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THE日置正見

令和5年9月発行 / 大阪府・昭和15年生まれ

妻との55年間

 家内と出会ったのは、昭和40年代ですね。質屋で貸衣装をしていたときに就職してきたのが彼女です。彼女は、打ち掛けや留袖などを畳んでセットする仕事をしていて、僕は「こうしてくれや」とか頼んでいたんです。その間に親しくなりました。

 ニコニコしているし、人の悪口は言わないし、黙ってよう働いてくれとったんです。付き合うきっかけとなったのは、昭和41年の大みそかだと思います。家内の実家は兵庫県宍粟市という山の中なんです。質屋は夜12時まで仕事で、家内は帰る便がなくなってね。仕事もよくやってくれるし、帰れないのはかわいそうだと思って、当時乗っていたセドリックで実家まで送ったんです。付き合っているわけではないから、お家には寄らずに帰ってきました。家内もそれで意識したんじゃないかな。

 プロポーズはしたかどうかは忘れてしまいました。どちらかが結婚しようとは言ったんでしょうね。結婚の決め手は、家内の性格です。今でもそうですけど、文句を言わんとなんでもしてくれます。僕だけではなくて、みんなに好かれていたと思いますよ。

 昭和42年7月に家内の実家に行ったら、おじいちゃんや妹など親戚がみんな来て、家族会議になっちゃったんですよ。そこで何か言わないといけないと思って、「来年の2月7日に結婚させてもらいます」と言いました。7日は質屋さんが休みの日なんですよね。家内と協議したわけはなかったんですけど、その日に結婚しました。

 結婚式は、55年前ですね。新大阪の中島惣社というお宮さんで挙げました。結婚式だけする式場で、貸衣装を貸していたことがあったんです。打ち掛け自体は見慣れていたけど、家内が着ているのを見て「まあこんなもんかな」と。寒い時で、暖房もなくてね。鹿児島からも親戚が来て、30人以上が参列してくれました。新婚旅行にはお金がなくて行けなかったですね。

 結婚直後、昭和43年6月に独立して、守口市で果物屋を始めました。何も知らないから大変で、苦しい時代ですわね。お母ちゃんとは、結婚して果物屋を初めてから、すごい借金をして大変だった時代がありました。お母ちゃんがいなかったら、今のこの家はないと思います。

 結婚してからずっとお母さんの顔を見て生活をしてきました。いろんなことがありましたよ。出してもらった食事に、僕が「こんなん食えるか!」って言った喧嘩もありました。仕事でも生活でも、1人ではできないことを、協力してやっています。与えられてるから、僕も何かを返す、というわけです。

 お母さんが与えてくれているのは、やっぱり健康面ですね。薬を飲ませてくれるし、食事も作ってくれる。僕が「ここが痛いんや」って言うたら、どっかからか薬を探してきて「これ飲んだらええ」って出してくれます。食事に関しても、僕は好き嫌いが多いですから。食べたくないものも食べてねって与えてくれます。

 そうやって、目に見えない形でたくさん世話になってるんですね。楽しいことも苦しいこともあって、55年間、毎日2人で顔を合わせて、果物屋や婦人服プレスの仕事をしてきました。感謝しているけれど、なかなか口に出して「おおきに」とは言えないです。それが、僕の悪い性格なんやと思います。

 

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