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THE大場ヤエ

平成28年1月発行 / 千葉県在住・大正15年生まれ

大場ヤエとして生きてきて 周りの人に私は生かされてる

大場ヤエとして生きてきて

2015年8月31日。
「THE大場ヤエ」創刊号の発行にあたり、千葉県富里市の彼女の自宅を訪ねた。新潟県の佐渡で生まれ、新潟県の教員として数々の子どもたちを指導。愛する夫との出会い、そして一人息子の誕生。今なお、地域の子どもたちに習字や短歌を教え続けるヤエさん。2時間を超えるインタビューから、その半生に迫る―。

生まれたころ

 私は大正15年、新潟県の佐渡市で生まれました。島なので風が強くて、風よけの林で家を囲っていました。佐渡は、雪はそんなに積もらないんですが、寒いんですよ。弟のおしめを干しておくと翌朝には凍ってしまうんですね(笑)。

 父は農業一本の人でしたねぇ。馬耕で田んぼを耕していました。地元では競馬の大会をやっていて、父はその競馬の大会で入賞したこともあるんですよ。母も畑を一日中やっていましたね。午前3時から苗取りをやって、夕方私が帰ってきても仕事をしていましたね。畑が大好きな人だったですね。両親はお盆のときしか休みが無いぐらい働いていたので、小さいころは、いつも祖母と一緒にいた記憶がありますね。

 祖母は自然や神仏に対する信仰が熱心な人で、太陽が昇ったら手を合わせていて。そして、毎月お寺に行って仏様にお参りに行くんですね。

 私は当時よく分からなかったけど、一緒に手を合わせてお参りしていたんです。お寺に行くとお菓子をもらえるんですよ。それが嬉しくて、しょっちゅう一緒に行っていましたね。

 ふるさと佐渡は自然と歴史の宝庫で、海はまるで濃い群青色の絵の具を垂らしたような独特の色合いで美しく、山の形は緩やかなドンデン山、ゴツゴツした金北山と、左右異なるスカイラインは見とれてしまいます。古くは歴史的にも京都から皇族や、高名な思想家、芸術家が島送りで住まわれており、「万葉集」や「安寿と厨子王」の舞台にも登場しているんですよ。文化や食事も京風の香りがし、今の時代珍しいのは、ご飯が白飯でなく、番茶で炊いた「お茶粥」でした。佐渡に一度来て味わって頂きたいですね。

小学校、女学校時代

 小学校のときは、両親の手伝いをしながら兄弟の面倒をよく見ていました。お手伝いで稲刈りをしたり、納屋まで運んだり。あとは、稲架木(はざぎ)といって、刈り取った稲を木に干すんですけど、稲を放り投げるんですね。その時に目に入っちゃって痛いんですよね。よく覚えてますねぇ。あと、兄弟がいたのでね、子守をよくやっていました。1歳の弟を背中に背負っていたら、おしっこが背中から流れちゃって(笑)。思い出しますね。

 小学校の冬の時でしたかね。大雪が積もった日の朝、父が先頭になって樏(かんじき)を履いて、子どもたちが歩けるよう県道から学校まで道を付けてくれて1時間ほど送ってくれた記憶がありますねぇ。昔気質の寡黙で優しい父でした。

 女学校も佐渡にあったんですけど、家から8キロぐらいのところにあって毎日歩いてましたね。女学校に入ると、勉強や部活で忙しかったので、家の手伝いはあんまりできなくなりました。部活はバレーボールをやっていました。昔は9人制だったでしょ。その一番後ろのポジションでね。ある大会ではサーブだけで5、6点稼いだこともあって。腕っぷしが強かったんですね。

教員時代

 女学校卒業後、戦時中でしたので男手が足りず、1年間は家の手伝いや叔母の家の子守をしていたんです。でも、女性でも自立して生きていけるようにという母の教えもあり、姉が大阪で教員を始め、妹も看護婦の資格を取り病院勤めをしだし、私もしっかりした職に就きたくて、昭和19年の4月に教員養成所に入って免許を取得して、その年の10月に新潟県のの小学校の先生になりました。

 教員時代はとにかく忙しかったですね。毎朝暗いうちに家を出て、毎晩9時ごろ帰宅するんですけど、そこから作文指導のために、謄写版で手を真っ黒にしながら深夜の2~3時ぐらいまで、ガリガリと文集を作ってましたね。それを児童に渡すと、本当に喜んでいて、私も嬉しかったですね。

 終戦のときは、私は日直で学校にいました。みんな「戦争負けた」って泣いてましたね。覚えています。私も悲しかったです。まさか神国日本が負けるなんてね。それでも、もうB29が来ることもないし、電燈に布をかぶせる必要もないと思うと良かったなとも思いましたね。

 一番の思い出は、昭和39年6月。新潟に大地震がありました。そのとき私は教務主任をしていました。新潟国体が終わった直後の昭和39年6月、マグニチュード7.5の大きな地震が起きたんですね。1年生の担任だったんですけど、校長先生も教頭先生も出張でいなかったので、とにかく子どもたちをグラウンドに避難させました。近くの昭和石油ではガソリン入りのタンクが壊れ火災になり、橋桁が信濃川に崩落し、地盤が緩んで水が噴き出したりして。地震のとき、子どもは怖くて泣いたりわめいてたりしたんですね。だから私は必死に抱きしめて、「大丈夫だよ」と声をかけ続けたんですね。最後に子どものお母さんが迎えに来た午後9時ごろまで、とにかく子どもを励まして守り続けました。それから歩いて帰ったので、家に着いたのが午前2時ごろだったのを覚えています。

 あとは、学校の授業で登山をしたときに、1年生か2年生の子どもが足をくじいちゃったんですね。私はおんぶして登って、帰りもおんぶして下りました。とにかく子どもを守ることが一番でした。

 教員時代は作文指導で全国の教員研修大会で指導者として発表をしたりし、教頭試験も合格しましたが、定年を前に退職しましたが、

 仕事で一番大事にしていたことは、「子どもを愛すること」です。教員時代は息子よりも、学校の子ども優先でしたね(笑)。必ず子どもの顔を見て挨拶するんですよ。そして、子どもがどんな状態なのか、常に気を配っていました。

 私は6年生の担任を3回持ったんですけどね。卒業する前に、児童に戦国武将の山中鹿之助の「我に七難八苦を与えたまえ。限りある身の力試さん。」という言葉を贈ったんですよ。これからどんなにたくさん困難がきても、決して諦めることなく立ち向かって欲しいという思いを込めて。そしたら、ある日卒業生から手紙が来たんですよ。手紙には、「あのとき先生が贈ってくれた言葉をずっと覚えていて、いろいろな困難をこの言葉を思い出して切り抜けてきました」って書いてあって。今でも年賀状を送ってくれるんですけど、もう、嬉しくてね。

ご主人とのなれそめ

 人とは勤務先の小学校の校長先生の紹介で、29歳の時に出会いました。私より6歳年上で、新潟の中央部にある白根市(現在は100万都市となる新潟市に編入)の臼井で生まれた農家の三男坊でね。お見合い結婚でしたが、映画俳優のような素敵な人でした。新婚旅行は鬼怒川に行ったのを覚えていますね。

 まじめ一本の性格で、戦争当時中国で負傷し帰国後、不動産会社を創業し、田中角栄元首相の関係で県内各地で団地開発をし、スケートセンターや美術館、食堂などを手広く経営してました。戦争で負傷しなければ主人の部隊は全滅していたそうで、まさに九死に一生を得て、結婚し息子が生まれたという奇跡に感謝したいです。

 私が教師の仕事やら塾やらで忙しかったのに、文句ひとつ言わずに、穏やかで本当に理解のある主人でした。菊作りが大好きで、苗から育てていましたよ。

 十二指腸潰瘍をやったときに、輸血をしたんですけど、そのときにC型肝炎に感染してしまったんですね。今なら予防体制もあって感染を防げたんでしょうがそれが残念でなりません。

息子のこと

 息子が生まれたとき、母親が佐渡から来てくれたんです。私の両親はほんとに節約家でね。佐渡から来てくれたときも、途中でもらったお菓子を自分で食べないで孫のためにとっておいてくれたんですよ。本当に質素な生活をしていました。

 私も主人も忙しかったものですから、次の子どもを産むことができず、それどころか日々の仕事に追われて、子どもには全く手をかけられなかったです。だから、息子はいわゆる「鍵っ子」でした。保育園、小学校低学年の頃は近くの叔母さんの家に預かってもらってました。寂しかったんだと思います。息子は小さい頃から、何か文章を書いたりするのが好きで、小学6年生の時、「ぼくきょうだいがほしい」という本を出版し、国会図書館にも寄贈しました。中高生時代から息子は合唱やギターに夢中になり心配しましたが、慶應大学に入学したときは嬉しかったですね。日吉での入学式も主人と行きましたよ。

    息子の入学祝いに、亡き母がお金をくれたんですね。母は着物を着ていたんですけど、着物の帯に30万円を入れて、わざわざ佐渡から船で来てくれて、何かとお金がかかるだろうからって。当時の30万円はすごい金額ですよ。私は嬉しくて本当に涙しましたねぇ。

 息子を叱ったことはほとんどありません。生徒や子どもにもそうですが、あまり人を叱らなかったですね。人を信じる気持ちが大切だと思っています。

 息子が大学4年の時、地元で公務員にと言いましたが東京で就職すると言うので、それなら東京で家族全員で暮らそうということで、主人と新潟から東京に移り住んできたのですが、東京で暮らすことの不安もなかったです。息子の近くにいたいという思いが一番だったのでね。

 息子が結婚し孫が生まれ、息子夫婦と孫と暮らしていた頃が一番幸せでしたね。息子夫婦の離婚で今は孫に会えないのは辛いことですが、血がつながっている孫が元気で生きていると思うことが生きる支えになっています。

 家族の思い出は、温泉に主人と息子と3人で行ったことが一番の思い出です。20年前ですか、ゴールデンウィークに家族水入らずで行きました。あまり家族で出かけることが無かったので、嬉しかったですね。

 それから、数年前に息子夫婦と孫と行った香港・マカオの海外旅行が一生の思い出です。主人が83歳で亡くなる前に、「一度だけでも海外旅行に一緒に行きたかったね」という夢を、主人とは果たせませんでしたが、写真だけ連れて行ってあげたので、心は果たせた思いです。

趣味

 上京後、公文教育研究会で指導者となり、渋谷で教室を開設していましたが、成田に引越し後は自宅で「大場国語塾」をやっています。お金は頂いていないので趣味というか生き甲斐だけで教えています。

 漢字が大好きで、今でも「みんなの漢字」で漢字を勉強しています。漢字博士の称号も持っているんですよ。書のきっかけは兄です。兄が書道家で、兄は小さいときから字を書くのが大好きだったんですね。私も兄と一緒に字を書いていたのがきっかけですね。

 俳句や短歌を書くのも大好きで、私の生きがいです。今までもたくさんの賞をもらったんですが、このトロフィーは私の宝物です。
「母の名の かすかに残る 二尺ざし 角まるくなり 光る飴色」

 今は毎朝3時に起き、5時からの勉強会に出たり、地域の小学校や集会所で無料の習字教室をやったりもしています。この間も近所の子どもに会って、早く習字しようよって言われたんですね。

 サスペンスを見たり、漢字パズルのナンクロや韓流ドラマにもはまっています。深夜ラジオで思い出の歌を聴くのも大好きですね。

座右の銘

 「終始一貫」が座右の銘です。始めたことは、まじめに最後までやり通すことがとにかく大事だと思っています。その中で人との関わりを大事にしたいですね。周りの人に支えてもらって今の私があり、周りの人に私は生かされています。だから、とにかくそのつながりを大事にしたい。

 「絆」と「和」という言葉も大好きです。人に思いやりを持って接すると、人に与えた喜びが私にも返ってくるんですね。私が今、集会所や学校で先生をしながら関わっている、全ての人たちとの絆、和を大事にしたいと思っています。

 尊敬する人物は、ヘレンケラーに二宮金次郎、福沢諭吉も好きです。社会のために、誠を尽くしている人物がやっぱり好きですね。そういう意味では、主人は不動産稼業を隠居後は、温暖な藤沢で菊作りに精を出し、駅やお寺、学校に毎年秋には菊をプレゼントして、「菊の花を見て、通る人や、子供たちが、綺麗ですねと喜んでくれればそれでいい」と人の喜びの為に1円にもならないのに、1年中菊と過ごしていました。そういう意味では、何と言っても主人が身近で尊敬できる人でした。主人の墓は藤沢の辻堂にあり、墓碑には、主人の名前の一文字をとって「和」と私が毛筆で書いた文字を刻んでもらいました。

ご家族に伝えたいこと

 心配なことはないです。息子も孫も健康でいてくれたらそれでいいです。息子は11月3日で59歳になります。私とは丁度30歳違うので。

 息子は、富士通などで会社勤めをした後、主人の跡を継いで不動産会社を経営する傍ら、学生時代にコーラスグループでレコード会社からデビューしていたことがあり、今も音楽プロデューサーとしてミュージカル作りに取り組み、原作小説を書いてます。2011年の東北大震災の後、息子は毎年3月に復興支援ミュージカルをやっており、実際見に行きましたが、息子が人生をかけて取り組んでいる姿に親ながら感動しました。来年はニューヨークで行う予定だと。

 ある意味、私や兄も書道、俳句などに取り憑かれているように、芸術とか文化系の血を受け継いでいるのでしょう。将来どんな人生を送るのか息子や孫の成長が楽しみです。

 子どもたちには、芸術や文化を通し社会に貢献すること、自分のやりたい仕事に信念をもって生きてくれたら私は満足です。

 なお、今回出版の話も、息子から、「大学の後輩が親子の雑誌の企画をしているのをテレビで見て知ったので一度取材を受けたら」という勧めで応募したのですが、慶應のご縁で実現したもので、親思いの息子に感謝しています。

Family’s Photo

編集後記

大場ヤエさんの半生をまとめた雑誌がついに完成致しました。関わった人や、人生に対して、感謝の念が尽きない大場ヤエさんの人柄がしっかり読み取れる雑誌に出来上がったのではないかと思います。最初にお会いしてから、何回かお電話させていただく中で、関わった人や人生に対して真摯に向き合い、生かされている現在に感謝する大場ヤエさんの人生観には心から感銘を受けました。雑誌を手に取った方が、大場ヤエさんの生き様から、人生の貴さを感じることができれば幸いです。ありがとうございます。

「THE大場ヤエ」取材担当 コミュニケーター 津名祐樹

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