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THE阪本辰治

平成27年11月発行 / 山梨県在住・昭和3年生まれ

阪本辰治として生きてきて ブドウに情熱を注ぐ

阪本辰治として生きてきて

2015年7月30日。
「THE阪本辰治」創刊号の発行にあたり、山梨県甲州市勝沼町にある彼の家を訪ねた。ブドウ作り一筋に生てきた。今でも早朝から作業を行う。ブドウ作りが大好きだと語る彼の人生に迫る―。

子どものころ

 生まれたところは山梨県勝沼町内です。5人兄弟の二男でした。父が炭屋を経営していまして、実業家として成功した立派な人でした。炭を運ぶために馬を二頭飼っていたから、小さいときから馬の世話をしたり、炭を運んだりして 家業の手伝いをしてました。

 母が小柄で炭を運ぶのが大変そうだったからね。学校から帰ってから兄と2人で母を手伝って、学校に炭を配達に行きました。リヤカーの後ろを押してね。ほぼ毎日やっていましたよ。それが近所で評判になってね。当時「国防献金」という制度があって、手伝いのお金を貯めて国に寄付したんです。それで「働き者の兄弟」ってことで、兄と2人で表彰されました。地元の新聞に文章で載って、びっくりしましたよ。仕事だから親の言うとおりにしていただけで、大変だとは思わなかったです。

 父は山仕事で人を使ってたから、ほとんど外で働いて、母が会計、経営管理を全部やっていました。帳簿も母がつけていました。両親はじめ、一家そろって働き者でしたよ。親の姿を見て闘争心を養いましたね。自分も親のように立派になりたいと思いました。

 子どもの頃の遊びは兵隊ごっこです。河原で基地を作って、竹の棒で刀を作って相手を攻めるわけです。遊びでやってたけど、いつかは兵隊になろうと思っていました。

戦争と戦後

 小学生のころ太平洋戦争が始まりました。15才のころに少年兵を志願したけれど、小柄で身長が足りなかったから、身体検査で落ちて試験も受けられなかったんです。今思えば命拾いしたんですよね。戦争に行った同級生は戦死してしまいましたから。

 小学校を卒業してからは主にブドウを作っていました。炭の需要がなくなってきたから、父がブドウを始めたんです。当時勝沼でブドウ作りが始まったときでね。甲州ブドウです。豚も50頭くらい飼っていて、食肉用に出荷していました。ブドウ園の下に畑も作りましたよ。じゃがいもとかほうれん草なんか作って、豚の餌にしてました。父はブドウと豚で財を成したんです。あとはね、市場で柿を買ってきて干し柿を作ったりね。やり手でした。父を誇りに思っています。

 終戦は17才で、実家のラジオで聞きました。戦争が終わって、自由に好きなことができると思いました。友達は3人ほど戦地に行ったと思います。弟は愛知県豊田の軍需工場にいたときに空爆されて、15才くらいで死にました。豊田に埋葬されましたから、お参りに行きました。

 戦後、20才のときに東京に行きました。新宿に一間半くらいの店が立ち並ぶマーケットがあって、身内が店をやってたんです。そこの一画で立ち飲み屋をやって、山梨のワインを売ってました。父にお金を出してもらって、2年くらいやってたんです。ただ、うまくいかなかったので、店は売って山梨に引き上げました。新宿では店の上に住んでいました。商売に慣れるのも、人付き合いも大変だと思いましたね。借金はしないように生活していました。親の背中を見てきたから横道にそれることはなかったです。それで、戻ってしばらくは家業を手伝っていました。

 酒は好きでしたね。ワインをたくさん飲みました。ビールも好きですね。ブドウ農家だから、自宅でお酒を造って飲んでました。毎晩コップ1杯、健康のために。

結婚、独立

 26才のとき、結婚しました。親同士からの知り合いで、妻と共通の友達が入院して、お見舞いに行ったときたまたま会いまして。最初から全体的にいいなと思いました。       

 その後すぐ会うようになりまして。身延山に行ったりしました。車は仕事用のオンボロだから、おしゃれして電車で行きましたね。それから1年くらいで結婚しました。当時次男坊は財産とか無いから、妻の両親は苦労すると思っていろいろ調べたみたいです。結婚したときすでに妊娠5か月だったから、妻の親には謝りました。

 結婚を機に親から3反分ほどの畑を分けてもらいました。実家のそばに家も買いました。最初のころはブドウだけでは生計を立てるのが難しくて、母親の義兄からモヤシの栽培方法を教えてもらってやってみたり、瀬戸物屋なんかもやってみたけど、結局採算はとれなかったです。だから、ブドウ作りに精を出しました。

 男の子が生まれるといいなと思っていたから、長男が生まれたときはうれしかった。名前はみんな仲人さんにつけてもらったけど、長男には私と父の名前の字をつけてもらい、「辰彦」としました。息子は4200グラムもあってびっくりしましたよ。子どもは3人で、娘が2人います。

ブドウ作り

 最初の畑は自宅から遠かったです。自分で井戸を掘って作りました。かなり深く掘ったから水が干上がることは無くて、近所の井戸が干上がると水を分けたりしました。物置も古材を使って自分で作りましたよ。とにかく必死で働きました。

 40才のころ、肋膜を患ってから喘息になりましてね。それからは、なるべく重労働をしないようにしました。その分妻が働いてくれました。

 世間より大きいブドウを作れば市場で高く売れると思い、デラウエアの大粒を育てようと思って研究しました。山へ行って枯葉を集めてきて、ブドウの木の下に敷くんです。開花前にジベ処理をして早く成長するように工夫したり、冬に藁を敷いて地面が凍らないようにしたりしてね。これがうまくいきました。他の家より大きいデラウエアが作れるようになったんです。

 一生懸命働いて、ようやく軌道に乗って、家の近くに畑も追加購入したりして、財を残せるようになりました。家を新築したとき、借りたお金を返そうと思って土地の一部を売ったんですが、これが購入したときの10倍の値段で売れてね。ずいぶん儲かりました。

 1番大変だったのは雪害でビニールハウスがつぶれたときですね。45年くらい前だったと思います。栽培面積が決まっているから、軒並みビニールハウスにして高く売ろうとしてたんですね。当時の業者がいいかげんだったらしく、投資したものが全部ダメになりました。今は災害のときは費用が出るけど、当時は自腹だったから借金して払いましたよ。それから3年くらいはあまりブドウが獲れなかった。ちょうど厄年だったから、そのせいかと思いました。

 息子が継がないことが決まったときに、デラウエアの畑にヒノキを植えました。ちょうど土地を縮小しようと考えていたときに話があったのでね。結果的にはこれが良かったんです。伐採したとき以外は税金がかからないですから。

 自分で言うのもなんですが、先を読む目は正確だと思います。やったことがいい結果に繋がる。貯蓄より投資に力を入れてきたことで成功しましたね。

狩猟と釣りと海外旅行

 50才で狩猟免許を取りました。甥が20才くらいのときに、狩猟を始めるというから、自分もと思って講習に行きました。始めたらおもしろかったので続けました。狩猟仲間と泊まりで長野や韓国の済州島に行ったりしましたよ。グループで罠をかけて獲るんです。楽しかったですよ。農作業が無いときは毎週のように行きました。狸、ハクビシン、雉、ヤマドリなんかね。食べるというより、はく製にして飾るものですね。はく製にするのに随分費用がかかりました。クレー射撃もやりましたね。10年やったけど、歳を感じてピタッとやめました。

 狩猟と射撃をやめてからは、妻と2人で釣りに行きました。すっぽんとかカメなんかも釣りましたよ。釣り堀やら川やら行きました。息子も連れて行ったこともありますよ。

 60才を過ぎてから妻とずいぶん旅行に行きました。北海道や沖縄、海外にも行きましたね。中国はすごく良かったです。

子どもと現在の生活

 子育てについてのこだわりはあまり無いです。それぞれが自分の力でやってる。手をあげたこともあるけど、そんなには怒らないです。子どもには健康で毎日楽しく過ごしてほしい、そう思っています。

 毎朝5時には畑に出ます。雨が降っても毎日必ず行きます。朝が辛いとは思わないですね。自然に起きられるしね。ただ、かなり歳がきたから身体は動かなくなってる。動けないのはつらいですね。

 今年のブドウはまあまあ。甲州とシャインマスカットがいいです。うちのブドウは美味しいですよ。

 長いことやってきたけど、ブドウ作りは楽しかった。健康でよく畑仕事ができたことが1番でした。

Family’s Photo

阪本辰治様家族写真

編集後記

阪本辰治様のオリジナル雑誌が完成しました。小さいころから働き者の阪本様。いろいろな仕事を経て、大好きなブドウ作りに目覚め、米寿を迎える今も、毎日早朝から畑に出てブドウを育てていらっしゃる阪本様に、寡黙な中に自分自身をしっかり持って、人生を送って来られた力強さを感じました。畑仕事の合間に食べるアイスが大好きな阪本様。お話や仕草に何ともいえないかわいらしさがあり、愛すべきお人柄の方でした。お疲れの中取材にご協力いただき、ありがとうございました。

「THE阪本辰治」取材担当 コミュニケーター 佐藤文子

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