インタビュー

寺田芳雄として生きてきて

平成30年4月発行 / 埼玉県在住・昭和20年生まれ

寺田芳雄として生きてきて 足るを知る

平成30年1月10日。
「THE寺田芳雄」創刊号の発行にあたり、彼の仕事場がある狭山市を訪ねた。幼少期から、アルバイトをしながら勉学に励み、常に優秀な成績をおさめてきた芳雄氏。日銀へ就職するも、かねてからの夢であった公認会計士の資格を取得し、独立。生涯のベストパートナーとなった妻と共に、充実の日々を過ごしてきた。2時間に及ぶインタビューから、彼の半生を追う―。

両親のこと

 生まれは滋賀県東近江市、昔の八日市市です。14歳上の姉、4歳上の兄の3人きょうだいの末っ子です。父は滋賀県蒲生郡日野町の出身で、母親は死ぬまで八日市市で暮らしました。父は、高崎の大きな作り味噌屋で番頭をしていたんですけど、戦災で焼けましてね。その後、長野県上田の作り味噌屋の住み込み従業員となって、ずっと働いていました。高崎ではいい地位まで行ってたので給料も高かったでしょうけど、長野の上田では苦労したと思います。私たちの生活も大変でしたよ。住み込みの従業員ですから、送られてくる給料は少なかったです。家には、2年に1回、1カ月だけ帰ってくる。だから、おやじの顔は覚えてないですね。ただ、クルミを買ってきてくれたのは記憶にあります。長野県の名産ですからね。食べるのが楽しみでした。1日に1個だけ。決まっていたわけではないんですけど、持ってきたのはわずかですから。父の思い出といったらクルミです。

 その後、病気で帰ってきたんですが、3年たって死んでしまいました。病気をしていた3年間は、静かに暮らしていました。いつもおふくろの尻に敷かれてましたけどね(笑)。私が高校2年のとき、学校が映画鑑賞に連れてってくれるんですけど、それを見て帰ってきたら、おやじは亡くなってました。当時はテレビなんてあってもないような時代でしたからね。「十戒」を見て、しっかりしなくちゃと思って帰ってきたら、亡くなっていたんです。前日から寝たきりで、調子は悪そうでした。息子孝行というか、妻孝行という感じの死に方ですよね。迷惑を掛けないというか。

 母親は畑仕事のほかに、軍手編みの内職なんてのもしてましたけど、こちらも静かでおとなしい人でした。ただ、「男の子はダメね」とよく言ってましたよ。兄と私は料理なんてなんにもしませんでしたから。姉は早くに結婚して家を出てましたしね。母は、本当によく働いていました。畑仕事は手伝いましたよ。田んぼもしてましたから、脱穀とか、足で踏んで回す機械があるんですよ。小さいころは、体が軽いじゃないですか。だから、片足で踏んで動かすところを両足で乗っていました。私の行っていた学校は違いましたけど、農繁期になると学校が休みになるような地域だったんです。

アルバイトと勉強

 近所にかまぼこ屋がありましてね。兄と2人でアルバイトに行ってました。アルバイトは、小学2年生くらいからやってましたね。学校が終わってから、夜の7時、8時まで。12月だけは、12時過ぎまでやってね。労働基準法には違反してますから、事業主は外の門を閉めに行ってましたよ。小学生のころからアルバイトしてたわけですが、当時はそういう人もいなかったわけじゃない。まぁ、私たちは収入が低い方ではありましたけど。そんな生活でしたから、遊んだ記憶はないです。仕事が遊びだったんでしょうね。でも、楽しくないですよ。魚の頭と臓物を切っていくんですけど、かまぼこだから新鮮な魚ってわけじゃないんです。その骨が指に刺さって傷ができると、そこに汚い水が入って手が膨れ上がる。みんなそうでした。それに、魚臭い。私はあまり服がないから、古い学生服を着ていたんですけど、ひょっとしたら体も臭っていたかもしれないですね。でも、それでいじめられることはなかったです。頭は悪くなかったから、学校での勉強はいつもトップクラスでした。2年生のとき、運動会の絵を描いて県展に出されたこともありましたよ。

 中学になったら、成績を貼り出しますよね。そのときはずっと一番でした。家では勉強できる状態ではなかったですけど、周りも勉強してなかったんでしょうね。中学3年のとき、育英会の奨学金の資格試験を受けに行けと学校から言われました。貧乏人で成績が少しましだったから言われたんでしょう。私が受けたのは特別奨学金の方で、当時は普通と特別の2種類の奨学金があったんです。もちろん、奨学金ですからそれは返します。私も相当な年まで返していました。くれるんならいいですけど、ローンですよ。でもそれは、普通奨学金の分だけ。プラスアルファされている特別奨学金の方は、返さなくていい。そういうのがあったんです。うちの学校から奨学金をもらう試験を受けたのは私と、もう1人、新聞配達をしている女の子が受験してたんです。私だけが受かりました。嫌だよね。中学生になると私も新聞配達していましたから、会うんですよ。仕方ないけど、あの子はこいつがいなけりゃと思っていたでしょうね。中学時代は、かまぼこ工場と新聞配達をして、新聞配達は、大学で家庭教師をやるまでやってました。収入がないと困るからね。

 アルバイトでためたお金は、親が家を買うときに渡しました。別に、おふくろは金をよこせと言ったわけではないんです。私はケチだからためたというだけですね。

 そのころから、公認会計士になりたかったんです。どこかに勤めるのが嫌だったから、1人でやりたかったんですよ。公認会計士は、図書館かなんかで調べたんじゃないかな。税理士っていうのは、知らなかったです。これ、いいなと思いました。これを知らなかったら、日本銀行で働き続けていたでしょう。日銀では、学歴と親のコネを誇示している人が多かったから、いづらいなというのはありました。いいと思っていたら、そこを出なかったでしょうし、順調だったら出なかったでしょう。日銀に勤めていたころは、資格を持っていなかったしね。辞めれば収入は落ちますけど、それは承知でしたから、よほど合わなかったんでしょうね。

充実の大学生活

 滋賀大学経済学部に入学しました。大学に入って良かったですよ。ゼミが一番楽しかった。先生がユニークで人懐っこくていい人でね。小倉栄一郎先生の「原価計算および管理会計」というゼミに入りました。授業熱心というより、みんなにいろんなことを話したい先生だったんですね。毎週木曜日の夜に、先生のご自宅に伺うんですけど、終わるのが夜の12時くらいになるんですよ。私は家のある八日市から先生のご自宅の彦根まで電車で通ってたんですけど、12時を回ると電車はないから自転車で帰ったんです。真っ暗な中を1時間以上かけて帰りましたね。それくらいしても参加したかったし、私は先生に気に入られていて、いわば秘蔵っ子でしたから。その小倉先生が、私を日銀に入れたんです。

 大学では、山岳部と詩吟部に入っていました。山登りは楽しかったですが、危険ですよね。1年生のときに八ヶ岳に行ったんですが、先頭が間違えて道なき道を行ったこともあります。新人だった私たちは、ロープを張ってもらい、なんとか歩きました。そんな私も4年生のときには部長になってね。すごいのは、そんなところに行くのをおふくろから止められたことがないんですよ。おふくろは、薪を取るのに山に登っていましたけど、そんな山だと思っていたらしいんですね。貧乏だから、自分の知っている山を想像していたようです。それでも、元気が出るからと梅酒の梅を用意してくれたこともありました。結構危ないところにも行きましたが、写真を見せたことはないんです。

 詩吟は、試合ではありませんけど、発表会なんかがありました。関西詩吟連盟っていうのがあって、他の大学の発表会があると行くんですよ。合宿では、日中は詩吟をやって、夜は旧制高校の寮歌なんかを歌ってました。

 大学時代にやった家庭教師のアルバイトは、資金源でしたから頑張りましたよ。多いときだと10人くらい教えました。毎日のようにやってね。人に教えるのは楽しいです。小学生とか中学生相手ですから難しいこともないですし。本当に忙しい大学時代でしたけど、楽しかった。人生の満開の時期でした。

 日銀入行、妻との出会い

 小倉先生から日銀に行ってくれないかと言われたんです。先生が就職の係をやっていて、何人か日銀によこしてくれないかと言われたんでしょう。そういうときは、金融論などのゼミからいいのを1人送ってくださいよと言われるのが普通でしょう。だけど先生もちゃっかり自分のところから入れようとしたんですね。日銀から試験を受けに来いよと言われてるだけで受かるとは限りませんから、じゃあ取りあえず受けようと。大恩のある小倉先生からの話ですから、断るわけにもいかなかったんです。でも、山岳部に金融論をやっていたやつがいて。ホントはそいつが行くべきですよ。私は原価計算だったから、今から思えば、日銀から少々変わったのを送ってくれとでも言われたんでしょう。その年は変わったやつが多かったから、人事部は失敗したと思ったんじゃないですか。それからは元に戻したようです。お父さんが頭取だとか、そういう人にね。だから、私の年の人は辞めていった人も多かったです。でも私はこれ、断れないでしょう。本当だったら自分で選んだ会社を受けて「あー落ちた」なんて言ってたでしょうけどね。先生は、私のためじゃなくて、学校のためにルートを作りたかったんですよね。だから予感はしてました。いずれ辞めるんじゃないかな、と。本店での面接なんて、聞かれたこと全部答えられない。金融論なんて知らないから。日銀で理論家で通った高明な人からの質問も「わかりません」で、2、3分で終わっちゃった。小倉先生に言われなければ、日銀なんて入らなかったですよ。日立製作所とかに行ってたと思います。なにしろ原価計算ですから、工場に行ってたと思いますよ。でも、そこもつまんないとか言って早く辞めてたと思いますけどね(笑)。

 入って3カ月間、本店研修を受けて、函館支社に配属されました。ここで妻と知り合ったんです。妻は、気が付く女性だったし、男はそんなことやられると、乗せられちゃう。気を遣ってくれただけかもしれないのに、好かれてると思っちゃうんだよね。結婚してよくわかったけど、彼女は計算とか事務とか抜群です。それは本当に良かったですよ。気の付く女性って、そういうものでしょうけど。さっと気が付く、それが頭がいい証拠ですね。私は、そういう点では頭が悪いんですよ。

 函館支店にいるときに結婚して、本店に異動したときに一緒に来ました。函館支店では、仕事はしないで結婚だけ。奥さんを見つけに函館に行ったというか、結果としてね。デートはものすごく行きました。だって仕事してないからね。給湯室で声をかけて「今日はどう?」なんて言ってましたよ。デートでよく行ったのは函館山です。立待岬の五島軒ってレストランに入ると、私は100円の定食。なのに女房は、150円の食べるんだよね。私が払ったと思うんだけど、財布が大変だったね(笑)。デートは町の中や山を歩くだけでしたけど、海が見えて素晴らしかったです。日銀時代は自分のしたいことだけしてましたから、楽しかったですよ。

公認会計士になって

 本店に戻って、統計局で短期経済観測調査と卸売物価統計調査をやりました。その後、公正取引委員会経済部調査課課長補佐の在職中に、税理士試験と公認会計士の2次試験に合格しました。29、30歳のときに勉強して、試験を受けたんです。私は要領がいいですから試験勉強は得意でした。中学高校と働きながら勉強してましたからね。統計局は忙しかったですけど、調査期間以外は時間がありました。

 31歳で銀行を辞めました。女房は、日銀を辞めるのを嫌がるのではないかと思いました。収入も減るしね。でも「あなたの好きにしたら」と言ってくれたんです。たいていの奥さんは反対しますよね。30歳で試験には合格したんですけど、3次試験もありますから。実務経験を2年して、3次試験に合格して、それでようやく公認会計士になりました。

 筆記試験は問題が長いんですよ。その次に面接があるんですが、金融政策の問題だったんですよ。それで私が日銀出身とわかったら「ああ、いいです、いいです」となってしまって。面白かったですね。それで受かりました。公認会計士の仕事は地味なんです。膨大な帳簿と証拠資料の突合せというただただ地味な作業です。才能というより根気が必要ですね。1つ1つ積み上げる仕事なんですよ。

 日銀にいたときには組織の一員で、上司がいて転勤もありますから、日銀村に住んでいる感じで、そういうのが嫌でした。でも、1人だとそんなのがないですよ。何をしても自由。組織だと一生懸命やったら周りに評価する人がいるでしょう。上司が褒めてくれるかなとか思いますよね。だけど1人だと周りにいないんです。ただお客さんが喜んでくれる、それだけです。残業だって、仕事を受けなきゃありませんから、忙しかったら受けなきゃいい。やりたかったら受ければいい。会社だと、今月はよく頑張ったなと思っても、その半分でも自分に褒美が来るわけじゃない。でも、事業主は全部自分。自分のために仕事して、自分に全部お金も来る。もちろん自営業、事業主のデメリットもありますけどね。

 でも、自営業は辞めどきがわかりません。やればできるんだから。私は2017年に会計士の登録を抹消しました。自分の人生との兼ね合いです。60歳のときから、仕事をだんだん少なくしていきました。この仕事は、命ある限り人のためにするほどの仕事じゃないです。正義のためにって気はありません。仕事は自分のためにやってきたんですよ。

子育て

 私は子育てには参加していません。過保護にしない、お金はかけない、勉強しろとは言わない。よく怒ってたとは思います。ポリシーとしては、本人に任せる。命令だとあいつが言ったから、となりますから。子どもたちが小さいころは、ずいぶん家族旅行に行きました。スキーによく連れて行ったんですよ。佐渡一周とかも行きましたね。でも、下の2人は自動車の中で寝てばっかり。親のレクリエーションに付き合ってやったとしか思ってないんですよね。車に乗せられただけ。親が計画したらダメだったんですよ。子どもに計画もやらせないとダメだったと後から思いました。キャンプにも行ったけど、言われてついてきただけになってました。

 長男は真面目で、要領は悪い方じゃないかな。長男は最初、銀行に勤めていましたが、今は公認会計士になって頑張ってます。次男はやっぱり、上を見ているせいか要領がいいんです。長女はかわいかったですよ、ちょっと反抗期はありましたけどね。

私の人生

 70歳から体力が落ちてきましたので、好きなマラソンや水泳を断念するようになりました。今は仕事もせずに、悠々自適です。旅行は、妻と国内はもとより海外も34カ国回りましたし、お墓ももう作りました。妻と私の似顔絵と、歌っている妻と走ってる私の姿のイラストが入っています。

 私のエンディングノート、延命拒否宣言書、遺言書、妻と子どもひとりひとりへのお別れの手形は封をしないで、透明の袋に入れて、私の部屋の壁にピンで吊るしてあります。誰でもいつでもこれを見ることができます。関係者にはその存在と内容を知っていてほしい。存在を無視されると作った意味がない。もっとも、私は死ぬまでいつでも、そのときの気分次第で、どんどん書き直しますけれどね。

 私はね、人生訓というか格言をいつも意識して生きているんです。「足るを知る」とか、「他人と自分の過去は変えられない」とか「腹八分目まで」「孤独を友とすれば孤独ならず」とかです。

 そうですね、私の人生、良かったですよ。この仕事をやれて良かった。気楽に生きられたのが良かったんです。私に合っていたと思います。

今の気持ちとしては、
はるかなり きしかたみれば いくばくや ゆくすえみれば かすみかかりて
という心境ですね。

Family’s Photo

寺田芳雄として生きてきて家族写真

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編集後記

寺田芳雄様のオリジナル雑誌が遂に完成しました。インタビューで流れるようにお話されるこれまでの人生を言葉に紡がせていただきました。これからの人生も、寺田流の早い筆遣いで描き続けていかれるのではないでしょうか。この雑誌を手に取った方にも芳雄様の生き方が伝われば幸いです。ありがとうございました。

「寺田芳雄として生きてきて」取材担当 コミュニケーター 竹山真奈美

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