インタビュー

坂理泰幸として生きてきて

平成28年8月発行 / 東京都在住・昭和17年生まれ

坂理泰幸として生きてきて 共に喜び、共に悲しむ

2016年5月18日。
「THE 坂理泰幸」創刊号の発行にあたり、東大和市に住む彼の自宅を訪ねた。青梅に育ち、自然に囲まれ思い出あふれる幼少期を過ごした泰幸氏。学生時代の思い出、教師生活、ハンドボールとの出会い…。2時間に及ぶインタビューから、坂理泰幸氏の生き方に迫る―。

お寺での生活

 生まれたのは五反田の病院って聞いてるんだけど、物心ついたときには、青梅の福昌寺っていうお寺に住んでたんですよ、疎開でね。本堂には地獄の閻魔様の絵があってね。いつも4月になると飾られるんだけど、それがおっかなくてね。それから、昔、ガンバコっつってね、死体を入れて、みんなで担いでいったんです。その箱が置いてあるところがあったの。そこで祥一兄貴はお化け見たって言うんです。私は見たことないけど、兄貴が見たっつって。本当に怖かったな。

 お寺には池がありましてね、シーズンになると、ヒキガエルが足の踏み場もないくらい卵産みにくる。池全体が卵でいっぱいになっちゃうの。でね、そこの上に、椿の木だと思うんだけど、こう出ててね、僕は木登りが得意だったの。登ってって、そっから池に落っこっちゃったことがあるんですよ。そのときに大事に持ってた小刀を落っことしちゃって、池の中で見つかんなかった。悔しかったな。

 それが小学校上がったときか上がってないときか。ともかく物心ついてから小学5年生までそこにいたんだけど、いろんな思い出がいっぱいあるんです。

父との思い出

 おやじは小学校の先生をしてました。通っていた小曽木小学校では、今で言う教頭だったんです。あんまり怒ったことのない、とっても優しい人だったな。でも、休んだ先生の代わりにおやじさんが授業に来たことがあった。そんとき俺、ふざけてちゃらけたらね、チョークをパーンとぶつけられてね。恐かった。そんなこと覚えてる。

 あと兄貴が「おい、行こうぜ」っつって、朝早起きしちゃあ、山に遊びに行くんですね、兄弟3人。それから友達も何人かいたな。それで気がつくと、山のほうにいるうちに学校の始まる鐘の音が聞こえて、やばいって走ったけど間に合わない。おやじが教頭なのに、息子が兄弟そろって学校始まってんのに山行って帰ってこない。「もう先生のお子さんは」って言われてたみたい。

自然の中での遊び

 小さいころは、野ウサギを追っかけたり、コジュケイを捕るのに罠を仕掛けたり、動物捕りをいろいろやったな。ムジナは2回捕まえてね、そのうちの1回は、皮が売れるっていうんで、兄貴と一緒に皮をはいで持ってったら、「いや、こりゃ駄目だよ」って言われた。襟巻きにするには足から先もなきゃいけないんだって。ところが、われわれ何も知らないもんで、じゃまだから足の先は取っちゃったんだ。結局売れなくて「捨てとくから」って言われて。そんなこともあった。

 あと、マムシはあの当時1匹60円で売れたんです。あの当時の60円っていうのはすごい。捕まえて売りに行くんですよ。生きたまま捕まえるんだけど、当然マムシおっかないから、竹を割って、間に棒を挟む。その棒にひもをくっつけといて、ひもをパンと引っ張ると、パッと竹が閉じるように細工をするんです。マムシ、とぐろ巻いて、もう襲うようにぴゃーっと首上げますんでね、それを竹ではさむんですよ。はさんで、パンと引く。これがなかなか難しくてね。随分逃げられたりもしたけど、2回記憶であるんだな、捕まえたの。ところがね、もっと怖いのはそっから先なんですよ。はさんでありますよね。で、マムシは飛びついてくるんですよ。それを袋に入れるんです。袋ん中に入れちゃうとおとなしくなるから。その袋に入れるのがおっかない。開けてやるタイミングで失敗すると、かまれますから。

 あとはターザンごっこなんかやったな。青梅市内にターザンの映画を見に行って以来、もうターザン、ターザンで。あの当時、木から木に飛び移れたのは俺しかいなかった。ターザンごっこで木の上に板持ってって、小屋みたいなの作ったの。夕方、それが抜けて落っこってね、記憶がないんです。気がついたら、山の中で寝てた。そのときの傷が今も残ってますけどね。

 それから、福昌寺のお寺に竹やぶがあって、竹っていうのはしなりますよね。どんどん登ってって、ある一定のとこまで行くと、ぶわーって落ちるんですよね。これはおっかないけど快感なんですね。竹がしなって、びゅーっと落ちてきて、ちゃんと足が地面に着く。そういうのができんのも、ほかにはあんまりいなかったな。

命懸けの度胸試し

 もう青梅に移ってからだから、中学生になってるころかな。今でも恐ろしいなと思うんだけど、多摩川がものすごい大水になるんですよ。そこん中飛び込んでね、泳ぐなんてもんじゃないですよ。もう激流ですから、流されちゃう。もう溺れてんだか泳いでんだか分かんない。まあ、結局、度胸試しなんですね。一回それでね、水中に大きな石があって足ぶつけたんです。そんときは俺ね、死んじゃうかと思った。もう痛いなんてもんじゃなくてね。ガブガブ飲んじゃって。それで、やっとの思いで浅瀬にたどり着いた。

 あと危なかったのは、われわれ「モコモコ」って言ってたけどね、青梅の長渕に調布大橋ってあるんですよ、今でもありますけど。それはね、川が流れてきて、大きな岩盤にぶつかんですよ。そっから90度に曲がって川が流れてんだけど、すごい勢いで岩にぶつかってくるから、水ががーっと盛り上がるんです。でね、すごい下深いわけですよ。その盛り上がったところにうまく乗るとね、水の上に浮かんでいられるんですよ。一つ間違えて中に入ってくのに巻き込まれると、中にばーっと入っちゃうんですよ。そこに入ったらもう出られない、死んじゃうんじゃないかな。僕は2回ぐらい、いや、もっとやったなあ、そこ。で、ばーっと巻き込まれんだけど、そのとき、もう必死になって逃げるわけですよ。それで、まあ生きてるから(笑)。そういうあれはね、結構子どものころっていうのは、僕らやったですね。面白かったことは面白かった。でも今、川なんか見に行ったりして、川の流れ見ると怖い。そのころのイメージが(笑)。よくああいうとこ入ってったなあと思って。

陸上で大活躍

 僕は走るのが速かったんですね。小曽木小学校には5年生までいて、6年生で青梅二小に行ったときに、青梅市の小学校の大会でリレーがあってね、そのリレーの選手選ぶのに、たまたま「坂理速いよ」っていうことでやったら、青梅二小で一番速かったやつよりも俺のほうが速かった。これは俺もびっくりしたけど、みんなそれでもって一気に「坂理はすごいぞ」って。

 そのあと、中学校入ってから、中学校の青梅市の連合運動会っていうのかな、そこで100メートル三連覇したの。そのころ西多摩選手権なんてのがあって、中学校の部では私が一番速かったの。だから、あのころは運動会なんかでも「坂理が走るぞ」っていうと、みんな集まってきて。200メートルの徒競走だと、最初の100メートルは一番後ろでテケテケ走っとって、最後の直線になってから、一気にみんなバーッと抜く、それがかっこよくってね。

教師を志す

 高校のころ、ハリー・ベラフォンテの「バナナボート」が好きで、ギターでまねしようとしたけど駄目だった。でも、先生になって生徒と一緒にこれやろうと思った。英語の歌だから、英語の先生になろうと思ったの。そしたらおやじが「ああ、いいじゃねえか。誰も先生継ぐのいねえのかと思ったら、そうか」っつって。それで英語一生懸命やったんですよ。そしたら、英語で4になったんだよな。でも模擬試験の成績が悪くて、それでもうやめた(笑)。それで、たまたま体育は5だったし、じゃあ、体育受けようかっていうことで、日体大に入ったんですよ。

通学に苦労した大学時代

 日体大は世田谷の深沢にキャンパスがあるの。ちょうど僕が大学4年のときに東京オリンピックなんですよ。だから、通学路が工事のせいで狭くて通れなくって、もう大変だったの。車が動かないんですよ、渋滞で。渋谷から学校までバスで2時間くらいかかった。だから下手すると、家のある昭島から大学着くまで3時間かかったんです。でもずっとあとで知ったんだけど、渋谷から桜新町まで電車で行って、桜新町から歩けばうんと近い。でも当時はそんなこと知らないから、渋谷からバスでっていうイメージしかなかった。まあ、田舎っぺだから、しょうがねえなあと思って。

 だから、大学時代はもうひたすら行って帰って。でも考えてみると、よく通ったなあと思って。往復6時間近くでしょ。9時始まりだったから、結局いつも6時出。あの当時、うち貧乏だったもんで、もう腹減っちゃってね。ウエハースって赤ちゃんの食べるのありますよね、あれ安いんですよ。ひたすらあれしゃぶってね、通ったんですね。盆暮れにはアルバイトでお金貯めて。郵便局とか、デパートのお歳暮の配達とか、そんなので。まあ、よくやったもんだよ。

 大学でも陸上は続けてました。最初に入ったとき、短距離だけで百何十人いたけど、最後まで残ったのは10人ぐらい。多くはいなくなっちゃった。僕なんか大学のときは弱かったけど、ちゃんとまじめに残ってやってました。

オリンピック会場で試験勉強

 僕は東京オリンピックの陸上競技補助員をやってたんです。市川崑の映画『東京オリンピック』にも、僕はちょっと写ってますよ。グランドの水たまりに雑巾敷いてね、絞ってバケツに入れて、水を取ってんの。そこに僕もいるの。

 そんなわけで、競技場には自由に入れたんです。オリンピック閉会式の2、3日後に都の教員採用試験があった。棒高跳びのピットって、棒高跳びの落ちるとこね、あの当時はおがくずだったんですよ。で、人がいなくなるとね、シートかけちゃう。だから、そこにもぐって勉強してたんですよ。こうこうと電気ついてて明るいし、おがくずはあったかいしね。

ハンドボールとの出会い

 都の採用試験は10倍ぐらいの倍率だったけど、ストレートで受かりました。それで最初の赴任先が桜水商業だったんです。ここで、いきなり2年生の女子クラスの担任を受け持つことになった。これはびっくりしたなあ。今まであんまり女の子と話なんかしたことなかったからね。年は5つしか離れてない。もうどうなることかと思ったよ。その冬に、女子ハンドボールの顧問の先生が抜けるから、後任をやらないかって口説かれて。実は大学時代、ハンドボールにはいい印象を持ってなくて、部員が変なのばかりでとんでもない競技だと思ってたの。それをまさか自分がやるとはね。そんでも分かんないなりにやって、1年目にいきなり関東大会で2位になっちゃったんだよな。

 それからはもうハンドボールコートに入ると人が変わっちゃったんですね。で、いまだそれが続いているという(笑)。この競技はね、僕は非常に面白いなと思うんですね。何が面白いかって、ものすごく頭を使う競技です。将棋なんかの、こう打ったらこうなってくるっていうのと同じです。運動は全部そうだと思うんだけど、あそこにパスを通して、自分がこう動いてこうだっていうことが分かってくると、ほんとに面白いゲーム。で、ある程度は身体接触が大丈夫ですから。それに走・投・跳の全部がそろったすごい競技。ところが、その面白さが分かるには5年か6年かかるかなあ。ですから、今も現役で見てますけど、中学でやってきた子が1人いるだけで、そのチームは全く変わりますね。

西高での思い出

 1973年からは西高に移ったんです。西高の校長から「うちへ来てくれないか」って言われてね。俺はまだ桜水でハンドボールやりたかったから、最初は断ったの。そしたら周りの先生方に「何で行かないんだ」って説得されてね。その当時、西高が有名な進学校だってことも全然知らなかった。

 西高ではいろいろとカルチャーショックを受けましたね。ほら、多くの学校って、試験の前日とかだと、生徒に言われて出席取って終わりとか、そういうのが当時はかなりあった。で、西高でも同じようにやったら、20人ぐらいの生徒がわっと取り囲んできて、「ずっと試験勉強していて、体動かす時間はこの体育の時間しかないじゃないですか。それをなぜやめるんですか」って。これにはびっくりしました。先生方もみんなプライドを持っててね、組合活動もかなり強かったけど、授業は絶対つぶさない。これはもう徹底してた。みんな自分の主張をしっかり持ってたし。この学校はおもしれえとこだなあと思ったね。

 30代から40代の一番できる時期だったこともあって、西高の思い出は多いね。教員で合唱団作ったり、謝恩会のあとに私は民謡歌って踊ってなんてやったりね。運動会なんかも随分変えたしね。今でも残ってますけどね、女子の騎馬戦があるんですよ。私が作ってね、「アマゾネス」っていう名前をつけてやったんです。それからね、棒を取って、下走ってジャンプして、ありますね。あれを大学受験の足切りに引っかけて「足切り」っていう名前にしたりね。

 あと、浪漫倶楽部っていう面白い映画なんか作るグループがあった。とんでもないことばっかりするもんだから、顧問のなり手もなくて、私のクラスに部員がいて、頼まれて俺が顧問になってね。彼らが皇居のところでパンツ一丁で行進してたら警察に見つかって、私のところに電話がかかってきたり。ほかにも鎌倉の大仏の横で、全身ネズミ色にして大仏の真似してたら外国人観光客に囲まれて困ったとか。そんなことばっかりして特殊な映画を作ってた。♪オーレーオレオレオレーってJリーグの歌ありますよね、あれを作った吉田雄生は浪漫倶楽部にいたの。そういう面白い連中がいっぱいいたなあ。

校長になって

 校長として初めて赴任した青梅東高は、年間退学者が70何名という学校だった。先生方も随分頑張って、俺が青梅東を去るころには20人台まで減ったよ。私はテニスやってたんでね、一緒にテニスをやってた先生方が非常に協力的にやってましたね。勤務時間過ぎると、まだ明るけりゃテニスコート行って、やりましょうっつって。東京都の保健体育研究会のテニスの大会では優勝したんですよ。

 そのあとの南平高では、体育祭とか文化祭とかの行事のたびに「青春とはー!」なんてやったもんだから、「青春校長」で通っててね。勤務のあとはいつもグランドに出てハンドボールを一緒になってやったり、テニスやったり。ハンドボールは、合宿にもしょっちゅう付いていってたしね。ほんと、そんな時代もあったねえ。

Family’s Photo

坂理泰幸として生きてきて家族写真

\ この記事が良かったらクリック! /

+6

編集後記

坂理泰幸さんオリジナルの雑誌がついに完成しました。小さいころのワイルドな遊びの数々や、教員、校長時代の思い出、ハンドボールへの情熱、ご家族への思いなど、坂理さんの魅力がたっぷり詰まった1冊に仕上がったのではないかと思います。ご自宅でお話を伺ったとき、奥様を「美智子さん」と呼ぶ姿が印象的でしたが、その後のインタビューでも奥様を絶賛する言葉が多く飛び出し、本当にすてきなご夫婦だなと感じました。山梨の山荘での生活について伺ったとき、「今までずっと対、人間の仕事をしてきたけれど、今はこうして一人で自然と向き合っている。でも農業は教育とつながる部分もあるんだ」とおっしゃっていたのが強く印象に残っています。この雑誌が、周りの方々が坂理さんをより深く知るきっかけとなれば幸いです。ありがとうございました。

「坂理泰幸として生きてきて」取材担当 コミュニケーター 岩沢晶子

コメント欄

コメントを書く