌でした。でも、1人だとそんなのがないですよ。何をしても自由。組織だと一生懸命やったら周りに評価する人がいるでしょう。上司が褒めてくれるかなとか思いますよね。だけど1人だと周りにいないんです。ただお客さんが喜んでくれる、それだけです。残業だって、仕事を受けなきゃありませんから、忙しかったら受けなきゃいい。やりたかったら受ければいい。会社だと、今月はよく頑張ったなと思っても、その半分でも自分に褒美が来るわけじゃない。でも、事業主は全部自分。自分のために仕事して、自分に全部お金も来る。もちろん自営業、事業主のデメリットもありますけどね。 でも、自営業は辞めどきがわかりません。やればできるんだから。私は2017年に会計士の登録を抹消しました。自分の人生との兼ね合いです。60歳のときから、仕事をだんだん少なくしていきました。この仕事は、命ある限り人のためにするほどの仕事じゃないです。正義のためにって気はありません。仕事は自分のためにやってきたんですよ。子育て 私は子育てには参加していません。過保護にしない、お金はかけない、勉強しろとは言わない。よく怒ってたとは思います。ポリシーとしては、本人に任せる。命令だとあいつが言ったから、となりますから。子どもたちが小さいころは、ずいぶん家族旅行に行きました。スキーによく連れて行ったんですよ。佐渡一周とかも行きましたね。でも、下の2人は自動車の中で寝てばっかり。親のレクリエーションに付き合ってやったとしか思ってないんですよね。車に乗せられただけ。親が計画したらダメだったんですよ。子どもに計画もやらせないとダメだったと後から思いました。キャンプにも行ったけど、言われてついてきただけになってました。 長男は真面目で、要領は悪い方じゃないかな。長男は最初、銀行に勤めていましたが、今は公認会計士になって頑張ってます。次男はやっぱり、上を見ているせいか要領がいいんです。長女はかわいかったですよ、ちょっと反抗期はありましたけどね。私の人生 70歳から体力が落ちてきましたので、好きなマラソンや水泳を断念するようになりました。今は仕事もせずに、悠々自適です。旅行は、妻と国内はもとより海外も34カ国回りましたし、お墓ももう作りました。妻と私の似顔絵と、歌っている妻と走ってる私の姿のイラストが入っています。 私のエンディングノート、延命拒否宣言書、遺言書、妻と子どもひとりひとりへのお別れの手形は封をしないで、透明の袋に入れて、私の部屋の壁にピンで吊るしてあります。誰でもいつでもこれを見ることができます。関係者にはその存在と内容を知っていてほしい。存在を無視されると作った意味がない。もっとも、私は死ぬまでいつでも、そのときの気分次第で、どんどん書き直しますけれどね。 私はね、人生訓というか格言をいつも意識して生きているんです。「足るを知る」とか、「他人と自分の過去は変えられない」とか「腹八分目まで」「孤独を友とすれば孤独ならず」とかです。 そうですね、私の人生、良かったですよ。この仕事をやれて良かった。気楽に生きられたのが良かったんです。私に合っていたと思います。今の気持ちとしては、はるかなり きしかたみれば いくばくや ゆくすえみれば かすみかかりてという心境ですね。 --- - Published: 2021-03-25 - Modified: 2021-03-29 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/tatsuharusakamoto/ 子どものころ 生まれたところは山梨県勝沼町内です。5人兄弟の二男でした。父が炭屋を経営していまして、実業家として成功した立派な人でした。炭を運ぶために馬を二頭飼っていたから、小さいときから馬の世話をしたり、炭を運んだりして 家業の手伝いをしてました。 母が小柄で炭を運ぶのが大変そうだったからね。学校から帰ってから兄と2人で母を手伝って、学校に炭を配達に行きました。リヤカーの後ろを押してね。ほぼ毎日やっていましたよ。それが近所で評判になってね。当時「国防献金」という制度があって、手伝いのお金を貯めて国に寄付したんです。それで「働き者の兄弟」ってことで、兄と2人で表彰されました。地元の新聞に文章で載って、びっくりしましたよ。仕事だから親の言うとおりにしていただけで、大変だとは思わなかったです。 父は山仕事で人を使ってたから、ほとんど外で働いて、母が会計、経営管理を全部やっていました。帳簿も母がつけていました。両親はじめ、一家そろって働き者でしたよ。親の姿を見て闘争心を養いましたね。自分も親のように立派になりたいと思いました。 子どもの頃の遊びは兵隊ごっこです。河原で基地を作って、竹の棒で刀を作って相手を攻めるわけです。遊びでやってたけど、いつかは兵隊になろうと思っていました。戦争と戦後 小学生のころ太平洋戦争が始まりました。15才のころに少年兵を志願したけれど、小柄で身長が足りなかったから、身体検査で落ちて試験も受けられなかったんです。今思えば命拾いしたんですよね。戦争に行った同級生は戦死してしまいましたから。 小学校を卒業してからは主にブドウを作っていました。炭の需要がなくなってきたから、父がブドウを始めたんです。当時勝沼でブドウ作りが始まったときでね。甲州ブドウです。豚も50頭くらい飼っていて、食肉用に出荷していました。ブドウ園の下に畑も作りましたよ。じゃがいもとかほうれん草なんか作って、豚の餌にしてました。父はブドウと豚で財を成したんです。あとはね、市場で柿を買ってきて干し柿を作ったりね。やり手でした。父を誇りに思っています。 終戦は17才で、実家のラジオで聞きました。戦争が終わって、自由に好きなことができると思いました。友達は3人ほど戦地に行ったと思います。弟は愛知県豊田の軍需工場にいたときに空爆されて、15才くらいで死にました。豊田に埋葬されましたから、お参りに行きました。 戦後、20才のときに東京に行きました。新宿に一間半くらいの店が立ち並ぶマーケットがあって、身内が店をやってたんです。そこの一画で立ち飲み屋をやって、山梨のワインを売ってました。父にお金を出してもらって、2年くらいやってたんです。ただ、うまくいかなかったので、店は売って山梨に引き上げました。新宿では店の上に住んでいました。商売に慣れるのも、人付き合いも大変だと思いましたね。借金はしないように生活していました。親の背中を見てきたから横道にそれることはなかったです。それで、戻ってしばらくは家業を手伝っていました。 酒は好きでしたね。ワインをたくさん飲みました。ビールも好きですね。ブドウ農家だから、自宅でお酒を造って飲んでました。毎晩コップ1杯、健康のために。結婚、独立 26才のとき、結婚しました。親同士からの知り合いで、妻と共通の友達が入院して、お見舞いに行ったときたまたま会いまして。最初から全体的にいいなと思いました。  その後すぐ会うようになりまして。身延山に行ったりしました。車は仕事用のオンボロだから、おしゃれして電車で行きましたね。それから1年くらいで結婚しました。当時次男坊は財産とか無いから、妻の両親は苦労すると思っていろいろ調べたみたいです。結婚したときすでに妊娠5か月だったから、妻の親には謝りました。 結婚を機に親から3反分ほどの畑を分けてもらいました。実家のそばに家も買いました。最初のころはブドウだけでは生計を立てるのが難しくて、母親の義兄からモヤシの栽培方法を教えてもらってやってみたり、瀬戸物屋なんかもやってみたけど、結局採算はとれなかったです。だから、ブドウ作りに精を出しました。 男の子が生まれるといいなと思っていたから、長男が生まれたときはうれしかった。名前はみんな仲人さんにつけてもらったけど、長男には私と父の名前の字をつけてもらい、「辰彦」としました。息子は4200グラムもあってびっくりしましたよ。子どもは3人で、娘が2人います。ブドウ作り 最初の畑は自宅から遠かったです。自分で井戸を掘って作りました。かなり深く掘ったから水が干上がることは無くて、近所の井戸が干上がると水を分けたりしました。物置も古材を使って自分で作りましたよ。とにかく必死で働きました。 40才のころ、肋膜を患ってから喘息になりましてね。それからは、なるべく重労働をしないようにしました。その分妻が働いてくれました。 世間より大きいブドウを作れば市場で高く売れると思い、デラウエアの大粒を育てようと思って研究しました。山へ行って枯葉を集めてきて、ブドウの木の下に敷くんです。開花前にジベ処理をして早く成長するように工夫したり、冬に藁を敷いて地面が凍らないようにしたりしてね。これがうまくいきました。他の家より大きいデラウエアが作れるようになったんです。 一生懸命働いて、ようやく軌道に乗って、家の近くに畑も追加購入したりして、財を残せるようになりました。家を新築したとき、借りたお金を返そうと思って土地の一部を売ったんですが、これが購入したときの10倍の値段で売れてね。ずいぶん儲かりました。 1番大変だったのは雪害でビニールハウスがつぶれたときですね。45年くらい前だったと思います。栽培面積が決まっているから、軒並みビニールハウスにして高く売ろうとしてたんですね。当時の業者がいいかげんだったらしく、投資したものが全部ダメになりました。今は災害のときは費用が出るけど、当時は自腹だったから借金して払いましたよ。それから3年くらいはあまりブドウが獲れなかった。ちょうど厄年だったから、そのせいかと思いました。 息子が継がないことが決まったときに、デラウエアの畑にヒノキを植えました。ちょうど土地を縮小しようと考えていたときに話があったのでね。結果的にはこれが良かったんです。伐採したとき以外は税金がかからないですから。 自分で言うのもなんですが、先を読む目は正確だと思います。やったことがいい結果に繋がる。貯蓄より投資に力を入れてきたことで成功しましたね。狩猟と釣りと海外旅行 50才で狩猟免許を取りました。甥が20才くらいのときに、狩猟を始めるというから、自分もと思って講習に行きました。始めたらおもしろかったので続けました。狩猟仲間と泊まりで長野や韓国の済州島に行ったりしましたよ。グループで罠をかけて獲るんです。楽しかったですよ。農作業が無いときは毎週のように行きました。狸、ハクビシン、雉、ヤマドリなんかね。食べるというより、はく製にして飾るものですね。はく製にするのに随分費用がかかりました。クレー射撃もやりましたね。10年やったけど、歳を感じてピタッとやめました。 狩猟と射撃をやめてからは、妻と2人で釣りに行きました。すっぽんとかカメなんかも釣りましたよ。釣り堀やら川やら行きました。息子も連れて行ったこともありますよ。 60才を過ぎてから妻とずいぶん旅行に行きました。北海道や沖縄、海外にも行きましたね。中国はすごく良かったです。子どもと現在の生活 子育てについてのこだわりはあまり無いです。それぞれが自分の力でやってる。手をあげたこともあるけど、そんなには怒らないです。子どもには健康で毎日楽しく過ごしてほしい、そう思っています。 毎朝5時には畑に出ます。雨が降っても毎日必ず行きます。朝が辛いとは思わないですね。自然に起きられるしね。ただ、かなり歳がきたから身体は動かなくなってる。動けないのはつらいですね。 今年のブドウはまあまあ。甲州とシャインマスカットがいいです。うちのブドウは美味しいですよ。 長いことやってきたけど、ブドウ作りは楽しかった。健康でよく畑仕事ができたことが1番でした。 --- - Published: 2021-03-25 - Modified: 2021-03-29 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/yasuyukisakari/ お寺での生活 生まれたのは五反田の病院って聞いてるんだけど、物心ついたときには、青梅の福昌寺っていうお寺に住んでたんですよ、疎開でね。本堂には地獄の閻魔様の絵があってね。いつも4月になると飾られるんだけど、それがおっかなくてね。それから、昔、ガンバコっつってね、死体を入れて、みんなで担いでいったんです。その箱が置いてあるところがあったの。そこで祥一兄貴はお化け見たって言うんです。私は見たことないけど、兄貴が見たっつって。本当に怖かったな。 お寺には池がありましてね、シーズンになると、ヒキガエルが足の踏み場もないくらい卵産みにくる。池全体が卵でいっぱいになっちゃうの。でね、そこの上に、椿の木だと思うんだけど、こう出ててね、僕は木登りが得意だったの。登ってって、そっから池に落っこっちゃったことがあるんですよ。そのときに大事に持ってた小刀を落っことしちゃって、池の中で見つかんなかった。悔しかったな。 それが小学校上がったときか上がってないときか。ともかく物心ついてから小学5年生までそこにいたんだけど、いろんな思い出がいっぱいあるんです。父との思い出 おやじは小学校の先生をしてました。通っていた小曽木小学校では、今で言う教頭だったんです。あんまり怒ったことのない、とっても優しい人だったな。でも、休んだ先生の代わりにおやじさんが授業に来たことがあった。そんとき俺、ふざけてちゃらけたらね、チョークをパーンとぶつけられてね。恐かった。そんなこと覚えてる。 あと兄貴が「おい、行こうぜ」っつって、朝早起きしちゃあ、山に遊びに行くんですね、兄弟3人。それから友達も何人かいたな。それで気がつくと、山のほうにいるうちに学校の始まる鐘の音が聞こえて、やばいって走ったけど間に合わない。おやじが教頭なのに、息子が兄弟そろって学校始まってんのに山行って帰ってこない。「もう先生のお子さんは」って言われてたみたい。自然の中での遊び 小さいころは、野ウサギを追っかけたり、コジュケイを捕るのに罠を仕掛けたり、動物捕りをいろいろやったな。ムジナは2回捕まえてね、そのうちの1回は、皮が売れるっていうんで、兄貴と一緒に皮をはいで持ってったら、「いや、こりゃ駄目だよ」って言われた。襟巻きにするには足から先もなきゃいけないんだって。ところが、われわれ何も知らないもんで、じゃまだから足の先は取っちゃったんだ。結局売れなくて「捨てとくから」って言われて。そんなこともあった。 あと、マムシはあの当時1匹60円で売れたんです。あの当時の60円っていうのはすごい。捕まえて売りに行くんですよ。生きたまま捕まえるんだけど、当然マムシおっかないから、竹を割って、間に棒を挟む。その棒にひもをくっつけといて、ひもをパンと引っ張ると、パッと竹が閉じるように細工をするんです。マムシ、とぐろ巻いて、もう襲うようにぴゃーっと首上げますんでね、それを竹ではさむんですよ。はさんで、パンと引く。これがなかなか難しくてね。随分逃げられたりもしたけど、2回記憶であるんだな、捕まえたの。ところがね、もっと怖いのはそっから先なんですよ。はさんでありますよね。で、マムシは飛びついてくるんですよ。それを袋に入れるんです。袋ん中に入れちゃうとおとなしくなるから。その袋に入れるのがおっかない。開けてやるタイミングで失敗すると、かまれますから。 あとはターザンごっこなんかやったな。青梅市内にターザンの映画を見に行って以来、もうターザン、ターザンで。あの当時、木から木に飛び移れたのは俺しかいなかった。ターザンごっこで木の上に板持ってって、小屋みたいなの作ったの。夕方、それが抜けて落っこってね、記憶がないんです。気がついたら、山の中で寝てた。そのときの傷が今も残ってますけどね。 それから、福昌寺のお寺に竹やぶがあって、竹っていうのはしなりますよね。どんどん登ってって、ある一定のとこまで行くと、ぶわーって落ちるんですよね。これはおっかないけど快感なんですね。竹がしなって、びゅーっと落ちてきて、ちゃんと足が地面に着く。そういうのができんのも、ほかにはあんまりいなかったな。命懸けの度胸試し もう青梅に移ってからだから、中学生になってるころかな。今でも恐ろしいなと思うんだけど、多摩川がものすごい大水になるんですよ。そこん中飛び込んでね、泳ぐなんてもんじゃないですよ。もう激流ですから、流されちゃう。もう溺れてんだか泳いでんだか分かんない。まあ、結局、度胸試しなんですね。一回それでね、水中に大きな石があって足ぶつけたんです。そんときは俺ね、死んじゃうかと思った。もう痛いなんてもんじゃなくてね。ガブガブ飲んじゃって。それで、やっとの思いで浅瀬にたどり着いた。 あと危なかったのは、われわれ「モコモコ」って言ってたけどね、青梅の長渕に調布大橋ってあるんですよ、今でもありますけど。それはね、川が流れてきて、大きな岩盤にぶつかんですよ。そっから90度に曲がって川が流れてんだけど、すごい勢いで岩にぶつかってくるから、水ががーっと盛り上がるんです。でね、すごい下深いわけですよ。その盛り上がったところにうまく乗るとね、水の上に浮かんでいられるんですよ。一つ間違えて中に入ってくのに巻き込まれると、中にばーっと入っちゃうんですよ。そこに入ったらもう出られない、死んじゃうんじゃないかな。僕は2回ぐらい、いや、もっとやったなあ、そこ。で、ばーっと巻き込まれんだけど、そのとき、もう必死になって逃げるわけですよ。それで、まあ生きてるから(笑)。そういうあれはね、結構子どものころっていうのは、僕らやったですね。面白かったことは面白かった。でも今、川なんか見に行ったりして、川の流れ見ると怖い。そのころのイメージが(笑)。よくああいうとこ入ってったなあと思って。陸上で大活躍 僕は走るのが速かったんですね。小曽木小学校には5年生までいて、6年生で青梅二小に行ったときに、青梅市の小学校の大会でリレーがあってね、そのリレーの選手選ぶのに、たまたま「坂理速いよ」っていうことでやったら、青梅二小で一番速かったやつよりも俺のほうが速かった。これは俺もびっくりしたけど、みんなそれでもって一気に「坂理はすごいぞ」って。 そのあと、中学校入ってから、中学校の青梅市の連合運動会っていうのかな、そこで100メートル三連覇したの。そのころ西多摩選手権なんてのがあって、中学校の部では私が一番速かったの。だから、あのころは運動会なんかでも「坂理が走るぞ」っていうと、みんな集まってきて。200メートルの徒競走だと、最初の100メートルは一番後ろでテケテケ走っとって、最後の直線になってから、一気にみんなバーッと抜く、それがかっこよくってね。教師を志す 高校のころ、ハリー・ベラフォンテの「バナナボート」が好きで、ギターでまねしようとしたけど駄目だった。でも、先生になって生徒と一緒にこれやろうと思った。英語の歌だから、英語の先生になろうと思ったの。そしたらおやじが「ああ、いいじゃねえか。誰も先生継ぐのいねえのかと思ったら、そうか」っつって。それで英語一生懸命やったんですよ。そしたら、英語で4になったんだよな。でも模擬試験の成績が悪くて、それでもうやめた(笑)。それで、たまたま体育は5だったし、じゃあ、体育受けようかっていうことで、日体大に入ったんですよ。通学に苦労した大学時代 日体大は世田谷の深沢にキャンパスがあるの。ちょうど僕が大学4年のときに東京オリンピックなんですよ。だから、通学路が工事のせいで狭くて通れなくって、もう大変だったの。車が動かないんですよ、渋滞で。渋谷から学校までバスで2時間くらいかかった。だから下手すると、家のある昭島から大学着くまで3時間かかったんです。でもずっとあとで知ったんだけど、渋谷から桜新町まで電車で行って、桜新町から歩けばうんと近い。でも当時はそんなこと知らないから、渋谷からバスでっていうイメージしかなかった。まあ、田舎っぺだから、しょうがねえなあと思って。 だから、大学時代はもうひたすら行って帰って。でも考えてみると、よく通ったなあと思って。往復6時間近くでしょ。9時始まりだったから、結局いつも6時出。あの当時、うち貧乏だったもんで、もう腹減っちゃってね。ウエハースって赤ちゃんの食べるのありますよね、あれ安いんですよ。ひたすらあれしゃぶってね、通ったんですね。盆暮れにはアルバイトでお金貯めて。郵便局とか、デパートのお歳暮の配達とか、そんなので。まあ、よくやったもんだよ。 大学でも陸上は続けてました。最初に入ったとき、短距離だけで百何十人いたけど、最後まで残ったのは10人ぐらい。多くはいなくなっちゃった。僕なんか大学のときは弱かったけど、ちゃんとまじめに残ってやってました。オリンピック会場で試験勉強 僕は東京オリンピックの陸上競技補助員をやってたんです。市川崑の映画『東京オリンピック』にも、僕はちょっと写ってますよ。グランドの水たまりに雑巾敷いてね、絞ってバケツに入れて、水を取ってんの。そこに僕もいるの。 そんなわけで、競技場には自由に入れたんです。オリンピック閉会式の2、3日後に都の教員採用試験があった。棒高跳びのピットって、棒高跳びの落ちるとこね、あの当時はおがくずだったんですよ。で、人がいなくなるとね、シートかけちゃう。だから、そこにもぐって勉強してたんですよ。こうこうと電気ついてて明るいし、おがくずはあったかいしね。ハンドボールとの出会い 都の採用試験は10倍ぐらいの倍率だったけど、ストレートで受かりました。それで最初の赴任先が桜水商業だったんです。ここで、いきなり2年生の女子クラスの担任を受け持つことになった。これはびっくりしたなあ。今まであんまり女の子と話なんかしたことなかったからね。年は5つしか離れてない。もうどうなることかと思ったよ。その冬に、女子ハンドボールの顧問の先生が抜けるから、後任をやらないかって口説かれて。実は大学時代、ハンドボールにはいい印象を持ってなくて、部員が変なのばかりでとんでもない競技だと思ってたの。それをまさか自分がやるとはね。そんでも分かんないなりにやって、1年目にいきなり関東大会で2位になっちゃったんだよな。 それからはもうハンドボールコートに入ると人が変わっちゃったんですね。で、いまだそれが続いているという(笑)。この競技はね、僕は非常に面白いなと思うんですね。何が面白いかって、ものすごく頭を使う競技です。将棋なんかの、こう打ったらこうなってくるっていうのと同じです。運動は全部そうだと思うんだけど、あそこにパスを通して、自分がこう動いてこうだっていうことが分かってくると、ほんとに面白いゲーム。で、ある程度は身体接触が大丈夫ですから。それに走・投・跳の全部がそろったすごい競技。ところが、その面白さが分かるには5年か6年かかるかなあ。ですから、今も現役で見てますけど、中学でやってきた子が1人いるだけで、そのチームは全く変わりますね。西高での思い出 1973年からは西高に移ったんです。西高の校長から「うちへ来てくれないか」って言われてね。俺はまだ桜水でハンドボールやりたかったから、最初は断ったの。そしたら周りの先生方に「何で行かないんだ」って説得されてね。その当時、西高が有名な進学校だってことも全然知らなかった。 西高ではいろいろとカルチャーショックを受けましたね。ほら、多くの学校って、試験の前日とかだと、生徒に言われて出席取って終わりとか、そういうのが当時はかなりあった。で、西高でも同じようにやったら、20人ぐらいの生徒がわっと取り囲んできて、「ずっと試験勉強していて、体動かす時間はこの体育の時間しかないじゃないですか。それをなぜやめるんですか」って。これにはびっくりしました。先生方もみんなプライドを持っててね、組合活動もかなり強かったけど、授業は絶対つぶさない。これはもう徹底してた。みんな自分の主張をしっかり持ってたし。この学校はおもしれえとこだなあと思ったね。 30代から40代の一番できる時期だったこともあって、西高の思い出は多いね。教員で合唱団作ったり、謝恩会のあとに私は民謡歌って踊ってなんてやったりね。運動会なんかも随分変えたしね。今でも残ってますけどね、女子の騎馬戦があるんですよ。私が作ってね、「アマゾネス」っていう名前をつけてやったんです。それからね、棒を取って、下走ってジャンプして、ありますね。あれを大学受験の足切りに引っかけて「足切り」っていう名前にしたりね。 あと、浪漫倶楽部っていう面白い映画なんか作るグループがあった。とんでもないことばっかりするもんだから、顧問のなり手もなくて、私のクラスに部員がいて、頼まれて俺が顧問になってね。彼らが皇居のところでパンツ一丁で行進してたら警察に見つかって、私のところに電話がかかってきたり。ほかにも鎌倉の大仏の横で、全身ネズミ色にして大仏の真似してたら外国人観光客に囲まれて困ったとか。そんなことばっかりして特殊な映画を作ってた。オーレーオレオレオレーってJリーグの歌ありますよね、あれを作った吉田雄生は浪漫倶楽部にいたの。そういう面白い連中がいっぱいいたなあ。校長になって 校長として初めて赴任した青梅東高は、年間退学者が70何名という学校だった。先生方も随分頑張って、俺が青梅東を去るころには20人台まで減ったよ。私はテニスやってたんでね、一緒にテニスをやってた先生方が非常に協力的にやってましたね。勤務時間過ぎると、まだ明るけりゃテニスコート行って、やりましょうっつって。東京都の保健体育研究会のテニスの大会では優勝したんですよ。 そのあとの南平高では、体育祭とか文化祭とかの行事のたびに「青春とはー!」なんてやったもんだから、「青春校長」で通っててね。勤務のあとはいつもグランドに出てハンドボールを一緒になってやったり、テニスやったり。ハンドボールは、合宿にもしょっちゅう付いていってたしね。ほんと、そんな時代もあったねえ。 --- - Published: 2021-03-25 - Modified: 2021-03-26 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/mutsuosasaki/ 生まれ、子ども時代 昭和10年、福井県で生まれました。三里浜のあたりです。裏の山が織田信長に討たれた朝倉義景の最後の山なんです。集落の入口に乱橋というのがあるんですけど、乱橋というのは織田軍に押されて兵がそこで乱れたっていういわれがあるんですよ。お地蔵さんもたくさんあったので、大勢の人がそこで亡くなってるんじゃないですか。小さいときは、山から山へ人魂が行ったり来たりしてると聞いたことがありますよ。肝試しでそこに行ったりしてましたね。 実家はお店で、たばこや塩や砂糖、文具とか何でも売ってたんです。牛も豚も鶏もいましたよ。畑も2反くらいあったし、小さいときは裕福だった。でも、父親は8歳くらいのときに亡くなってるから、記憶ってあまりないんですよね。私が物心つくころには長男の子どものお守りがいたなというのは覚えているけどね。 兄弟は9人で、私は七男坊です。女が2人で男が9人ですね。でも、小さいときに3人亡くなってます。兄弟の内1人は戦死していて、今は4人しか生きていないです。1番目の姉は98歳。2番目が姉92歳、次が86歳。それで私が81歳。私は母が42歳、父が52歳のときの子どもなんですよ。もう生まれないなと思っていたら生まれたみたいですよ。だから1歳のときに福井県の武生というところへ養子に出されたんですよ。だけど、泣いてしょうがないから返品されたのが私です(笑)。1カ月泣き通しだったみたいです。 父は商売上手だったんですよ。父は商売で山を買ったり売ったりしてて、それで木の伐採をしていたら、その木が自分のところに倒れてきて下敷きになったんです。眉間に穴がいていたのを覚えてます。あと、田舎の火葬場というのは父の火葬の時、子どもが火をつけるんですよね。父は大阪でだるま船なんかを曳くタグボートなんかも買ってたみたいなんですよ。それが1年目で沈んでしまって大きな借金を背負って貧乏になっちゃったんです。親父が死んじゃったから、それを兄が背負うことになったんです。でもおばさんが酒造会社に嫁いでいたんで、そこの人が借金を立て替えてくれたんです。そのあと少しずつ返していきましたよ。 母はうちの父親が早くに亡くなったから、兄や私をかばうのに精いっぱいだったでしょうね。私は国民学校第1期生であり、新制中学校の第1期生なんですよ。私の1つ上の代では鳩ぽっぽの歌で始まるけど、私の代からは陸軍の歌ですよ。私たちは時代的にも戦争被害者だろうね。当時は教育なんてまともに受けられなかったんです。住んでた地域は敵前上陸があるかもしれないということで予科練がいて、三里浜にも飛行場を作ってました。小学校高学年くらいの年のときには3日学校に行って、それ以外の3日は木工をやったり、棒を持って飛行場を作りに行ってましたよ。昭和5年生まれくらいの人は基礎教育は受けれたんですけど、私とか昭和10年生まれくらいの人たちは応用編だけ習うから、結局何もできなかったです。小さいにときは学校に行ったら校庭にサツマイモを作ったり、桑の実採ったり、彼岸花の根っこを掘ったりしてましたね。だから教育という学問はだめなんですよ。 学校行けば、先生によくビンタ食らったし、5、6人一緒に怒られたりしてましたよ。「右足、左を開け、腰に手をやれ、歯を食いしばれ」って言われてバシっと叩かれましたね。痛かったですよ。怒られた原因は1つ覚えてます。うちの集落は23戸しかなかったんですよ。それで同級生は女が2人、男が7人で合計9人いるんです。 その中にわんぱくなやつがいて、3人で海に行って、そこで5、6人のおばちゃんに怒られたらしいんですよ。それで頭にきて被服を全部埋めちゃったら、そのおばちゃんたちから学校に苦情が来たんですよ。私はやってないけど、同じ集落のみんなが立たされて怒られました。その当時はすべて連帯責任だからね。私はわんぱくじゃなかったけどね。 戦争の経験はないですね。福井市は空襲を受けているけど、うちから12キロくらい離れてて、燃えている様子を見たくらいです。食べ物は不自由してたけど、それほど困ることもなかったね。畑に行けば大根があったり、ジャガイモがあったり、時期になれば桑の実があっちにもこっちにもあったし。桑の実を食べると口の周りが真っ黒ですよ。上京して仕事を始める 中学校卒業と同時に浅草に出てきたんですよ。おばが浅草で会社をやっていたからね。兄も勤めてましたよ。そこにみんなで住み込みで働いてました。22、3歳まで甘納豆を作ってたんです。そのあとアイスクリーム屋さんになりました。福井から出てきて環境は変わったけど、そんなに困ったことはなかった。でも、きつい仕事だったね。会社に入って1年目は甘納豆を作ってたけど、2年目には自転車で外回りをしてたんです。新宿や池袋、有楽町とかね。浅草にいたのは2年足らずで、それで一度福井に戻ったんです。僕と兄が2人して同じところにいたら、会社に何かあったとき2人して路頭に迷ったらまずいということで、僕だけ福井に帰されたんですよ。 帰ってから6カ月間は馬車引きをやってました。そのあとの6カ月間は姉の洋品店の手伝い。公民館を借りたりして移動販売してましたよ。それで寒くなってきたら、福井のお菓子屋で甘納豆を始めたところがあったので、そこで7カ月間働いて甘納豆を作ってた。それから浅草にいた従兄弟から出て来いと言われて、御殿場の下曽我町というところに行って働いてたら、仕事ができなくて3カ月でクビになっちゃった。そのあと北鎌倉の小袋町の名月堂というところで甘納豆を作ってたんですけど、大福のほうが儲かってました。それで、甘納豆をやめるというんで1年半くらいでクビ。ここは続けたかったんですよ。最近、厚生年金見てたら、そこで働いてたときのが年金が出てきて、1年で1万円年金が増えました。きちんと会社で支払ってくれてたみたいだけど、知らなかった。山ノ内喜代治さんっていう社長だったんだけど、本当にいい人でした。フタバ食品に勤めて そのあとは、浅草で働いていたときの職長が宇都宮に行ってて、その人を頼って宇都宮にある現在のフタバ食品へ行ったんです。その時期は本当にいろいろ転々としてて、アメ横に行って浮浪者にならなきゃいけないんじゃないかと思ったこともあった。もう田舎にも帰れないから、金はどうでもいいからとにかく「寝る、食べる」をできるところを探さなきゃいけなかったね。だから17歳から20歳ぐらいまでは状況が悪かったよね。でも朝鮮動乱が起こる前までは働かせてもらえるところがあるだけいいって感じでしたからね。柳行李と布団1枚持って転々としてました。でも、宇都宮行ってから生活も安定しましたよ。 宇都宮行ってから3年くらいはやっぱり甘納豆を作っていて、夏はアイスクリームの配達。そこには浅草にいたころの後輩が5、6人くらいいたから、そんなに新しいところに来たという感じはなかったね。3年くらい働いたら水戸の甘納豆屋を紹介してくれるって話だったんだけど、それがなくなって、結局そのまま同じところにいましたね。菓子問屋もやってたんで倉庫番をやりましたよ。いろいろなことをやっていた会社だったので、九尾ずしを作ったりもしてましたよ。1日2万食も売れてました。電車が黒磯の駅で15分くらい停車するんでそこで、すごい売れましたね。河内サービスエリアをフタバ食品で経営してたんで、そこでも売ってましたね。だから甘納豆のあとは食品部に移って、弁当売りもやりましたよ。社長にもかわいがられてたし、充実してたね。20代になるまでは苦労したけど、みんなそうだったと思うし、生きるのに精いっぱいという感じだったからね。 営業のときに、橘屋というお店があって、そこに商品を売れたら一人前だって言われたんですよ。それで見本を持って行ったら、そこの親父さんに何年生まれやって聞かれて、昭和10年生まれやって言ったら、じゃあ低能やなっていきなり言われたんですよ。それが頭にきて言い返したら、奥さんが飛んで来て謝ってくれたんです。まあ言われてみれば、昭和10年のあたり子どもはまともに教育を受けれてないと思って、納得はしたけどね。でもそのまま怒って帰ろうとしたら親父さんが追っかけてきて、結局注文が取れたんですよ(笑)。それが営業の始まり。営業として あのころはフタバ食品はまだそんなに大きくなかったから、福島所長として行って営業で新規開拓をしていました。あのころはバブルだったので、やればやるほど業績も上がっていったし、良かったですね。 郡山に行ってからは、アイスクリーム以外に豚まんも売ってましたよ。豚まんはもともと神戸とか横浜の中華街で店頭で蒸しながら売ってたけど、それを企業が豚まん用のスチーマーを作って売り始めたのはフタバ食品が最初だね。アイスは夏場だけで、その期間だけ人を雇ってたんだけど、冬場も人員を確保しなくちゃいけなくなってきて、それで豚まんを始めたんですよ。評判も良くて豚まんの機械を割り振って売ってましたね。郡山の人たちはとてもいい人ばかりで良かった。営業所の2階に住んでいて、半分社宅だったんで、だから年中お得意先が家に来てたね。結局郡山には10年くらいいたよ。少しマンネリ化もあったけど、楽しい思い出がいっぱいあるね。 そのうちに郡山から宇都宮の営業所に移って、営業所長をしました。昔からあるところだったけど、何か新しいことをしなきゃいけなかったからね。だから冬に物が売れる方法を考えて、宅配用のアイスをやってみたり、1リットルのアイスを買ってピンクレディーを見に行こうっていう企画をやったり、いろいろやりました。それと、お供え餅や伸し餅を作って売ったらヒットして、冬の赤字が減ったんです。表彰も受けたんですよ。そのとき私は大阪勤務だったので、後輩が賞状を受け取りましたけどね。 宇都宮には3年くらいいて、息子が高校受験終わったころに辞令があって大阪に転勤したんですよ。息子は学校が決まってたから、自家用車売って姉の家にプレハブ建てて、息子だけ残して転勤しました。娘は、私も一緒に残るとか言ってましたね。家も建てたばかりだったし、私も行きたくなかったですよ。 当時、大阪はあまりいい工場じゃなかったんですよ。買収して作った工場で設備が古くて、行ったときは散々でした。最初は金庫番だけしてればいいって言われてたけど、そんなわけにもいかず、立て直すまでに2年はかかったね。やっと3年目に攻めに転じれるようになった。そこからは順調に伸びていったけどね。55年ころからは、コンビニが京都に120店舗できて豚まんを置いたんですよ。1年に300軒も400軒も増えていくにつれて豚まんも売れるから、それは大変でしたね。生協に入れていたアイスもよく売れましたね。工場の設備を何から何まで変えましたけど、それは物を作るうえで基本ですよね。その後、三重県にも新工場を作りました。生産能力が2・5倍くらいありましたね。サクレレモンの開発 「サクレレモン」は大阪にいたときに私を助けてくれた商品。大阪にいたときに、最初はかき氷が全然売れなかった。原価をかけずに消費者に買ってもらうにはどうすればいいかを考えて、始まりました。自分で市場調査のために神戸を歩いて回りましたね。そしたらストローで歩きながら飲んでいる姿をみて、かき氷もあの形だなと思ってね。最初は断熱効果のある発泡スチロールの入れ物で、ストロースプーンを刺して売ったんですよ。それと硬くなり過ぎないようにアルコールと糖の割合で凍結度合いを調整したんです。娘の学校に持って行っては意見を聞いてね。それで売り出したら、これが売れてね!ひっきりなしだったよ。このひとつ前にかき氷バーを売ったんだけど、バーから落ちてしまうことが多くて、最初失敗したんです。でも氷の部分にコーティングするやり方を思いついて、その欠点がなくなって、これもすごい売れた。沖縄に毎週コンテナで運んでましたよ。でも「星空」っていう商品は自信があったのに売れなかったな(笑)。下手な鉄砲も数打ちゃあたるという感じでいろいろやりましたね。製造課長も協力してくれてね。関東と関西では思考も違ったし、関西の方が進んでたんだよ。関西は商いの町だから怖かったよ。東北にずっといたのに43歳過ぎてから関西に行ったからね。関西に行ってからは本当に必死だったから、ポケットに常に辞職願を入れてましたよ。本当に大変だった。でも、そのうちに業績も伸びてきて順調になったけどね。結婚と子育て 女房とはお見合いで知り合いました。杉森さんという方の紹介でね。まずは写真を見て、杉森さんの家でお見合いをしたんですよ。それで4月31日にお見合いをして、12月2日に結婚しましたよ。あまり時間を置かないほうがいいって言われてね。お見合いの後、5月5日の子ども日に女房の家に仕事帰りに挨拶に行きましたね。営業で外回りもやってたし、緊張するってことはなかったですね。 途中で福島に転勤になったんですけど、そこで生まれたのが長男。長女は郡山で生まれました。子ども生まれて思ったのは、私たちには家族しかないからね。だから子どもが一番。生きがいでもあるかね。田舎から出てきて家族ができたんだから、それに越したことはないですよ。休みも取れなくて本当に不規則でした。営業所は365日休みなかったから。だから家族と遊んだ記憶ないし、運動会も一度も行ってない。女房任せだったし、女房に感謝だね。新たな道へ 社長が社長の甥に代わって、お世話になっていた方たちも、みんな現役を引いてたから、もう新しく生き直したほうがいいなと思って退職し、大阪に戻りました。 その後、東洋食品から煮豆をやりたいと言われて転職したんです。丹波の黒豆ね。ロッテの下請けが主だったから、そこそこにやって、まあまあの利益をあげてやってました。今までにいろいろやってたからだいたい対応できました。いい社長だったし、65歳まで置いてもらったし、その後も2年嘱託で置いてもらったし、本当に良かったですよ。 --- - Published: 2021-03-25 - Modified: 2021-03-29 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/kunikoyokoyama/ 生い立ち 昭和19年に、日立市の河原子町で生まれました。終戦前に自宅が空襲で焼かれてしまったので、宮城県の父の故郷に疎開して、それからまた日立に戻ってくるんですね。父は宮城県の山奥、伊具郡耕野村生まれで13人兄弟の五男でした。家のために、山の中から日立製作所の多賀工場に働きに来ていました。働き者で、その他にクリーニング屋でも働いて、家に仕送りをしていたそうです。母は、国鉄に勤めていたおじいちゃんのところの長女でした。おじいちゃんが会津若松から日立の多賀駅に転勤で来ていた時に、おばあちゃんが父を見て気に入って、見合いさせたと聞いています。 父の実家に親子3人で疎開しましたが、母はそれまで農家に関係ない生活をしていたものですから、山奥の農村の暮らしがつらかったようです。一時、自分の兄弟のいる栃木に戻ってしまったこともあります。疎開先の思い出は悲しいものが多いです。畑の中に駄菓子屋さんがありましてね。私はお金をもらって買いに行ったのに「子どもがこんな大金を持って買い物に来るのはおかしい」と店の人が家まで来たこともありました。疎開先の家で私たちは土間で暮らしていたんですが、中で暮らしている人たちはいい食べ物を食べていて、それを見せびらかすんですよ。昭和23年、戦後復興途中の日立に戻ってきました。この年に妹のハルノは亡くなってしまいました。父はここで、日本鉱業所電錬工場に入社するんです。家族で電車道上の社宅に住みました。この社宅に入ってから下の妹たちが生まれたものですから、私は父の連れ子だと思われていたんですよ(笑)。母は怒っていました。私はいい子でしてね、一番両親にかわいがってもらいました。妹たちと年が離れていたので、あんまり一緒には遊んでないんです。でも、私が17歳の時、父の具合が悪くなったので、妹たちを励ますために玉簾の滝というところで飯ごう炊さんをしました。それはいい思い出です。父について 20歳になった時に、一度、宮城県の疎開先を私1人で訪ねたことがありました。父はよく、戸籍謄本を取るために実家の住所を私に書かせていたので、覚えていました。だから行くことができて。伯父さんが、父の兄弟のところに連れて行ってくれたんです。みんな、お父さんの話をすると喜んでくれました。私が20歳になって大きくなったことも喜んでくれてね。父は疎開先でうまくいかなくて出ていってしまったので、伯父さんは気にしてくれていたようでした。父が帰ってきた時のためにと、毎年じゃが芋とお米を別に取っておいてくれてたと聞きました。待っていてくれてたんですね。それが分かって、とっても嬉しかった。分かって良かったです。私が62歳の時です。NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』という番組を見ていたら、偶然出てきたところが疎開先でね。役場に電話したら、まだその住所に人が残っていると言われて、主人と訪ねました。3歳の時に見た風景と本当に変わらなかった。だから、ここで母親が我慢できなかった理由がよく理解できたんです。その気持ちが分かって、私は涙が出て止まりませんでした。 私は、父の生活や生き方なんかが自分の子を育てる基になったと思います。もののない時代でしたから、お正月とか盆くらいしか賑やかにやらないんですけど、その時の料理は父の手作りでした。鶏は卵を産まなくなったらつぶして正月に食べました。父はみんながしゃべっている間も黙って聞きながら裁縫をするし、草履も作るし、かんじきも作っていました。あと、月に1、2回、晩酌をするんですね。その時は、おちょこは1つ、自分の分があればいいものですけど、ふる里の兄弟や家族の分のおちょこを並べて、それに分けてから飲んでいたんです。ふる里の家族を思い出していたんですね。 ある時、父の姉の子どもに父が声をかけたようですけど「違う」と言われてしまったそうです。後から聞いたのですが、姉の子どもたちはきれいにしていたので、畑仕事着の汚れたみすぼらしい服を着た人から声をかけられたのが嫌だということで無視されてしまったそうです。それくらい父はなりふりかまわず一生懸命働いていたんですね。父は私には何不自由なく習い事をさせてくれましたし、畑仕事を手伝わせたこともありません。自分1人で頑張ってくれていたんです。本当に辛抱強い人で、12年もの間、胆のう、胆石、胃腸、十二指腸、膀胱などの手術で入退院を繰り返しましたが、つらいとか痛いとか言いませんでした。体は病んでいても心まで病まないようにしていたんだと思います。働きながら学校へ 私が17歳の時に、父が定年になりました。まだ妹たちが義務教育真っ最中だったので、引き続き仕事には就いたのですが、慣れない工場勤めで体調を崩し、それで12年間も闘病生活を送ることになるんです。母も働き始めました。私も、本当は学校に行きたかったけど、奨学金をもらいながら通信教育で水戸一高に行くことにしました。父が定年で日本鉱業所を辞めることになったら社宅にいられなくなるので、私は中学を卒業すると日本鉱業所中央病院付属看護婦養成所に入ることになりました。鉱業所付属の看護婦養成所に入って病院に就職することになれば、社宅に残れると思ったからです。それで日本鉱業所の入社試験を受けたんですけど、落ちてしまって。でも、住むところなくなると困るでしょう。私が総務に理由を聞きに行ったところ、「勉強で落ちたんじゃないよ、体じゃないの」と言われました。それでそのまま身体検査をした病院に行ったんです。担当の医師からは「身体検査で悪いところはないよ」と言われ、すぐに会社に交渉してくださいました。それで私は看護婦養成所に入れたんです。 養成所は地方から来る子たちが多くて、日立からは5人くらいでした。私も寮に入ったんですけど、なじめないんです。みんなは外出の日には友達と遊びに行きましたが、私は実家に戻っていました。だから、友達もできなくってね。私が寮に入ったので、家はいらないだろうと言われたんですけど、交渉して残してもらいました。それも、長屋から庭付き一軒家の社宅に移ることができたんです。私たちの生活を案じて、母の兄が栃木からバイクでよく様子を見に来てくれました。幼いころから、伯父が来てくれるのがとても楽しみだったのを覚えています。私はこうして働きながら、週に一度学校のある水戸に通いました。レポートをまとめて、病院の仕事が終わったら行ってましたね。水戸一高に通っている時、NHKのラジオ番組の人が来て学校代表として番組に出たことがあるんです。それを聞いた職場の人たちが応援してくれるようになって。働きながら「仕事が終わったら学校に行ける。みんなと会える」というのが楽しみでした。自分1人で勉強しているとやっぱり分からないことがたくさん出てくるんです。でも、学校に行けばみんなに会える、相談できる。それが励みになっていたんです。 水戸一高には、歩く会というのがあるんですよ。私たちは上野から水戸まで、泊まりながら2泊3日歩きました。有志50人くらいで歩いて、伴走してくれる人もいましたね。私たちは、卒業式の前日に歩き出して、卒業式に出ました。約100キロを完歩しました。途中の宿泊先が2階だったんですけど、もう足の裏が痛くて、とても上にあがれないの。水戸に着く時にはあまりに疲れてて、前から来る人を避けられなかったほどですから。でも、あの時一緒に歩いた人は、今でも友達です。夫との出会い 看護師として働いて家計を助け、同僚と遊ぶこともなく勉強もしていたので、私は他のことを考える余裕がありませんでした。けれど、卒業と20歳の記念を兼ねて富士山に登ることになりまして、その時に主人と知り合ったんです。主人は静岡県の富士山麓の出身で、富士登山のルートについていろいろとアドバイスしてくれました。主人は、主人の父親がやっていた仕事を手伝うため、20歳の時に日立に来ていたんですね。主人が具合を悪くして入院してた時、担当した同僚を通じて、出会いました。それまでずっと家のため、親のためを考えてきた私でしたが、富士山に登るのは自分のためでした。こんなに楽しいことがあるのかと気づかせてくれたのが、主人だったんです。頑張らないといけないとばかり思っていた私を優しく包み込んでくれたんですね。 それに、主人の母、横山のお義母さんが、料理や布団縫いなどを教えてくださいました。寮生活をしていたし、余分なことはしてこなかった私は、日常生活に疎かったんです。お義母さんが本当に優しくいろんなことを教えてくれて「今はできなくてもいいんだよ、わしの年代になった時にできればいいんだよ」と言ってくれてね。川島クリニックにいた時、30キロのお赤飯を炊かなくてはいけない時があったんですけど、私がそれを担当したんですね。お赤飯の炊き方はお義母さんに教わっていました。できあがった料理の中で、私のお赤飯が「一番美味しい」と喜んでもらえたのですよ。とても嬉しかったですね。教わったことが実を結んだと感じました。 私は父が闘病中に主人と結婚して、子どもを3人授かりました。それまでは自分を支えてくれるのが伯父しかいなかったので、主人やお義母さんに出会えてホッとしたんです。子育ての思い出 結婚する時に日本鉱業所中央病院は退職しましたが、長男が2歳になる時に、先輩のいる秦病院へ勤めることになりました。ここは地域医療をやっていた病院だったので、これからの子どもを大切にしないといけないと、保育園を併設していたんです。そこに長男を預けて通いました。秦病院には5年間勤めましたが、その間に長女も生まれました。長男の小学校入学に合わせて、滑川本町に家を新築して移りました。次女はそこで生まれたんですよ。その時、これまで子どもを保育園で見てもらっていたので、自分の手で育てたいと思ったんです。学童期は子どもと一緒に過ごしたいと思い、家に入りました。 それまでずっと働いていたので、新しい生活に慣れなきゃとも思いました。あのころは、子どもに合わせて時間を過ごしました。子どものピアノや剣道の練習に付き添ったり、空いた時間には自分でもお茶やお習字を習ったりしたんです。ボーイスカウトやガールスカウトの活動を通して、地域の人にも子どもを育ててもらいました。手作りのおやつも、子どもたちが家に戻ってくる時間に合わせて作りました。娘も今は親となって、手作りのおやつを作っています。長男のお嫁さんも、自分が育ててもらったように子育てをしてあげてほしいと思います。子どもたちが孫を育てているのを見ると、あのとき私にこうやってほしかったんだと気づきます。でも、私たちはこれがいいと精いっぱい考えてやったからいいと思ってますよ。 私、子育てで悩んだことはなかったんです。子どもを信じてやっていたから迷わなかった。子どもたちは、反抗期もなかったと思います。「おやじ」とか呼び方が変わる時っていつだろうと思っていたけど、とうとう気づきませんでした。そのまま通り過ぎたのかしらと思いますよ。 長男が小学校を卒業する時に、校長先生のあいさつの中でうちの子を引き合いに出しましてね。老人ホームのおじいさんの荷物を、うちの長男が持ってあげたようなんです。そうしたらお礼を下さって、ポケットに3000円も入っていたんです。息子は驚いて、「僕はもらえないから」って、老人ホームに返しに行きました。そうしたら、そのおじいさんが小学校にお礼に来たそうなんですよ。そんなふうに、人の気持ちの分かる子になってくれて良かったと思いました。その長男も、医者になって地域医療に進んで開業しました。4年目です。実は、次女が生後5カ月で事故に遭って、長い間、入院や外来通院加療を受けたんですよ。そのことが、長男、長女が医療従事者になる進路につながっていったのかも知れません。仕事に励んだ日々 主人は起業して土木建築業に入ったことで忙しくなり、子どもが寝てから帰ってくるようなことが多くなりました。だから、朝だけは子どもと一緒に食事するということを、下の子が大学に入学するまで通しました。下の子が大学に入学し家を出てから、主人が「もういいよな」と言ったんです。それまで、朝、ご飯を皆で一緒に食べるのが当たり前だとしか思ってなかったけど、主人は『一緒にご飯を食べる時間』を作っていたんですね。努力していたんです。本当は、朝起きるのもつらかったんでしょう。子どもたちも、意識していなかったと思います。主人が言わなかったら、気づかなかったでしょうね。 子育てが一段落したあと、私は川島クリニックへ勤めることになりました。ここでは17年間働きました。ここは、透析専門の病院でした。透析って、人工腎臓を使って血液をきれいにしてからまた体に戻すんです。5時間、ベッドの中で患者さんは動かないで、じっと耐えています。その患者さんたちと関わることで、生き方を学びました。5時間動かない、を繰り返すんですよ。病院では談話会や研究会などもあったので、私たちは看護と勉強会に夢中でした。患者さんがいるから、私たちは勉強させてもらえていたんです。生き方を見せてもらった、いい時期でした。川島クリニックでは、患者さんと一体になり、究極の時間を繰り返します。「遊べ、遊べ、遊べ」と「心身共にリラックスさせる時も必要」「今、できることを今やる」そんなことも学びました。仕事は一生懸命やらせてもらいました。責任の重さというより、私が今、できることを今やらなくちゃという感じで生きてきたんですね。 平成12年には、それまでの看護師の経験を生かして介護支援専門員になりました。そして、会員登録していたライフケアひたちで『介護支援センターはーとぽっぽ』を5人で立ち上げることになるんです。こちらでは8年間勤務しました。今は週に1回、長男のクリニックで手伝わせてもらっています。私は、家庭だけではなく仕事もできたのが良かったです。家族みんな、自分のことを一生懸命にやる時期、勉強する時期が重なって、それぞれを思いやりながら頑張ってやれたのが良かったのかなと思います。大切な人たち 母が80歳になった時に、敷地内に母の家を建てて同居しました。けれども、認知症が始まっていたのが受け入れられず、耐えられなくなって家を出たことがあるんです。みちのく温泉で10日ほどアルバイトしていましたが、子どもに促されて戻りました。主人に「俺が最期まで手伝うから、お前が看てやれ」と言われて、やり直すことができました。母は、子ども、孫、33人がそろった中、私の長男が看取りました。この時のことから病気の人を看る心を学べたと思っています。それがケアマネジャーの仕事を始めるきっかけとなりました。 私は、気持ちの分かる人たちばかりとお付き合いさせていただきました。中学の時の友達にも、いまだ続いている方がいます。楽しい時もつらい時も、気が付くと一緒にいてくれた人です。滅多に会わないんですよ。お互いに、思い出した時に連絡を取って、近況報告したり困ったことを話しているうちに心が軽くなってね。人に話せないようなことも打ち明けられるんです。それが60年も続いているんだから、ありがたいですよね。主人の友人も力になってくださいました。私たちが子育てに追われ必死になっている時に、「そういう時こそ息抜きが必要」と旅行に誘ってくれたり、長くお世話になりました。私が乳がんで乳房を摘った時には、後輩が「1年頑張って、また来年の誕生日に桜を見よう」と言って、毎年桜の咲く誕生日に花を贈ってくれるんです。それが23年も続いています。私はいい人たちに巡り会えて、こうして生きてこれられたのだと思います。本当に感謝しています。振り返って これ(本誌)がいい区切りになったと思います。今までは一生懸命生きてきて、大変だ、大変だと思っていましたけど、私、今までの写真を見るとみんな笑ってるんですよね。人生は後半が面白いんですよ。これからは、誰にも遠慮がないですもの。これからですよ。これから何ができるか考えていきたいですね。 私は、いいことだけを考えるようにしています。だって、考えたらそういうふうになっちゃうから。今できることを、一生懸命全力で尽くしてきました。受け止め方は、相手によってさまざまです。けなす人を避け、弱いものいじめする人には立ち向かってきました。本を読み、知識を得、知恵を授かってきたんです。働きながら学んだこと、看護師をして病人を看たこと、それらを生かして介護支援専門員になって、いろいろな人生に接してきたことが、私の力となりました。人と関わったことで、人生を明るく前向きに乗り越えてこれたと思います。白寿の祝いを、夫と共に家族全員と囲むことが今の望みかな。子どもたち、孫たちへ 知性、特性を磨き、体を鍛えること、弱い人を思いやり、いたわる優しい心を持つ人間になってほしいです。天災人災、戦争は世界のどこかで今も起きていますが、みんなが明るく当たり前の生活が送れるように願っています。 --- - Published: 2021-03-25 - Modified: 2021-03-31 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/yaeoba/ 生まれたころ 私は大正15年、新潟県の佐渡市で生まれました。島なので風が強くて、風よけの林で家を囲っていました。佐渡は、雪はそんなに積もらないんですが、寒いんですよ。弟のおしめを干しておくと翌朝には凍ってしまうんですね(笑)。 父は農業一本の人でしたねぇ。馬耕で田んぼを耕していました。地元では競馬の大会をやっていて、父はその競馬の大会で入賞したこともあるんですよ。母も畑を一日中やっていましたね。午前3時から苗取りをやって、夕方私が帰ってきても仕事をしていましたね。畑が大好きな人だったですね。両親はお盆のときしか休みが無いぐらい働いていたので、小さいころは、いつも祖母と一緒にいた記憶がありますね。 祖母は自然や神仏に対する信仰が熱心な人で、太陽が昇ったら手を合わせていて。そして、毎月お寺に行って仏様にお参りに行くんですね。 私は当時よく分からなかったけど、一緒に手を合わせてお参りしていたんです。お寺に行くとお菓子をもらえるんですよ。それが嬉しくて、しょっちゅう一緒に行っていましたね。 ふるさと佐渡は自然と歴史の宝庫で、海はまるで濃い群青色の絵の具を垂らしたような独特の色合いで美しく、山の形は緩やかなドンデン山、ゴツゴツした金北山と、左右異なるスカイラインは見とれてしまいます。古くは歴史的にも京都から皇族や、高名な思想家、芸術家が島送りで住まわれており、「万葉集」や「安寿と厨子王」の舞台にも登場しているんですよ。文化や食事も京風の香りがし、今の時代珍しいのは、ご飯が白飯でなく、番茶で炊いた「お茶粥」でした。佐渡に一度来て味わって頂きたいですね。小学校、女学校時代 小学校のときは、両親の手伝いをしながら兄弟の面倒をよく見ていました。お手伝いで稲刈りをしたり、納屋まで運んだり。あとは、稲架木(はざぎ)といって、刈り取った稲を木に干すんですけど、稲を放り投げるんですね。その時に目に入っちゃって痛いんですよね。よく覚えてますねぇ。あと、兄弟がいたのでね、子守をよくやっていました。1歳の弟を背中に背負っていたら、おしっこが背中から流れちゃって(笑)。思い出しますね。 小学校の冬の時でしたかね。大雪が積もった日の朝、父が先頭になって樏(かんじき)を履いて、子どもたちが歩けるよう県道から学校まで道を付けてくれて1時間ほど送ってくれた記憶がありますねぇ。昔気質の寡黙で優しい父でした。 女学校も佐渡にあったんですけど、家から8キロぐらいのところにあって毎日歩いてましたね。女学校に入ると、勉強や部活で忙しかったので、家の手伝いはあんまりできなくなりました。部活はバレーボールをやっていました。昔は9人制だったでしょ。その一番後ろのポジションでね。ある大会ではサーブだけで5、6点稼いだこともあって。腕っぷしが強かったんですね。教員時代 女学校卒業後、戦時中でしたので男手が足りず、1年間は家の手伝いや叔母の家の子守をしていたんです。でも、女性でも自立して生きていけるようにという母の教えもあり、姉が大阪で教員を始め、妹も看護婦の資格を取り病院勤めをしだし、私もしっかりした職に就きたくて、昭和19年の4月に教員養成所に入って免許を取得して、その年の10月に新潟県のの小学校の先生になりました。 教員時代はとにかく忙しかったですね。毎朝暗いうちに家を出て、毎晩9時ごろ帰宅するんですけど、そこから作文指導のために、謄写版で手を真っ黒にしながら深夜の2~3時ぐらいまで、ガリガリと文集を作ってましたね。それを児童に渡すと、本当に喜んでいて、私も嬉しかったですね。 終戦のときは、私は日直で学校にいました。みんな「戦争負けた」って泣いてましたね。覚えています。私も悲しかったです。まさか神国日本が負けるなんてね。それでも、もうB29が来ることもないし、電燈に布をかぶせる必要もないと思うと良かったなとも思いましたね。 一番の思い出は、昭和39年6月。新潟に大地震がありました。そのとき私は教務主任をしていました。新潟国体が終わった直後の昭和39年6月、マグニチュード7.5の大きな地震が起きたんですね。1年生の担任だったんですけど、校長先生も教頭先生も出張でいなかったので、とにかく子どもたちをグラウンドに避難させました。近くの昭和石油ではガソリン入りのタンクが壊れ火災になり、橋桁が信濃川に崩落し、地盤が緩んで水が噴き出したりして。地震のとき、子どもは怖くて泣いたりわめいてたりしたんですね。だから私は必死に抱きしめて、「大丈夫だよ」と声をかけ続けたんですね。最後に子どものお母さんが迎えに来た午後9時ごろまで、とにかく子どもを励まして守り続けました。それから歩いて帰ったので、家に着いたのが午前2時ごろだったのを覚えています。 あとは、学校の授業で登山をしたときに、1年生か2年生の子どもが足をくじいちゃったんですね。私はおんぶして登って、帰りもおんぶして下りました。とにかく子どもを守ることが一番でした。 教員時代は作文指導で全国の教員研修大会で指導者として発表をしたりし、教頭試験も合格しましたが、定年を前に退職しましたが、 仕事で一番大事にしていたことは、「子どもを愛すること」です。教員時代は息子よりも、学校の子ども優先でしたね(笑)。必ず子どもの顔を見て挨拶するんですよ。そして、子どもがどんな状態なのか、常に気を配っていました。 私は6年生の担任を3回持ったんですけどね。卒業する前に、児童に戦国武将の山中鹿之助の「我に七難八苦を与えたまえ。限りある身の力試さん。」という言葉を贈ったんですよ。これからどんなにたくさん困難がきても、決して諦めることなく立ち向かって欲しいという思いを込めて。そしたら、ある日卒業生から手紙が来たんですよ。手紙には、「あのとき先生が贈ってくれた言葉をずっと覚えていて、いろいろな困難をこの言葉を思い出して切り抜けてきました」って書いてあって。今でも年賀状を送ってくれるんですけど、もう、嬉しくてね。ご主人とのなれそめ 人とは勤務先の小学校の校長先生の紹介で、29歳の時に出会いました。私より6歳年上で、新潟の中央部にある白根市(現在は100万都市となる新潟市に編入)の臼井で生まれた農家の三男坊でね。お見合い結婚でしたが、映画俳優のような素敵な人でした。新婚旅行は鬼怒川に行ったのを覚えていますね。 まじめ一本の性格で、戦争当時中国で負傷し帰国後、不動産会社を創業し、田中角栄元首相の関係で県内各地で団地開発をし、スケートセンターや美術館、食堂などを手広く経営してました。戦争で負傷しなければ主人の部隊は全滅していたそうで、まさに九死に一生を得て、結婚し息子が生まれたという奇跡に感謝したいです。 私が教師の仕事やら塾やらで忙しかったのに、文句ひとつ言わずに、穏やかで本当に理解のある主人でした。菊作りが大好きで、苗から育てていましたよ。 十二指腸潰瘍をやったときに、輸血をしたんですけど、そのときにC型肝炎に感染してしまったんですね。今なら予防体制もあって感染を防げたんでしょうがそれが残念でなりません。息子のこと 息子が生まれたとき、母親が佐渡から来てくれたんです。私の両親はほんとに節約家でね。佐渡から来てくれたときも、途中でもらったお菓子を自分で食べないで孫のためにとっておいてくれたんですよ。本当に質素な生活をしていました。 私も主人も忙しかったものですから、次の子どもを産むことができず、それどころか日々の仕事に追われて、子どもには全く手をかけられなかったです。だから、息子はいわゆる「鍵っ子」でした。保育園、小学校低学年の頃は近くの叔母さんの家に預かってもらってました。寂しかったんだと思います。息子は小さい頃から、何か文章を書いたりするのが好きで、小学6年生の時、「ぼくきょうだいがほしい」という本を出版し、国会図書館にも寄贈しました。中高生時代から息子は合唱やギターに夢中になり心配しましたが、慶應大学に入学したときは嬉しかったですね。日吉での入学式も主人と行きましたよ。 息子の入学祝いに、亡き母がお金をくれたんですね。母は着物を着ていたんですけど、着物の帯に30万円を入れて、わざわざ佐渡から船で来てくれて、何かとお金がかかるだろうからって。当時の30万円はすごい金額ですよ。私は嬉しくて本当に涙しましたねぇ。 息子を叱ったことはほとんどありません。生徒や子どもにもそうですが、あまり人を叱らなかったですね。人を信じる気持ちが大切だと思っています。 息子が大学4年の時、地元で公務員にと言いましたが東京で就職すると言うので、それなら東京で家族全員で暮らそうということで、主人と新潟から東京に移り住んできたのですが、東京で暮らすことの不安もなかったです。息子の近くにいたいという思いが一番だったのでね。 息子が結婚し孫が生まれ、息子夫婦と孫と暮らしていた頃が一番幸せでしたね。息子夫婦の離婚で今は孫に会えないのは辛いことですが、血がつながっている孫が元気で生きていると思うことが生きる支えになっています。 家族の思い出は、温泉に主人と息子と3人で行ったことが一番の思い出です。20年前ですか、ゴールデンウィークに家族水入らずで行きました。あまり家族で出かけることが無かったので、嬉しかったですね。 それから、数年前に息子夫婦と孫と行った香港・マカオの海外旅行が一生の思い出です。主人が83歳で亡くなる前に、「一度だけでも海外旅行に一緒に行きたかったね」という夢を、主人とは果たせませんでしたが、写真だけ連れて行ってあげたので、心は果たせた思いです。趣味 上京後、公文教育研究会で指導者となり、渋谷で教室を開設していましたが、成田に引越し後は自宅で「大場国語塾」をやっています。お金は頂いていないので趣味というか生き甲斐だけで教えています。 漢字が大好きで、今でも「みんなの漢字」で漢字を勉強しています。漢字博士の称号も持っているんですよ。書のきっかけは兄です。兄が書道家で、兄は小さいときから字を書くのが大好きだったんですね。私も兄と一緒に字を書いていたのがきっかけですね。 俳句や短歌を書くのも大好きで、私の生きがいです。今までもたくさんの賞をもらったんですが、このトロフィーは私の宝物です。「母の名の かすかに残る 二尺ざし 角まるくなり 光る飴色」 今は毎朝3時に起き、5時からの勉強会に出たり、地域の小学校や集会所で無料の習字教室をやったりもしています。この間も近所の子どもに会って、早く習字しようよって言われたんですね。 サスペンスを見たり、漢字パズルのナンクロや韓流ドラマにもはまっています。深夜ラジオで思い出の歌を聴くのも大好きですね。座右の銘 「終始一貫」が座右の銘です。始めたことは、まじめに最後までやり通すことがとにかく大事だと思っています。その中で人との関わりを大事にしたいですね。周りの人に支えてもらって今の私があり、周りの人に私は生かされています。だから、とにかくそのつながりを大事にしたい。 「絆」と「和」という言葉も大好きです。人に思いやりを持って接すると、人に与えた喜びが私にも返ってくるんですね。私が今、集会所や学校で先生をしながら関わっている、全ての人たちとの絆、和を大事にしたいと思っています。 尊敬する人物は、ヘレンケラーに二宮金次郎、福沢諭吉も好きです。社会のために、誠を尽くしている人物がやっぱり好きですね。そういう意味では、主人は不動産稼業を隠居後は、温暖な藤沢で菊作りに精を出し、駅やお寺、学校に毎年秋には菊をプレゼントして、「菊の花を見て、通る人や、子供たちが、綺麗ですねと喜んでくれればそれでいい」と人の喜びの為に1円にもならないのに、1年中菊と過ごしていました。そういう意味では、何と言っても主人が身近で尊敬できる人でした。主人の墓は藤沢の辻堂にあり、墓碑には、主人の名前の一文字をとって「和」と私が毛筆で書いた文字を刻んでもらいました。ご家族に伝えたいこと 心配なことはないです。息子も孫も健康でいてくれたらそれでいいです。息子は11月3日で59歳になります。私とは丁度30歳違うので。 息子は、富士通などで会社勤めをした後、主人の跡を継いで不動産会社を経営する傍ら、学生時代にコーラスグループでレコード会社からデビューしていたことがあり、今も音楽プロデューサーとしてミュージカル作りに取り組み、原作小説を書いてます。2011年の東北大震災の後、息子は毎年3月に復興支援ミュージカルをやっており、実際見に行きましたが、息子が人生をかけて取り組んでいる姿に親ながら感動しました。来年はニューヨークで行う予定だと。 ある意味、私や兄も書道、俳句などに取り憑かれているように、芸術とか文化系の血を受け継いでいるのでしょう。将来どんな人生を送るのか息子や孫の成長が楽しみです。 子どもたちには、芸術や文化を通し社会に貢献すること、自分のやりたい仕事に信念をもって生きてくれたら私は満足です。 なお、今回出版の話も、息子から、「大学の後輩が親子の雑誌の企画をしているのをテレビで見て知ったので一度取材を受けたら」という勧めで応募したのですが、慶應のご縁で実現したもので、親思いの息子に感謝しています。 --- - Published: 2021-03-24 - Modified: 2021-03-26 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/fuminobukomata/ 生い立ち 生まれは昭和21年。雪深い、新潟県中頸城郡中郷村の出身です。現在の上越市中郷区。隣が妙高市の山の村です。自宅で産婆さんに取り上げられたけど、2月か3月に生まれて体が小さくてかわいそうだということで、暖かくなった4月に出生届を出したんです。だから本当の誕生日は違うんですよ。 そのころ、雪は4、5メートル降るのは当たり前で、朝2階の部屋から外を見ると、目の前を人が歩いている。電線をまたいで歩いて行くの。子どもの仕事は、朝外に出るときに、家の1階の玄関の前から道路までの階段を作ること。具合悪くしても近くに病院はないから、体が丈夫になったね。 父は、昔は学校で美術の教師をしていたけど、体を壊して、日本ソーダという会社に移って、技士をしていました。そのときに、母と見合いしたんです。父の出身は、下越。自宅から工場に通えないので下宿していて、下宿先にいたのが母。父は温厚で、怒られたことがない。「ああせい、こうせい」と言うのではなく、のびのびと育ててくれて優しかった。それでいて、合理的。おふくろがイヤだと言っていたのは2回衆議院選挙に出たことですね。選挙に金がかかるからね。組合の役員で、会社をレッドパージになったです。その後は、その当時の質流れ品や米軍放出物資を仕入れて売っていました。村で2番目に電話と車を入れましたよ。おふくろにも仕事を手伝わせていて忙しいから、朝の連続ドラマの、「ととねえちゃん」に出ていた洗濯機を買ったりもしました。 母は、農家の7人きょうだいの長女でした。とても美人です。なんでも父の言うことを「はいはい」と言って聞いていました。おふくろなんて、おやじよりもっと優しいけど、もっと厳しい。女親だからね。なにかすると、すぐに「ダメ」と。子どものころに妹とけんかをして、2人でヤギの小屋に閉じ込められたことがある。臭いし今みたいにまわりに電気なんてないから暗いしね。泣いても叫んでも出してくれない。お向かいに住んでいたおばさんが助けてくれて、出してもらえた。それで母を怖いと思うようになりました。 きょうだいは、妹と弟がおります。妹は学年が1年違い、弟は6つ違う。おふくろの実家は農家で、おふくろはいつも手伝いに行っていたから、一緒に行って、いとこと合わせて9人で遊んでた。年がみんな近かった。遊びに行くのは、村の中。夏は川に行くの。きれいな水でね。子どもたちが遊べるように、大人たちが川をせき止めてくれていた。岩から飛び込んだり、ヤスデで川の中で魚を捕ったり、サワガニを採ったりして、楽しかった。大自然は無限の倉庫。行き帰りには、山ぶどう、栗、あけび。蜂の巣があったから蜂の子も食べてたね。冬はスキー。うちのすぐ裏がなだらかな段々畑で、子どものスキー場だった。子どもは歩けるようになると、すぐスキーをしましたよ。でないと、移動できないからね。でもスキーは、ずっと苦手だった。でも商工会のスキー同好会に行ったとき、ほかの人の方が下手だなと思ったね。東京への引っ越し 小学校は中郷小学校。成績は優秀でしたよ。運動はからっきしダメだと思ってた。入学したとき、背は前から2番目。幼なじみと「ちび3トリオ」と言われていて、次の学年では誰が前になるかと競ってた。3年生まではしょっちゅう風邪をひいたり、体が弱かったんだけど、4年から学校休まなくなった。それは、おふくろのおかげ。一升瓶のまむし酒を、杯いっぱい飲まされて、4年生から6年生までは皆勤賞。かけっこも、4年から6年まで一等。成績は1年から6年まで筆頭。本が好きだったから図書室の本を片っ端から読んでいましたね。図書室があるから、学校に行くのがうれしかった。読むのは伝記もの。本を読むと字を覚えるし、分からなければ辞書を引けば分かるからね。 中学3年のときに転校しました。おやじが、仕入れで東京に出ると片道7時間かかって大変だからということで東京に移ってきたけど住まいが狭かった。2畳と4畳半に、台所とトイレ。東京の知り合いに予算を伝えて家を探してもらったけど、予算が足りなくてね。4畳半に、おやじとおふくろ、妹。2畳に僕と弟。机とミシン、畳の残り1畳で寝てた。玄関開けたら、すぐに僕が寝てる(笑)。隣の人が引っ越してから、壁を壊してつなげました。 東京の子は勉強ができると先生に言われていたけど、教科書を開いたら簡単だった。英語なんて、1週間で教科書の内容が終わった。中3のときに、アチーブメントテストを初めて受けたの。易しいテストだったんで、とにかく全部に答えを書いたんだよ。工業、商業、農業の中で一つ選択だったのだけど、時間があったから、三つやっちゃった。そしたら、テストが帰ってきたら740点くらいだった。840点くらいは取れたはずだからおかしいなと思って先生に聞いてみたら、職業科目が0点だった。一つ選択というのに全部書いたから。受験のときにこうしちゃいかんってことでね。でも、職業科目の農業なんて、都会の子は全然分からないのに、僕は100点取ってた。結果として、学年で2番。1番のやつは810点だった。ほんとは840点で僕が一番だった。数学は1学期のうちに先に全部やっちゃった。なので、遊んじゃうよね。陸上部は入学試験の直前までやってましたよ。演劇に打ち込んだ青春時代 高校は、忍ケ岡高校。「学区一番の上野高校に行く力はあるけど、君には合わないよ。いい学校紹介してやるよ」と先生に言われて入った。6クラス中2クラスが女子クラス、4クラスが共学。人を蹴落とすこと、もまれることがない。先生のこの言葉が、今後の人生を決める第1歩、大きな転換となった。親も「先生が言うならいいんじゃない」と言ってましたよ。先生には、とても感謝してる。先生に、「榊原先生がいる。その先生を訪ねるように」と言われた。榊原政常先生は、高校演劇の権威。学校は高校演劇が盛んで、東京大会優勝の常連。学校に入ったら、榊原先生は、ほかの高校に校長として転勤していたけど、演劇指導で来てたりとかしてた。演劇で、発声練習でなまりを治しましたよ。初めは裏方、そのうち舞台に出て、卒業時には脚本を書いてた。高校ではずっと演劇やってて、勉強してなかったですね。 大学は早稲田を受けました。吉永小百合さんがいたから。小百合さん文学部ですけど、僕は政経。でも、落ちました。そこで世の中甘くないことを学んで、早稲田予備校に入った。予備校に通いながら「DEMON」という同人誌を作りました。次の年にも受験しましたが、また落ちた。本番に弱いですね。さすがに2浪はまずいと思い、2次募集している成城と成蹊を受けた。ほかのやつは、上智、早稲田、学習院などに受かってましたね。そのうちの1人が持っていた「蛍雪時代」という受験雑誌を見て、成蹊の政経学部を受けようとしたら、「終わってる」と言われ、確認してみたら雑誌が去年のだったの。文学部で2次試験があるというから受けてみました。問題は3問だけで論文だった。これはもうダメだと思い込んで、上越市直江津に行ってたら、おふくろから「成蹊に合格したから手続きするよ」と連絡があった。2次募集は5人しか受かってなかった。どうやら早慶レベルだったらしいね。この時期に同人誌を一緒にやっていた友人の鈴木賢太郎が一つの分岐点。その大学の後輩が、私のかみさん。結婚 かみさんと知り合ったのは、同窓会。同窓会の役員で、役員会終わったあとにみんなで飲みに行って、かみさんの前に座った。みんなが飲んでる中で、私は古事記を読んでたの。なんだか変わった人だと思ったのが、かみさんの第一印象。かみさんは研究室の助手。かみさんは、私が言うことにけらけら笑ってくれるし気が楽。人の話を聞いてくれる人で、この人おもしろいなと思って、お付き合いを始めた。その決断は間違ってなかったね。結婚してから苦労させちゃったけどね。商売が下り坂になって。いいときは従業員が7人くらいいたけど、1人また1人と辞めてもらって、続けるのが非常に苦しくなりました。その間やり繰りをしてくれた。仕入れにお金がいるからね。かみさんのお母さんに頭下げて金借りたこともあるよ。かみさんは嫌がってたけどね。結婚してすぐに上の子が生まれて、北越谷で6畳と4畳半のアパートを借りて、そこからスタートです。商売はね、服を扱っていた。今は中古ブランドバッグとジュエリー、時計が主。扱うものを変えたのではなく増やしたんです。おやじが60年に引退して、一切合切をお前に任せるということでね。 かみさんは、亡くなる3年前に脳出血になったんです。リハビリしたけど、最後は僕がみとれて良かった。そこのソファで、朝のドラマを2人で見てたら「頭が痛い」って。しばらく休んでも「頭が痛い」と言うから救急車で病院に行ったんですよ。2度目の幸せ この街に来てから、劇団「はぐるま」に入った。劇団の人が衣装を探しに、たまたまうちの店に来た。でもお金がないからということで、お金の心配はしなくていいと言って、衣装を提供して、後援しました。常設テントでお芝居みたいなことをしていましたよ。いろんな付き合いでつながって、それから私も入ったの。100人芝居の講演のときに、文化会館で後ろまで声が届くからということで、セリフももらった。そこで現在の妻と出会いました。劇団のお客だったの。かみさんは踊りの師匠で、もともと顔見知り。商工会議所のスキー旅行で、遅くに行って、彼女の隣の席しかすいてなくて、確認して座らせてもらった。「マルコさん、夕飯は?」と聞かれて、まだと言ったら「おなかがすいていたらどうぞ」って。梅干しとシャケのおにぎりだった。その後、彼女に「やりたいことがあるんだけど手伝ってくれない?」と言われて。それが平成2年からやっていて、今年26回目の、サンスマイルの発表会。 9年前に前のかみさんが亡くなって、「この年になると心配なんだよね。施設に入って誰かにおしめを取り換えてもらうなら、家で取り換えてほしい」と言ったら、「私がするよ」と言ってくれてね。母の介護 おふくろがアルツハイマーになるとはね。品川で実家に独りで住んでたんだけど、妹の子たちが下宿したりとかで入れ替わり立ち代わりで入ってた。それが、ある日「ばあちゃん帰ってこないんだけど」って電話が入って。あまりに帰ってこないので、みんなで集まって探してたら2日たってヒョコッと帰ってきた。「新潟に行こうと思ったんだけど、どこ通ったか分からない」って。そこから徘徊が始まってね。ある日交通事故にあって、そこから施設に入りました。それまでは、ヘルパーさんには1年ほど来ていただいた。自宅で介護できるように非常に優れたスタッフでチームを組んで面倒をみました。介護スタッフの派遣さんと保健所、区役所担当者と私とヘルパーさん。だけど、「財布がない」と言ったり、商品の入った買い物かごが3つも4つもうちにあったりして、これはもうダメだと思った。チームを組んで介護をしているということが斬新ということで、東京都からビデオを撮らせてくれって依頼があってOKしましたよ。アルツハイマーの人は役者ではできないから、24時間張り付いて、おふくろと私の行動を撮ってた。そこで、金がなくなる理由が分かったの。神社に行って、お財布の中身を全部入れちゃう。そのビデオのおかげで品川区の特養に入れてもらえました。私じゃないとダメだったね。嫁だと分からない。私のことも分からないだろうけど、なんか安心できる人と思うようでね。議員活動 平成8年に補欠選挙に出ました。商業協同組合専務のときです。家を買ったばかりでローンがあるし金がないと言ったけど、みんなで200万円集めてくれた。当選しましたよ。平成9年にヨーロッパの福祉施設を巡る研修があってテレビ朝日が、議員の海外研修について批判的な番組を作っていて、研修中ずっとついて来てたんです。その研修は行程がものすごくきつくって講習受けて、レポートも書く。資料は全部フランス語。大学のときにフランス語やっていて、わかるけど、でもきつい。「どうして自分の金で来ないんですか」と聞かれてね。ほかのベテラン議員は慣れていて、サラッと対応していたんだろうけど、私は「くっついてまわるんじゃない。自分の金なら、こんなきついの来ない」って言ったら「自分の金なら来ない」ってテレビで放送された。顔も名前も出てしまって翌年の選挙に落ちた。 この研修のレポート30枚を、自分の選挙のときに応援してくれた人にコピーして配ってあやまりましたよ。分かってくれる人たちがいて、それで平成14年に再選。世の中を恨んだけど、全部自分のしたことが巡り巡ってくるんだよね。選挙に落ちたときに、地域振興券を作るという話が出て、市長に「小俣、お前やれ」と言われた。商業協同組合のときに共通商品券の立ち上げをしていたからね。「日本で一番早く作れよ」って。市民15万人もいて大変だった。凸版印刷に電話して「いつまでに持っていくから」とローラー空けてもらって。銀行と折衝して、券を使える店をリストアップして、説明会をして。もう盆暮れなかったよ。発行したのは2月半ば。2月1日に島根県の人口1万何千万の町が全国一番で発行した。市として、東日本としては私たちが一番。商工会議所の山本さんが良い働きをしてくれました。 いろいろあるけど、満足ですね。庁舎を建て直したとき、前の庁舎のあった商店街に人がいなくなって、さびしくなって。市長に「フリマがはやっているからやれ」と言われ100回やりました。実行委員長だったので、各地区から「フリマのやり方教えて」って来ましたね。フリマの草分けです。フリマは続かないから、市長に「箱物行政はいけないと言われているけど、ここに建物を」と言ったら「考えろよ。5階までラフで設計図をつけて」って言われました。全国のそういう施設を、議員じゃないから、自分の金で見に行きました。建物の方は、検討委員会を作って。それで作ったのが「欅のホール」。家族と趣味と 特にないけど「はたち過ぎたら、君たちの責任は取らない。自分でできることは自分で責任を取れ」って言ってる。それがポリシー。子どもには仲良くやってほしい。孫がほしいとは思わない。いたらうれしいけど。仲良くすることが幸せの近道。どんなに金があっても仲が悪ければ、幸せではない。 趣味は釣り。毎月必ず行きます。海は銚子から鹿島沖。外房だと海が荒いから、魚が大きい。野田市釣会連合会の会長をやってます。あと、「酒塾」。いろんな酒を持ち寄って、目隠しをして当てるの。ただ飲むだけじゃおもしろくないからね。器によって味も変わるから盃もたくさんあるよ。息子には「毎週1回は休肝日を作りなさいよ」って言われてる。息子もそう言いながら、一緒に酒の会に行くけどね。 DVDの鬼平犯科帳全巻見なくちゃならないの。あと、釣りの本も。映画はかみさんが好きで、月に1回2人で見に行く。役者の友人も多くて観に行くから、金かかる。でも、死んでいくのに財産残してもしょうがないじゃん。自分で使おうって思ってる。子どもはちゃんと自分で稼いでいるし、かみさんもお弟子さんがいてちゃんと働いているしね。 --- - Published: 2021-03-09 - Modified: 2021-04-09 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/shirouumekita/ 生い立ち 昭和4年に生まれました。男4人、女4人、8人きょうだいの4番目です。生まれた梅北家は代々続いた旧家で、250年前の墓もあります。墓は6基あったんですが、3年ほど前に私が1つにまとめました。今は墓石だけ残して、その上に「祖先の墓」と銘を打ちました。古い史料などを見ると高山に肝付公というのがいて、その子ども1人1人に違った名前を付けています。その1人が梅北です。金谷とか梅北とかいろいろあったみたいです。肝付公は各集落に梅北を1軒ずつ残しました。肝付公は島津支配以前にこの辺りを治めていたのですが、島津にやられて山越えして逃げたようです。 家業は代々焼酎を作っていました。おやじは明治11年か12年生まれで、仕事が好きな人でした。もともと獣医師で、それ以外にも焼酎を作ったりいろんなことをしていました。昔は電気がないので水車を回してものを作ったり、帆掛け船でここから釜山まで行ったりもしていたようです。通訳もしていたみたいですが、2~3年で辞めたようです。おやじは養子だったんです。養子をもらったらその家はつぶれると言われていましたので、養子が来て家が大きくなったというのはちょっと珍しいですよね。 隣家は高利貸だったんですけど、おやじが買い取って土地を増やしていきました。高利貸から借金を買い取って人助けもしてきましたね。厳しい人だったけど、私には自由にさせてくれました。 母は明治29年生まれで、梅北の家の跡取り娘です。母のお母さん、私の祖母が教育熱心で母も昔の高等科まで出ています。ここから高等科がある鹿屋まで7キロの道を歩いて通っていました。当時は今のようにちゃんとした道はなく、木が茂って暗いところもあったようです。優しい母でした。親の代は焼酎でも結構儲かったみたいです。私も大学に行かせてもらったりとぜいたくさせてもらいました。 私は小さいころ、おとなしくて体の大きい子どもでした。当時は相撲が盛んだったので、相撲を取ったりしていましたね。 昭和12年、支那事変が始まったとき小学校2年生でした。靴を履くとぜいたくだということで、藁草履にお尻が破けたズボンをはくのが普通だった時代です。小学校5年、尋常高等小学校のときに海洋少年団というのができて、ボートが2艇ほどありましたね。学校で手旗信号の訓練もしました。船と船とで手旗信号を出して走っていくんです。旧制・鹿屋中学へ 旧制中学校1年の12月8日に、アメリカとの大戦が始まりました。鹿屋中学、今の県立鹿屋高校です。中学校の帽子も戦闘帽に変わりました。中学1年のときは国語とか数学とか昔の本だったんですが、2年になると数学Ⅰ・Ⅱとかになって、薄っぺらい本になりました。時代が変わりましたね。2年のときは兵隊の留守家族の家の農作業にちょくちょく行かされました。田んぼにはヒルが多くて嫌でしたね。 遊ぶことは好きでしたが、勉強は嫌いでしたね(笑)。中学校では柔道部に入っていました。練習でうさぎ跳びをやりすぎて、足が痛くて学校の2階から手すりをつたって降りたりしました。 3年のころ、当時三八式歩兵銃という鉄砲があって、それは今の自衛隊の鉄砲よりわずかに重く、弾は5発しか入らないのですが、それを使って実弾で訓練していました。私は体が大きいもので、傘型編隊の一番前で機関銃を使ってました。やられるときは一番先です。日本の飛行機がやられんように、航空隊の掩体壕も作りました。 中学校4年になると、学徒動員に行くんですよ。私は鹿屋航空隊でした。海軍航空隊です。空襲のないときは外で仕事して、空襲になると防空壕に入って英単語の勉強をしました。戦争、そして終戦 戦争中の思い出は、爆弾でやられた航空隊の屋根をトラックに積んで片づけたりしたことです。あれは終戦の前、6月でした。自転車で航空隊の中を走りましたが、爆弾がいっぱい転がっていて走るところがなかったです。当時ここの航空隊で通門権をもらっていたのですが、おそらく民間では私を含め2人くらいしかいなかったです。 戦争中は政治については何も考えなかったですね。日本が勝つとも思ってなかったし。今の鹿屋の航空隊の会議室で、あのハワイ真珠湾攻撃の案を練ったと聞いています。桜島をハワイに見立てて訓練したらしいです。その会議室は今もそのままあります。私はその会議室にしょっちゅう行ってはコーヒーを飲んでいました。私は戦時中もあまり不自由はしませんでしたね。地元の鹿屋航空隊にいたから。うちは農業していたから、米もありました。 中学校4年生のときに終戦です。終戦は航空隊で迎えました。みんな涙を流していました。私は訳がわからんかったですね。終戦になって、航空隊からスコップを1本もらってきました。戦争が終わった日に家に帰ってきましたよ。そして、みんなまた学校に復帰しました。1級先輩の人たちも一緒に勉強しました。予科練から帰ってきた人が多かったですね。あと1カ月早かったら特攻隊に行ってた、という連中もいました。大学進学 中学を出て、何かせないかんということで、取りあえず東京に行きさえすればどうにかなると、東京の大学に行きました。商売をしていたので日本大学経済学部に入りました。うちの兄から「戦争に負けて奴隷になっても、奴隷の中でも上と下があるから大学までは行け」と言われていたんです。勉強は好きな方ではなかったのですが。あのころもうちょっと勉強しとったら、もっとどうにかなってたかもしれません。東京には長いキセルを1本持っていきました。当時は中学を出て大学進学する人は1割もいなかったです。 初めて東京に出たとき、東大の前に島津公が建てた学生寮というかアパートがあるんですが、そこに泊まりました。その夜、疲れていたのかもしれませんが、足の先から幽霊が入ってきて、スーッと抜けるのを感じました。1人で寝てて気持ち悪かったのを覚えています。今はその寮は日野市にあります。東京まで、汽車で2泊3日かかりました。ずっと座席に腰かけていましたね。鼻なんか真っ黒になりましたよ。大学での部活は空手部でした。 中学校の4年に終戦になって5年までいて、それから日大の予科に行って。予科の3年になるときに新制大学ができて、2年に編入しました。だから大学には5年いたことになります。 東京は人口が多いだけに商売しても面白いですね。たまたま名古屋の繊維会社の息子が友達だったので、ズボンを作らせて儲けたこともありました。故郷で結婚、商売の道へ 私は東京に住みたいと思っていたんですが、おやじが帰ってこいというので戻って跡を継ぎました。昭和30 年、26歳のときです。帰ってきたらすぐ、おやじが私の膝の上に金と帳面をパッと投げて「明日からやってくれ」と言いました。私もそこまで言われるのなら「やりましょう」ということになりました。跡を継ぐのが私しかいなかったんです。兄は名古屋大学を出て医者になりました。うちの長男が結核で亡くなったので、結核専門医になったんです。 そのころ、家は焼酎を作っていました。焼酎はすべて手作業です。麹を発酵させたりして難儀しましたよ。少人数でこぢんまりとしていました。税務署が1週間に一度検定に来て、そのやり取りなんかも忙しいんです。 でも焼酎だけやっていては飯が食えないから、昭和32年の結婚と同時に澱粉製造を手がけることにしました。これは儲けさせてもらいました。 結婚と同時に始めたので、うちの家内はきっと「結婚てこんなものか」と感じたと思います。家内とはお見合いです。私の同級生の友達の妹でした。私と5つ違うんです。結婚式はこの家の座敷で。新婚旅行は1週間、九州を巡りました。大分に行って別府に行って、ぐるっと回って帰ってきました。結婚後も仕事を始めたばかりなので忙しくて、3年ほど会ってなかったですね。夜は2時ころまで、朝は6時には起きて出て行く。会う暇がありませんでした。新婚らしさは1つもなかったです。 澱粉工場は350万円ほどかかりました。生コンとかも全然なかったので、自分で砂利を持ってきてコンクリートを作って。モーターも、直径と円周率で計算して回転数を自分で決めました。6畳くらいの広さのところに手でコンクリートを打つんですから、それは大変でした。今のサツマイモの50キロ入りを2000~3000俵使ってました。澱粉工場は従業員を25人ほど雇っていました。 販路は問屋です。鹿屋に問屋がいて、船に積んで大阪まで持っていくんです。船の一番上のナマ澱粉はうちのものと決まっていました。うちのが白くて一番品質がいいからです。船が何時何分に出るからそれまでに持っていかないといけない。最後に持っていかないかんのです。私も何回か車に乗せて走りました。昔の車は、荷物をたくさん載せるとブレーキがきかなくて大変でしたよ。 昭和42年か43年に砂糖が自由化されて澱粉の需要がなくなったので、44年に辞めました。澱粉は砂糖の代用品でしたから。それから茶工場やタクシー会社をやりました。タクシーは5年で辞めましたが、茶は今では人に貸しています。4ヘクタールあります。工場は去年取り壊してきれいな畑にして、また茶を植えました。取り壊すのに850万円かかりましたね。タクシー会社を作るのも、福岡の陸運局にいかな免許をもらえんのです。私はそんなときでも政治家の助けは一切借りませんでした。なんでも自分でしましたね。小鹿酒造協業組合設立 昭和46年に小鹿酒造協業組合を作り、他のものは全部辞めました。小鹿の落成式には、自衛隊の司令が副官を連れてきてお祝いの言葉を制服姿で述べてくれました。これは珍しいことなんです。私は自衛隊のパスポートをもらっています。 小鹿は200万円ずつ出資して4人で800万円でしたから、苦労しました。初年度設備に1億2000~3000万円かかったんです。売掛金は3カ月で3000万円でした。それを計算してなかったので大変でした。最初の2、3年は苦労しましたが、その後は順調です。毎年1億円ずつ設備投資もしました。設備には25億円かけてるんです。帳簿価格でも22億です。今の焼酎の在庫は3億円からあります。売掛金も3億円。今の小鹿は55名いますが、平成15年に全部コンピューターにしました。今は機械なので重いものは一切持たないです。 小鹿ができたとき、県内の卸販売は南鹿児島で1本ということに絞りました。それはよい判断だったと思います。そのとき、小鹿の三原則というのを作りました。工場内は整理整頓がやかましくて、ホースなんかもきれいに巻いてキチッとそろえなくてはいけません。これを怠ると事故を起こすんです。工場内の作業は原則2人でしなければなりません。 小鹿を作ったのは、小さな会社を合併させようという税務署の方針でした。すべての支払いは月末締めの10日払いで、48年間1回も狂ったことはありません。だから信用があるんですね。行動で示さなくては信用されませんよね。 とはいうものの、経営はずっと大変ですね。最近は酒造業界は良くないんです。県全体で毎年10%ずつ売り上げが落ちてます。先はあまり明るくないですね。最近は若者があまり酒を飲まないし、大きな宴会も少なくなりましたしね。 私は酒は全然飲めません。酒造組合の理事長していたので宴会は毎晩あるんですが。猪口で対応していました。でも少しずつ飲んでも数があるので結構酔います。おやじもあまり飲めませんでした。昔は酒の場に、なんこ棒というのがあって、その棒を後ろ手に隠し当てっこをする酒の席の遊びがあったんです。そこら中でしよったですね。それに負けたら飲まないかんのです。付き合いもありますし、商売だからしょうがないです。今でも、なんこはロータリーでやっています。ロータリーは今年6月に辞めて特別会員になりました。特別会員はロータリーでは初めてのことです。 70歳を機に、いろんな役職を辞めました。組合の理事長とか県の酒造組合連合会の理事とか。辞める時機を失うと、企業というのはつぶれてしまいますからね。教育方針は「自由に」 子どもはみんな焼酎と関係ないとこに行ってしまいました。子どもたちには「人生は短いから自分の好きなことをやれ」と言ってあります。長く生きても100年です。自分の好きなことできるのは50年くらいしかないんですから。 長女は犬猫が好きだから獣医師になりました。天真爛漫でまっすぐな子です。姉が良かったから、下の子も切磋琢磨して勉強したのかもしれません。みんな長女の言うことをよく聞くんです。 次女は公認会計士になりました。合格率の低い難しい試験ですが、通信講座で全部自分で勉強していたようです。 3番目、ひとり息子は宇宙の勉強をしたいと言っていましたが、どうやって飯を食べるんだと言っていたら、高校3年になって医者を目指すようになりました。一般的な医者にはならず、病理学者になりました。現在では医学部病理の教授で、癌の研究などをしています。長男はなんでも全部自分でしましたね。彼女も自分で見つけて連れてきました。何の問題もない子でした。おとなしくかったので手を焼いたということもありません。 子どもはみんな「自由に」という教育方針で育てました。でも全部の子の入試にも付いていくし、卒業式、入学式もみんな行きました。子どもは、仕事のあとにみんな私が風呂に入れていました。サラリーマンではないからできたことかもしれません。 子どもたちはみんな家の廊下で勉強していました。私はその横の部屋でテレビを見ていました。騒音に慣れていますから、子供たちはどこででも勉強できたらしいです。PTAの活動は長女が小学校1年に入ってから、3番目の息子が小学校卒業するまで9年間会長をしました家族について 私が88歳のときには、結婚60周年ということで、3人で話し合って私ら夫婦を別府まで招待してくれました。別府は新婚旅行に行った思い出の地です。元の家族5人だけで同じ部屋に泊まったんです。3人で金を出し合ってくれたんですよ。 妻は62年間ずっと一緒にいます。彼女は毎日お花とか琴とかの習い事に行ってます。認知症にならんように、お互いに自分で好きなことしています。妻は子育てと焼酎の小売り販売の方もやっておりました。一昨年がダイヤモンド婚でした。 孫たちにも好きなことをしろと言ってあります。小鹿に入れとは言えんですね。孫は9人のうち4人が医学部に入りました。人生を振り返って 今、趣味はあまりありません。ゴルフもしなくなったし。謡もしてましたが、一緒にやってた人が亡くなってからあまりしなくなりました。 座右の銘は、「他人に泣かされても他人を泣かせない」。これはおやじの口癖でした。わが家の家訓です。だから従業員も大事にしたいと思っています。 特にこれといったことはない、平凡な人生だと思っています。私は運が良かったと思います。いつもいろんな人から助けてもらって、澱粉を始めるときも、全くの他人が保証人になってくれたし。当時2000万円といえば大金でした。鹿屋の支店長レベルですと20万円の決済がやっとの時代でしたから。 3人の子どもを自立できるようにしたのが、一番の自慢ですね。 --- - Published: 2021-03-09 - Modified: 2021-04-09 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/mihokofujita/ 生い立ち 昭和4年に荻窪で生まれました。兄3人と姉1人がいて、私は末っ子です。母の袖をいつも持っているような子どもで、姉にもベッタリしがみついておりました。姉とは3つ違いで、姉は静岡で生まれましたので、富士子といいます。私は父の故郷、島根の美保から取って、美保子です。一番上の兄とは11歳離れています。次兄とは8つ、その下の兄さんとは5つ違うくらいかしら。兄と姉は大正生まれで、私が唯一の昭和生まれです。 父は、島根県浜田市にある月光院というお寺の三男でした。長男が継いだのですが早くに亡くなり、その息子は医者になってしまったので、寺は譲りました。次男の晃道おじさんはハワイに渡って、浄土真宗の総長となりました。戦争中はアメリカに連れていかれたので、大変だったそうです。その息子の晃明さんが2代目となり、親子共に総長を務めました。聞くところによると、父の方が次男のおじよりも頭が良かったので、学者の家である横山家に養子に行ったのだそうです。父の旧姓は藤谷でした。 厳しい父でしたが、私は末っ子なものですからかわいがられました。マントに私と姉をくるんだりして、遊んでくれました。女の子には優しかったんでしょうかね。姉は甘ったれで、怒られたときも「お父さまぁ」とすり寄るタイプで、私はすねてしまうタイプでした。父のことで覚えているのは、新潟時代に、家に5段の引き出しがあって50銭を見つけたんです。それで私は毬を買って、父の目の前でついていたんですよ。そうしたら、「そんなことすると感化院に入れるよ」と怒られましてね。布団の中で泣きました。怖くて、それ以降はやらなくなりましたね。父は新潟では助役をやっていました。 新潟の前は、千葉にいました。新潟では、信濃川の花火を家の2階で家族そろって見ていたときに泥棒に入られて、お金を取られてしまったことがありましたね。ほかにも、父が泥棒を捕まえたこともありました。千葉の官舎の応接間にあったマントルピースに隠れていた泥棒を捕まえたんです。周りの同僚はおっかながってたというのにね。それが週刊読売に載りましてね。父はそんなに体格が大きかったわけではないのですが、助役になるまではもともと警察官でしたからね。母の父は警視総監ですので、両親が結婚したのもそういう関係ではないかと思うんです。つまり父は、横山家に入って学業を修めてから、警察官になって結婚したんです。 私は千葉からの話しか知りませんけれど、三男が母のおなかにいたときには四日市の警察署にいたと聞きました。もともとは内務省にいたそうなので、警察官というよりは国家公務員として警視庁にいた、ということかしら。 母は、優しかったです。代々木にあった母の実家の写真が残っていますが、今そこはどうなっているのでしょうね。母は、結婚したのは熊本だと言っていました。父は島根県で1年繰り上げの飛び級をして、なんでかは知りませんけど、熊本の五高に行ったそうなんですよ。新潟時代の思い出 父の転勤で、幼少期には引っ越しが多かったんです。まず荻窪から千葉に移って、警察官舎にいたのを覚えています。当時、内閣が替わると官僚は浪人するという感じだったので、それから父は浪人して荻窪に戻りました。そのときに、小柳さんという新潟市長に呼ばれて、助役をすることになったんです。新潟には、5年くらいいたかな。新潟に行って、私は幼稚園には行かず小学校の試験を受けて、付属に入りました。新潟師範付属小学校です。それから4年生の3学期に東京に戻って、下北沢の荏原第三小学校に入りました。荻窪に家が建つまでは、下北沢におりました。 新潟にいた期間は短かったのですが、思い出は多いんです。オペラ歌手の三浦環と一緒に写真を撮ったこともあるんですよ。新潟に何かで招待された三浦環と、助役の娘さんってことで私たちは記念写真を撮りました。それから、中島飛行士だったかしら。新潟に飛来したときに飛行機に乗せてもらいました。新潟上空を飛んで、新潟山下公園のチューリップが折り紙みたいに見えたのをよく覚えています。飛行機は怖くなかったですよ。私、今も昔も好奇心旺盛なんですよ。だから、今はあまり自由に動けなくなったのが残念なんです。 新潟は、それはそれは雪国でね。わらでできた雪用の靴を履いて、30分以上歩いて学校に行きましたよ。そのときはまだ戦争の足音も聞こえなかったですね。 家の近くには菜の花畑がありまして、ずっと原っぱが広がっていて、牧場もありましたね。砂山を1つ越えると海なんです。私もそこで泳ぎましたよ。姉は遠泳をやってました。あのころは泳げるところでしたが、今はテトラポットがあってダメらしいのですけどね。それと、家の先に競馬場があって、助役だった父は何かのお役目だったんでしょうか、お馬さんの首をポンポンとたたいていたのを覚えています。その競馬場は、今はもうないんですよね。 私は新潟の小学校を卒業しておりませんが、卒業50周年の同窓会のはがきが来たので、恩師の月橋先生に会えました。月橋先生は、新潟師範付属小学校の3、4年で担任だった先生です。先生に作文を褒めていただいて、自信が付いたんです。ですから、同窓会で先生にお会いできて本当にうれしかったんですよ。それから3、4年後に亡くなったとお聞きしました。そのときにお会いできてよかったなと思います。新潟時代はとてもいい思い出がたくさんありますね。父との突然の別れ 小学校を出てからは、父に言われて西本願寺系の武蔵野女子学院に進みました。こちらに入って、人間が変わったようにしっかりいたしました。私はそれまではジクジクしていましたけど、しっかりしたんです。なんででしょう、女学校だからかしら。 昭和18年の5月に、突然父が亡くなったんです。脳溢血でした。このころ、校長先生は高楠先生から鷹谷先生になってたのかしら。初めは副校長だったんですけどね。その鷹谷先生が、荻窪の家に父のお悔やみに来てくださったんです。 荻窪では家の庭を畑にしていて、その畑で父は三男と働いて、井戸で手を洗った後、座敷で倒れたんです。お酒が手に入らないときだったのに、1升いただいて、父はとても楽しみにしていたんですよ。それも飲まずに、倒れて4時間後に亡くなりました。日曜日で、お医者さんもいなくて。6時ころ、夕飯のときで外はまだ明るかったですね。私も家にいて、一部始終を見ていましたからよく覚えています。 父は、そのころは家にいました。実は新潟市長の小柳さんが収賄で辞めさせられて。その後、父は当選するわけないのに市長に立候補して落ちたんです。それで大塚にある敬正舎という傷痍(しょうい)軍人の会社に勤めて、その長をやりつつ家で畑なんかをしておりました。亡くなったのは数えの55歳。まだ53、54歳ですからね、若かったですよね。疎開を経験 女学校2年生のときに父が亡くなり、3年生で動員です。戦争が始まったときは、日本の旗を持って町を歩く旗行列を練習しました。姉と一緒に参加したんだと思います。動員は、中島飛行機でボルトを作っていました。丸い棒にギザギザを入れて切るんですよね。女学生が油にまみれて作っていたんです。場所は、三鷹の国際基督教大学があるあたりです。動員だから、いや応なしに行くんですよ。だから、そのときは全然勉強してないんですよね。 だんだん戦争が激しくなって、疎開することになりました。疎開先は山形の鶴岡にある湯野浜温泉でした。母方の祖父である太田政弘の出身が十文字だったので、その関係なんですけどね。兄たちは、兵隊に取られていましたので、母と姉と3人で行きました。私たちはそこで終戦を迎えましたが、玉音放送の記憶はないんです。おじとお風呂に入っていたら、ねえやさんが飛び込んできて、玉音放送がこんなだったと教えてくれました。 疎開の間、私は鶴岡の代用教員を1学期だけしたんです。それがもう嫌でね。小学4年生の受け持ちだったんで、教科は全部教えました。体操と音楽は苦手でしたけど、私の得意な教科は何だったんでしょう。かわいそうですよ、私に教わった生徒さんは(笑)。 そこから十文字に移動しました。そこで兄が帰ってくるのを待って、東京に戻ることになりました。鶴岡から十文字まではバスがなくて、歩いたんです。そのときに母が熱射病になって、注射をしたのを覚えています。注射痕が残って、見るたびにかわいそうと思いました。それと、イナゴ採りを隣の畑でしましたよ。油で炒めて食べました。玄米を一升瓶に詰めて、ついたりもしましたね。母の才覚もあったのか、おじいさんからもらったのか、食べるのには困らなかったです。だから、ひもじいという経験はないですね。千代田火災海上保険に入社 それから東京へ帰って武蔵野女子学院に戻りますが、4年で卒業させられて、千代田女専の被服科に行きました。文化服装学院から先生が来ていてね、私は洋裁の先生にかわいがられました。裁縫は上手じゃないけど、先生に褒められたくて頑張りましたね。 そのころ、ハワイのいとこの晃明お兄さんとてるこお姉さんが軍属で日本に来ていたのですが、アメリカナイズされていて、かっこよかったんです。チョコレートやお肉をもらったり、晃明さんにはジープに乗せてもらったりしたんです。てるこさんに呼ばれて宿舎に行くとジャズが流れていて、ジャズが好きになりました。かっこよかったですよ。姉は晃明さんに恋してました。私はまだ幼かったのかな、憧れることもなかったですね(笑)。 私は、2番目の兄の奥さん満子さんの関係で、保険会社に入りました。保険に興味はなかったのですが、人には褒められたいので一生懸命やりました。事務の仕事です。そのころには荻窪の家を売って、一番上の兄は結婚して千歳船橋、2番目は成宗に引っ越しました。姉は結婚して出ていましたので、兄夫婦と母、三男、私の5人で千歳船橋に引っ越しました。私はそこから銀座の職場に電車で通っていました。銀座4丁目から通り1つ入ったところが職場だったんです。銀座の職場といっても、派手ではありませんよ。当時は、洋服なんかは自分で作ってたんじゃないかしら。あまり寄り道もせず、ときどき若松であんみつを食べたくらいですね。結婚、2人の子に恵まれて 昭和28年に、藤田茂一と社内結婚しました。8歳年上です。同じ会社でしたが、課が違ったんです。私は1課で、彼は3課。結婚の1年くらい前に、一緒にご飯を食べたのかな。それがきっかけでした。箱根に旅行にも行きましたよ。私は見初められた、ということなんでしょうね。声をかけられたんです。主人の第一印象は、ないんですよね。 実は、会社関係にも家の人にも、結婚を反対されました。会社の先輩はみんな反対でした。母も兄たちもみんな反対で。でも、反対されると燃えるじゃないですか。言ってしまえば、私たちは家柄が違ったんですよ。それに、主人の家にはお嫁に行かないお姉さんたちがいたので、心配されたのでしょう。でも結局、明治記念館で式を挙げました。結婚式の日は、母が寒いからと襟元にハンカチを入れてくれた記憶があります。私たち、新婚旅行には行かなかったんです。主人は実家の姉たちのことを考えて旅行には行けず、私たちの家族は駅まで見送ってくれて、旅行に行くふりだけをしました。 新居は品川不動前にある主人の友達の家でした。その人が引っ越しした後に入ったんです。安養院という寺の敷地内でした。子どもたちは2人とも、そこで生まれました。 長男は、無事に生まれましたけど難産でしてね、額の長い子でした。でもうれしかったです。2番目の陽子は、昼の3時15分に足をそろえて出てきたくらい安産でした。2人ともかわいかったですよ。男の子と女の子の子どもで、良かったんじゃないですか。名前は、浩之は主人が、陽子は主人の父親が付けました。今思えば、私の子育ては子どもにはかわいそうだったと思います。いろんなことに気を使わせちゃって。もうちょっと上手に育てられればよかったなと思います。上の子が死んじゃったけれど、陽子が倍、親孝行してくれますよ。陽子がいると元気になります。 主人は転勤が多かったですね。神戸、静岡に行って東京、福岡。福岡に行ったときは、言葉がわからなかったですが、なんとかやりました。あのころは若かったもんね。主人は外面の良い人だったから、人をよく家に連れてきたものです。福岡では、一度大変なことがありました。東京に戻る前に、最後に九州を知っておこうと九州旅行をしたんです。そうしたら、旅行をしてる間に家に泥棒が入りまして、お金をたくさん取られました。少年院の子たちが泥棒してたんです。あのときはひどい目に遭いました。 それから東京に戻ってきて、八王子片倉町に住みました。主人の家族がいる南平に近いところということで、ここにしたんです。長男が高校3年生くらいのときですね。ここから成蹊大学に通いました。長女もここから短大に通ったんです。今まで社宅でしたから、建て売りでしたけど新築の家に住むことになりましてほっとしましたね。ここを買うのを断った人がいて、渋谷の東急に抽選の申し込みに行きました。36倍の競争率でしたけど、それに当たったんです。自分に向き合い、見つけたこと 東京に戻りましてから、私は趣味やボランティアと、いろいろ自分探しをしまして。心理学で交流分析という学会があるのですが、そこに参加して自分を見つめるようになりました。東京セルフというところでも、池見先生に指導を受けたんです。そこで「自分がOK、人がOK」と、そういう意識を教えていただきました。いのちの電話もいたしました。私たちは1期生だったんですよ。 そして、将棋。将棋は夢中になりました。自分で勉強したんですよ。NHKの将棋の先生でもある内田昭吉棋士のお宅に伺って、習っていました。先生から「女性も教室に来ていますよ」とお手紙をいただいたのがきっかけです。先生からは、今でも年賀状をいただいています。羽生善治さんと写真を撮ったりもしましたね。私、結構腕を上げて、女流棋士になった方とも対局したんですよ。人生を振り返って 子どもたちは自分の求める相手と結婚しましたので、ほっとしました。その後、主人の具合が悪くなり、入院していた館町の八王子医療センターに7カ月半、私は毎日通いましてね。9月に一度、私の具合が悪くなって倒れたときには孫がピンチヒッターで行ってくれましたけど、それ以外は毎日病室へ通いました。家に帰ると、いつも息子のお嫁さんが食事を用意してくれていて助かりました。主人は肺が悪くて、人工呼吸器を着けておりましたから、声が出ないんですね。その状態で7カ月半。管に拘束されるのはかわいそうでした。偶然でしたけど、主人が亡くなったのは日曜日で、ちょうどみんなが集まれる日でした。ですから、みんなで見送ることができたんですね。 私は、主人が亡くなってから旅行をしているんです。一人旅です。一人旅の方が、認知症対策にいいんですって(笑)。旅行会社に行って、宿だけ取ってもらって、1人でバスとかに乗って行くんです。歴史が好きなので、そういうところを探しながら。会津にも行きました。NHKの大河ドラマ「篤姫」を見てから歴史にハマってしまって、古代の歴史を尋ね歩いたんです。青森の方まで行きましたよ。出掛けるようになったのは主人が亡くなってからで、主人とは旅行にあまり行ってないんです。それでも、私の名前の由来である美保神社には一緒に行きました。立派なお社でね、大国主神のお話のところです。思えば、結婚前に2人で箱根に旅行に行ったのはすごいことでしたね。 振り返ってみると、これまであっという間でしたよ。嫌なことはもう思い出さないですからね。今日はこれからの人生で一番若いですし。今が幸せです。 --- - Published: 2021-03-09 - Modified: 2021-04-09 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/tamiekamiyama/ 開戦の年に生まれて 昭和16年に、母の実家がある南安曇で生まれました。同じ年に開戦し、12月8日がパールハーバーの日だったと思うのですが、それからすぐに父が出征したんですね。それで父が戦争から帰ってきたのが、昭和21年の7月です。5歳のころでしょうか、「みーちゃんのお父さんだよ」と言われて父の膝の上に抱かれて、ひげ面が当たって痛くて痛くて困った覚えがあります。「誰なんだろう」と不思議な気持ちでした。 父の出征中は、信州新町の父の実家で過ごしました。そこには、父の母と、父の弟である叔父が3人いました。叔父たちはまだ若く、1人の叔父は病気で伏せっていました。大人の男性がいないので、山仕事にも母が出掛けていました。当時の母は、とても大変だったと思います。終戦の年だったと思いますが、家のそばの犀川の堤防が決壊して洪水になりました。見る見る家の方まで水が押し寄せてきて、崖の上のお寺に避難して一晩過ごしました。翌日戻ると、2階の畳すれすれまで水が上がっていたのを覚えています。 父は警察官で、戦争から帰ってから岩村田警察署に復職しました。父は厳格でまっすぐな人でした。母は良妻賢母ですね。子どもたちには優しい、自分を犠牲にしても家族を守るタイプの人でした。母は看護師をしていたので、衛生観念もあって、私たちが病気にならないように心を砕いてくれていました。私は3人きょうだいで、2歳違いの兄と父の復員後の昭和22年に生まれた弟がいます。転校の多かった小・中学校時代 父は県警でしたから、県内を転々として、小学校は4つ通いました。岩村田、小諸、屋代、長野とね。最終的には長野で、城山小学校という善光寺の参道の東側にある学校を卒業しました。転校して新しい人が入ってくると、いじめは今と一緒でありましたね。でも、何か1つでも秀でているところがあると、いじめは克服できると思います。屋代の小学校では、「歌が上手」と先生が認めてくれました。盲目のピアニストが屋代に来たときに、その人が作詞・作曲した歌を、先生に言われて大勢の前で歌ったこともあります。 城山小学校では、4、5、6年の担任が理科の先生で、百葉箱で温度を測って、クラス全員で3年間表にしたり、グラフにしたりして管理していたんですね。その結果の自由研究が、県のコンクールで優秀賞を取ったんです。各家庭にカメラがあった時代ではありませんので、何も残っていないのが残念ですが、立派で面白い研究だったと思います。 城山小から柳町中学に入学後、父が市警に移って官舎が変わり、2年から同じ長野市内の川端中学に転校しました。さらに3年の6月には、大町中学に移ったんです。大糸線の大町ですね。大町に引っ越すとき、普通の日なのに授業をやめて、川端中学のみんなが長野駅まで送りに来てくれました。警察の方も「西澤警部、万歳!」と見送ってくれるので、にぎやかでした。そのときに「ある男の子がホームの隅で泣いていたよ」と同級会で話題になったというのを、後でお友達から聞きました。川端中学はクラスがまとまっていて、同窓会を今でもやっているので、日にちが合えばできるだけ参加したいですね。 大町中学では、行ったとたんの12月に「火の用心のポスターを描け」と指名されました。一種のいじめでしたね。私が絵が下手なのをわかってのことでしたから。泣きながら描いた絵が冬中貼られていた、苦い思い出があります。それから、私はスポーツが苦手でした。でも、勉強は帰ってきたらすぐにその日の復習をしていました。だから、勉強で困ったことはないですね。洋画が好きだった高校時代 小学校と中学校を転々としたので、高校は転校したくないということで、松本の蟻ケ崎高校に入りました。女子高です。大町から、毎日1時間かけて通っていました。駅は北松本で、男子校の深志高校もありました。道の左側を深志高校の生徒、右側を蟻ケ崎高校の生徒が歩いていましたね。運動会になると、深志の生徒が見ているから、ブルマーはぴっちりしたのを履いてはいけないよと言われて、ひだが入ったのを履いていました。 高校ではソフトテニスをやっていたのですが、うちの父は運動が嫌いで、「運動なんか、やっちゃいかん」と言われて、2カ月でやめました。真面目に早い電車でうちに帰っていましたが、当時洋画がはやっていて、月1回は中劇に通っていました。縄手にある映画館です。そのとき見たのが、「風と共に去りぬ」で、それはもう、何回も見ました。スカーレットにあこがれていたんですよ。楽しかった東京の4年間 うちは兄が大学に行っていたので「2人も出せないから、あなたは就職しなさい」と言われていました。それでも勉強がしたくて、東京大学医学部付属の3年間の看護学校に受験して入りました。 東京大学医学部付属看護学校は、東大構内に寮があったんです。寮費だけで住めて、食事も支給されました。看護師だった母の影響もありますが、とにかく「学校に行きたい」、「技術を身につけたい」ということでしたね。学費がかからなかったものですから。寮生活では先輩に従っていろいろやりました。お友達と仲良くやっていく協調性は、そこで身についたと思います。東大には農学部の方に龍岡門という大きな門があって、常陸宮様が研究に通っていたのもお見掛けしました。そのすぐそばに寮があったんです。 看護学校は1学年30人。医学部の学生さんのサークルで「セツルメント」という農村で検診などをする活動を一緒にしたり、五月祭で看護の歴史や看護がどうあるべきかという発表をしたり、安保のデモにも動員されて行ったりしました。楽しい学生生活でしたね。 でも、3年間の勉強が済んでから、実際に血液を採ったり手術したりするのが好きじゃないということに気がついたんです。それで、「保健師の勉強をしよう」と、世田谷の馬事公苑にあった東京都立保健師助産師専門学院に1年間通いました。保健師として働く 保健師の学校を卒業した後、私は父の命令で岡谷の実家に帰ったんです。そして、下諏訪町に保健師として入りました。町の職員ですね。なるべく受診率を下げる、衛生教育をして回るといった活動をしながら、4年間役場に勤めました。 その後、夫が岐阜大学の学生だったので大垣市に移り住み、大垣保健所に就職しました。「夫が医師になったら、岐阜に勤めるようにします」と言って、建ったばかりの3DKの官舎に住まわせてもらったんです。でも、長男を産んでから、「やっぱり信州に帰ります」と言って辞めて帰ってしまってね。今でも岐阜県には足を向けて寝られないんです(笑)。 保健師の仕事は楽しかったですよ。大垣の保健所では一番若かったんですけど、ちょうどそのころ、未熟児の家庭訪問をする活動が始まったんです。それで、小さいはかりを持って、未熟児の家庭を訪問したんですね。岐阜の放送局が、その活動を新しい取り組みということで取り上げて、撮影した映像が地方放送のテレビで映ったこともあるんです。私が自転車で回っているところをね。夫との出会い 夫とは、母親同士がいとこだったんです。私が大町中学に通っているとき、なんかの結婚式のときに弟を神山の家に預かってもらったことがあったのですが、「キミちゃんっていう面白いお兄ちゃんがいるよ」と弟から聞いていました。東京に出てから、御徒町にある東京のおじさん・おばさんの家を頼りにご飯をごちそうになりに行っていたのですが、親戚筋の子が10人くらい集まって、みんなでワイワイやっていたんです。その中に松本から大学に出てきていた主人がいて、そこで初めて会いました。 それから原の昭ちゃんという神山の家の近くに住んでいた子が大学に入って東京に出てきていたので、3人で遊ぼうということになって、豊島園なんかに行っていました。そのころ主人に対しては何の意識もなくて、ただの男の子のお友達というふうに見ていました。 保健師になって岡谷の実家に帰ると、東京のおばさんが神山の家にあいさつに行くときに「民江さんもおいで」なんて言われて、行ったら「同じ医学部の方に進むのに2人一緒になったらどう?」と言われてね。「それはいいかもしれない」と思ったんです。ちょうど、主人は医学部に入って間もなくのときでね。それから「お付き合いしようかな」という目で見るようになったんです。結婚式と新婚旅行 結婚式は昭和42年の4月7日でした。世界保健機関(WHO)の「健康の日」にちなんで決めました。松本のはやしや会館で、40人ぐらいの式でした。「結婚式の衣装は俺が作ってやる」と、父が知り合いの洋服店に注文して、ウエディングドレスを作ってくれました。そのドレスは、後に私の娘も直して着たんですよ。 新婚旅行は、主人の友達が赤いスポーツカーを貸してくれてね、缶カラが本当にぶら下げられていたのはびっくりしましたね。淡路島には台風で渡れなかったですけど、姫路まで行きました。帰ってくるときに白雪という日本酒を買って、「すごいお酒買えたね。よかったね」と1Kのアパートに帰ってきたら、夫の友達が5、6人待っていて、酒盛りが始まったんです。荷物を運びこんだばっかりで、コンロの調整にも苦労しながらようやく一品作って出すと、あっという間にみんな食べちゃう。夜になっても帰らない。そのときは5人くらい泊まりましたね。私は、キッチンに主人が持っていた折り畳みのビニールの椅子を置いて寝たんですが、風邪をひいちゃいましたよ。その翌月の5月から、大垣の保健所に勤務することになるんですね。お産は快感 長男が昭和43年の11月に生まれたのですが、主人の医大の卒業式が昭和44年の3月でした。クラスのみなさんの許しを得て、私も4カ月の赤ちゃんを抱いて卒業生の集合写真に一緒に入っているんですよ。産前産後は、休暇をもらって岡谷の実家に帰っていたんですけど、ちょうど母がぎっくり腰で入院しちゃって、大きいおなかで父の面倒を見たり、母を見舞いに行ったり逆に大変でした。そんな中で、出産は予定日より13日も遅れたんです。それまでおなかが苦しかったのが、生まれたとたんにすっきりして、その気持ちよさ、快感で、「もう1人産みたい」と思いました。それで思わず4人も産んじゃいましたけど(笑)。 昭和45年に仁美が生まれたときには、「女の子でよかった」と思いましたね。名付けは、神山の母が占いに見てもらって付けました。育男が生まれたのは昭和47年の7月です。上の子どもたちに比べて、生まれたばかりの赤ちゃんはとても小さく感じられて、「無事に育ってほしい」と思ったのと「愛を育んでみんなを愛せるような人になってほしい」と思って育男と名付けました。 その6年後が晃男です。どうしても、もう1人ほしかったんです。36歳で産んだんですが、上の3人がぞろぞろ面会に来てくれると、「子どもがこんなにいるのに産んだの?」なんて言われたものです。子育てに奮闘 松本で上3人の子育てをしているときは夫がいなくて母子家庭みたいでしたが、6時には夕食、8時には寝るという子ども中心の生活ができたのはよかったと思います。子育てで心掛けていたのは、子どもの安全が第一、そして食事が大事ということですね。 教育は、体育系と情緒系を両方やらせたいと思っていました。せっかく松本にいるんだから、鈴木鎮一さんのスズキメソードで子どもたちを教育したいと、3人を自転車の前と後ろとおんぶで乗せて通いました。スズキメソードというのは、最初は譜を見せずに、遊ぶときもずっとテープで音楽を聞かせてバイオリンを弾かせるんです。最初は「きらきら星」でした。哲男に続いて仁美、育男もやっていました。晃男だけは伊那に移ったのでやっていませんけどね。近くに習字の先生や英語の教室もあったので、そこにも通わせました。哲男は5年生のときに英語で何級かを取って褒められたりしていましたね。マット運動や鉄棒を教えてくれる体育教室も松本市内にあって、3人とも通いました。水泳教室にも通わせましたから、丈夫な体作りができたと思います。 それから、夜8時になると、子どもたちに本を読みました。子どもたちはとても熱心でしたね。哲男は「エルマーの冒険」が特に好きでした。松本を離れ、伊那へ 伊那で開業という話が出たとき「松本に土地もあるのに」と思いましたが、神山の母が「キミちゃんの好きなようにすればいいよ」と背中を押してくれました。実家の母も「伊那は住みやすいところだよ」と。実はプロポーズのときに、主人は「僕は教授になるからね」と言っていたんですけどね(笑)。とにかく、資金がないでしょ。「借金、返せるのかなあ」と思いました。「もう松本には戻れない」とも。建前の餅投げのときに、松本でレストランをやっているお友達が料理を運んできてくれて大工さんを接待したんですけど、それは感慨無量でしたね。 伊那小の学区だったことは、よかったですね。伊那小学校は、全国でも珍しい、通知表がない、チャイムが鳴らない、新しい教育で有名になっていたんです。生徒が自由に話し合って、クラスでテーマを決めて、1年間突き詰めてやるといった感じでしたね。上の子どもたちは、伊那小の5年3年1年に入りました。合間には塾にも行かせましたが、伊那小の教育そのものはいいと思いましたね。 晃男は、伊那に来たときにはまだ1歳6カ月でした。開業10年くらいして少し落ち着いてきた主人が、晃男の教育ができたのはよかったと思います。一緒にお風呂に入ったりね。晃男が伊那小のときは、学校でポニーを飼ったんですね。交尾させて、お産を子どもたちが泊まり込んで観察したりしたんです。最初のころは怖くてポニーに触れなかったような晃男が、最後に御殿場にポニーを帰すときにはたづなを引いて連れて行ったりしたんです。おかげで強くなったと思います。ああいうことをやったから、もっと勉強しなくちゃという気にもなったんじゃないでしょうか。人生を振り返って 子どもたちは、みんな自分で決めた進路に進んで、それぞれが家庭を持ってちゃんとやっています。私の仕事は終わったかな。これからは、主人と2人で仲良くと思っています。 哲男や育男が、お父さんの背中を見て医学の道に進んでくれているのは、ありがたいと思います。医院は主人が好きで始めたことですから、一代で終わってもしょうがないのですが、患者さんのことを思うと、跡を継いでくれる育男には感謝しています。専門医の技術があるのにいいのだろうかという気もしましたが、「外科医としては、あと何年かしか技術は使えないからいいんだよ」と言ってくれました。お嫁さんもよく決心してくれたと、本当に感謝しています。 私は、神山医院を縁の下の力持ちとして支えてきた立場です。主人の人柄もあって、皆さんに信頼されてやってこれたのが大きな力になっていたと思います。主人も私も丈夫だったので二人三脚でこれまでやってこれました。 そんな中でも、海外旅行に二十何回行っています。その点は自由にさせてもらいました。最初の海外旅行は、美容院のクイズでロス5日間が当たったのですが、躊躇する私に主人が「どうしても行って来い」と言ってくれました。 38年間、地域の皆さんの役に立ってきたかな、主人を支えられたかな、と思います。子どもたちも丈夫で、それぞれにいい家庭を築いていますから、言うことはありません。今年の4月7日は、金婚式でした。振り返れば、素晴らしい人生です。これからも、これが続いてほしいと思いますね。 --- - Published: 2021-03-09 - Modified: 2021-04-09 - URL: https://oyanozasshi.jp/interview/kimihidekamiyama/ 商家の次男として生まれる 生まれは昭和14年です。松本市内で生まれました。松本城のすぐ近くです。おやじは、自転車や車のタイヤの卸業をやっていました。私は次男坊で、長男の兄が家業を継ぎました。株式会社カミヤマというのですが、今でも松本でやっています。今は兄の息子が社長になって、兄は会長です。 おやじの先祖は松代藩の下級藩士で、廃藩置県になったときに流れ流れて松本に定住したようです。おやじは男ばかり6人兄弟で、一番下の六郎おじさん以外はみんな車関係の商売をしていたようです。おやじは小学校を出てすぐに商売を始めているので、私たちに対しても「とにかく働け」というタイプの人でしたが、おふくろは教育熱心で、勉強に理解がある人でした。きょうだいは5歳上の兄と、妹が3人います。妹は2つ下、4つ下、あとは7つ下かな。松本には歴史のある開智小学校という学校があって、そこをおやじも出ているし、私のきょうだいも全員出ています。校舎は明治の建物で、国の文化財になって保存されている高楼があります。 私の家には、私と同年代くらいの小僧さんが6人ほどいたのですが、私はその小僧さんたちと同じ部屋に寝泊まりしていたんです。何と言うか、丁稚奉公のような団体生活でした。商家の子どもというのは、厳しいんですよ。小僧さんは働いているから、子どもより偉いんです。中学、高校と勉強しなくちゃいけないので宿題なんか隅でやっていると、小僧さんが怒るわけ。「まぶしいから早く電気消せ、眠れねえ」って。家業は、私もよく手伝いましたよ。配達があるんです、朝出て夕方帰るくらいの距離をね。大町とか、50キロくらいだったかな。当時はバイクも何もありませんから、自転車ですよ。運搬車という自転車でリヤカーをつないで、タイヤとか重たい荷物を満載して、立ちこぎで配達してました。野鳥に夢中になった中学時代 開智小学校から、地元の丸の内中学校に上がりました。松本城の隣に博物館があるんですが、その前身の建物が丸の内中学校だったんです。だから、中1の1年間は、お城の中で勉強したんですよ。中2のときに、自分の机やいすを背負って引っ越した覚えがあります。郊外の城山のふもとに移転したんですね。 それから、野鳥を「鳥もち」で捕ることを大人から教わって、病みつきになりました。カラの仲間ならヤマガラ、シジュウカラ、ヒガラ、コガラ、オオガラと5種類くらいあって、メジロは1種類しかないんですけど、そういう野鳥が学校の裏山にいっぱいいるんです。朝の暗いうちから仲間と呼び合って、学校の支度と「もち」とおとりの鳥かごを持って行くんです。学校の前を素通りして、裏山に行って仕掛けてね。野鳥は朝起きると水飲みに下りてくるんです。そのときに仲間がこっちで「ピーピー」と鳴くと、そこに下りてくるんですね。それでおとりっていうんですけど。鳥かごのところの木の枝の先にもちをつけると、そこに止まるんです。 野鳥好きが高じて、学校の担任が心配して家庭訪問に来たことがあります。「野鳥捕って飼っているみたいだけど、勉強しろ」って。そのころ、自分で作った畳1畳くらいの鳥かごに、木の枝を持ってきてお互いにいじめない鳥を何種類か共存させて飼っていたんですね。先生に「もう、小鳥飼うな」と言われて「全然飼っていません」と言ったとたんに、隣の部屋から「ピーピー」聞こえてきてね。先生も「オーオー」となってね(笑)。それくらい好きでした。日本野鳥の会にも50年来入っていますよ。松本深志高校へ進学 高校は、県立松本深志高校に行きました。受験勉強はさほどしなかったと思います。まあ、小鳥飼うのをちょっと遠慮したくらいですね。田舎の場合は「お前はこの高校を受けろ」って、成績順で先生が割り振っていたんです。勉強はできた方なんじゃないかな。おふくろが熱心でしたからね。夏休みに家にいると小僧さんと一緒に働かされるので、「勉強したい」と私が言うと、おふくろが大町のお寺さんに預けてくれて、そこに寝泊まりして勉強したこともあります。確か、ひと夏かふた夏です。 近所に中学の英語の先生がいて、おふくろが頼んで小学校のころから英語を教わりに行っていたんですよ。中学に入学したときには中学1年生用の教科書が終わっていましたから。高校でも、英語は得意でしたね。高校では、英研と映研に入っていました。英会話の勉強は、外国の映画を見るのが一番ということでね。 私は、物心つく前からちょっと足をけがしていて、「お医者さんになりたい」と小学校のころに言っていたそうです。けがした子どもを見ると、人ごとではない感じもしていました。次男坊の気軽さからか、高校のころは「医者になろうかな」という感じで勉強していました。医学部進学 医学部を目指して受験勉強をしていましたが、家が医学部の学費を出してくれる雰囲気じゃなかったんです。公立で、旧帝大のようなところは難しすぎるということで、2期校専門でした。あちこち受験旅行が好きで、山口医大や福島医大も受けましたよ。 ちょっと回り道はしましたね。私立なんですが、武蔵大学の医学進学課程というのがあって、教養の2年間だけなのですが、成績がいいと医大に編入できるんです。受かったのでそこに入ってみたりしたのですが、結局やめて、6年制の医学部に入り直しました。信州大学ではなく岐阜大学に入ったのは、松本を離れて一人暮らしがしたかったからです。おやじは勉強には関心がなかったのに、私が岐阜大学の医学部に入ったときには、どういうわけか入学式に来てくれました。下宿に机だけ買ってくれたのを覚えています。 医学部時代は、のんびりしていました。田舎の公立大学の医学部に行くなんていうのは貧乏人が多かったし、他の大学を出て入り直す人もいっぱいいましたから、私より年上の人も何人かいました。ふだんは、当直の手伝いをしたり、手術のこう引きの仕事をしていました。こう引きは力もいるので、体格の良さを買われていましたよ。アルバイトになるし、見学になるし、こんないいことはないと、入り浸っていました。 学部の時代は楽しかったですね。ただ、専門の1年のときにおやじが亡くなったんです。ちょうど解剖実習の時期で、解剖用の死体を与えられていましたが、おやじとかぶってなんとも憂鬱で、解剖が嫌になって休んだのを思い出しますね。学生結婚 家内は遠い親戚なんです。〝またいとこ〟だったかな。私が武蔵大学に通うため、東京にいたときに会いました。東京におばさんがいて、そこにご飯をたかりに行ったときです。最初の彼女の印象は、良かったですよ。かわいかったです。お互い学生で、彼女もそのときは東京にいたんです。家内は東大の看護学校に行って、その後、馬事公苑の保健師の学校に行っていたんですね。年は家内が2つ下です。石神井公園で家内の写真を撮った覚えがありますね。 周りに勧められて、学部の5年生のときに結婚しました。学生結婚ですね。結婚式のとき、お金持ちの台湾人の同級生がホンダのS600を貸してくれたんですよ。赤いスポーツカーです。それに乗って結婚式からそのまま新婚旅行に行きました。缶カラを車の後ろにつけられたので、「行ってらっしゃい」と見送られて、みんなから見えなくなったところで恥ずかしいから慌てて外しましたよ。名古屋の方に出て、神戸、姫路城と回りましたね。 学部を卒業するときに、長男が生まれました。卒業式に、生後数カ月の赤ん坊を家内がおんぶして出席したんです。父兄としてね。卒業式に子連れで出たのは、岐阜大学始まって以来だと言われました(笑)。 当時、家内は大垣市の保健所に保健師として勤めていました。公務員ですから、公務員宿舎があって、家内の連れということでその公務員宿舎に一時住んでいたんです。「お前、奥さんが保健師だから、卒業したらぜひこっちに残れ」と言われていました。「考えておきます」とか言っていたんですが、地元に帰りたくなって、結局松本に帰ってきてしまいました。学生運動が嫌で船医になる 松本に帰ってきたものの、1年間は入局することができませんでした。当時は学生運動が盛んで、樺美智子さんが警察に殴り殺されたころです。青年医師連合運動が盛んで、学生運動をさせられていました。それが嫌で嫌で、一計を案じて、「船の医者になろう」ということになりました。段取りは私が全部やってあげて、まず独身の友人を日本郵船の貨物船に送り込みました。その後、私も行きたくなって、家内に相談しました。お金もほしかったんです。昼間は学生運動をやらされるので、夜の当直のバイトしかなくてね。船医になると、その当時で30万くらいの給料がもらえましたから。 手続きはすでにベテランだったので、日本郵船に面接に行くと案の定合格。私は地中海・黒海航路という4カ月の航路を選びました。神戸から出港して北海道に行って、それから太平洋に出て。パナマ運河を渡って、大西洋に入って地中海、リビア、トリポリ、エジプト、アルジェリア、黒海に入ってルーマニア、ブルガリア、ロシア、あとギリシャ。転々と、いろいろなところに行きました。24時間、船のどこかでマージャンをやっていたので、マージャンの腕を磨くこともできました。税金が安いので、お酒もいろいろなものが飲めましたし、ギリシャのピレウスという港に1週間いたときはアテネの廃虚をずっと見たりすることもできました。私はすっかり病みつきになって、ロンドン・パリコースやシカゴ周りアメリカコースにも心引かれていたのですが、その後入局することになり、泣く泣くあきらめたんです。働き詰めの研修医・勤務医時代 信州大学で入局すると、忙しいばっかりで、ろくに家にも帰れない生活でした。無休医局員というやつでしたね。当時助手の給料が5万円くらいだったので、夜にアルバイトをしないとやっていけませんでした。日曜日は、大手を振ってアルバイトに行ける稼ぎ時でね。岐阜県の土岐市にある聖十字病院という精神科の病院の当直の仕事に、ほとんど毎週行っていました。 このころは、遊ぶ暇はなかったですね。昼間は大学、夜は当直。よく働いていました。中学ぐらいにうちの手伝いでよく働いたので、肉体的に強くなったのはよかったんですね。自分の具合が悪くて休んだことは今まで一度もありませんから。 そうこうするうちに、伊那中央病院に派遣されました。常勤の先生がくしくも2人とも体を壊してしまったので、お手伝いに行ったんです。そのうち、辞めて開業した先生がいて、勤務医として常勤になりました。伊那で「神山内科医院」開業 伊那中央病院に来たときも、いずれは松本で開業するつもりだったんです。自分で、自分の思う通りの病院経営をしたいという思いがありました。中央病院は土曜日の午後から休診なので松本に帰るという、土帰月来の生活でね。最初は、伊那は腰掛けのつもりでした。でも、伊那の医師会の先生たちと仲良くなって。伊那市民美術会に誘ってくれた絵の先生でもある高橋先生もそうですが、親しい仲間の先生たちが、どうせ開業するなら伊那でと勧めてくれました。そして、銀行も紹介、土地も紹介してくれたんです。市民病院で見ていた患者さんを見てあげることができるというのも決め手になりました。 資金を作るために、松本の住んでいた家も売りました。この病院の建物は、若い設計士さんが設計したんです。38年前ですが、モダンな雰囲気ですよね。病院の場所は、伊那市としては郊外です。今はスーパーマーケットのアピタができて住みよくなり、市街地化してきましたが、昔は市街地を外れたところだったんです。でも、患者さんはたくさん来てくれました。市民病院の患者さんも待ちきれずに来てくれました。カルテナンバー一番の人は、今も家族みんなで来てくれています。伊那バスの本社が近かったので、高遠や長谷からもバスで患者さんが来てくれました。 患者さんは、多いときで1日200人来ました。座るところがなくて、みんなで立って待ってくれて。番号札を取る人が朝並ぶので、だんだん早く開けるようになって、最高4時半に開けたことがあります。30分ずつ早く開けていたら、そうなったんですよ。今は予約の機械を入れたので大丈夫ですが、その前までは畑に行く前に朝早く順番を取る人がいたくらいです。開業医の1日の患者数は、大体50人が普通です。それが150人以上来ていたのですから、職員は立ってご飯を食べる感じでした。そんなふうに働き続けた結果、納税所得額が長野県で4番、5番になって、高額所得者として税務署に貼り出されたこともあります。 開業して10年過ぎたあたりで、働きすぎで疲れてきたので、週休2日制にしました。日曜日は当番医などがあって、休めないこともあったんです。だからリフレッシュするために、木曜日に休むことにしました。土曜日は、今でも午後も診察をしていますよ。「週休2日制」は今では当たり前ですが、当時はその名前すらなかったんです。うちは率先して導入しましたね。 開業して38年。今では周りに4、5軒新規の開業医ができています。開業したてのころは、地域の患者さんを一手に引き受けていたので大変でしたが、今はちょっと楽になったと思います。後継者にも恵まれ、楽しい人生 文章を書くのは好きな方なのですが、長野日報で「ダ・ヴィンチの謎の紀行」という連載記事を書いたことがあります。きっかけは、平成18年の上伊那医師会会報30周年記念誌に寄稿した文章です。ルーブルで見たダ・ヴィンチのモナリザを題材に、医学的見地からその秘密に迫るという切り口で書いた文章が面白いので、ぜひ連載として書いてくれと頼まれました。結構長い連載だったので、大変でした。ダ・ヴィンチの本はほとんど読みましたね。 県の医師会のマージャン大会では5回優勝、芸術祭でも油絵を出展して、会報にはよく名前が載っています。頼まれると嫌と言えない性格なので、いろんな役をやらされました。医師会会長も最初は推薦を辞退したのですが、平成18年から会長を務めました。伊那市民美術会も高橋先生のあとを継いで会長を務めましたし、ロータリークラブでも、奨学金をもらっていたのでお役目を担いました。向山公人という県議の後援会会長も20年来引き受けています。 開業医として、理想とする医療ができたと思っています。娘は結婚して歯科医をもうやっていないけれど、3人が医学の道に進んだのはうれしかったです。 3年前の家族会議で私が身を引きたいと言ったときに、晃男が話を進行してくれて、開業志向がないという哲男に、育男が「兄ちゃんが取らないなら跡を継いでもいいよ」と言ってくれました。それを哲男と哲男の嫁も納得し、仁美と晃男が承認してくれました。育男は呼吸器外科に行ったので、内科は嫌だろうと思っていたのですが、肺移植のメッカであるウィーンでの研究を最後の仕事にして、来年の春に帰ってきます。伊那の市民病院でも呼吸器外科・内科を手伝ってくれないかと言われています。 やってくれると本人が言ってくれた。もし言ってくれないなら、医院を閉じなくてはいけなかった。そのエネルギーは大変です。法人を閉じるのも大変ですし、何よりも患者さんをどうするか。他のところに紹介しないといけない。後継者ができたのは、本当にありがたいことです。 人生振り返って、楽しい、いい人生だったと思いますよ。働き続けという感じでもなく、趣味も多かったし。家内も自分も丈夫で、1日たりとも病気で休んだことがありません。子どもたちもいい大人になって、一生懸命それぞれの道で頑張ってくれています。 --- --- ## 最新ニュース・お知らせ・ブログ - Published: 2026-04-20 - Modified: 2026-04-20 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3233/ - カテゴリー: ブログ 高齢の親へのプレゼントを考えるとき、何を贈れば喜んでもらえるのか、迷ってしまう方は多いものです。誕生日や母の日、父の日、還暦、古希、喜寿、米寿、金婚式など、節目のたびに「今年は何にしよう」と悩むこともあるのではないでしょうか。若い世代へのプレゼントなら流行や実用性で選びやすいものですが、高齢の親となると話は少し変わります。すでに必要な物はそろっていたり、「もう物はいらないよ」と言われたりして、定番の贈り物では決め手に欠けることも少なくありません。そんなときに大切なのは、何を贈るかだけでなく、どんな気持ちを届けたいかです。高齢の親へのプレゼントで喜ばれやすいのは、次の3つのどれかに当てはまる贈り物です。・日常の中で使いやすい実用品・家族で時間を共有できる体験型ギフト・思い出や人生を形に残せる記念型ギフト中でも、「物はいらない」と言う親や、せっかくなら特別なものを贈りたいと考える方には、家族の気持ちが残る贈り物が向いています。この記事では、高齢の親に喜ばれやすいプレゼントの考え方とともに、親の人生や家族の思い出を一冊に残す「親の雑誌」のような贈り物についても紹介します。高齢の親へのプレゼントで失敗しにくいのは何?高齢の親へのプレゼントで失敗しにくいのは、相手の負担にならず、気持ちが自然に伝わるものです。プレゼント選びでつい意識してしまうのが、「人気があるか」「高価かどうか」「見栄えがするか」といった点です。もちろんそれも大切ですが、親世代への贈り物では、それ以上に次のようなことが重要になります。・使いやすいか・置き場所に困らないか・好みや生活に合っているか・気を使わせすぎないか・贈る側の気持ちが伝わるかたとえば、立派だけれど使い道が限られる物や、趣味に合わない物は、もらった側がかえって気を使ってしまうことがあります。一方で、日常の中で無理なく受け取れるものや、家族の気持ちが感じられる贈り物は、心から喜んでもらいやすくなります。特に高齢の親へのプレゼントでは、「便利そうだから」だけではなく、受け取りやすさと気持ちの伝わり方を基準に選ぶことが大切です。物はいらないと言う親には何を贈るのがいい?物はいらないと言う親には、消えもの、体験、記念に残るものの3つの方向から考えると選びやすくなります。年齢を重ねるにつれて、「もう十分持っている」「これ以上は増やしたくない」と感じる方は少なくありません。そのため、プレゼントとして定番の雑貨や衣類を選んでも、気持ちはうれしくても、実際にはあまり使わないこともあります。そんなときに考えやすいのが、次の3種類です。1. 消えものお菓子、果物、お茶、コーヒー、少し上質な食品など、食べたり使ったりしてなくなるものです。管理の負担が少なく、比較的気軽に贈りやすいのが魅力です。2. 体験型食事会、家族写真、ちょっとした旅行、家族で過ごす時間など、一緒に体験することを贈る方法です。物そのものではなく、その時間の楽しさや思い出が残ります。3. 記念に残るもの写真アルバム、手紙、家族からのメッセージ、人生の歩みをまとめた一冊など、あとから見返せる贈り物です。特に、誕生日や長寿祝い、結婚記念日などの節目では、こうした記念型のプレゼントが深く心に残ることがあります。「物はいらない」と言われたときは、何もいらないという意味ではなく、増えるだけの物はもう十分という気持ちであることも多いものです。だからこそ、形だけではない贈り物を考えることに意味があります。70代・80代の親に喜ばれやすいプレゼントの選び方70代・80代の親に喜ばれやすいプレゼントは、実用性、負担の少なさ、思い出に残るかどうかの3つを意識すると見つけやすくなります。実用性があるか毎日の暮らしの中で自然に使えるものは、贈り物として受け取ってもらいやすい傾向があります。ただし、実用品なら何でもよいわけではありません。重い物、複雑な物、サイズや好みに左右される物は、かえって使いにくいこともあります。負担が少ないか高齢の親へのプレゼントでは、管理や片付けに手間がかからないことも重要です。大きすぎる物や、飾る場所に困る物、手入れが必要な物は、相手によっては負担になってしまいます。気持ちや思い出が残るか高齢の親へのプレゼントでは、便利さだけではなく、「子どもが自分のことを思ってくれた」という気持ちが伝わることがとても大きな価値になります。年齢を重ねるほど、何をもらったか以上に、誰がどんな思いで贈ってくれたかが心に残るものです。そのため、節目の贈り物では、実用品だけでなく、家族との思い出や人生を振り返れるプレゼントが特に喜ばれやすくなります。実用品・体験型・記念に残る贈り物を比較すると、何が違う?高齢の親へのプレゼントは、大きく分けると「実用品」「体験型」「記念型」の3つに分けて考えられます。どれが正解ということではなく、親の性格や家族の思いに合わせて選ぶことが大切です。実用品ひざ掛け、パジャマ、湯のみ、軽いバッグ、上質なタオル、食品など、日常で使いやすいものです。すぐに使えてわかりやすい一方で、すでに似た物を持っていたり、好みに合わなかったりすることもあります。体験型食事会、写真撮影、旅行、家族でのお出かけなど、時間を共有することに価値があるプレゼントです。親が「何もいらない」と言う場合でも、時間を一緒に過ごす贈り方なら受け取りやすいことがあります。記念型アルバム、手紙、メッセージ集、親の人生や家族の思い出をまとめた冊子など、あとから何度でも見返せる贈り物です。このタイプの魅力は、その場だけで終わらず、家族全体の宝物になりうることです。高齢の親へのプレゼントを考えるとき、何を贈るかに目が向きがちですが、本当に大切なのは、贈ったあとに何が残るかかもしれません。そう考えると、特別な節目には記念型の贈り物がとても相性のよい選択肢になります。高齢の親へのプレゼントは「物」より「心に残るか」で選ぶのがおすすめ高齢の親へのプレゼントで迷ったときは、「人気があるもの」よりも、その親にとって心に残るかどうかで考えるのがおすすめです。花やお菓子は贈りやすく、受け取ってもらいやすいプレゼントです。実用品も、生活に役立つという意味ではとても良い贈り物です。ただ、誕生日や還暦、古希、喜寿、米寿、金婚式などの節目に「せっかくだから何か特別なものを贈りたい」と思うなら、使ったら終わる物だけでは物足りなく感じることもあります。そんなときに考えたいのが、次のような価値です。・親が自分の人生を振り返るきっかけになる・子どもや孫の思いが伝わる・家族の会話が生まれる・何度でも見返せる・親だけでなく家族にも残るこうした価値を持つプレゼントは、単なる贈り物ではなく、家族の時間や記憶を深める贈り物になります。『親の雑誌』という、親の人生を一冊に残すプレゼント高齢の親へのプレゼントとして、近年あらためて注目されているのが、親の人生や家族の思い出を形に残す贈り物です。そのひとつが、「親の雑誌」です。親の雑誌は、お母さんやお父さんのこれまでの歩み、家族との思い出、人生のエピソードを取材し、一冊の雑誌のような形にまとめるサービスです。この贈り物の魅力は、単に“記念品”で終わらないことにあります。親にとっては、自分の人生をあらためて振り返る時間になります。子どもにとっては、これまで聞いたことのなかった親の話にふれる機会になります。そして孫にとっては、家族の歴史を知るきっかけにもなります。高齢の親へのプレゼントとして親の雑誌が向いているのは、こんな方です。・物よりも心に残る贈り物をしたい・ありきたりなプレゼントではなく、特別なものを贈りたい・誕生日や長寿祝い、金婚式などの節目にふさわしい贈り物を探している・親の話をきちんと形に残しておきたい・家族みんなで見返せるものを贈りたい「もう物はいらないよ」と言う親にも、人生そのものや家族との思い出を一冊に残す贈り物なら、単なる品物とは違う価値として受け取ってもらいやすいことがあります。高齢の親にこそ、“自分の人生を大切にしてもらえた”と感じるプレゼントを親世代へのプレゼントを考えるとき、実用性はもちろん大切です。けれど、年齢を重ねた親にとって本当にうれしいのは、「自分の人生を大切に見てもらえた」と感じられることかもしれません。忙しい毎日の中では、親の昔の話をゆっくり聞く機会は意外と少ないものです。どんな子ども時代を過ごしてきたのか。どんな思いで働き、家庭を築いてきたのか。どんな出会いや苦労があったのか。そうした話は、聞こうと思っても、いつでも聞けるわけではありません。だからこそ、プレゼントとしてその人生に向き合うことには大きな意味があります。親の歩みを取材して一冊に残す贈り物は、ただ“もらってうれしい”だけではなく、親自身が自分の人生を誇らしく思える時間にもつながります。それは、高齢の親へのプレゼントとして、とてもあたたかい価値を持った贈り方です。こんな方には「親の雑誌」のような記念ギフトが向いています次のような方には、実用品よりも、家族に残るプレゼントのほうが向いているかもしれません。・親が物を増やしたくないと言っている・毎年似たようなプレゼントになってしまう・今年は特別感のある贈り物をしたい・70代、80代、90代の親に何を贈るか迷っている・還暦、古希、喜寿、米寿、退職祝い、金婚式など節目の贈り物を探している・親の昔の話を、きちんと残しておきたい・子どもや孫にも受け継げるプレゼントを考えているもしこうした思いがあるなら、「親の雑誌」のような一冊に残る贈り物は、非常に相性のよい選択肢です。よくある質問高齢の親へのプレゼントで喜ばれるものは何ですか?相手の負担にならず、生活や好みに合っていて、気持ちが自然に伝わるプレゼントが失敗しにくいです。実用品、体験型、記念型の3つに分けて考えると選びやすくなります。物はいらないと言う親には何を贈ればいいですか?消えもの、体験型、記念に残る贈り物がおすすめです。特に、食事会や家族写真、人生や思い出を一冊に残すようなプレゼントは、物を増やしたくない親にも受け入れられやすいです。70代・80代の親にはどんなプレゼントが喜ばれますか?管理しやすく、負担が少なく、気持ちが伝わるプレゼントが喜ばれやすいです。実用品もよいですが、節目には家族との思い出や人生を振り返れるプレゼントも向いています。『親の雑誌」はどんな人に向いていますか?物ではなく心に残る贈り物をしたい方、還暦・古希・喜寿・米寿・金婚式などの節目に特別なプレゼントを考えている方、親の話や家族の思い出を形に残したい方に向いています。両親へのプレゼントとしても考えられますか?はい。夫婦の歩みや家族の歴史を振り返る贈り物は、両親へのプレゼントとしても相性がよいです。結婚記念日や金婚式などの節目にも向いています。 『親の雑誌』で親御様の人勢を形にしませんか?親御様のさまざまな体験を一冊の雑誌として形に残してみませんか?『親の雑誌』では、親御様へのインタビューを通して、かけがえのない人生の物語を作成いたします。「親の雑誌」だからこそできる経験があります。・親が担当者と話をするだけで文章が完成します・親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます・完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます・親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます・完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶資料請求はこちらから▶お申込みはこちらから --- - Published: 2026-04-13 - Modified: 2026-04-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3226/ - カテゴリー: ブログ 結婚記念日の名称をすぐ知りたい方へ。2026年に銀婚式を迎えるのは2001年に結婚したご夫婦、2026年に金婚式を迎えるのは1976年に結婚したご夫婦です。この記事では、主な結婚記念日の名称と意味、2026年版の早見表、節目を迎える有名人夫婦、親への贈り物のアイデアまで、分かりやすくまとめてご紹介します。結婚記念日の名称とは?結婚記念日の名称とは、夫婦が結婚してから迎える年数ごとに付けられた呼び名のことです。紙婚式、木婚式、銀婚式、金婚式など、それぞれに「これまでの歩み」や「これからの願い」が込められています。節目に合わせて贈り物やメッセージを考えやすいのも、結婚記念日の名称を知る大きなメリットです。2026年に銀婚式・金婚式を迎えるのは何年に結婚した夫婦?2026年時点の代表的な節目をまとめました。周年名称2026年に迎える結婚年1周年紙婚式2025年5周年木婚式2021年10周年錫婚式2016年20周年磁器婚式2006年25周年銀婚式2001年30周年真珠婚式1996年50周年金婚式1976年60周年ダイヤモンド婚式1966年70周年プラチナ婚式1956年「うちの親は何婚式?」と迷ったときは、まず2026年から結婚年を見比べると分かりやすくなります。銀婚式と金婚式は、それぞれ2001年結婚・1976年結婚が目安です。主な結婚記念日の名称と意味ここでは、よく検索される代表的な結婚記念日の名称をまとめました。周年名称意味1周年紙婚式白紙のような未来に、これからの夫婦の歴史を書き重ねていく節目5周年木婚式木のように根を張り、夫婦として少しずつ成長していく節目10周年錫婚式錫のようにしなやかで、美しさを増していく夫婦関係を表す節目20周年磁器婚式使い込むほど味わいが増す磁器のように、価値を深めていく節目25周年銀婚式銀のように輝きを増した夫婦の歴史を祝う節目50周年金婚式金のように豊かで尊い年月を重ねた夫婦を祝う大きな節目60周年ダイヤモンド婚式ダイヤモンドのように硬く、永遠に近い絆をたたえる節目70周年プラチナ婚式希少で価値の高いプラチナのような夫婦の絆を祝う節目2026年に節目を迎える有名人夫婦は?周年名称有名人夫婦結婚年5周年木婚式新垣結衣さん・星野源さん2021年10周年錫婚式北川景子さん・DAIGOさん2016年25周年銀婚式反町隆史さん・松嶋菜々子さん2001年50周年金婚式宮川大助さん・宮川花子さん1976年銀婚式・金婚式のプレゼントは何が喜ばれる?銀婚式や金婚式では、豪華さよりも思い出が残る贈り物が喜ばれやすい傾向があります。とくに親世代へのプレゼントでは、家族の写真や言葉が入ったものが人気です。1. 写真アルバム・フォトブック昔の写真から最近の家族写真までを1冊にまとめたアルバムは、結婚記念日の贈り物として定番です。夫婦の歩みを見返せるため、銀婚式・金婚式のどちらにも相性がよく、家族みんなで楽しめます。2. 花束・フラワーアレンジメント銀婚式なら白やシルバー系、金婚式なら黄色やゴールド系を意識した花束にすると、お祝いの意味がより伝わります。写真にも残しやすく、記念日の雰囲気づくりにも役立ちます。3. 手紙・メッセージカードお子さんやお孫さんからのメッセージは、何より心に残る贈り物です。高価なものでなくても、「ありがとう」「これからも元気でいてね」という気持ちを言葉にするだけで、記念日の印象は大きく変わります。よくある質問Q. 銀婚式は何年目ですか?A. 銀婚式は結婚25周年です。2026年に銀婚式を迎えるのは、2001年に結婚した夫婦です。Q. 金婚式は何年目ですか?A. 金婚式は結婚50周年です。2026年に金婚式を迎えるのは、1976年に結婚した夫婦です。Q. 20周年の結婚記念日は何と呼びますか?A. 20周年は磁器婚式と呼ばれます。磁器のように、使い込むほど価値が深まる夫婦関係を表す節目です。まとめ2026年に結婚記念日を迎える夫婦を調べるときは、まず「何周年か」と「結婚年」を照らし合わせるのが基本です。銀婚式は2001年、金婚式は1976年、磁器婚式は2006年結婚の夫婦が対象になります。そして、結婚記念日の贈り物は、豪華さだけでなく「その夫婦らしい思い出」を感じられるかどうかが大切です。人生の節目を家族みんなで振り返る機会として、写真や言葉を形に残すプレゼントを選んでみてはいかがでしょうか。Q. 親の結婚記念日には何を贈ると喜ばれますか?A. 写真アルバム、花束、メッセージカードなど、思い出や気持ちが伝わる贈り物が人気です。親への結婚記念日プレゼントに「親の雑誌」が選ばれる理由親の雑誌は、親御様にインタビューを行い人生や思い出を文章と写真でおまとめるサービスです。結婚記念日だけでなく、誕生日、長寿祝い、退職祝い、日頃の感謝を伝える贈り物としても多くご利用いただいています。資料請求はこちらお申し込みはこちら --- - Published: 2026-02-26 - Modified: 2026-02-26 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3219/ - カテゴリー: お知らせ 平素より『親の雑誌』をご利用いただき、誠にありがとうございます。このたび、『親の雑誌』を作成された方を対象にした研究インタビュー(聞き取り調査)について、研究者の方よりご協力依頼をいただきました。つきましては、『親の雑誌』を作成された方の中で、インタビュー調査にご協力いただける方を募集いたします。※本調査の実施は研究者の方が行います。当社は調査への参加・日程調整、聞き取り等は行いません。ご連絡は最後に記載しております研究者連絡先へ直接お願いいたします。■ 研究者のご紹介(自己紹介)本調査は、文化人類学研究者の宇田川 彩(うだがわ あや)様が実施します。文化人類学は、同じ時代に生きる人びとの暮らしを、ありのままに「聞く・見る」ことを通して理解していく身近な学問です。宇田川様は東京理科大学で文化人類学やスペイン語を教えており、現在は5才・3才の二児の子育て中です。■ 研究テーマへの関心(背景)宇田川さんはこれまで、南米や中東でユダヤ人を対象に、移住と深く結びつきながら紡がれる家族の歴史に関心を持ち研究されてきました。その後、日本でも、家族の中で語り継がれる自分史・家族史への関心を広げてきたそうです。今回の調査では、家族と密接に関わる形での「自分史づくり」について、制作のきっかけや制作後のお気持ちなどを伺いたい、とのことです。■ 調査の概要調査名:『親の雑誌』利用者への聞き取り調査実施者:宇田川 彩様(文化人類学研究者/東京理科大学 葛飾キャンパス教養部教員 ※2026年4月より京都大学 人文科学研究所)目的:制作のきっかけや制作後の思い等を伺い、研究資料として活用 ■ ご協力いただきたい内容『親の雑誌』を作成された利用者の方(ご依頼者さま/親御さまの双方、またはいずれか)に、制作のきっかけ・作成後の思いなどを約1時間お伺いします。伺った内容はまとめたうえで、個人名を伏せて研究資料として活用されます。■ 実施方法・時期方法:ご自宅または近隣での対面、もしくはオンラインでも可訪問可能地域:主に東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県など(オンラインの場合は全国)、時期の調整により、京都府をはじめとする関西圏も対面で訪問可能です。時期:2026年3月以降、随時謝礼:大変心苦しいのですが、本調査では謝礼をご用意することができません。■ プライバシー・掲載に関する配慮聞き取りの際には、論文等に公表できる内容かどうかを逐一確認しながら進めます。論文等へ掲載する場合は、発表前に対象者ご本人に原稿をご確認いただき、最終確認とします。 ■ ご参加にあたってご興味のある方は、下記の連絡先へ直接お問い合わせください。その際、お名前、訪問先の地域(最寄り駅等、詳細でなくとも構いません)、調整可能なおおよその時期を記載いただけると助かります。■ 連絡先宇田川 彩様メール:udgwaya@gmail. com(件名に<『親の雑誌』聞き取り調査>などと記載いただけると助かります。)電話:080-2347-6287 --- - Published: 2026-02-13 - Modified: 2026-04-20 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3207/ - カテゴリー: ブログ 1. 長寿祝いとは長寿祝いは、長寿を祝福し、健やかな節目を家族や周囲の人と分かち合う日本の伝統行事です。還暦・古希・喜寿・傘寿・米寿など、節目の年齢ごとに名称があります。近年は「数え年」で祝う場合と「満年齢」で祝う場合があり、家庭や地域によって選ばれています。数え年:誕生日を1歳とし、元日に1歳加算数え年=「現在の西暦」-「出生年」+1満年齢:誕生日を0歳とし、誕生日ごとに1歳加算2. 長寿祝いの名前と由来(代表例)※地域や家庭により、お祝いするタイミングが異なる場合があります。ここでは一般的な目安として整理します。還暦(かんれき)生まれた年の干支に「還る」ことから。赤いちゃんちゃんこの風習でも有名です。古希(こき)「人生七十古来稀なり」(杜甫の詩)に由来。喜寿(きじゅ)「喜」の草書体(㐂)が七を3つ重ねた形に見えることから。傘寿(さんじゅ)「傘」の略字が八十に見えることから。米寿(べいじゅ)「米」を分解すると八十八に見えることから。卒寿(そつじゅ)「卒」の略字が九十に見えることから。白寿(はくじゅ)「百」から「一」を引くと「白」になることに由来。百寿(ひゃくじゅ/ももじゅ)100歳を祝う呼称。3. 2026年(令和8年)の長寿祝い 早見表(数え年基準)2026年に長寿の節目を迎える「出生年」の早見表です。(数え年=2026-出生年+1で算出)【表】2026年の長寿祝い 早見表名称数え年数え年の生まれ年満年齢満年齢の生まれ年還暦611967年(昭和42年)601966年(昭和41年)古希701957年(昭和32年)691957年(昭和32年)喜寿771950年(昭和25年)761950年(昭和25年)傘寿801947年(昭和22年)791946年(昭和21年)米寿881939年(昭和14年)871938年(昭和13年)卒寿901937年(昭和12年)891936年(昭和11年)白寿991928年(昭和3年)991927年(昭和2年)百寿1001927年(昭和2年)1001926年(大正15年/昭和元年)4. 2026年に節目を迎える著名人ここからは、2026年に「数え年」で節目を迎える著名人を、ほんの一部ご紹介します。2026年に古希(数え70歳/1957年生まれ)を迎える方大竹しのぶさん(俳優)名取裕子さん(俳優)戸田恵子さん(俳優・声優)段田安則さん(俳優)かたせ梨乃さん(俳優)2026年に喜寿(数え77歳/1950年生まれ)を迎える方和田アキ子さん(歌手・タレント)舘ひろしさん(俳優)梅沢富美男さん(俳優・タレント)細川たかしさん(演歌歌手)4-3. 2026年に傘寿(数え80歳/1947年生まれ)を迎える方北野武(ビートたけし)さん(映画監督・タレント)小田和正さん(シンガーソングライター)寺尾聰さん(俳優・歌手)泉ピン子さん(俳優)高田純次さん(タレント)2026年に卒寿(数え90歳/1937年生まれ)を迎える方加山雄三さん(俳優・歌手)伊東四朗さん(俳優・コメディアン)養老孟司さん(解剖学者)林家木久扇さん(落語家)4-5. 2026年に白寿・百寿(数え99・100歳/1928年・1927年生まれ)を迎える方ドクター・中松(中松義郎)さん... ... 1928年生まれ(2026年に数え99=白寿) 5. 長寿祝いの贈り物に『親の雑誌』という選択長寿祝いは、家族の節目が重なる貴重なタイミングです。「何を贈ろう?」と迷ったとき、思い出や言葉を一冊にまとめる“形に残る贈り物”として『親の雑誌』も選択肢になります。 『親の雑誌』は、こんなシーンによくご利用いただいています。母の日・父の日のプレゼント銀婚式・金婚式お誕生日祝い長寿祝い退職・退任祝い日ごろの感謝をこめて「親の雑誌」だからこそできる経験があります。・親が担当者と話をするだけで文章が完成します・親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます・完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます・親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます・完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶資料請求はこちらから▶お申込みはこちらから --- - Published: 2026-01-14 - Modified: 2026-01-14 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3196/ - カテゴリー: ブログ スマートフォンで簡単にメモが取れる時代。それなのに今、あえて「手書きの日記」を書く人が増えています。日記を書くことが若者から高齢者まで幅広い世代で静かなブームとなっているのです。今、なぜ日記がブームなのか「日記界隈」という言葉をご存じでしょうか。これは、日記を書き、その内容や手書きのページをSNSで共有する人々のことを指します。実はこの言葉、「SHIBUYA109 lab. トレンド予測2025」の「モノ・コト部門」にもランクインした、注目のキーワードなのです。従来の日記は「他人に見せないもの」でしたが、Z世代の日記は真逆。あえて日々の出来事を手書きで記録し、そのページをSNSで共有するスタイルが主流になっています。この「日記界隈」と呼ばれる文化が火をつけたのが、新潮社の『マイブック』です。日付と曜日だけが印刷された白い文庫本のようなこの日記帳。若者たちが『マイブック』に書いた手書きのページをSNSに投稿したことがきっかけで、異例のヒットとなりました。2025年上半期のベストセラー文庫部門で11位にランクイン。21年ぶりに12万部を突破し、5度の増刷を重ねています。実際に、15~24歳の若年層女性の読者は昨年比146%増加という驚異的な伸びを見せました。さらに、2026年のもう一つのトレンドが「日付フリー」の手帳です。日付が印刷されていないため、自分の使いたいタイミングから始められる自由さが人気の理由。毎日書くことに縛られず、自分のペースで続けられることが支持されています。なぜ今、これほどまでに日記が注目されているのでしょうか。背景には、コロナ禍以降に見直された「自分と向き合う時間」があります。そして、AI時代が本格化する中で、「自分はどうしたいのか」という問いに、人々が自然と向き合うようになったことも要因です。デジタル全盛の時代だからこそ、あえて紙とペンで自分と対話する。その行為に、意味を見出す人が増えているようです。「記録」から「内省」へ―ジャーナリングという新しい日記日記ブームはさらに進化しています。2025年のトレンドは「ライフログ」でした。これは、健康記録や気持ちの変化、日々の出来事を記録する方法です。しかし2026年は、記録したことをさらに内省して自分に向き合う「ジャーナリング」が注目されています。ライフログや日記が「出来事の記録」なら、ジャーナリングは「心の記録」。自分の内面に重きを置く点が大きな違いです。ジャーナリングとは、自分の気持ちや考えを紙に書き出すことで、思考や感情を整理する習慣のこと。特定のルールはなく、自由に書くことができます。「今日は何だかモヤモヤする」「あの人の言葉が心に引っかかっている」そんな漠然とした感情も、書き出すことで整理され、自分でも気づかなかった本音が見えてくることがあります。実は、この効果は科学的にも実証されています。スタンフォード大学やプリンストン大学の研究では、感情を書き出すことでストレスホルモンが減少し、免疫機能が向上することが明らかになっています。また、ポジティブ心理学の創始者マーティン・セリグマン博士の研究では、毎日3つの良かったことを書く習慣を3週間続けた人は、幸福度が有意に上昇し、その効果は半年後も持続したという結果が出ています。連用日記が紡ぐ、過去・現在・未来日記から自分史へのつながりを考えると、おすすめは「連用日記」です。連用日記とは、同じ日付のページに複数年分(3年、5年、10年など)を記録できる日記のこと。たとえば5年日記なら、1月15日のページに、2026年から2030年までの5年分を書き込んでいきます。この日記の魅力は、過去の自分と自然に出会えることです。2年目の1月15日に日記を開けば、1年前の自分が書いた言葉が目に入ります。「そういえば去年も同じようなことで悩んでいたな」「あの時できなかったことが、今年はできるようになっている」そんな発見が、日々の中に溢れています。連用日記は用途によって年数を選ぶことができます。3年日記は育児や新生活など短期の記録に、5年日記は健康管理や趣味の継続に最適です。毎日数行でも、5年続ければ簡単な自分史になります。「今日、孫が初めて一人で歩いた」「庭のバラが今年も咲いた」「体調を崩して病院へ」そんな何気ない一行一行が、振り返った時に人生の物語として浮かび上がってくるのです。日記から自分史へ―小さな記録が人生の宝物になる親の雑誌(自分史)を作る際、多くの方が「昔のことをなかなか思い出せない」とおっしゃいます。特に70代、80代になると、記憶が曖昧になることも少なくありません。そんな時、日記があれば大きな助けになります。日記は記憶の補完装置です。「あの年の夏は暑かったな」という漠然とした記憶が、日記を開けば「8月15日、気温38度。孫と一緒にスイカを食べた」と具体的な場面として蘇ります。インタビューの際にも、日記があることでより豊かなエピソードを引き出すことができるのです。また、日記そのものが家族への贈り物になります。几帳面に書かれた日記でなくても構いません。走り書きのメモでも、そこには確かに生きた証が刻まれています。お父様やお母様が毎日どんなことを考え、何を大切にして生きていたのか。その記録は、ご家族にとってかけがえのない財産となるでしょう。書くことで人生がより豊かになる日記を書くことは、自分と対話する時間を持つことです。忙しい日常の中で、立ち止まって自分の心を見つめる。良かったことに目を向け、感謝を言葉にする。そんな小さな習慣が、人生をより豊かに、より幸せにしてくれます。そして、その積み重ねはやがて自分史という形になります。日々の小さな記録が、人生という大きな物語を紡いでいく。それは、未来のご自身やご家族への、最高の贈り物になるはずです。書くことで人生を振り返り、書くことで明日へと繋げていく。そんな習慣を始めてみませんか。『親の雑誌 電子版』の紹介『親の雑誌 電子版』は、家族のための自分史作成サービス『親の雑誌』から生まれた、人々の人生を綴ったデジタルメディアです。『親の雑誌』を作成した方々の人生を、親御様の生きてきた人生の価値を、離れて暮らす家族や親せき、友人と共有することができるだけでなく、さらに、いろいろな方に読んでいただけるよう掲載しています。 全ての人にはかけがえのない価値があり、その人が歩んできた人生は、たくさんの出会いで誰かの人生とつながり、この時代を織りなしています。お一人お一人が生きてきた人生に、ぜひふれてみてください。  --- - Published: 2026-01-05 - Modified: 2026-01-05 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3191/ - カテゴリー: ブログ 2026年、今年は午年です。十二支の中でも力強さと躍動感を象徴する「午」。古くから人間の生活に深く関わってきた馬は、多くのことわざや慣用句にその姿を残し、私たちに人生の知恵を伝え続けています。今回は午年の始まりということで、馬にまつわることわざをご紹介します。人間万事塞翁が馬:人生の浮き沈みを受け入れるまず最も有名な馬のことわざといえば、「人間万事塞翁が馬」ではないでしょうか。これは中国の故事に由来することわざで、「幸福が不幸に、不幸が幸福に転じる。人生の吉凶は予測できない」という意味です。辺境に住む老人の馬が逃げてしまったが、後に優れた馬を連れて戻ってきた。その馬に乗った息子が落馬して足を折ったが、そのおかげで戦争の徴兵を免れ命が助かった——という物語です。『親の雑誌』のインタビューでも、このことわざを口にされる方がいらっしゃいます。若い頃の失敗が後の成功につながったり、辛い経験が人間としての深みを与えてくれたり。「あの時はどうなることかと思ったけれど、今思えばあれがあったから今の自分がある」——人生を振り返る時、そんな瞬間があるはずです。新しい年を迎えた今、過去の出来事すべてに意味があったと捉え直すことで、これからの日々をより前向きに歩んでいけるかもしれません。老馬の智:経験に勝る知恵はない「老いた馬は道を知る」という意味のことわざです。これは、年老いた馬は何度も通った道を覚えていて、迷わず目的地に導いてくれるという中国の故事から生まれました。転じて、経験豊富な人の知恵や判断力は信頼できる、という意味で使われます。まさに親御さんが持つ「人生経験」そのものを表していることわざですね。現代社会では、新しい情報や技術ばかりに目が行きがちです。しかし、人間関係の築き方、困難への対処法、心の持ち方など、長年の経験から培われた知恵は、時代が変わっても色褪せることはないのではないでしょうか。午年の今年は、親御さんの経験に改めて耳を傾けてみる年にしてみてはいかがでしょうか。何気ない会話の中に、今の自分に必要なヒントが隠されているかもしれません。馬には乗ってみよ、人には添うてみよ:実際に経験することの大切さこれは、馬の良し悪しは実際に乗ってみなければわからないし、人柄も付き合ってみなければわからない、という意味のことわざです。何事も、見聞きするだけでなく、実際に経験してみることの大切さを教えてくれています。親御さんの若い頃の話を聞くと、「とりあえずやってみた」という積極性に驚かされることがあります。今ほど情報がなかった時代だからこそ、自分の足で確かめ、自分の目で見て、自分の手で触れることを大切にしてきたのでしょう。現代はインターネットやAIで簡単に調べものができますが、実際に体験することでしか得られない学びがあることを、このことわざは教えてくれます。新しい年の始まりに、何か新しいことに挑戦してみるのも良いかもしれませんね。馬の耳に念仏:伝え方の工夫も大切?馬に念仏を聞かせても意味がわからない、つまり、どんなに良い話をしても理解できない人には無駄だという意味のことわざです。少し皮肉な表現ですが、これは「伝え方」の大切さも教えてくれています。親子のコミュニケーションでも、同じことが言えるかもしれません。良かれと思ってアドバイスをしても、伝え方によっては相手の心に届かないこともあります。親世代から子世代へ、子世代から親世代へ、それぞれが相手の立場や価値観を理解しながら言葉を選ぶことが、良好な関係を築く鍵になります。午年の一年を、知恵とともに歩む今年は午年。馬のように力強く、しなやかに、そして着実に前へ進む一年にしたいものです。昔から伝わることわざには、先人たちが人生を通じて学んだ知恵が凝縮されています。それは、親御さんたちが生きてこられた時代の価値観や生き方とも結びついています。親御さんと話す時に、「馬のことわざ」を話題として振ってみるのも良いかもしれません。そこから、思い出話や、親御さんの人生観に触れる会話が生まれるかもしれませんね。2026年が、皆様とご家族にとって、馬のように力強く前に進める一年になりますように。そして、世代を超えて受け継がれてきた知恵を大切にしながら、温かい家族の時間を過ごせますように。「両親の雑誌」のご紹介『親の雑誌』は親御さんのために贈る親の自分史です。親御様に日頃の感謝の気持ちを込めて「親の雑誌」を贈ってみてはいかがでしょうか? また、お父様、お母様それぞれの自分史を作成できる特別パッケージをご用意しております。ご両親が一緒に歩んでこられた道のりを家族で振り返り、雑誌としてまとめることができます。長年一緒に歩んできた親御さんであっても、幼少期や学生時代の思い出、結婚までの歩み、仕事や人生への考え方、家族への思いはそれぞれです。これまでに制作されたお客様からは「両親のお互いへの気持ちを知ることができた」「親になる前のことを知れた」「出会いについて初めて知った」などの感想をいただいています。お手元でいつでも読み返せる「両親の雑誌」をご家族の皆様で制作してみませんか? --- - Published: 2025-12-24 - Modified: 2025-12-24 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3189/ - カテゴリー: お知らせ 『親の雑誌』ご利用規約改定のお知らせ2025年12月24日株式会社こころみ拝啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。平素は格別のお引き立てを賜り、厚く御礼申し上げます。 2025年12月24日より親の雑誌等のご利用規約の改定を行いますので、お知らせいたします。【主な改定事項 】利用規約 第1条 運営主体と利用規約の適用、第3条 本サービスの内容 【対象サービス】親の雑誌私の人生史 詳細に関しましては、親の雑誌ご利用規約を、ご覧くださいお客様におかれましては、今後とも変わらぬご高配を賜りますようお願い申し上げます。敬具 --- - Published: 2025-12-11 - Modified: 2025-12-11 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3184/ - カテゴリー: ブログ 「お父さん、今度の誕生日プレゼント何がいい?」 「お母さん、敬老の日に何か欲しいものある?」そう尋ねても、70代、80代になった親御さんから返ってくる言葉は、こんな感じではないでしょうか。「気持ちだけで嬉しいよ」 「何もいらないよ」 「無駄遣いしなくていいからね」これは決して遠慮だけではなく、本心からの言葉であることも多いものです。 人生を長く歩んできた親御さん世代は、必要なものをほとんどお持ちです。洋服やバッグなどの「モノ」は、好みやサイズの問題もありますし、断捨離を意識している世代にとっては、むしろ負担になってしまうことさえあります。また、旅行や食事などの「体験」も、健康状態や体力を考えると、少し躊躇してしまうケースもあるでしょう。「何を贈れば本当に喜んでもらえるのだろう?」 「ありきたりなカタログギフトやお酒ではなく、もっと心に残る特別なものを贈りたい」もしそのように悩まれているのであれば、今までとは全く違う視点のプレゼントをご提案します。 それは、親御さんの人生そのものを一冊のカタチにする『親の雑誌(自分史)』を贈ることです。「自分史なんて、有名人が作るものでしょう?」 「うちの親は普通の人生だったから、書くことなんてないよ」そう思われるかもしれませんが、実際に『親の雑誌(自分史)』を作成された方たちからは、お喜びの声をいただくことがおおいです。なぜ今、70代・80代の親へのギフトに『親の雑誌(自分史)』が選ばれ、喜ばれているのか。その3つの理由を紐解いていきます。理由1:「話すこと」そのものが、活力になる一つ目の理由は、完成した本そのものだけでなく、「自分の人生を振り返り、語る時間」が、親御さんにとってのプレゼントになるからです。定年退職し、子育ても終わり、還暦、古希... ... と年齢を重ねていくと、社会との接点はどうしても少なくなります。「誰かに必要とされている」「自分の話を聞いてもらえる」という機会は、現役時代に比べて激減します。そんな中で、「あなたの人生の話を聞かせてほしい」と聞くプロが、じっくりと耳を傾ける。 これは親御さんにとって、「自分が主役」になれる時間です。・子供の頃、外で遊び回った思い出・若き日の仕事での苦労や達成感・結婚当初の貧しくも楽しかった生活・子供が生まれた時の感動記憶の引き出しを開け、懐かしいエピソードを話している時の親御さんの表情は、生き生きとしています。これは心理学的にも「回想法」といって、過去の肯定的な記憶を語ることが脳を活性化し、精神的な安定や自己肯定感を高める効果があると言われています。「私の人生、まんざらでもなかったな」 「いろいろあったけれど、良い人生だったな」取材を通してそう再確認することは、これからの人生を前向きに生きるための大きなエネルギーにもなります。『親の雑誌』の制作は、単なる本の作成作業ではなく、心境の変化をもたらす体験ギフトなのです。理由2:親子の「知らなかった」を埋め、絆を深める二つ目の理由は、親子のコミュニケーションのキッカケになるからです。あなたは、親御さんのことをどれくらい知っていますか? もちろん、親としての顔はよく知っているでしょう。しかし、「親になる前の父」「母になる前の母」が、どんな青春を送り、どんな夢を持ち、どんな恋愛をしてきたのか。意外と知らないことだらけではないでしょうか。・お父さんが新入社員の頃、どんな大失敗をしたのか。・お母さんがお父さんと結婚を決めた決め手は何だったのか。こうした話は、親子だからこそ、面と向かっては聞く機会はないものです。親も「わざわざ子供に話すことでもない」と口をつぐんでしまいます。しかし、第三者である『親の雑誌』の担当者が入ることで、話はスムーズに出てきます。そして、完成した雑誌を家族みんなで読んだ時、驚きや発見があったりします。「お父さん、若い頃こんなに頑張って働いていたの!?」 「お母さんの得意料理には、そんな思い出があったんだ」そこに書かれているのは、ただの記録ではありません。あなたの「ルーツ」の物語です。 「親の雑誌」をきっかけに、「この時の話、もっと詳しく聞かせてよ」と会話が弾み、実家の居間が笑い声で包まれる。そんな「会話のきっかけ」を贈ることができるのです。理由3:色褪せない「家族の宝物」として残り続ける三つ目の理由は、それが孫やひ孫の代まで残る、宝物になるからです。言葉と写真で綴られた『親の雑誌』は、親御さんが亡くなった後も、その温もりを伝え続けます。特に、お孫さんにとっての価値は計り知れません。 今はおじいちゃん・おばあちゃんの昔話に興味がない小さなお孫さんも、いつか自分が大人になり、壁にぶつかった時、この雑誌を開く日が来るかもしれません。「おじいちゃんも、若い頃は同じようなことで悩んでいたんだな」 「おばあちゃんのこの言葉、今の私になら意味がわかる」時代を超えて、親御さんの生き様や価値観が、お孫さんたち世代にも影響を与える。 そんなことを形として残すことができるのは、自分史だけです。「お父さん・お母さんは、こうやって生きてきたんだよ」というメッセージを残すことは、家族にとっては価値のある財産になるはずです。。おわりに:「元気なうちに」こそ、最高のタイミング親へのプレゼントに『親の雑誌(自分史)』をおすすめする理由、それは以下の3点でした。「語る喜び」により、親が自信と活力を取り戻すから親の知られざる一面を知り、家族の会話が増えるから親の生きた証が、孫子の代まで残る宝物になるから「自分史なんて、まだ早いよ」と親御さんは笑うかもしれません。 ですが、記憶が鮮明で、元気にお話しができる「今」こそが、実はベストなタイミングです。あるお客様はこう言われました。 「最初は恥ずかしがっていた父ですが、完成した雑誌を嬉しそうに友人に配っていました。あんなに嬉しそうな父の顔を見たのは久しぶりです」次の記念日には、お父様、お母様の人生そのものを祝福する「親の雑誌」を贈ってみませんか? それはきっと、ご両親にとっても、そしてあなたにとっても、一生忘れられないプレゼントになるはずです。。『親の雑誌』で親御様の子供時代の思い出を残しませんか?ラジオ体操の思い出も含め、親御様の子供時代のさまざまな体験を一冊の雑誌として形に残してみませんか?『親の雑誌』では、親御様へのインタビューを通して、かけがえのない人生の物語を作成いたします。 『親の雑誌』は、こんなシーンによくご利用いただいています。母の日・父の日のプレゼント銀婚式・金婚式お誕生日祝い長寿祝い退職・退任祝い日ごろの感謝をこめて「親の雑誌」だからこそできる経験があります。・親が担当者と話をするだけで文章が完成します・親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます・完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます・親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます・完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶資料請求はこちらから▶お申込みはこちらから --- - Published: 2025-12-02 - Modified: 2025-12-02 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3180/ - カテゴリー: ブログ 棚の奥に大切にしまわれた切手帳、引き出しの中に眠る古銭コレクション、書斎を埋め尽くすレコードの数々... ... 。親御さんの家を訪れると、何十年もかけて集められた「コレクション」を目にしたことはありませんか? 一見すると「ただのモノ」に見えるかもしれません。しかし、その一つひとつには、親御さん御さんが歩んできた人生の物語が詰まっています。なぜそれを集め始めたのか、どんな思いで探し続けたのか。そのストーリーを聞いたことはあるでしょうか? 今回は、御さん世代のコレクションに込められた意味と、それを自分史として記録に残す良さについてお伝えします。 なぜ御さん世代は「集める」のか?—昭和という時代背景昭和30年代から50年代にかけて、日本は高度経済成長期を迎えました。戦後の貧しさから抜け出し、人々の生活に少しずつ余裕が生まれた時代。テレビや冷蔵庫、洗濯機といった「三種の神器」が家庭に普及し始め、娯楽や趣味を楽しむ文化が広がっていきました。切手収集ブームは1960~70年代に最盛期を迎え、記念切手が発行されるたびに郵便局に行列ができました。海外との文通が流行し、遠い国から届いた美しい切手は、まだ見ぬ世界への憧れそのものでした。レコードは音楽を楽しむための唯一の手段であり、お小遣いをためて買った1枚のレコードを擦り切れるまで聴いた思い出を持つ方も多いでしょう。ジャケットのデザインや歌詞カードまでが大切な宝物でした。古銭や骨董品のコレクションは、歴史への興味や「本物」を見極める目を養う趣味として、知的好奇心の高い方々に愛されてきました。このように、御さん世代のコレクションは、単なる「モノ集め」ではなく、その時代の空気や、人生のある時期の情熱、そして夢が詰まった「人生の記録」なのです。コレクションを通じて見えてくる親御さんの価値観と人間性親御さんのコレクションを見せてもらうと、意外な一面を発見することがあります。普段は寡黙で仕事一筋だった父が、実はジャズレコードの熱心なコレクターで、アーティストの来日公演に足を運んでいた話。几帳面な性格の母が、美しい柄の古い絵葉書を丁寧にファイリングし、一枚一枚に思い出のエピソードを書き込んでいたこと。コレクションは、親御さんの人間性を表します。何を選び、どう整理し、どれほど大切にしてきたか。その姿勢から、親御さん御さんがどんな価値観を持ち、何に心を動かされる人だったのかが見えてきます。また、コレクションには時間の積み重ねがあります。何十年もかけて少しずつ集めたものは、単なる趣味を超えて、人生の一部となっています。その継続力、探求心、そして情熱は、子どもや孫に伝えるべき大切なメッセージではないでしょうか。「いつか処分する時」が来る前に—記録の大切さ遺品整理の現場では、故人が大切にしていたコレクションの取り扱いに悩むご家族が非常に多いのが現実です。「父が大切にしていたから捨てにくい」「価値が分からない」「誰かに譲りたいけど、欲しい人はいるのかな... 」。コレクションは、本人にとっては宝物でも、家族にとっては「価値が分からないモノ」になってしまうことがあります。切手や古銭は買取業者に査定してもらうこともできますが、思い出の詰まったアイテムを金額だけで判断するのは、どこか寂しい気持ちになるものです。だからこそ、親御さんが元気なうちに、コレクションの「物語」を聞いておくことが大切なのです。- なぜそれを集め始めたのか- 一番思い入れのあるアイテムはどれか- 集めている時の楽しみや苦労- コレクションを通じて出会った人々- これからどうしていきたいかこれらの話を記録に残すことで、コレクションは単なる「モノ」から、親御さんの人生そのものを語る「ストーリー」へと変わります。 『親の雑誌』でコレクションへの想いを残す自分史制作サービス『親の雑誌』では、親御さんのコレクションへの想いも記録に残すことができます。以下のような方法で、コレクションの物語を形にしてみませんか?1. 「なぜ集めたか」のストーリーを語る取材の際に、コレクションを始めたきっかけや、印象的なエピソードを丁寧にヒアリングします。2. コレクション仲間との思い出も掲載コレクションを通じて知り合った友人や、一緒に展示会に行った仲間とのエピソードも貴重な記録です。3. 「未来へのメッセージ」を添えるこのコレクションを今後どうしてほしいか、家族へのメッセージを残しておくことで、遺品整理の際に家族が迷うことがなくなります。4. コレクション特集ページを作る(オプションにて承ります)『親の雑誌』の中に「私のコレクション」という特集ページを設けて、写真とエピソードをまとめます。処分を決める前に記録するもちろん、すべてのコレクションを永遠に保管し続けることは現実的ではありません。いつかは手放す時が来るかもしれません。ですが、処分する前に記録を残してみてはいかがでしょう。写真に撮り、エピソードを聞き、形に残す。そうすることで、たとえ物理的にはコレクションを手放したとしても、親御さんの想いは残すことができます。お子さんやお孫さんが「おじいちゃんはこんなものを集めていたんだ」「こんな熱い思いがあったんだね」と知ることで、世代を超えたコミュニケーションも生まれます。親御さんの人間性をより深く理解するきっかけにもなるでしょう。 まとめ:コレクションは人生の勲章親御さんが集めたコレクションは、ただのモノではありません。それは、親御さんが生きてきた時代の証であり、情熱を注いだ対象であり、人生を豊かにしてくれた宝物です。今、親御さんが元気なうちに、そのコレクションの物語を聞いてみませんか?そして、自分史という形で記録に残してみませんか? 『親の雑誌』では、親御さんの人生を丁寧に取材し、一冊の雑誌に仕上げます。『親の雑誌 電子版』の紹介『親の雑誌 電子版』は、家族のための自分史作成サービス『親の雑誌』から生まれた、人々の人生を綴ったデジタルメディアです。『親の雑誌』を作成した方々の人生を、親御様の生きてきた人生の価値を、離れて暮らす家族や親せき、友人と共有することができるだけでなく、さらに、いろいろな方に読んでいただけるよう掲載しています。 全ての人にはかけがえのない価値があり、その人が歩んできた人生は、たくさんの出会いで誰かの人生とつながり、この時代を織りなしています。お一人お一人が生きてきた人生に、ぜひふれてみてください。 --- - Published: 2025-12-01 - Modified: 2025-12-01 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3178/ - カテゴリー: お知らせ 平素は格別のお引き合いを賜り、厚くお礼申し上げます。 誠に勝手ながら、2025年12月26日(金)~ 2025年1月5日(月)まで、 株式会社こころみは年末年始休業とさせていただきます。ご不便をおかけしますが、何卒ご理解いただきますようお願い致します。なお、「親の雑誌」「創業の雑誌」「私の人生史」のお問い合わせ、資料請求、お申し込みは1月6日(火)以降、随時ご対応させていただきます。 --- - Published: 2025-11-25 - Modified: 2025-11-25 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3175/ - カテゴリー: ブログ 年末が近づくと、親御さんのことをいつもより気にかける方もいらっしゃるのではないでしょうか。一人暮らしをしている親は元気だろうか。離れて暮らす親と、今年はどれくらい会えただろうか。寒さが厳しくなるこれからの季節、親との時間をどう過ごそうかと考える方もいらっしゃると思います。今回ご紹介するのは、ヨーロッパの冬の伝統「アドベントカレンダー」と「シュトレーン」。これらを親御さんとの時間に取り入れることで、何気ない訪問が特別な思い出になるかもしれません。アドベントカレンダー—親御さんとのコミュニケーションのきっかけにアドベントカレンダーは、12月1日からクリスマスイブの24日まで、毎日ひとつずつ窓を開けていくカレンダーです。19世紀のドイツで生まれたこの習慣は、小さな窓の中にチョコレートやお菓子、小さな飾りなどが入っており、毎日開ける楽しみがあります。離れて暮らす親御さんへの贈り物としてもし親御さんと離れて暮らしているなら、12月が始まる前にアドベントカレンダーを贈ってみてはいかがでしょうか。「毎朝、開けるのが楽しみ」と電話で話してくれる親御さんの声を想像してみてください。「今日は何が入っていた?」「今日はチョコレートだったわよ」—そんな何気ないコミュニケーションが距離を縮めてくれます。毎日開けるものだからこそ、頻繁に連絡を取るきっかけにもなります。最近では、お茶やコーヒー、和菓子が入ったアドベントカレンダーもあり、洋菓子が苦手な親にも喜ばれる選択肢が増えています。一緒に暮らす親御さん、近くに住む親御さんとの楽しみ方一緒に暮らしている、あるいは近くに住んでいるなら、週末など時間に余裕があるときに、一緒に窓を開けてみましょう。「今週はどんなものが入っていたか見せて」と声をかけるだけで、会話が弾みます。親御さん世代にとっては馴染みの薄い習慣かもしれませんが、「これはドイツの習慣らしいよ」と説明しながら一緒に楽しむ時間が、新鮮なコミュニケーションを生み出します。毎日めくる日めくりカレンダーのようなものだと説明すると、親御さんにもわかりやすいでしょう。シュトレーン—一緒にお茶を楽しむ時間シュトレーンは、ドイツの伝統的なクリスマス菓子です。ドライフルーツやナッツがぎっしり詰まった生地に、たっぷりのバターと粉砂糖がかかった、見た目にも美しい焼き菓子。その白い姿は、幼子イエスを包む「おくるみ」を表現していると言われています。日持ちするからこそ、何度も訪問できるシュトレーンの最大の特徴は、2週間から1ヶ月ほど日持ちし、時間をかけて少しずつ楽しめることです。親御さんを訪ねるたびに、一緒に薄くスライスして、お茶の時間を過ごす—そんな習慣を作ってみてはいかがでしょうか。「先週より味が馴染んできたね」「今日の方がおいしいわね」と、変化を感じながら味わう。そんな会話を通じて、親との時間がゆったりと流れていきます。シュトレーンは、漬物や味噌のように「熟成」を楽しむお菓子です。時間をかけて味わうという文化は、親世代にとってもなじみ深いもの。「これは日本の保存食と似た考え方でね」と説明すれば、親も興味を持ってくれるかもしれません。選び方のポイントシュトレーンは、デパートや専門店、通信販売で手に入ります。初めて購入するなら、小さめのサイズ(300〜500g程度)がおすすめです。大きすぎると食べきれないこともあるため、親の食欲や訪問頻度に合わせて選びましょう。最近では、フルーツが控えめのものや、日本の素材を使ったものもあります。親の好みに合わせて選ぶ楽しみもあります。「待つ楽しみ」を一緒に味わうアドベントカレンダーもシュトレーンも、共通しているのは「待つ楽しみ」です。すぐに全部開けるのではなく、毎日少しずつ。一度に食べきるのではなく、訪問のたびに少しずつ。現代は何でもすぐに手に入り、情報は瞬時に届く時代です。だからこそ、親との時間には、ゆっくりと流れる時間の豊かさを大切にしたいものです。親御さん世代は、季節の移ろいを感じながら暮らしてきた方も多い世代です。冬至にゆず湯に入り、年末に大掃除をし、お正月の準備を少しずつ進める—そうした「待つ時間」の中に、生活の楽しみを見出してきました。アドベントカレンダーやシュトレーンは、そんな親御さん世代の感性に通じるものがあります。異なる文化の習慣を一緒に楽しむことで、新しい話題が生まれ、コミュニケーションも増えるかもしれません。年末年始の帰省に向けて年末年始、実家に帰省する予定がある方も多いでしょう。アドベントカレンダーやシュトレーンを手土産に持っていくのも良いアイデアです。お正月の準備で忙しい時期だからこそ、午後のひととき、お茶を飲みながらシュトレーンを味わう時間が、親にとってもあなたにとっても、ほっと一息つける貴重な時間になるはずです。「これ、ヨーロッパのお菓子なんだけど、日持ちするから少しずつ食べてね」と渡せば、帰省後も親がそれを食べるたびに、あなたのことを思い出してくれるでしょう。特別なことではなく、日常の中の小さな幸せ親孝行というと、大げさなことを考えがちです。旅行に連れて行く、高価なものを贈る—それももちろん素晴らしいことです。でも、日常の中の小さな時間を大切にすることも、同じくらい価値があるのではないでしょうか。毎日アドベントカレンダーを開ける楽しみ。訪問のたびに一緒にシュトレーンを味わう時間。そんなささやかな習慣が、親との絆を少しずつ深めていきます。 今年の冬は、新しい習慣を親と一緒に親御さんと過ごせる時間は、思っているより限られています。だからこそ、一緒に過ごす時間の質を大切にしたいものです。今年の冬は、アドベントカレンダーやシュトレーンという新しい習慣を、親との時間に取り入れてみませんか。「これ、一緒に楽しもう」と渡すその一言が、親御さんにとっては何よりも嬉しい贈り物になるかもしれません。異なる文化の伝統を通じて、親との新しい思い出を作る—そんな冬の過ごし方は、きっと心温まる時間を運んでくれることでしょう。小さな窓を開ける喜び、時間をかけて味わう豊かさ。そんな「待つ楽しみ」を親と一緒に味わいながら、穏やかで温かな冬をお過ごしください。「両親の雑誌」のご紹介『親の雑誌』は親御さんのために贈る親の自分史です。親御様に日頃の感謝の気持ちを込めて「親の雑誌」を贈ってみてはいかがでしょうか? また、お父様、お母様それぞれの自分史を作成できる特別パッケージをご用意しております。ご両親が一緒に歩んでこられた道のりを家族で振り返り、雑誌としてまとめることができます。長年一緒に歩んできた親御さんであっても、幼少期や学生時代の思い出、結婚までの歩み、仕事や人生への考え方、家族への思いはそれぞれです。これまでに制作されたお客様からは「両親のお互いへの気持ちを知ることができた」「親になる前のことを知れた」「出会いについて初めて知った」などの感想をいただいています。お手元でいつでも読み返せる「両親の雑誌」をご家族の皆様で制作してみませんか? --- - Published: 2025-11-17 - Modified: 2025-11-17 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3170/ - カテゴリー: ブログ 秋から冬へ、移り変わりの時期11月も後半に入ると、朝晩の冷え込みが一段と厳しくなってきます。街路樹の紅葉も終盤を迎え、落ち葉が歩道を彩る季節。日暮れも早くなり、地域によっては、午後5時には薄暗くなってしまいます。この時期特有の、少し物寂しいような、それでいてどこか心が落ち着くような独特の雰囲気。日本人が古来から大切にしてきた「もののあはれ」を感じる季節でもあります。年末に向けた心の準備11月後半は、今年を振り返り始める時期でもあります。「今年も残すところあと1ヶ月ちょっとか... 」そんな言葉が自然と口から出てきます。1月に立てた目標はどこまで達成できたでしょうか。やり残したことはありませんか。まだ慌てる必要はありません。残された時間で何ができるか、何を優先すべきか、じっくり考える良い機会です。年賀状の準備を始める人も多いこの時期。住所録を整理しながら、今年お世話になった人々の顔を思い浮かべる。そんな作業も、一年を振り返る大切な時間になります。デジタル化が進んだ今だからこそ、手書きの温もりが心に響くこともあるでしょう。冬支度という日本の習慣11月後半は、本格的な冬支度の時期です。衣替えの最終確認、暖房器具の点検、冬用タイヤへの交換。これらは単なる実用的な準備以上の意味を持っています。季節の変化に寄り添い、自然と調和しながら生きる。これは日本人が大切にしてきた生活の知恵です。コートをトランクルームから引き取り、マフラーや手袋を出す。こうした一つ一つの行為が、季節の移ろいを実感させ、生活にリズムを与えてくれます。家の中も冬仕様に。厚手のカーテンに替えたり、ラグを暖かいものに変えたり。照明を暖色系にするだけでも、部屋の雰囲気がぐっと温かくなります。体調管理が特に大切な時期気温の変化が激しいこの時期は、体調を崩しやすい時でもあります。朝晩と日中の温度差、暖房の効いた室内と冷たい外気の差。身体はこうした変化に適応しようと頑張っています。温かい飲み物を意識的に摂る、湯船にゆっくり浸かる、十分な睡眠を確保する。基本的なことですが、これらの積み重ねが冬を元気に乗り切る鍵となります。旬の食材も味方につけましょう。大根、白菜、ねぎなどの冬野菜は、身体を温める効果があります。鍋料理が美味しい季節になったのも、理にかなっているのです。小さな楽しみを見つける日が短くなり、寒さも増すこの時期。ともすれば気分も沈みがちになります。だからこそ、小さな楽しみを意識的に作ることが大切です。お気に入りのカフェで温かいコーヒーを飲む時間。新しく買った冬物のセーターを着る喜び。友人と鍋を囲む約束。クリスマスイルミネーションが始まる街を歩く楽しみ。読書の秋も深まるこの時期、積読になっていた本を手に取るのもいいでしょう。長い夜を利用して、映画やドラマをゆっくり楽しむのも素敵です。感謝の気持ちを大切に11月23日の勤労感謝の日を過ぎ、月末にかけては、今年お世話になった人々への感謝を改めて感じる時期でもあります。直接会えなかった人にメッセージを送ってみる。久しぶりに電話をかけてみる。そんな小さな行動が、相手にとっても自分にとっても、心温まる時間になるかもしれません。新しい季節への期待11月後半は確かに一年の終わりが近づく時期ですが、同時に新しい季節への準備期間でもあります。冬には冬の楽しみがあり、その先には新しい年が待っています。今できることを丁寧に、一日一日を大切に過ごす。慌ただしくなる12月を前に、11月後半のこの時期だからこそできる、ゆったりとした時間の過ごし方があるはずです。寒さが増すごとに、人の温もりがより一層ありがたく感じられる季節。家族や友人、大切な人との時間を大切にしながら、冬本番に向けて心身ともに準備を整えていきましょう。移り変わる季節の中で、変わらない大切なものを見つめ直す。11月後半は、そんな豊かな時間を過ごせる特別な時期なのかもしれません。『親の雑誌 電子版』の紹介『親の雑誌 電子版』は、家族のための自分史作成サービス『親の雑誌』から生まれた、人々の人生を綴ったデジタルメディアです。『親の雑誌』を作成した方々の人生を、親御様の生きてきた人生の価値を、離れて暮らす家族や親せき、友人と共有することができるだけでなく、さらに、いろいろな方に読んでいただけるよう掲載しています。 全ての人にはかけがえのない価値があり、その人が歩んできた人生は、たくさんの出会いで誰かの人生とつながり、この時代を織りなしています。お一人お一人が生きてきた人生に、ぜひふれてみてください。 --- - Published: 2025-11-12 - Modified: 2025-11-12 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3166/ - カテゴリー: ブログ 還暦とは?60年で暦が一巡する特別な節目還暦とは、満60歳(数え年で61歳)を迎えることを祝う日本の伝統的な長寿のお祝いです。「還暦」という言葉は「暦が還る」という意味で、これは十干十二支(じっかんじゅうにし)という古代中国から伝わった暦の数え方に由来しています。十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を組み合わせると60通りになり、60年で一巡して生まれた年の干支に戻ります。例えば、1965年生まれの方が2025年に還暦を迎えると、どちらも「乙巳(きのとみ)」の年になるわけです。このように暦が一周して元に戻ることから、「生まれ変わり」「第二の人生のスタート」という意味も込められています。還暦祝いの象徴である赤いちゃんちゃんこや赤い頭巾は、この「生まれ変わり」の考えから来ています。赤色は昔から魔除けの色とされ、赤ちゃんの産着にも使われることから、新しい人生の始まりを祝う意味があるのです。ただし、現代では必ずしも赤いちゃんちゃんこにこだわる必要はなく、赤いものを身に着けたり、プレゼントに赤を取り入れたりする程度でも十分です。現代の還暦事情 ~60歳はまだまだ現役世代~昔は「人生50年」と言われた時代もあり、60歳といえば立派な長寿でした。しかし現代の60歳は、多くの方がまだまだ元気で活動的です。仕事を続けている方、新しい趣味を始める方、ボランティア活動に励む方など、人生を謳歌している方がほとんどです。そのため、還暦祝いも「お年寄り扱い」するようなものより、これまでの人生を讃えつつ、これからの活躍を応援するようなお祝いが好まれる傾向にあります。年齢を意識させすぎない、さりげないお祝いの方が喜ばれることも多いようです。定番から最新まで!喜ばれる還暦祝いのプレゼント旅行・体験型ギフト還暦祝いの定番といえば温泉旅行です。日頃の疲れを癒し、ゆっくりとした時間を過ごせる温泉旅行は、幅広い世代に喜ばれます。ペアチケットなら夫婦水入らずで、家族旅行券なら皆で楽しめます。行き先は、思い出の地や一度は行ってみたかった場所など、親御さんの希望を聞いてみるのも良いでしょう。旅行以外にも、レストランでの食事券、観劇チケット、コンサートチケット、ゴルフプレー券、エステやスパの利用券など、普段はなかなか体験できない特別な時間をプレゼントするのも素敵です。モノより思い出に残る体験は、長く心に残る贈り物になります。 趣味を応援するプレゼント還暦を機に、新しい趣味を始めたり、今までの趣味をより深めたりする方も多いです。ゴルフ好きにはカスタムメイドのクラブ、写真が趣味なら高性能カメラ、読書好きには電子書籍リーダー、ガーデニング好きには珍しい植物や園芸用品など、その方の興味に合わせた贈り物は実用的で喜ばれます。また、これから始めてみたい趣味への入門セットも良いアイデアです。楽器、絵画セット、陶芸体験チケット、料理教室の受講券など、新しいチャレンジを応援する贈り物は、第二の人生を豊かにしてくれるでしょう。健康を気遣うプレゼント60歳を過ぎると健康への関心も高まります。スマートウォッチで日々の活動量や睡眠の質をチェックしたり、マッサージチェアで疲れを癒したり、電動アシスト自転車で運動を楽しんだり。健康管理に役立つアイテムは、実用的で長く使ってもらえる贈り物です。ただし、あまり健康を意識させすぎるものは、かえって年齢を感じさせてしまうこともあるので、スタイリッシュなデザインのものを選ぶなど、配慮が必要です。思い出を形にする記念品60年の人生を振り返る記念品も人気です。家族写真を集めたフォトブック、デジタルフォトフレーム、似顔絵、名前入りの記念品など、世界に一つだけの特別な贈り物は、いつまでも大切にしてもらえます。最近では、家族からのメッセージを動画にまとめたり、QRコード付きのアルバムで動画メッセージが見られるようにしたり、デジタル技術を活用した新しい形の記念品も登場しています。実用的な日用品普段使いできる上質なものも喜ばれます。革製品、万年筆、お酒好きなら特別な日本酒やワイン、こだわりのグラスなど。毎日使うものだからこそ、少し贅沢なものを選ぶと特別感が出ます。還暦祝いの会を盛り上げるアイデアプレゼント選びと同じくらい大切なのが、お祝いの会の演出です。レストランでの食事会、自宅でのホームパーティー、どちらも素敵ですが、主役の性格や好みに合わせて選ぶことが大切です。サプライズが好きな方なら、こっそり準備を進めて驚かせるのも良いでしょう。一方で、サプライズが苦手な方もいるので、事前に希望を聞いておくのも大切な配慮です。お祝いの席では、60年の人生を振り返るスライドショーを用意したり、家族からの手紙を読んだり、思い出の音楽を流したりと、ちょっとした演出で特別な時間を作ることができます。堅苦しくなりすぎず、和やかな雰囲気で楽しめるよう心がけましょう。予算に合わせた贈り物選び還暦祝いの予算は、関係性によってさまざまです。一般的には、子どもから両親へは3~5万円程度、兄弟姉妹なら1~3万円程度、友人や同僚なら5千円~1万円程度が目安とされています。ただし、これはあくまで目安であり、無理のない範囲で気持ちを込めることが何より大切です。高価なものでなくても、手作りのプレゼントや心のこもった手紙、みんなで撮った写真など、お金では買えない価値のある贈り物もたくさんあります。大切なのは、その方のことを思って選んだという気持ちです。おわりに還暦は人生の大きな節目です。60年という長い年月を振り返り、これからの人生に思いを馳せる特別な日。そんな日を、気の置けない家族や友人と過ごせることは、何よりの幸せかもしれません。特に家族で集まってお祝いできる機会は、忙しい現代ではなかなか貴重です。普段は離れて暮らしている子どもや孫が集まり、みんなで食卓を囲む。そんなシンプルな時間が、実は一番の贈り物なのかもしれませんね。形式にとらわれすぎず、その方らしいお祝いができれば、きっと素敵な還暦祝いになることでしょう。『親の雑誌』のご紹介『親の雑誌』のご紹介~親御様の想いと言葉が詰まった、世界に一つの宝物~ 『親の雑誌』は家族でつくる親の自分史です。還暦のお祝い、記念として「親の雑誌」を贈ってみてはいかがでしょうか? 「親の雑誌」だからこそできる経験があります。親が担当者と話をするだけで文章が完成します親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶お申し込みはこちら▶資料請求はこちら  --- - Published: 2025-09-19 - Modified: 2025-09-26 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3159/ - カテゴリー: ブログ すっかりおなじみとなった「終活」という言葉。高齢者の取り組みと考えられがちでしたが、実は20代・30代の若い世代にも終活への関心が急速に広がっています。2025年9月2日の日本経済新聞の記事によると、20〜30代の終活実施意向が4割を超えるという調査結果も出ています。今回は、若い世代になぜ終活が広がっているのか、終活の捉え方の変化などをご紹介します。なぜ若い世代が終活を始めるのか若い世代が終活に取り組む背景には、いくつかの社会的要因があります。まず、新型コロナウイルス感染拡大や自然災害の増加により、「突然の別れ」や「予期しない出来事」が身近な現実として感じられるようになったことが挙げられます。東日本大震災やコロナ禍を経験した世代にとって、「いつ何が起こるかわからない」という意識が強く根付いているのです。また、デジタル社会の発達も大きな要因となっています。現代の若者は、スマートフォンやSNS、各種オンラインサービスに大量のデジタル情報を保有しており、これらの「デジタル遺品」をどう整理し、家族にどう引き継ぐかという新しい課題に直面しています。パスワード管理やアカウント情報の整理は、もはや避けて通れない現実的な問題となっているのです。さらに、終活サービスtayorieの利用者データを見ると、10〜40代が全体の約8割を占めており、特に20〜30代の女性の利用が多いことが分かります。これは、終活が「死の準備」から「よりよく生きる準備」へと意味を変化させていることを示しています。実際に終活に取り組んだ20代の体験談24歳で終活に取り組んだ井上太地さんの体験談からは、若い世代の終活の実態が見えてきます。墓石業に携わる井上さんは、多くの人の最期を見届ける中で「もし自分が死んだとき、周りの人たちはどのような表情をするのだろう?」と考えるようになり、エンディングノートの作成を始めたそうです。終活を通して井上さんが得たものは、「この先自分がどう生きていきたいのかを考える機会」と「伝えるべきことを伝えようという意識」でした。特に興味深いのは、終活により「お金の無駄遣いが減った」「将来のライフイベントで必要になる金額が見えた」という経済面への影響です。これは、終活が単なる死への準備ではなく、より充実した人生設計につながることを示しています。Z世代特有の終活スタイルZ世代の終活には、従来の高齢者の終活とは異なる特徴があります。彼らは終活を「自己表現の場」として捉える傾向があり、自分らしさや個性を反映した葬儀や人生の計画を積極的に考えています。最期の瞬間さえも、自分らしくありたいという強い願いが表れているのです。また、終活スナック「めめんともり」などの新しい形のサービスも登場しており、お酒を飲みながら気軽に死について語り合う場が若者に人気を集めています。このように、今までは重いテーマと考えられていた終活のイメージが変化しています。 若い世代におすすめの終活内容若い世代が終活を始める場合、高齢者とは異なるアプローチが効果的です。最初のきっかけとするのは、エンディングノートの作成です。ただし、「全部書かなければいけない」という意識は捨て、書きたいところや書けるところだけを書いていくことが重要です。具体的には、以下のような内容から始めてみてください。デジタル情報の整理:スマートフォンやパソコンのパスワード、SNSアカウント情報、重要なオンラインサービスのログイン情報をまとめる人生の目標設定:「死ぬまでにやりたいことリスト」の作成。これだけでも立派な終活の第一歩家族・友人へのメッセージ:普段は恥ずかしくて言えない感謝の気持ちや想いを文字にする基本的な個人情報:家系図、出生時の体重、大切な思い出など、自分しか知らない情報の記録将来のライフプラン:結婚、住宅購入など、想定される人生のイベントとそれにかかる費用の概算終活がもたらすポジティブな変化若い世代の終活は、「死への恐怖」ではなく「生への意欲」を高める効果があることが分かっています。tayorieの利用者からは、「夫への接し方が優しくなった」「子どもに対する愛情を再確認できた」「将来の目標がより明確になった」といった声が寄せられており、終活が現在の生活の質向上につながっていることが伺えます。また、終活を通じて自分の価値観や人生観を見つめ直すことで、無駄な出費が減り、本当に大切なものにお金と時間を使うようになるという経済的メリットも見逃せません。終活に「自分史」を取り入れてみませんか終活において、おすすめしたいのが「自分史」です。自分史というと高齢者が書くものというイメージがあるかもしれませんが、20代・30代だからこそ得られるメリットもあります。20代で自分史を書く場合、幼少期から学生時代までの自分の成長や関わってきた人々について振り返ることで、「これから」の可能性をより明確にすることができます。「自分はなぜこの道に進んだのか」「なぜこの人と親しくなったのか」といった問いを深掘りすることで、自分の強みや価値観を客観的に把握でき、将来の選択に活かすことができるのです。30代では、キャリアの方向性を再確認し、結婚や子育てといったライフステージの変化を整理する道具として自分史が機能します。「私はこれから何を大切にしたいのか」という問いに向き合うことで、より主体的な人生を歩むことができるようになります。自分史を作ることで、自己理解も深まります。詳しい自分史の年代別のメリットについては、以前のブログ記事でも詳しく紹介していますので、ぜひ参考にしてみてください。まとめ若い世代の終活は、もはや特別な取り組みではなくなりつつあります。重要なのは、終活を「縁起でもないこと」として避けるのではなく、「よりよく生きるための準備」として前向きに捉えることです。終活を通じて得られるのは、死への準備だけではありません。自分自身と向き合い、大切な人への感謝を再確認し、限りある時間をより有意義に過ごすための指針を得ることができるのです。まずは簡単なエンディングノートの作成から始めて、自分らしい終活のスタイルを見つけてみてはいかがでしょうか。若い世代の終活は、決して早すぎることではありません。むしろ、人生を豊かにするための新しいライフスタイルとして、今後さらに広がっていくことでしょう。「両親の雑誌」のご紹介『親の雑誌』は親のために贈る親の自分史です。親御様に日頃の感謝の気持ちを込めて「親の雑誌」を贈ってみてはいかがでしょうか? また、お父様、お母様それぞれの自分史を作成できる特別パッケージをご用意しております。ご両親が一緒に歩んでこられた道のりを家族で振り返り、雑誌としてまとめることができます。長年一緒に歩んできた親御さんであっても、幼少期や学生時代の思い出、結婚までの歩み、仕事や人生への考え方、家族への思いはそれぞれです。これまでに制作されたお客様からは「両親のお互いへの気持ちを知ることができた」「親になる前のことを知れた」「出会いについて初めて知った」などの感想をいただいています。お手元でいつでも読み返せる「両親の雑誌」をご家族の皆様で制作してみませんか? --- - Published: 2025-09-10 - Modified: 2025-09-10 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3154/ - カテゴリー: ブログ 日本の四季にはそれぞれの魅力があり、季節ごとの花や食べ物にワクワクされる方もいらっしゃると思います。その中でも「秋の七草」は、古くから秋の風物詩として親しまれてきたものです。春の七草が「食べるもの」であるのに対し、秋の七草は「眺めて楽しむもの」。今回は、秋の七草の意味やそれぞれの特徴、さらに覚え方や現代での楽しみ方をご紹介します。1. 秋の七草とは?「秋の七草」とは、奈良時代の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ万葉集の歌に由来する七種類の草花のことです。その歌は次のように記されています。秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数ふれば 七種の花この歌の「七種の花」は、萩(はぎ)、尾花(おばな/すすき)、葛(くず)、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、桔梗(ききょう)を指しています。つまり、秋の七草とは「秋の訪れを知らせ、観賞して楽しむ草花」のこと。無病息災を願って食べる春の七草とは対照的に、目で見て季節を感じるものなのです。2. 秋の七草一覧と特徴では、秋の七草を一つずつ解説します。萩(はぎ):秋を代表する花で、風に揺れる小花が優美。万葉集にも多く登場します。尾花(おばな/すすき):お月見のお供えとしても有名。黄金色に揺れる穂は秋そのものを象徴します。葛(くず):生命力の強い植物。根は葛粉として、薬や料理に利用されてきました。撫子(なでしこ):可憐な花で、「大和撫子」という言葉の語源にもなっています。女郎花(おみなえし):小さな黄色の花が集まり、秋の野を明るく彩ります。藤袴(ふじばかま):甘い香りが特徴。平安時代の貴族にも愛されました。桔梗(ききょう):星形の紫の花。武家の家紋にも使われ、気品を感じさせます。3. 秋の七草の覚え方「七草の名前は知っているけれど、全部言えない... 」という方は多いのではないでしょうか。そこで役立つのが語呂合わせです。有名な語呂合わせは次のフレーズです。「お好きな服は?」お → おみなえし(女郎花)す → すすき(尾花)き → ききょう(桔梗)な → なでしこ(撫子)ふ → ふじばかま(藤袴)く → くず(葛)は → はぎ(萩)このように語呂合わせを使えば、七草を楽しく覚えられます。4. 秋の七草と文化秋の七草は、古くから日本人の暮らしや文化と深く関わってきました。観賞する文化:秋の野に咲く草花を愛でる習慣。文学に登場:和歌や俳句の題材となり、秋の情緒を表現する。飾る文化:すすきや女郎花を花瓶に活けたり、十五夜のお月見団子と一緒に飾ったりする。現代でも、秋の七草を寄せ植えにして楽しんだり、俳句や短歌の題材にしたりする人がいらっしゃいます。5. 親御様やおじい様、おばあ様と楽しむ秋の七草秋の七草は、親御様やおじい様、おばあ様世代との会話のきっかけにもなります。「昔のお月見の思い出」「庭に咲いていた秋の花」などなど。こうした思い出を語ってもらうことで、親御様、おじい様、おばあ様の体験や考え方に触れ、家族の歴史を振り返る時間になります。6. 現代での楽しみ方忙しい日常の中でも、秋の七草は気軽に楽しめます。お花屋さんや道の駅で秋の七草を購入し、自宅に飾る秋を表現した俳句や短歌を詠む七草を通じて、自然と触れ合いながら四季を感じる時間を持つことは、心を豊かにしてくれます。7. まとめ秋の七草は、秋の訪れを知らせ、目で楽しむための草花。その意味を知り、覚え方を工夫すれば、より身近に感じられるようになります。「秋の七草 意味」を改めて知ることで、日本の文化や歴史の奥深さに気づきますし、「秋の七草 覚え方」を活用すれば、子どもから大人まで一緒に楽しめます。今年の秋はぜひ、秋の七草を暮らしに取り入れてみませんか?ご家族との会話のきっかけにもなると思います。『親の雑誌』のご紹介『親の雑誌』のご紹介~親御様の想いと言葉が詰まった、世界に一つの宝物~ 『親の雑誌』は家族でつくる親御様の自分史です。親御様の日々の暮らしをまとめるために「親の雑誌」を贈ってみてはいかがでしょうか? こんなシーンによくご利用いただいています。長寿祝いお誕生日祝い銀婚式・金婚式退職・退任祝い日ごろの感謝をこめて 「親の雑誌」の特徴親が担当者と話をするだけで文章が完成します親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶お申し込みはこちら▶資料請求はこちら --- - Published: 2025-08-20 - Modified: 2025-08-20 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3149/ - カテゴリー: ブログ 最近の取材でお会いした親御様の中に、合唱を趣味にしている方が何人もいらっしゃいました。皆さんに共通していたのは、合唱について話すときの楽しそうな表情です。• 「たくさんの人と一緒に大きな声を出して歌うのが楽しい」• 「発表会で家族にも披露するから、練習にも力が入る」• 「仲間ができたのがうれしい」• 「歌うことで気持ちが軽くなる」そんな声を伺うたびに、合唱が親御様にとって大切な時間になっていることを感じます。合唱には歌う楽しさだけでなく、心身に良い影響があることが少しずつ研究でもわかってきています。高齢の親御様にとっても無理なく続けられる趣味として、合唱がもたらすうれしい効果をご紹介します。合唱がもたらす5つのうれしい効果1. 免疫力が向上する可能性歌うことで深い呼吸が自然に促され、血流や体温が上がることが報告されています。歌った後に免疫に関わる物質が増えるケースもあるそうです。風邪をひきにくくなる、とまでは断言できませんが、日常的に歌を楽しむことが、体調を整える助けになるのは確かにうれしいですね。2. 気分がすっきりする合唱をされている親御様の多くが「練習の後は気持ちがすっきりして、明るくなる」と話してくださいました。音楽を聴いたり歌ったりすることは、気分を落ち着かせたり、不安感を和らげたりする作用があるとされます。運動の後に感じる爽快感に近いもの、と表現する研究者もいます。3. 脳の刺激になる歌うことは、歌詞を覚え、メロディーを追い、声を合わせるなど複数の働きを同時に行います。そのため、脳を幅広く使う活動と言われています。親御様からも「歌詞を覚えるのは大変だけど、いい頭の体操なの」といった声が聞かれました。4. 身体の機能を保つ合唱は見た目以上に全身を使います。腹式呼吸によって肺の機能を保ったり、顔の筋肉を動かすことで表情が豊かになったりします。「発声練習を続けていたら、息が上がりにくくなった」と話す方もいました。健康づくりの一環として気軽に取り入れられるのも魅力です。5. 人とのつながりができる合唱団は世代を超えて集えるコミュニティでもあります。共に練習し、本番を迎えるまでの過程には、自然な一体感や達成感が生まれます。家庭や職場以外の人間関係ができることは、孤立感をやわらげ、生活をより豊かにしてくれます。親御様の中には、「練習後にお茶に行ってお喋りすることも楽しい」とおっしゃっている方もいらっしゃいました。親御様に合唱をおすすめする理由日々の生活の中で、歌う時間は心をほぐすひとときになります。聴くだけでもリラックス効果はありますが、自分の声を響かせることで、さらに気持ちが晴れると感じる方も多いようです。さらに合唱は、特別な道具や場所を必要としません。地域の公民館や文化センターでは、初心者も歓迎する合唱団が活動しており、「ちょっと歌ってみたいな」という気持ちさえあれば始めやすい趣味です。合唱をはじめる3つのステップ1. 地域の合唱団に問い合わせてみる 公民館や市民会館などでは、体験参加できる団体が多くあります。まずは一歩を踏み出してみましょう。2. 自宅で好きな歌を歌ってみる 腹式呼吸を意識しながら歌うだけでも、呼吸が深まりリラックスできます。3. 家族と一緒に楽しむ お孫様と一緒に童謡や流行りの歌を口ずさむだけで、会話が増えたり、自然と笑顔も増えるかもしれません。まとめ 〜歌う喜びがもたらすもの〜合唱は、体を整え、心を軽くし、人とのつながりを広げるなど、さまざまな良い影響をもたらしてくれる活動です。取材で出会った親御様の明るい笑顔からも、その魅力が伝わってきました。もちろん効果の感じ方は人それぞれですが、「歌うことが楽しい」という気持ちこそが、合唱の一番の効能なのかもしれません。『親の雑誌 電子版』の紹介『親の雑誌 電子版』は、家族のための自分史作成サービス『親の雑誌』から生まれた、人々の人生を綴ったデジタルメディアです。『親の雑誌』を作成した方々の人生を、親御様の生きてきた人生の価値を、離れて暮らす家族や親せき、友人と共有することができるだけでなく、さらに、いろいろな方に読んでいただけるよう掲載しています。 全ての人にはかけがえのない価値があり、その人が歩んできた人生は、たくさんの出会いで誰かの人生とつながり、この時代を織りなしています。お一人お一人が生きてきた人生に、ぜひふれてみてください。 --- - Published: 2025-08-13 - Modified: 2025-08-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3144/ - カテゴリー: ブログ 「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ」この歌詞を聞くと、夏休みの早朝にラジオ体操に通った記憶がよみがえる方も多いのではないでしょうか。今回は、日本の夏休みの風物詩として親しまれてきたラジオ体操について、その歴史と現在の状況を探ってみます。ラジオ体操の歴史 〜いつから始まったの?〜誕生のきっかけラジオ体操が日本で始まったのは、昭和3年(1928年)11月1日。当時の逓信省簡易保険局(現・かんぽ生命保険)が「国民保健体操」として企画し、NHKラジオで放送を開始しました。この制定には、アメリカの生命保険会社「メトロポリタン生命保険」が1925年から放送していた番組が参考にされました。<戦前から戦後への変遷>戦前期(1928〜1945年)1928年11月:初代ラジオ体操第一制定(国民保健体操として放送開始)1930年7月:東京神田和泉町でラジオ体操の会(子供の早起き大会)開催〜ラジオ体操会の始まり〜1932年7月:初代ラジオ体操第二(青壮年向け)制定1939年12月:初代ラジオ体操第三(大日本国民体操)制定戦後期(1945年〜)1946年4月:2代目ラジオ体操(第一〜第三)放送開始1947年8月:体操が専門的すぎたため、2代目ラジオ体操は普及せず放送中止1951年5月:3代目・現行のラジオ体操第一制定1952年6月:現行のラジオ体操第二制定1953年7月:夏期巡回ラジオ体操会開始1957年10月:テレビ体操放送開始1999年10月:「みんなの体操」制定現在のラジオ体操現行のラジオ体操第一は1951年に制定され、すでに70年以上の歴史を持っています。年齢や体力に関係なく誰でもできるよう設計され、全身の筋肉や関節をバランスよく動かすことができる優れた健康体操として評価されています。夏休みのラジオ体操 〜いつから定着したの?〜全国各地で行われる「夏期巡回ラジオ体操会」が本格的に始まったのは1953年7月から。全国の小学校や地域の子ども会が中心となって、夏休み期間中の早朝体操会が組織されました。<定着の背景>・子供たちの規則正しい生活習慣の維持・地域コミュニティの活性化・戦後復興期の体力向上への関心・ラジオの普及による音源の安定供給1960〜1980年代にかけて、夏休みのラジオ体操は最盛期を迎えました。この時代の特徴として以下が挙げられます。・朝6時30分から近所の公園や学校で実施・地域の大人が指導者として参加・出席スタンプカードで記録現代の小学生とラジオ体操<全国的な傾向>実施地域:60〜70%地域差が拡大(地方で高く、都市部で低い)<実施形態の変化>期間:夏休み全期間から1〜2週間程度へ短縮時間:6時30分から7時以降へ<現代の実施状況>地域主催が中心:町内会との連携が54. 3%で最多運営課題:担い手不足・騒音配慮により期間短縮全国イベント:NHK・全国ラジオ体操連盟・かんぽ生命による夏期巡回ラジオ体操・みんなの体操会は毎年約40会場で開催ラジオ体操の現代的意義健康面・全身の筋肉をバランスよく動かす・関節の可動域向上・血行促進・リフレッシュ・規則正しい生活リズム維持・ストレス軽減社会的意義・世代を超えた自然な交流・地域コミュニティの維持と防犯・見守り効果まとめラジオ体操は1928年に始まり、戦後の復興期から高度経済成長期にかけて、夏休みの風物詩として定着しました。親御様世代の多くが体験したこの活動は、現在も形を変えながら続いています。時代が変わり、実施状況に変化はあるものの、ラジオ体操が持つ健康増進効果や地域交流の意義は今でも変わりません。親御様にラジオ体操の思い出を聞いてみるのもよいですね。『親の雑誌』で親御様の子供時代の思い出を残しませんか?ラジオ体操の思い出も含め、親御様の子供時代のさまざまな体験を一冊の雑誌として形に残してみませんか?『親の雑誌』では、親御様へのインタビューを通して、かけがえのない人生の物語を作成いたします。 『親の雑誌』は、こんなシーンによくご利用いただいています。母の日・父の日のプレゼント銀婚式・金婚式お誕生日祝い長寿祝い退職・退任祝い日ごろの感謝をこめて「親の雑誌」だからこそできる経験があります。・親が担当者と話をするだけで文章が完成します・親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます・完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます・親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます・完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶資料請求はこちらから▶お申込みはこちらから --- - Published: 2025-08-05 - Modified: 2025-08-05 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3140/ - カテゴリー: ブログ 『親の雑誌』の取材に伺うと、時々こんなお話を伺うことがあります。「数えで○歳になります」とか、「本当は12月30日生まれなんだけど、それだとかわいそうだと親が思ったんでしょう。書類上は1月1日生まれなんです」など。取材にまだ慣れていなかった頃は、「本で読んだことある!」と、新鮮な気持ちになったものです。今回は、「数え年」と「満年齢」の違いや数え方、制度として切り替わったタイミングなどについて、わかりやすくまとめてみたいと思います。数え年とは?数え年は、かつて日本やアジア圏で使われていた年齢の数え方です。ちなみにお隣・韓国でも、2023年6月までは数え年が使われていたそうです。同年より「満年齢」の表記が法的に義務付けられました。数え年では、生まれた時点を「1歳」とし、以後は元日(1月1日)が来るたびに1歳ずつ加算されていきます。つまり、誕生日ではなくお正月に年を取るという考え方です。例えば、2023年12月20日生まれの赤ちゃんは、生まれた瞬間に1歳。そして、わずか12日後の2024年1月1日には2歳になります。また、2023年1月10日生まれの赤ちゃんも同様に、生まれてすぐ1歳、翌年の1月1日には2歳になります。この数え方にはいくつかの背景があります。ひとつは「お腹の中にいた期間も命として捉える」という生命観。もうひとつは、お正月に「歳神様(としがみさま)」をお迎えするという伝統行事との関わりです。歳神様は一年の五穀豊穣や家内安全をもたらしてくれる神様で、人はみな、この神様から新しい魂を授かるとされてきました。この魂を「お年玉(御年魂)」と呼び、それを数えたのが「数え年」。ですから、家族全員が一斉に1歳年を重ねるという風習があったのです。満年齢とは?現在、日本で公式に使われているのが「満年齢」です。これは、生まれた日を「0歳」とし、誕生日が来るたびに1歳ずつ加算していく方式です。たとえば、2020年8月4日生まれの子は、2025年8月4日に「5歳」になります。日常生活をはじめ、学校・医療・法律・行政など、すべての制度上でこの「満年齢」が使われています。数え年から満年齢に切り替わったのはいつ?日本で満年齢が正式に採用されたのは、1950年(昭和25年)1月1日です。この日に施行された「年齢のとなえ方に関する法律」によって、公的な場面では満年齢を使うことが定められました。法律では以下のように明記されています。<第1条 年齢は、出生の日より起算する。>つまり、生まれた瞬間を0歳とし、誕生日ごとに1歳ずつ年齢を重ねる「満年齢」が、法的な基準になったのです。この変更には、以下のような理由がありました。● 若返りによる心理的効果戦後間もない時期、数え年から満年齢に切り替えることで見かけ上の年齢が若返り、日本人の気持ちを明るくする効果が期待されました。● 正確な出生届の促進数え年では、生まれてすぐ2歳になることもあり、出生届の提出をためらう家庭もありました。制度を満年齢に統一することで、届出の正確性が向上する狙いがありました。● 国際基準との整合性世界的には満年齢が主流であり、数え年では国際的な交流や統計との整合性に欠けるという課題がありました。● 配給制度の合理化当時の配給制度では、カロリー計算に満年齢、実際の配給に数え年が使われており、不合理が生じていたため、これを解消する意図もありました。今でも数え年が使われる場面現代においても、文化的・儀礼的な場面では数え年が使われることがあります。● 七五三本来は、男の子は数えで3歳・5歳、女の子は3歳・7歳で行う行事ですが、最近では満年齢で祝う家庭も増えています。● 厄年厄年も伝統的には数え年で数えます。男性は25歳・42歳・61歳、女性は19歳・33歳・37歳が厄年とされ、神社などでの厄除け祈願でも、数え年での確認を求められることがあります。● 長寿祝い還暦(61歳)、古希(70歳)、喜寿(77歳)など、長寿のお祝いも、もともとは数え年で行うものでした。しかし、最近では満年齢で祝うケースも増えており、『親の雑誌』にも「満年齢の誕生日にプレゼントしたい」というお声を多くいただいています。まとめ:数え年と満年齢、どちらを使う?どちらも、それぞれの文化的・制度的な背景に基づく年齢の数え方でです。一般的には、公的な制度や日常生活では「満年齢」、行事や風習ごとでは「数え年」を使うことが多いようですが、「数え年」を使う機会は減っているような印象があります。「どちらで祝おうか?」と迷ったときには、ご本人の気持ちやご家族の考え方を尊重してみてください。還暦、古希、喜寿などの長寿祝いの贈り物に『親の雑誌』はいかかでしょうか?お祝いする機会があるのはうれしいことですが、贈り物に悩まれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。今年はちょっと違う贈り物を渡したいとお考えの方に、家族でつくる自分史『親の雑誌』はいかかでしょう。お申し込みいただいた方からは「久しぶりに家族で一つの作業を行いました」などのコメントをいただきます。どのようなものが出来上がるかは、『親の雑誌』のウェブサイト内にある『親の雑誌』電子版をご覧ください。 --- - Published: 2025-07-14 - Modified: 2025-07-14 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3133/ - カテゴリー: お知らせ 平素は格別のお引き合いを賜り、厚くお礼申し上げます。夏季休業のお知らせです。2025年8月13日(水)~ 8月17日(日)ご不便をおかけしますが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします。なお、「親の雑誌」「創業の雑誌」「私の人生史」「愛馬の雑誌」等のお問い合わせ、お申し込みは8月18日(月)以降、随時ご対応させていただきます。何卒よろしくお願いいたします。 --- - Published: 2025-07-08 - Modified: 2025-07-08 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3128/ - カテゴリー: ブログ 年齢を重ねるにつれ、親との関係性も変わってくると感じることが多くなりました。高齢になった親との関わり方は、以前に比べてスムーズとは言いにくい状態です。ですが、そんなことも受け止めつつ、少しでも良い関係を築けたらなと思っています。今回は意識するといいことをいくつかお伝えします。1. 定期的なコミュニケーションの習慣化まずは、定期的に連絡を取る習慣を作ることです。忙しい日常に追われていると、ついつい親への連絡が後回しになってしまいがちです。ですが、週に一度の電話、月に一度の訪問など、無理のない範囲で定期的に連絡を取ることを意識しています。私は電話では、単なる安否確認だけでなく、親の近況や体調、最近の出来事についても聞くようにしています。また、自分のことや家にいる猫のことも積極的に話すことで、会話が割と盛り上がります。お子様がいらっしゃる方は、お子様のことをお話するのもいいかもしれないですね。スマートフォンのビデオ通話機能を活用すれば、顔を見ながら話すことができるのでより安心です。また、Amazon Echoシリーズは離れて暮らす親御さんの見守りを兼ねたコミュニケーションを円滑にするデジタルデバイスのひとつです。2. 親御さんの話に耳を傾ける「聞き上手」になる高齢になった親御さんの中には、若い頃の思い出話や、昔の苦労話を繰り返し話す方がいらっしゃいます。「またその話?」と思ってしまうこともあるかもしれませんが、これらの話には親御さんのその後を変えたことであったり、自分がやってきたことを認めてほしいという気持ちが潜んでいたりします。なので、親御さんの話を遮らずに最後まで聞き、「そうだったんだね」「お父さんにとって大事な出来事だったんだね」といった共感の言葉をかけてみてください。親御さんは自分の人生が認められていると感じることができます。また、話を聞く中で、今まで知らなかった親御さんの一面や家族の歴史を知ることもあるでしょう。一方で、私の親は無口なタイプなので、むしろ話を引き出すことに苦労しています。その時の気分によって全く話さなかったりということもあるので、親御さんのタイプに合わせて、話しやすい環境を作る工夫も必要なのだろうなと感じています。3. 一緒に過ごす時間を意識的に作る物理的に一緒に過ごす時間を作ることも大切です。親御さんの好きなことや趣味に付き合ったり、一緒に散歩をしたり食事を共にしたりすることで、自然な会話も生まれます。例えば、親が園芸好きなら一緒に花を植えたり、料理が得意なら一緒に昔ながらの料理を作ったりすることで、楽しい時間を共有できます。また、電話やビデオ通話では気づけなかった親御さんの変化に気づくこともあるでしょう。4. 親御さんの自立を尊重しながらサポートする高齢になった親御さんに対して過保護になってしまうこともあるかもしれません。ですが親御さんの自立性を尊重することも重要です。つい手が出ることもあると思いますが、できることは自分でやってもらい、本当に必要な時にサポートするというスタンスを心がけましょう。健康管理や日常生活での小さな困りごとについては、親御さんの意見を聞きながら一緒に解決策を考えることも大事になってきます。親御さんを子供扱いするのではなく、1人の大人として敬意を持って接することも気を付けたい点です。5. 感謝の気持ちを言葉で伝える感謝の気持ちを言葉で伝えるのが照れくさいという方もいらっしゃると思います。ですが、親御さんに「ありがとう」という言葉を言える時に言ってみましょう。今でも心配してくれることへの感謝、おいしい料理を作ってくれることへの感謝、何かやってくれたことなど、小さなことへの感謝を言葉にして伝えると喜ばれると思います。親御さんの自分史を親御さんと一緒につくる親御さんが幼少期から現在までどのような人生を歩んできたのかを詳しく聞くことで、学生時代の思い出、就職時の苦労、結婚への思い、子育てで悩んだこと、仕事での成功や失敗など、普段の会話では聞けないような深い話を聞く機会が生まれます。この作業を通じて、親を1人の人間として理解することができ、今まで知らなかった親御さんの一面を発見することができるかもしれません。また、親御さんにとっても、自分の人生を振り返り、お子さんやお孫さんに伝える機会は非常に貴重な機会です。まとめ高齢になった親との向き合い方に正解はありませんが、大切なのは親を1人の人間として尊重するこ都なのかなと思います。定期的なコミュニケーション、話を聞く姿勢、共有する時間、適切なサポート、感謝の表現、そして親の人生を形にする自分史作りなど、さまざまなアプローチを組み合わせることで、より深い絆を築くことができます。親御さんが元気なうちに、今できることから始めてはいかがでしょうか。「両親の雑誌」のご紹介『親の雑誌』は親のために贈る親の自分史です。親御様に日頃の感謝の気持ちを込めて「親の雑誌」を贈ってみてはいかがでしょうか? また、お父様、お母様それぞれの自分史を作成できる特別パッケージをご用意しております。ご両親が一緒に歩んでこられた道のりを家族で振り返り、雑誌としてまとめることができます。長年一緒に歩んできた親御さんであっても、幼少期や学生時代の思い出、結婚までの歩み、仕事や人生への考え方、家族への思いはそれぞれです。これまでに制作されたお客様からは「両親のお互いへの気持ちを知ることができた」「親になる前のことを知れた」「出会いについて初めて知った」などの感想をいただいています。お手元でいつでも読み返せる「両親の雑誌」をご家族の皆様で制作してみませんか? --- - Published: 2025-06-26 - Modified: 2025-06-26 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3123/ - カテゴリー: ブログ 今年は昨年に比べて不作と言われている青梅ですが、それでも6月に入ってからスーパーの店頭で見かけるようになりました。実家に梅の木があったとか、親が親戚や知り合いから梅をもらっていたなんて方もいらっしゃるのではないでしょうか。「親の雑誌」でもこの時期取材をおこなうと、梅仕事についてお話をされる方がいらっしゃいます。「梅仕事」と書きましたが、今回は「梅仕事ってなに?」という基本から、初心者でも失敗しにくい梅仕事のやり方、そして親御さんやおばあ様から受け継がれてきた暮らしの文化としての梅仕事をご紹介します。梅仕事とは?「梅仕事」とは、6~7月の梅の収穫時期に、青梅や完熟梅を使って保存食を仕込むことを指します。代表的なものには、・梅シロップ・梅酒・梅干しなどがあります。以前はどの家庭でも自然に行われていた梅仕事ですが、最近では「季節を楽しむ手仕事」として、若い世代や一人暮らしの方の間にも広まっているようです。親から受け継ぐ、季節と暮らしの記憶「梅仕事」と聞くと、実家の台所を思い出す人もいらっしゃるのではないでしょうか。たとえば、竹串で梅のヘタを取り除いていた母の手元ガラス瓶に氷砂糖と青梅を交互に詰めていた様子完熟梅の香りがふわっと台所に広がる瞬間私の実家でも祖母、母が梅干しをつくっていたのですが、梅と一緒に赤紫蘇が準備されていたり、梅をざるに広げ干していたことを思い出します。当時は毎年行われている当たり前のことでしたが、今振り返ってみると、一緒に作っておけばよかったという気持ちになります。梅仕事の種類と初心者向けの簡単なやり方梅仕事といっても、いきなり梅干しを作るのは少しハードルが高いと感じる方も多いでしょう。まずは手軽に始められるものからスタートしてみるのがおすすめです。① 梅シロップ(初心者に最もおすすめ)【材料】青梅:500g氷砂糖:500g保存瓶(煮沸消毒しておく)【作り方】青梅を洗って水に2〜3時間ほど浸けてアク抜きする(そのままでもOK)しっかり水気を拭き取り、ヘタを竹串で取る清潔な瓶に、梅と氷砂糖を交互に重ねて入れる涼しい場所に置き、1日1回瓶を揺すって糖分をなじませる約1〜2週間でシロップが完成。梅を取り出して冷蔵保存すれば、夏中楽しめます【楽しみ方】炭酸水や水で割って「梅ジュース」として。かき氷のシロップ、ゼリー、ヨーグルトのトッピングにもなります。② 梅酒【材料】青梅:500g氷砂糖:500gホワイトリカー:1リットル保存瓶(広口)【作り方】基本的な手順は梅シロップと同じです。梅と氷砂糖を交互に入れた後、ホワイトリカーを注ぐだけ。3カ月ほどで飲めるようになりますが1年ほど寝かせるとまろやかな味になります。※焼酎、ブランデー、ウイスキーなどでアレンジも可能③ 梅干し【材料】完熟梅:1kg塩:180〜200g(塩分18〜20%)赤じそ(お好みで)【作り方】梅を水洗い後、しっかり乾かす塩をまぶして漬物容器に入れ、重石を乗せて2週間ほど漬ける梅酢が上がってきたら赤じそを加え、さらに数週間置く梅雨明けの晴れた日に、3日間ほど天日干し再び梅酢に戻すか、そのまま保存手間はかかりますが、自分で梅干しを漬けるのも面白い体験だと思います。ちなみに私は梅干しを作ってみようとしたことがあるのですが、天日干しを行った日が強風で、梅がどこかに転がっていったことがあります。天日干しは強風の日は避けることをおすすめします。梅仕事をするうえでの注意点使用する瓶や道具はしっかり消毒・乾燥して清潔に保つ手を抜くとカビや発酵の原因になるため、最初の下処理が大事青梅には微量の毒性(アミグダリン)があるため、生で食べないこと梅仕事は、毎日を少し楽しくする仕込んだ梅が変化していくのを待つ時間も楽しいものです。「今、漬けているこの梅は、来月どうなっているかな」「去年の梅酒、まろやかになったな」そんなふうに、時間がおいしくしてくれるのをたまに観察するのも梅仕事の楽しさの1つではないでしょうか。親御さんが「梅仕事」をしていたかたもいらっしゃる方は、「梅仕事」について聞いてみてください。また、そうでない方は「梅仕事」やってみたいんだよねや、やってみたよ、などと会話のきっかけにするのはいかがでしょうか。親御さんとの会話が思わぬ方向にひろがったりするかもしれません。 『親の雑誌』のご紹介『親の雑誌』のご紹介~親御様の想いと言葉が詰まった、世界に一つの宝物~ 『親の雑誌』は家族でつくる親の自分史です。親御様の日々の暮らしをまとめるために「親の雑誌」を贈ってみてはいかがでしょうか? こんなシーンによくご利用いただいています。長寿祝いお誕生日祝い銀婚式・金婚式退職・退任祝い日ごろの感謝をこめて 「親の雑誌」だからこそできる経験があります。親が担当者と話をするだけで文章が完成します親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶お申し込みはこちら▶資料請求はこちら --- - Published: 2025-06-16 - Modified: 2025-06-16 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3120/ - カテゴリー: お知らせ おかげさまで『親の雑誌』は、2025年5月でサービス提供10周年を迎えることができました。これまでご利用いただいた皆さまに心より感謝申し上げます。そこで今回、10周年の感謝を込めたSNS投稿キャンペーンを実施します!キャンペーン特典対象の方がSNSにご投稿いただくと、Amazonギフトカード500円分をプレゼント!※おひとり様1回限り※SNSのアカウント設定が非公開となっているなど、弊社側で投稿内容を確認できない場合は、恐れ入りますがキャンペーンの対象外となります参加条件以下、2点を満たす方が対象です・2025年5月までに完成した『親の雑誌』を受け取られている方・Instagram/X(旧Twitter)/Facebookのいずれかで投稿可能な方投稿の手順1.SNSに「#親の雑誌」のハッシュタグをつけて、写真や感想などを投稿してください2.投稿後、以下3点をメール(info@oyanozasshi. jp)宛にお送りください ・投稿のURLまたはスクリーンショット画像 ・投稿者様のお名前 ・『親の雑誌』を制作された親御様のお名前3.内容確認のうえ、公式アカウントにてリポスト(シェア)いたします4.リポスト完了後、Amazonギフトカードをメールでお送りしますキャンペーン期間:2025年6月17日(火)~7月17日(木)『親の雑誌』を読んだご感想や、届いたときのお写真など、皆さまの“想い”のこもった投稿をお待ちしています。この機会に、ぜひご参加ください!キャンペーンの内容は予告なく変更・中止される場合がございます。予めご了承ください。  --- - Published: 2025-06-10 - Modified: 2025-06-10 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3117/ - カテゴリー: ブログ 「地域包括支援センター」という言葉を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。ざっくり言うと、高齢者や高齢の親を持つ子どもをサポートしてくれるところです。ですが、具体的な役割や事業内容や「どんなときに相談すればいいの?」といったことはご存じない方も多いかもしれません。今回は、地域包括支援センターの事業内容や特徴、活用方法などを解説します。目次地域包括支援センターとは?主な役割と事業内容地域包括支援センターのスタッフ構成どんな時に相談できる?主な相談事例活用方法とポイントまとめ:地域包括支援センターは「地域の頼れる相談窓口」 地域包括支援センターとは?地域包括支援センターは、2006年に介護保険制度の一環として全国の市区町村に設置されました。その地域に住む高齢者やそのご家族のための総合相談窓口です。「介護・福祉・健康・医療などの課題に対応してくれる場所」と考えると分かりやすいと思います。何歳から利用可能なの?地域包括支援センターは、65歳以上の高齢者が利用できます。また、40~64歳でも特定疾病によって心身の機能が衰えた場合は、要介護認定の申請のため、地域包括支援センターで手続きを行うことになります。どこに連絡すればいいの?地域包括支援センターは市区町村に設置されていますが、利用できるのは高齢者本人が居住している地域のセンターに限られます。離れて暮らす親御さんのことを相談したい場合は、親御さんの居住自治体のホームページで確認したり、役所に電話して住所を伝え、担当センターを教えてもらいましょう。主な役割と事業内容1. 総合相談支援事業2. 権利擁護事業3. 第一号介護予防支援事業(介護予防ケアマネジメント)4. 包括的継続的ケアマネジメント支援事業1. 総合相談支援事業介護に関する悩み、認知症への対応、医療や福祉のサービスについてなど、高齢者やその家族が抱える生活上の困りごとに対応します。たとえば「最近、親の物忘れが増えて心配」「介護サービスを利用するにはどうしたらよい?」といった悩みも気軽に相談できます。2. 権利擁護事業高齢者の権利を守るサポートも重要な役割の一つです。悪質な訪問販売や消費者被害、虐待、財産管理に関するトラブルなどの相談を受け、必要に応じて関係機関と連携して対応します。成年後見制度の利用もこれに含まれます。3. 第一号介護予防支援事業(介護予防ケアマネジメント)要支援認定された方や、介護が必要になる可能性のある高齢者に対し、介護予防サービスのプラン作成や利用調整を行います。介護保険の申請やサービス利用に関する初歩的な相談も、ここで受け付けています。4. 包括的・継続的ケアマネジメント支援事業医療・介護・福祉の関係機関と連携し、高齢者が住み慣れた地域で安心して暮らし続けられるよう、支援体制の構築や調整を担っています。地域包括支援センターのスタッフ構成センターには専門性の高いスタッフが配置され、それぞれの知識や経験を活かして利用者をサポートしています。保健師または看護師:健康相談や医療機関との連携、介護予防のアドバイスなどを担当します。社会福祉士:権利擁護や福祉サービスの利用支援、生活全般に関する相談に対応します。主任介護支援専門員(ケアマネジャー):介護サービス利用に関する相談や、ケアプラン作成の指導・支援を行います。この3職種がチームとなり、必要に応じて地域の医療機関や行政と協力しながら支援を行います。どんな時に相談できる? 主な相談事例「どんな悩みなら相談していいの?」と迷う方のために、主な相談事例をまとめました。・最近、親が物忘れをするようになったが、認知症なのか心配・一人暮らしの高齢の親が、近所でトラブルを起こしている・介護サービスの利用手続きが分からない・家族が退院するが、在宅介護ができるか不安・悪質な訪問販売に困っている、虐待が疑われる・親の介護で疲れてしまった。誰かに相談したいこのような悩みは地域包括支援センターに相談できます。相談は無料で、秘密も守られます。活用方法とポイント早めに相談:少しでも不安に感じることがあれば、深刻なトラブルになる前に相談しましょう。相談内容が漠然としていても大丈夫:スタッフが話を聞きながら一緒に課題を整理し、必要な支援につなげてくれます。地域に根ざした支援:地域のネットワークを活用し、行政・医療・福祉・ボランティアなど幅広い連携による支援を受けられます。 まとめ:地域包括支援センターは「地域の頼れる相談窓口」地域包括支援センターは、高齢者とその家族を支える「地域の総合相談窓口」です。身近な場所にあるからこそ、気軽に相談できるのが大きなメリットです。「困ったときは早めに相談する」ことが、ご本人やご家族の安心につながります。地域包括支援センターの存在を知っておくだけでも、いざというときに頼れる選択肢が増えるはずです。『親の雑誌 電子版』の紹介『親の雑誌 電子版』は、家族のための自分史作成サービス『親の雑誌』から生まれた、人々の人生を綴ったデジタルメディアです。『親の雑誌』を作成した方々の人生を離れて暮らす家族や親せき、友人と共有するだけではなく、多くの方に読んでいただけるよう掲載しています。 全ての人にはかけがえのない価値があり、その人が歩んできた人生は、たくさんの出会いで誰かの人生とつながり、この時代を織りなしています。お一人お一人が生きてきた人生に、ぜひふれてみてください。 --- - Published: 2025-06-04 - Modified: 2025-06-04 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3113/ - カテゴリー: ブログ 親御さんの「気持ち」を大切にする理由『親の雑誌』の取材で親御さんとお話しするたびに、私たちは一つのことを実感します。それは、自分史には「記録」と「記憶」という二つの側面があるということです。取材では、正確な日付や事実を思い出そうと一生懸命になる方がいらっしゃる一方、当時の心情や感情を自然と語り出す方がいらっしゃいます。どちらも自分史にとって大切な要素ですが、私たちは特に「記憶」を大切にしたいと考えています。なぜなら、ご家族が本当に知りたいのは、お父様やお母様が「何をどう感じて生きてきたか」だと思うからです。『親の雑誌』の取材で、「正確に記録しなければ」と真剣に考えてくださる方がまれにいらっしゃいます。「あれは何年のことだったか」「その時の正確な状況は何だったか」と、事実関係を正確にお伝えしようとするお気持ちが痛いほど伝わってきます。もちろん、基本的な事実は大切です。生年月日や学歴、職歴といった「骨格」となる情報は、自分史の土台として必要不可欠です。そのうえで私たちが意識しているのは、その「骨格」に「肉付け」される親御さんの感情や思い出、そして価値観です。あなたの親御さんだけの「記憶の風景」同じ出来事でも、人によって全く異なる印象や感情を抱くのはみなさんもお分かりになるかと思います。「その日は雨だった気がする」「とても嬉しかった」「なぜか不安を感じていた」——このような感覚的な記憶は、必ずしも事実と一致するとは限りません。でも、それで良いのです。なぜなら、親御さんがその時に何を感じ、何を考えていたかを知り、それを『親の雑誌』として形にすることが、お子様をはじめとしたご家族に喜んでいただけると考えているからです。例えばある男性のお客様は、戦後の貧しい時代に行商をしていた記憶を語ってくださいました。日付や場所の記憶は曖昧でしたが、「雨の中、泥だらけになりながら頑張った」という記憶は鮮明でした。そのお話からは、家族への愛情と責任感が伝わってきました。また、ある女性のお客様は、「子どもが小さいころ、熱を出した時に一晩中そばで看病した。熱を出しやすい子だったから心配もしたけれど、元気に育ってくれてよかった」と懐かしそうに話してくださいました。そのときの出来事だけではなく、親としての気持ちを『親の雑誌』に掲載しました。「記憶のフィルター」に宿るその人らしさ記憶は時に曖昧で、時に事実と異なることもあります。しかし、その「ズレ」自体が、その人の価値観や人生観を表していることがあります。実際にはそれほど裕福ではなかった幼少期を「とても恵まれていた」と回想される方がいらっしゃいます。それは、物質的な豊かさよりも、家族の絆や両親の愛情を「豊かさ」と感じてこられたからかもしれません。苦労の多かった時代を「楽しかった」と振り返る方も少なくありません。それは単なる美化ではなく、困難を乗り越えてきたことから生まれる自信であったり、逆境も楽しんできた力強さだと思うのです。こうした「記憶の解釈」にこそ、親御さんらしさが宿り、それがそのひとさらしさを伝えるのではないでしょうか。私たちの取材スタイル私たちは取材で「それは何年のことですか?」と確認することがもちろんあります。ですが、それ以上に「その時はどんなお気持ちでしたか?」「なぜそのような判断をされたのでしょうか?」などの質問を大切にしています。基本的な事実(プロフィールと年表)は取材前にご準備いただき、取材ではそれを元に親御さんの感情や価値観を聞くように努めています。たとえば、終戦の日の記憶をお聞きするときは、どこにいるときに終戦を知ったのかを確認しつつも、「その時何を思ったか」「どんな気持ちだったか」に焦点を当てるようにしています。そうすることで、お一人おひとりの気持ちを引き出せるのではないかと考えているからです。また、わたしたちはお子様やお孫さんが『親の雑誌』を読むときに何を掲載していれば、喜んでもらえるだろうか、ということを考えながら取材を行います。お父様が入社した会社の正確な社名や年号ももちろん大事ですが、「初めて給料をもらった時の喜び」や「仕事で失敗して落ち込んだ時の心情、そこからどうやって気持ちを切り替えたか」などを形にしたいと考えています。私たちが『親の雑誌』を通じてご家族に伝わってほしいと願っているのは、親御さんの人生の事実の羅列だけではなく、どのように人生を感じ、どのような価値観で生きてこられたかです。あなたの親御さんの「記憶」を形にしませんか『親の雑誌』が大切にしているのは、あなたの親御さんだけの「記憶の風景」です。それは必ずしも正確な事実ではないかもしれません。ですが、親御さんが生きてきた証としてとても大事なものではないでしょうか。『親の雑誌』では、親御さんの喜びや悲しみ、後悔や希望——そうした感情も形にします。私たちは、親御さんの「気持ち」を丁寧に聞き取ります。記録も大切ですが、親御さんが感じてこられた記憶をより大切に扱いたいと思っています。親御さんの「記憶」を形にするお手伝いを、どうぞ私たちにご依頼ください。『親の雑誌』のご紹介~親御様の想いと言葉が詰まった、世界に一つの宝物~ 『親の雑誌』は親の人生や思い出を一冊の雑誌にまとめるサービスです。親がこれまでどんな夢をもったのか、どんな道を歩んできたのか、家族とどんな時間を過ごしてきたのかを写真や言葉で振り返り、形に残すことができます。完成した雑誌を見ながら親自身がこれまでの思い出を振り返る時間を楽しんだり、家族や友人と雑誌を通じて会話を弾ませたりすることで、生活がより豊かになるでしょう。『親の雑誌』は、こんなシーンによくご利用いただいています。母の日・父の日のプレゼント銀婚式・金婚式お誕生日祝い長寿祝い退職・退任祝い日ごろの感謝をこめて「親の雑誌」だからこそできる経験があります。・親が担当者と話をするだけで文章が完成します・親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます・完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます・親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます・完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶資料請求はこちらから▶お申込みはこちらから    --- - Published: 2025-05-27 - Modified: 2025-05-27 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3096/ - カテゴリー: ブログ 皆さんは、親御さんとの時間をどのように過ごしていますか。日々の仕事や家事、子育てに追われていると、「また今度」、「余裕ができたら」と後回しにしがちです。ですが、後から「もっと早くやっておけばよかった」と後悔することがあるかもしれません。親御さんと過ごせる時間は意外と限られています。今回は「高齢の親とやっておきたいこと」をいくつかご紹介しながら、その大切さについて考えてみたいと思います。1. 思い出の場所に一緒に行く子どものころに親御さんと訪れた思い出の場所に一緒に行ってみる。例えば、あなたが幼いころに遊んだ公園、連れて行ってもらった動物園や遊園地、家族旅行で行った場所など。大人になって改めて訪れると、当時とは違った目線で風景や空気感を感じることができます。思い出の場所に行くと思い起こされることも多いでしょう。「ここであなたがケガをして慌てた」「この遊園地で観覧車に乗せたら泣き出した」など、親御さんから当時のエピソードを話してもらいましょう。それによって、あなたの記憶も呼び起こされるかもしれません。もしあなたにお子さんがいらっしゃるなら、親御さん・あなた・お子さんの三世代で思い出の場所に行くのもいいですね。また、思い出の場所に昔の写真を持っていき、同じ構図で写真撮影するのも面白いかもしれません。過去と現在を比べ、時間の流れを感じると同時に新たな家族の思い出を作ることができます。2. 一緒に旅行や温泉へ出かける数年に一度でもいいので、親御さんとの旅行を計画してみるのはいかがでしょうか。遠出が難しい方でも、近場の温泉や日帰り旅行なら気楽にいくことができるでしょう。旅先では普段とは違う体験をすることで、いつもと違った気持ちで親御さんに接することもできると思います。宿泊を伴う旅行だと、移動時間や宿での夕食・朝食の間に自然と会話が増えます。「最近どう?」「昔はこんなにゆっくり過ごす余裕はなかったね」など、何気ない会話の中にお互いの近況や気持ちが表れたりします。親御さんの最近の状況を知れたり、あなたの日々の出来事を伝えするのも良いかもしれません。特に温泉だと、疲れをとるだけでなくリラックスした状態でコミュニケーションを取れるのがメリットです。湯船に浸かりながら「気持ちいいね」「景色がきれいだね」など何気ない会話をするだけでも、一緒に来られてよかったという気持ちになるでしょう。また、旅先で撮った写真や動画は、後日振り返る楽しみにもなります。3. 家族の味を一緒に作る親御さんが作る「おふくろの味」「おやじの味」を、大人になってから食べたくなることはありませんか? とはいえ、親御さんと同じ味を再現するのは難しい場合もありますよね。そこで、親御さんが元気なうちに一緒に料理をするのはいかがでしょう。いざ教わってみると、意外なコツがあったりして、親御さんの手際や工夫に驚かされるかもしれません。教えてもらった作り方はメモや写真、動画に残しておくと後から便利です。自分で作ってみるときに「お母さんがこんなやり方をしていたな」と思い出すだけで、料理の時間もより豊かなものになります。『親の雑誌』では、お子様から親御さんへのメッセージを掲載できるのですが「今度○○の作り方を教えてください」といったリクエストを載せられた方もいらっしゃいました。4. アルバムを一緒に整理する実家に帰ると、押入れや本棚にたくさんのアルバムがありませんか?あなたの子ども時代の写真や親御さんの若い頃の姿、ひょっとするとおじい様、おばあ様が写っている写真もあるかもしれません。これらを親御さんと一緒に整理するのもよい時間の過ごし方になるでしょう。「あの頃はまだ若かった」「このとき、お父さんが転んで慌ててしまった」など、1枚の写真にも思い出やエピソード詰まっています。さらに、そこからまったく別の話題に広がることもあるでしょう。特に自分が覚えていない幼少期の話を聞ける機会にもなります。今は紙焼きの写真を簡単にデジタルデータとして残せる時代です。親御さんが元気なうちにアルバムを整理し、写真をスキャンして保存しておくと家族で共有もしやすくなります。こうした作業を1人で行うのは大変ですが、親御さんとおしゃべりしながらであれば、ハードルが下がるのではないでしょうか。5. 将来を見据えた話し合い一緒に楽しい時間を過ごすのはもちろん大切ですが、親御さんが元気なうちに話しておきたいこともあります。もしものときの備えや生活の段取りについての具体的な話し合いです。例えば、「今後、体力が落ちてきた場合はどうするか」「施設に入る、入らない」「医療・介護の方針」「相続についての考え方」などは、いざというときに話し合ってもお互いの認識をすり合わせるのは大変です。こういった話は重く感じられるかもしれませんが、親御さんが元気であれば、希望をしっかり聞いておけるメリットがあります。家族全員が納得感を持って将来の計画を立てておけば、何かが起こったときに慌てることが減ります。「まだ親が元気だから言い出しにくい」と先延ばしにしがちですが、事前に話しておくことで親御さんの安心感も高まります。暗くなりがちな話題でも、親御さんの意志を尊重しながら向き合う姿勢を見せることも大切です。わからないことや専門的な知識が必要になったら、地域の相談窓口や専門機関に問い合わせたりして、家族で情報を共有しましょう。まとめ:今できることを「高齢の親とやっておきたいこと」と聞くと、まだ考えたくないと思う方もいらっしゃるかもしれません。ですが、考え方によっては今だからこそ「いろいろなことを一緒に楽しめる」機会でもあります。気がついたら親御さんの足腰が弱くなっていたり、話す機会が減ったりしていて、「もっと早く時間をつくればよかった」と後悔してしまう人は少なくありません。そうならないためにも、まずは身近なことから少しずつ始めてみてください。例えばこまめにメッセージを送ったり、週に一度は電話をしたり。親御さんとのやり取りの中で、「お母さんの煮物の作り方を教えてほしい」、「アルバムの整理を一緒にやらない?」など伝えれば、一緒に過ごす時間の目的もはっきりして、より充実したひとときになるでしょう。ぜひこの機会に、親御さんとの時間を意識的につくってみてください。『親の雑誌』のご紹介『親の雑誌』のご紹介~親御様の想いと言葉が詰まった、世界に一つの宝物~ 『親の雑誌』は親のために贈る親の自分史です。離れて暮らす親御様に日頃の感謝の気持ちを込めて「親の雑誌」を贈ってみてはいかがでしょうか? こんなシーンによくご利用いただいています。長寿祝いお誕生日祝い銀婚式・金婚式退職・退任祝い日ごろの感謝をこめて 「親の雑誌」だからこそできる経験があります。親が担当者と話をするだけで文章が完成します親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶お申し込みはこちら▶資料請求はこちら --- - Published: 2025-05-20 - Modified: 2025-05-20 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3090/ - カテゴリー: ブログ もうすぐ梅雨がやってきますね。じめじめとした梅雨は、多くの人が憂鬱だと感じる時期かもしれません。ですが、事前に準備をしておけば、梅雨の時期を快適に過ごすことができます。今回は、梅雨入りの前にやっておきたい準備や対策を8つのポイントに分けてご紹介します。身の回りを整え、快適な「雨の季節」を迎えましょう。親御様にもお伝えしてみてくださいね。<8つのポイント>1. 家の防水・カビ対策2. エアコンのメンテナンス3. レイングッズの準備4. 洗濯物の部屋干し対策5. 食中毒防止対策6. 衣替え7. 健康管理8. 車のメンテナンス 1. 家の防水・カビ対策1-1. 雨漏り・雨樋のチェック梅雨は長い雨が続くため、ちょっとしたヒビでも雨漏りにつながる可能性があります。特に戸建て住宅にお住まいの場合、屋根や外壁にヒビや傷がないかを確認し、必要に応じて修理を行うことが大切です。・屋根の点検:瓦やスレートにヒビやズレがないか、苔や汚れがたまっていないかを確認する。・外壁の点検:外壁に細かいヒビ割れが入っている場合、そこから雨水が染み込むことがある。大きなダメージになる前に修理する。・雨樋の清掃:枯れ葉や泥が詰まっていると、水が流れずにあふれ出すことがある。梅雨前に一度きれいにしておく。1-2. カビ・ダニ対策湿度が高いとカビやダニが繁殖しやすくなります。押し入れやクローゼット、浴室は湿気がこもりがちなので、早めの準備が肝心です。・除湿剤・湿気取りの設置:押し入れやクローゼットの隅に除湿剤を置く。定期的に交換して、効果を切らさないようにする。・浴室の換気:入浴後は換気扇を回し、湿気をしっかりと外に逃がす工夫をする。・布団の天日干し:晴れ間を見つけたら、布団やラグ、マットレスなどはしっかり天日干しをして湿気を飛ばす。ダニ対策にも効果的。2. エアコンのメンテナンス2-1. フィルター掃除梅雨の時期はエアコンの除湿モードを活用するご家庭も多いと思います。エアコンのフィルターが汚れていると、かえって部屋に不衛生な空気が送り込まれてしまう可能性があります。・フィルターの掃除:定期的にフィルターを取り外して水洗いする。・エアコン内のクリーニング:フィルターだけでなく、エアコン内部の熱交換器にカビが発生している場合がある。市販のスプレータイプのエアコンクリーナーを使ったり、専門の業者さんに掃除を依頼する。2-2. 風の通り道の確認エアコンを使って除湿しても、家具やカーテンの配置によって風の通り道がふさがれていると効果が弱くなります。・カーテンや家具のレイアウト:エアコンの送風口や吸気口が塞がれないようにする。・扇風機やサーキュレーターの併用:空気を循環させることで、エアコンの除湿効果や冷房効果をより高められる。3.  レイングッズの準備3-1. 傘のメンテナンスいざ梅雨入りしてから傘を開いたら、布地が破れていたなんて経験はありませんか?梅雨前に一度、家にある傘の状態を確認してみましょう。・骨折れや布破れの点検:普段使わない折りたたみ傘やビニール傘なども含めて開閉チェックを行う。3-2. レイングッズのバリエーション梅雨の時期は、通勤・通学時の雨だけでなく、ちょっとした外出でも足元が濡れやすくなります。・レインコート・レインブーツの準備:自転車での移動や大雨の日には、傘だけでは不十分なことも。レインコートやレインブーツの準備があると安心。・折りたたみ傘の携帯:突然の雨に備えて、バッグに一つ折りたたみ傘を入れておくと心強い。・撥水スプレーの使用:靴や鞄に撥水スプレーをかけておくと、雨の日のダメージを軽減できる。4. 洗濯物の部屋干し対策4-1. 洗濯環境を整える梅雨時期は外に洗濯物を干せる日が減るため、部屋干しする機会が増えます。しかし、部屋干しの嫌なニオイや乾きにくさを防ぐには、干し方や洗剤選びが重要です。・部屋干し専用洗剤の利用:生乾きのニオイを抑える抗菌成分入りの洗剤を使う。・洗濯量を減らす:一度に大量の洗濯物を干すと、乾きにくいうえにニオイのもとになりやすい。こまめに少量ずつ洗う。4-2. 除湿機・サーキュレーターの活用部屋干しの天敵は湿気と空気の停滞です。効率よく乾かすには、部屋干し用の除湿機やサーキュレーターを併用するのがおすすめです。・除湿機で湿度を下げる:湿度が高いほど洗濯物が乾きにくい。除湿機を1〜2時間つけるだけでも乾きが格段に早くなる。・サーキュレーターで風を当てる:直接風が当たるように設定することで、水分を飛ばして生乾きのニオイを抑える。5. 食中毒防止対策5-1. 冷蔵庫・キッチンまわりの整理整頓湿度と気温が上がる梅雨の時期は、食中毒が発生しやすくなります。常温保存できる食品でも高温多湿に弱い場合もあるので、食品の保存方法を見直しましょう。・冷蔵庫の掃除:定期的に棚を取り外して拭き掃除をする。賞味期限切れの食材や調味料がないかをこまめにチェックする。・密閉容器の活用:食品をしっかり密閉して、湿気や虫の侵入を防止する。5-2. 調理・食事時の衛生管理調理器具や手指の衛生を徹底することも大切です。・こまめな手洗い:調理前だけでなく、生肉や生魚を扱った後、野菜を洗った後など、作業の合間でも都度手洗いを心がける。・包丁やまな板の分け使い:生肉や生魚用と野菜用で分けて使うなど、菌の移動を防ぐ。・加熱はしっかり:肉や魚は中心部まで十分に火を通す。ちょっとした手間が食中毒予防には有効です。6. 衣替え6-1. 衣替えのタイミング日本の伝統的な慣習では6月1日が衣替えの目安とされていますが、近年は気温変化が激しいため、すでに衣替えは済ませたという方もいらっしゃるかもしれません。春物から夏物への切り替えを行うときは、季節をまたぐアウターなどは防虫剤を使ったり、圧縮袋でしっかり保管しておくとよいでしょう。・不用品の整理:着なくなった服や状態の悪い服は思い切って処分したりリサイクルへ回す。衣替えは断捨離の好機でもある。6-2. 梅雨時期のファッション毎日のように雨に見舞われる梅雨時期は、機能性重視のアイテムを取り入れるとストレスが軽減します。・速乾性・吸水性素材:ポリエステルやナイロンなど、乾きの早い素材の服や下着を選ぶと快適。・レインシューズ:水が染み込みにくい素材のスニーカーやパンプスなど、見た目もおしゃれで機能的なシューズが増えている。7. 健康管理7-1. 気圧変化への対策梅雨の時期は気圧が下がりやすく、体調不良や頭痛を感じる方も少なくありません。・十分な睡眠:体調管理の基本は睡眠。質の高い睡眠を確保するために寝具や部屋の温度・湿度を整える。・ストレッチや軽い運動:体をほぐすことで血行を促し、気圧変化による不調をやわらげる。・気象病アプリの活用:気圧の急激な変化を事前に知ることで、頭痛薬や対策のタイミングを計りやすくなる。7-2. メンタルケア雨の日が続くと外出がおっくうになり、気分が沈みがちになることがあります。・室内での気分転換:室内で楽しめる趣味を見つける(映画鑑賞、ヨガ、プラモデル制作、編み物など)。・光を取り入れる工夫:日中でも部屋が暗くなりがちな場合は、明るめの照明をつけて気分をアップさせる。・適度な外出:雨がやんだタイミングを見計らって散歩をする。外の空気を吸ってリフレッシュ。8. 車のメンテナンス8-1. ワイパー・タイヤの点検梅雨のドライブは視界不良になることもあります。車を使う方は早めの安全対策を。・ワイパーゴムの交換:拭きムラや異音がある場合は交換する。梅雨入り前に新しいワイパーゴムに替えておけば安心。・タイヤの溝チェック:溝がすり減ったままでは雨の日のブレーキ性能が大きく低下する。スリップサインが出ていないかを確認。・撥水コーティング:フロントガラスやミラーに撥水加工をしておくと視界がクリアになり、安全運転につながる。8-2. エアコン・換気の確認車内のエアコンや換気システムが不調だと、窓がすぐに曇ってしまいます。・エアコンフィルターの交換:埃や花粉が溜まっていると風量が落ち、車内の換気が不十分になる。定期的な交換がおすすめ。・窓の曇り対策:エアコンの設定を「デフロスター(フロントガラス曇り止めモード)」にし、外気導入を使うなど工夫すると曇りを防げる。 まとめ:梅雨を前向きに捉えて、快適な毎日を梅雨の時期は雨や湿気が多くなるため、家の中も外出時も普段より気を遣う場面が増えます。そのため、事前の準備が大切になります。屋根や雨樋のチェック、エアコンのメンテナンス、レイングッズの準備、カビやダニ対策など、紹介した8つのポイントをいくつか行うだけでも、梅雨時期のストレスは大幅に軽減されるでしょう。さらに、気圧の変化や連日の雨でどうしても気分が落ち込みがちになりますが、逆手に取って「室内でゆっくりできる時間が増える時期」と前向きに捉えてみるのも一つの手です。家にこもって趣味に打ち込んだり、部屋の片付けを進めたりして、有意義な時間を過ごせるようにしましょう。また、この機会に親御様とゆっくりと話す時間をとるのもいいですね。雨の日ならではの楽しみ方を見つけると、梅雨の時期も悪くないと感じられるかもしれません。梅雨は、次の季節である夏を迎える準備期間でもあります。雨と湿気をうまくコントロールして、カビや食中毒をはじめとするトラブルを未然に防ぎつつ、少しでも快適に過ごすためのアイデアを取り入れてみましょう。ぜひ今回ご紹介した梅雨前の準備を活用してみてください。 お申込み、お問い合わせはお気軽にお申込みに関するご相談から「親の雑誌」の完成まで、「聞く」プロのコンシェルジュが丁寧にご家族をサポートします。 お申込み前のご不明点だけでなく、不安や心配なことなどございましたら、何でも安心してご連絡ください。 世界に1つしかない雑誌づくりに、お申込者様、親御様がチームになって取り組むサポートをしていきたいと思っております。 一緒に『親の雑誌』の制作ができますことを、心から楽しみにしております。 お申込みは、無料です。 お申込みはこちらから --- - Published: 2025-05-13 - Modified: 2025-05-13 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3080/ - カテゴリー: ブログ 「自分史」はその人の人生をその人の言葉でまとめた記録――というイメージを持つ方が多いかもしれません。実際弊社が提供している自分史作成サービス『親の雑誌』でも、親御様へインタビューを行い、雑誌形式の自分史としておまとめしています。これまで860件以上のご家族にご利用いただく中で、「親の話を残せてよかった」というお声を多くいただいています。一方、最近少しずつ増えているのが、「本人だけではなく、配偶者や子どもにもインタビューを行い、その内容も『親の雑誌』に掲載してほしい」というご要望です。例えば、お父様の『親の雑誌』にお母様やお子様から見たお父様のこと、お父様とのエピソードを掲載するというものです。元々『親の雑誌』にはスペシャルプランという主に配偶者向けのご家族ページを設けているプランがあります。自分の自分史を作るのは抵抗があるけれど、配偶者の自分史に関わることならできる。主にそういった女性に向けたプランです。このスペシャルプランのお申込割合も増えてきています。今回は、家族インタビューを自分史に加える価値について、実際のエピソードや傾向を交えながらご紹介します。家族の物語をもう一段階深く記録したい方や、親御様の人生を「家族の目線」からも形にしたい方のヒントになれば幸いです。なぜ「家族インタビュー」も掲載するの?親御様の自分史は、それ自体、かけがえのない記録です。幼少期のこと、仕事での苦労や達成感、家族への思い。親御様の口から語られるエピソードと気持ちは、子どもや孫世代にとって大切な“家族のルーツ”になると思います。では、そこに配偶者やお子様の視点が加わると、どんな変化が起きるのでしょう?私たちが『親の雑誌』を作るご家族を見て感じたのは、自分史が「一人称視点の記録」から「家族の対話の記録」へと変化しているのではないかということです。親御様の人生を家族の記憶や言葉で補うことで、自分史が“親御様一人の物語”から“家族の物語”へと多面的になるように感じます。なぜそのように感じるのか5つに分けてご紹介します。1.「家族から見たその人」が言葉として残る親御様の語る人生は、あくまで“主観”に基づいたものです。しかし、配偶者やお子様にインタビューを行うと、主観では語られないその人が現れます。例えば、ある親御様は「仕事が忙しかったから、子どもとはあまり関わってこられなかった」とお話されていた方がいらっしゃいました。その方の奥様は「お父さんは毎晩、仕事から帰ってくると子どもたちのことを根掘り葉掘り私に聞いてくるんですよ。忙しくても子どもたちのことが気になってしょうがなかったんでしょうね」とおっしゃっていました。こういったお話がでてくると、子どもに関わってこられなかったと話す方への印象が変わってきますよね。このようなお話は親御様本人からはなかなか聞けないものです。なぜなら、無自覚に行っていることが多いから。ご家族インタビューが加わることで、本人の語らない・語れない面が浮き彫りになります。2.親御様の「自分」への認識が変わるみなさんは、ご家族に自分がどんな人として認識されているかのイメージがあるのではないでしょうか。おおむねそのイメージは合っているとは思います。ですが、配偶者やお子様のインタビューを親御様が読むと、「そんなふうに思っていたの?」ということもしばしば起こります。ある親御様からは「妻からこんなに感謝の言葉をもらえるとは思っていなくて、びっくりした」とおっしゃった方もいました。3.「家族の対話」として残せる通常の自分史は「主観的なもの」ですが、家族インタビューが加わると、“家族の対話”のような雰囲気が生まれることがあります。例えば、ある方はインタビューで「私の人生はこれと言って、特徴があるわけではないですよ」と語られていました。ですが、その方のお子様にインタビューしたところ「母は周りの人を気遣い、場を明るくするのが得意なんです。母がいるとパッと場が明るくなるんですよ」とお話されていました。ひとつの事柄に対して、主観的な記事と客観的な記事が載っていると、まるで紙面上で対話しているような自分史になることがあります。4.「家族内の記憶のズレ」を知ることができる家族でも、同じ記憶を持っているとは限りません。むしろ、「自分はこう思っていたけど、親はそう感じていたのか」と、認識の違いに気づくことも多くあります。自分史にご本人だけではなく、ご家族の言葉も掲載すると、その“認識のズレ”が見えてきます。そしてそれは、家族それぞれの考え方を知るきっかけにもなります。例えば、あるお父様は「子育てにはほとんど参加していないんです。子どもの運動会もいつも仕事で行けなかった。」と語っていましたが、お子様は「父は忙しい中、わずかな時間だけでも運動会に顔を出してくれました」と話されていました。同じ出来事でも、家族それぞれに違う印象が残っていることがあります。それはどちらが間違いでどちらが正解というわけではなく、それぞれの方がそのように記憶しているということ。またそのように感じたということです。その違いも楽しんでいただけたらなと思うのです。5.自分史が「家族史」に変わる最後に、自分史に家族インタビューが加わることで、『親の雑誌』が家族全体の記憶のアーカイブにもなります。親御様が語った人生に、配偶者やお子様の言葉を付け加える。そうすると、親御様を中心に家族がどう生きてきたのを知ることができる自分史になります。将来、その雑誌を手に取ったお孫様世代が、「おじいちゃんの人生だけじゃなく、お母さんってそんなこと感じていたんだ」と読むかもしれません。それは、『家族の雑誌』とも呼べるものになるのかなと思います。 まとめ:文章でつながる家族自分史に家族の声を加えることは、“家族のつながり”を言葉にすることでもあります。親御様ご本人だけでなく、配偶者やお子様の視点が加わることで、自分史はより深く、よりあたたかい記録になります。「親のことを残したい」と思ったとき、ぜひご家族の声も一緒に記録してみてください。そこには、これまで気づかなかった“別の家族の物語”が広がっているかもしれません。オプションのご紹介『親の雑誌』では増刷や取材時のお写真データ、『親の雑誌』PDFデータなど様々なオプションを準備しております。複数名のインタビューをご希望の場合は、オプションより家族インタビューとオリジナル企画ページをお選びください。詳細については、弊社コンシェルジュにご相談ください。  --- - Published: 2025-04-25 - Modified: 2025-04-25 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3072/ - カテゴリー: ブログ 『親の雑誌』は、お子様から親御様へ贈る「人生をまとめた一冊」です。弊社スタッフが、親御様が歩んできた道のりをインタビューし、写真とともに人生の物語としてまとめていきます。今回は、実際に『親の雑誌』を作成されたお子様からいただいた感想をもとに、お子様が感じた「作ってよかった」と思う理由をお伝えします。1. 自分自身を見つめ直すきっかけになるあるお子様は、「両親にできあがった『親の雑誌』を渡したところ、大変喜んでくれました。インタビューへの同席、原稿の確認、写真の選別など、両親の人生を共に振り返ることができました。私自身のこれまでを振り返ることにもなりました。自分のこの先の在り方、生き方を考えることもできた大切な時間となりました」とお話しされています。親御様の人生をじっくりと紐解く時間は、自分自身のルーツを知り、これまでの生き方やこれからの人生について考える良い機会にもなります。親御様の人生を知ることで、自分自身が何を大事にしていきたいのか、これからどんなふうに生きていきたいのかが見えてくることもあるかもしれません。2. 親御様の人柄や人生を周囲に伝えやすくなる「母の100歳の誕生日に家族で会食し、そこで親の雑誌をお披露目することができました。その後、母は転倒し入院となりましたが、ケアマネージャーさん含め、皆さんに雑誌を見ていただき母の人となりを伝えることに役立ちました」というご連絡を頂戴したことがあります。介護施設や病院など、親御様の人柄やこれまでの人生を知らない方々と接する機会でも、『親の雑誌』があればすぐに親御様のことを理解してもらうことができます。3. 感謝の気持ちを自然に伝えられるまた別のお子様は、「雑誌を渡したところ、母は少し恥ずかしそうでしたが、とてもうれしそうにしていました。その時、すでに母の雑誌を読んでいた私は、自然に感謝の言葉がでてきたんです」とおっしゃっていました。改まって感謝の気持ちを伝える機会はなかなかないものです。『親の雑誌』を渡すことがその機会にもなるようです。4. 大切なメッセージを次の世代へ残せるある方は、「父の70歳の誕生日にプレゼントしました。父の若かりし頃の話などそれまで聞いたことがなかったので、知ることができてとても良かったです。また孫への最期のメッセージが、大事なことはそこ(『親の雑誌』)に書いてあるからちゃんと読むように、でした」と語られました。親御様が人生で培った経験や想いを次の世代に残すことができるのも、『親の雑誌』のよい点です。親御様がお子様、お孫様に直接伝えることができなくても、『親の雑誌』として形にすることで、親御様の想いをいつでも読み返すことができます。5. お別れの場で、故人を偲ぶきっかけとなる「母が亡くなった際、葬儀の場で『親の雑誌』を展示しました。多くの参列者が母の人生に触れ、語り合うきっかけになりました。作っていただいて本当に良かったです」というお声もあります。お別れの場で親御様について語り合うこともあると思います。そのときに伝えきれないエピソードや想いも『親の雑誌』を通してたくさんの方と共有することができます。お子様からのさらなる喜びの声さらに多くの方から、「思い切って申し込んで本当に良かった」「両親がはにかみながらも、雑誌を大事にしている姿を見て嬉しくなった」「父もとてもうれしかったようで、ぼろぼろになるまで見ていました」といったお声をいただいております。また「生まれてから現在までの様子が写真とともに、この一冊に凝縮されて、手に取れば父の歴史が蘇ります。私自身忙しさにかまけ作成を先延ばしにしたり、すぐに疲れてしまう父を気長に待ちながらの作成でしたが、実際出来上がって現物を見ると、本当に作ってよかったと思えます」といったお声もありました。『親の雑誌』を作る過程で悩まれることもあるかもしれませんが、わたしたちスタッフがサポートいたします。ぜひ親御様の人生を、形として残す体験をしてみてください。まとめ『親の雑誌』を作ることは、親御様へのプレゼントというだけではありません。ご家族がルーツを知ったり、感謝したり、人生の大切さを改めて感じることにもつながります。親御様の人生を知り、次世代へ受け継ぎたいと感じていらっしゃるようでしたら、『親の雑誌』作成を検討してみてくださいね。ご家族にとって、かけがえのない一冊ができあがるはずです。 『親の雑誌 電子版』の紹介『親の雑誌 電子版』は、家族のための自分史作成サービス『親の雑誌』から生まれた、人々の人生を綴ったデジタルメディアです。『親の雑誌』を作成した方々の人生を、親御様の生きてきた人生の価値を、離れて暮らす家族や親せき、友人と共有することができるだけでなく、さらに、いろいろな方に読んでいただけるよう掲載しています。 全ての人にはかけがえのない価値があり、その人が歩んできた人生は、たくさんの出会いで誰かの人生とつながり、この時代を織りなしています。お一人お一人が生きてきた人生に、ぜひふれてみてください。 --- - Published: 2025-04-18 - Modified: 2025-04-18 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3069/ - カテゴリー: ブログ 春は、出会いや別れの季節と言われていますよね。卒業や入学、就職、引っ越しなど、人生の節目を迎える人も多いのではないでしょうか。そんな変化の多い時期だからこそ、親御さんの『若い頃の夢』について聞いてみませんか?親の『若い頃の夢』を知る意味普段の生活では、親御さんの若い頃の話をゆっくり聞く機会はあまりないかもしれません。日々の忙しさの中で「親は親」としてしか見ていないということもあるでしょう。ですが、親御さんもかつては若者であり、自分と同じように「こうしたい」や「将来はこんなふうになったらいいな」などの夢や希望を抱いていたはずです。若い頃にどんな夢を持ち、どんな選択をしてきたかを聞くことは、親御さんに「親」とは別の側面があることを知ることにつながります。それは親御さんへ新たな共感や理解を生み出し、親御さんも1人の人間であること、親以外の役割があることに気づくきっかけになるかもしれません。「若い頃の夢」をどう聞く?「若い頃の夢」と言っても、突然聞くのは照れくさいかもしれません。自然な形で話を始めるには、次のような質問がおすすめです。「学生時代に夢中になったことって何?」「若い頃、やりたかったけどできなかったことってある?」「もし違う職業を選んでいたら、どんな人生だったと思う?」このような問いかけをすると、親御さんも急にどうしたの?と思いながらも、話しやすくなります。アルバムを広げながら話すと、より具体的で豊かな話が聞けるでしょう。また、リラックスしているときに、時間をかけて話を聞くのもいいですね。親の夢から見えてくるもの親御さんの夢を聞くことは、単に昔の話を聞くだけにとどまりません。その夢を持った背景には、その時代の社会状況や家庭環境、または個人的な経験があるはずです。例えば、「若い頃は先生になりたかった」という話を聞いたとします。その背景には「苦手な勉強を分かるまで丁寧に教えてくれた先生がいた」「悩みを熱心に聞いてくれた先生がいて、その人のおかげで自分で進路を決めることができた」など、さまざまな思いや環境が関わっています。その話を聞くことで、親御さんがどのような価値観を大切にしてきたのかを知ることができます。また、夢をかなえた親御さんからは、その夢を実現するためにどのような努力や工夫をしてきたのか、その成功の秘訣や達成できたと思う理由なども聞いてみましょう。一方、夢がかなわなかった親御さんの場合も、どんな苦労や挫折を経験してきたのか、またその挫折をどのように乗り越えてきたか知ることで、今の親御さんの性格や価値観に納得感を得ることができるかもしれません。親御さんの夢を形として残す親御さんから聞いた夢や夢にまつわるエピソードを形に残すことができるのが「自分史」です。自分史は、その人の人生を文章や写真などで記録するものです。親御さん自身も、自分の夢や人生を振り返ることで、「自分はこんなに頑張ってきた」「こんな人生を歩んできたんだ」と改めて誇りに感じることができます。ご家族の皆様で「親の自分史」を作ることは、親御さんの想いを次の世代に引き継ぎ、家族の歴史を紡いでいくことにつながるのではないでしょうか。夢の話を通じて親御さんとの距離が近づく普段はなかなか照れくさくて言えない「ありがとう」という気持ちも、夢や過去の話をきっかけに自然と伝えられるかもしれません。また、「そんな夢を持っていたなんて知らなかった」と驚き、新鮮な気持ちで親を見ることができるでしょう。親御さんにとっても、子どもが自分の人生に興味を持ち、話を聞いてくれることはうれしいと思いますよ。春のひとときを大切に春は新しいスタートを切る人たちが多い季節ですが、そんな変化の時期だからこそ、同時にこれまでの人生を振り返るにも最適なタイミングとも言えます。ゴールデンウィークにでもゆっくりと時間をとって、親御さんの夢を聞きながら、皆様自身のこれからについても考えてみてはいかがでしょうか。『若い頃の夢』を親御さんと語り合い、「自分史」という形で残してみませんか?この春が、あなたと家族にとって特別な思い出となりますように。『親の雑誌』のご紹介『親の雑誌』のご紹介~親御様の想いと言葉が詰まった、世界に一つの宝物~ 『親の雑誌』は親の人生や思い出を一冊の雑誌にまとめるサービスです。親がこれまでどんな夢をもったのか、どんな道を歩んできたのか、家族とどんな時間を過ごしてきたのかを写真や言葉で振り返り、形に残すことができます。完成した雑誌を見ながら親自身がこれまでの思い出を振り返る時間を楽しんだり、家族や友人と雑誌を通じて会話を弾ませたりすることで、生活がより豊かになるでしょう。『親の雑誌』は、こんなシーンによくご利用いただいています。母の日・父の日のプレゼント銀婚式・金婚式お誕生日祝い長寿祝い退職・退任祝い日ごろの感謝をこめて「親の雑誌」だからこそできる経験があります。・親が担当者と話をするだけで文章が完成します・親子で写真を選ぶことで、一緒に思い出を振り返ることができます・完成した「親の雑誌」を嬉しそうに手に取る親の顔を見られます・親の人生を知り、感謝や尊敬の気持ち家族との繋がりを実感できます・完成した「親の雑誌」は、いつまでもあなたのそばで親の気持ちを伝え続けます『親の雑誌』で親御様と一緒に新しい宝物をつくってみませんか。▶資料請求はこちらから▶お申込みはこちらから    --- - Published: 2025-04-09 - Modified: 2025-04-09 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3065/ - カテゴリー: お知らせ 母の日・父の日 には、普段なかなか贈る機会のない、特別なプレゼントを贈りたいものですよね。『親の雑誌』は、そんな特別なプレゼントにぴったりな商品です。今なら期間限定のキャンペーンを実施中! キャンペーン期間中に『親の雑誌』をお申込いただいた方は、プラン料金から5,000円OFFいたします。『親の雑誌』は、親御さまの人生や思い出をまとめた雑誌タイプの自分史です。インタビューとお写真で気軽に作ることができます。「ご自身の人生を振り返ることで新たな発見があった」という親御さまのお声や、「両親の人生や思い出を知ることができた雑誌は家族の宝物になった」というご家族さまからのお声をいただいています。この機会に、特別な贈り物として『親の雑誌』を選んでみてはいかがでしょうか。5,000円OFFの期間限定キャンペーンをお見逃しなく!【期間限定キャンペーン】 母の日 父の日 の贈り物に|今だけ『親の雑誌』が5,000円OFF期間中に『親の雑誌』をお申込頂いた方全員に、今だけの素敵な特典をプレゼントします。母の日 父の日 キャンペーン期間限定のお得な特典・キャンペーン期間:2025年4月14日(月)~6月30日(月)・期間限定の特典:お申込みの方全員にプラン料金から5,000円OFF!2025年4月14日(月)~6月30日(月)の期間中に『親の雑誌』をお申込みください。期間中お申込みいただいた方はプラン料金から5,000円OFFいたします。▶お申し込みはこちらから▶資料請求はこちらから『親の雑誌』3つの特徴をご紹介特徴1.『親の雑誌』は家族でつくる自分史作成サービスです「聞く」プロが、親御さまお一人お一人の取材を担当。インタビューとお写真だけで気軽に作ることができ、親御さまの想い、家族の想いが詰まった、世界に一つだけの宝物が完成します。▶『親の雑誌』詳細はこちらから特徴2.『親の雑誌』は850名を超えるたくさんのお客さまにご利用頂きました850名を超える親御さまの自分史を制作いたしました。多くのお客さまから喜びの声が届いています。▶ご利用者さまの喜びの声をみる特徴3.『親の雑誌』は数々のメディアに取り上げられています2015年サービス開始直後から数々のメディアに取り上げられ、たくさんの問合せやお申込みをいただいています。 お客様の声『親の雑誌』を利用された親御さま97パーセントが満足『親の雑誌』ご利用者さまを対象に実施したアンケート*では、97パーセントの親御さまから「仕上がった雑誌に満足している」という回答を頂きました。(*2018年デザイン改訂後の「親の雑誌」ご利用者さまを対象に実施)【親御さまの声抜粋】・娘から、完成した親の雑誌を渡されました。自分の事が雑誌になるなんて驚きです!・ちょうど私の一生について書き残そうと思っていた矢先だったので息子の好意に深く感謝しています。・引退してから、子どもたちのためにわが家の歴史を書こうと思いつつ20年が経過してしまいました。この度、長女からの親の雑誌制作の申し出があり感謝しています。▶『親の雑誌』電子版(親の雑誌を作成された方たちの記事が読めます)【お子さま・お申込者さまの声抜粋】・インタビューで父が生き生きと話している姿を見る事ができてよかった。・これまで知らなかった親の側面を知ることができた。・母が生きてきた証として残してあげられてよかった。・ひ孫もおおきくなったらひいおじいちゃんのことを雑誌を通して知ることができる。・作って良かった。両親が思った以上に喜んでくれました。▶『親の雑誌』ご利用者さまに制作のきっかけから制作後のお気持ちまでを伺いました親の雑誌コンシェルジュがご家族をサポートします『親の雑誌』制作自体を楽しんで頂けるよう「親の雑誌コンシェルジュ」をご用意。親子の絆を深める自分史作りのアドバイスや、完成後のプレゼント方法のご提案など『親の雑誌』作成前から作成後までご家族をフォローします。・親御さまへの説明方法・写真の選定方法・年表の書き方・おすすめオプションの選び方・原稿のチェックポイント・プレゼントの渡し方や完成披露会その他、質問やご相談はお気軽にお問い合わせください。コンシェルジュが丁寧にお答えします。【お問い合わせ】Email:info@oyanozasshi. jp電話:0120-042-488(平日9時~18時)▶お申し込みはこちらから▶資料請求はこちらから『親の雑誌』で家族の絆を感じる特別な母の日・父の日をお過ごしてみてはいかがでしょうか。 株式会社こころみ --- - Published: 2025-03-27 - Modified: 2025-03-27 - URL: https://oyanozasshi.jp/news/3059/ - カテゴリー: ブログ 早いもので、2025年も3カ月過ぎてしまいましたね。少し前に「お正月だ」と思っていたのに、あっという間に4月が来てしまいます。そして、気づけばあと1カ月ほどでゴールデンウィーク。私は、毎年4月の半ばになってからゴールデンウィークの存在を思い出すので、予定を立てることもなく、結局家でのんびり過ごすことがほとんどです。ですが、今年は(私にしては)早めに気づいたので、ゴールデンウィークに何をするか予定を立てようと思います。そして、せっかくなので今年(2025年)残りの祝日を一覧にしてみました。これで帰省のスケジュールも早めに立てられるというもの。皆さんもよろしければ、2025年4月以降の祝日一覧を見てスケジュールを考えてみてください(祝日も働いていますという方には、ごめんなさい)。早めに帰省のスケジュールを組んで親御様にお伝えすれば、親御様も皆さんの帰省を待つ楽しみができますね。2025年4月~12月の祝日一覧日付曜日祝日名4月29日火昭和の日5月3日土憲法記念日5月4日日みどりの日5月5日月こどもの日5月6日火振替休日(みどりの日の振替)7月21日月海の日8月11日月山の日9月15日月敬老の日9月23日火秋分の日10月13日月スポーツの日11月3日月文化の日11月23日日勤労感謝の日11月24日月振替休日(勤労感謝の日の振替)※曜日・振替休日の扱いは、現時点の法律・カレンダーに基づいたものです。まず4月末からゴールデンウィークが始まります。4月29日(昭和の日)は火曜日、そこから5月3日(土)の憲法記念日、4日(日)のみどりの日、5日(月)のこどもの日が続き、6日(火)は振替休日となります。続いて夏以降の祝日ですが、7月21日(月)の海の日からが本格的な夏シーズンの到来でしょう。海の日といえば、海辺のイベントや旅行がイメージされやすいですが、山や川など自然に親しむチャンスでもあります。8月11日(月)の山の日も合わせてアウトドアを満喫できそうですね。おそらく今年も猛暑が予想されるので、天候と体調の様子を見て、楽しみたいものです。9月には、15日(月)の敬老の日と23日(火)の秋分の日があり、連休を上手に組み合わせると家族行事を楽しめそうです。10月13日(月)のスポーツの日は、体を動かすにはもってこいですね。涼しくなっていれば、ウオーキングやサイクリング、登山などでリフレッシュできそうです。11月は3日(月)の文化の日、23日(日)の勤労感謝の日があります。勤労感謝の日が日曜日なので、24日(月)は振替休日。土日がお休みの方は、11月は3連休が2回あります。紅葉シーズンでもあるので、紅葉を見に行く予定を立てるのもいいですね。12月には残念ながら祝日がありませんが、ここまでにじゅうぶんリフレッシュできれば、年末も気持ちよく仕事納めができそうです。こうして整理してみると、ゴールデンウィークから年末まで、連休を活かせる機会がいくつかあります。仕事が忙しくなると、つい次の休みを確認する余裕もなくなります。でも事前に把握しておくと「ここで家族旅行に行こう」「ここで帰省しよう」いった具合に予定が立てやすくなりますね。皆さんも今のタイミングで、ご自身のカレンダーや会社の休暇制度などをチェックしてみてください。祝日や振替休日をうまく組み合わせて、帰省するのもいいですね。祝日を親御様と一緒にゆっくりと過ごすきっかけにしてみてください。お申込み、お問い合わせはお気軽にお申込みに関するご相談から「親の雑誌」の完成まで、「聞く」プロのコンシェルジュが丁寧にご家族をサポートします。 お申込み前のご不明点だけでなく、不安や心配なことなどございましたら、何でも安心してご連絡ください。 世界に1つしかない雑誌づくりに、お申込者様、親御様がチームになって取り組むサポートをしていきたいと思っております。 一緒に『親の雑誌』の制作ができますことを、心から楽しみにしております。 お申込みは、無料です。 お申込みはこちらから --- --- > --- お問い合わせ・お申し込み - 無料資料請求: https://oyanozasshi.jp/document-entry - お申し込み: https://oyanozasshi.jp/entry - 電話: 0120-042-488(営業時間 9:00〜18:00/土日祝除く) 運営: 株式会社こころみ - 運営会社情報: https://oyanozasshi.jp/company - 個人情報保護方針: https://oyanozasshi.jp/privacy-policy 関連サービス - 私の人生史 https://watashinojinseishi.jp/ - 創業の雑誌 https://sogyonozasshi.jp/ - 愛馬の雑誌 https://aibanozasshi.jp/ 最終更新: 2026年5月 ---