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THE日置正見

令和5年9月発行 / 大阪府・昭和15年生まれ

是非には及ばず

日置正見として生きてきて 

令和5年6月6日。
「THE日置正見」創刊号発行にあたり、大阪府にある彼の自宅を訪ねた。学生時代は新聞配達をしながらも、優秀な成績を収めた日置氏。大阪に出てやがて得た家業では、その丁寧な仕事で顧客の信頼を得てきた。「本当に家族に恵まれました」とそう語る日置氏にとって、家族は無二の存在だ。家族の支えを得て、人を助け、助けられながら生きてきた彼の、その半生に迫る―。

 

  PROFILE●日置正見
  生まれ年:昭和15年
  趣味:ゴルフ パークゴルフ
  好きなテレビ番組:時代劇
  好きな食べ物:ステーキ エビフライ ハンバーグ
  好きな本:『天才』『日本国紀』
  尊敬する人:徳川家康
  座右の銘:是非には及ばず

寺で育った幼少期

 昭和15年8月18日に、鹿児島市犬迫町で生まれました。僕の父親は僧侶なんですよ。犬迫に西本願寺の出張所のお寺があって、僕たちはその社務所に住んでいました。
 太平洋戦争が始まったのは僕が1歳4カ月のときですね。お寺は高台にあって、周囲には何もありませんでした。だから戦争当時は、焼夷弾がパラパラと落ちてくるのを裏庭から「きれいやな」と見ていましたね。まだ小さいから、何もわかっていなかったんやなと思います。
 僕は、生まれたときは健康優良児だったんですよ。でも、2、3歳のときに、栄養失調で死ぬと言われました。戦争当時ですからね。そのときに、大根の葉っぱを絞った苦い汁を、母に押さえつけられて飲まされました。あれはつらかったです。でも、そのおかげで救われました。あれがなかったら、そこで死んどったでしょうね。
 昭和22年の8月30日に、母が死にました。4人目の子どもを早産して、出血がものすごかったということだけ覚えています。僕は、幼少期の記憶があまりなくて、生みの母のことはあまり覚えていないんです。当時は食べることに必死だったから、他のことをよく覚えていないんかなと思います。米ではなく粟飯とかを食べていました。足に霜焼けができても靴がないくらい困窮しとったのは覚えていますね。
 僕は、4人きょうだいの長男で、他は妹です。2歳差と4歳差と8歳差ですね。1番下の妹だけ母親が違って、後妻さんが産んだ子になります。すぐ下の妹は後妻さんが来る前に養女に出ていったんです。それもあってか、きょうだいと幼少のころに遊んだ記憶はないですね。
 実母が亡くなってすぐのころは吉野町雀ヶ宮のお宮さんの社務所に住んでいました。そのあと、昭和23年に早馬町のお寺さんに住むようになりました。そこでえらい目におうたんです。

人生を変えたルース台風

 昭和26年の10月14日に、ルース台風がきました。風速60メーターのものすごい風でしたね。当時親父はお参りに行っとって、僕は1人やったんですよ。小学校5年生でした。だから、仏様がいるところの戸が飛ばされても、どうすることもできなくてね。仏様は雨ざらしになってしまって、仏様の掛け軸とかもぜんぶ飛ばされて、めちゃくちゃになりました。
 そんなことがあったから、親父は門徒の総代さんに寺を出ていけと言われたんです。それで西本願寺の住職をクビになりました。そこからが、大変な人生でしたね。お寺に住めなくなったので、ガラクタの家に引っ越しました。でも仕事をしていかんと食べられへんから、親父は自分で門徒を開拓していったんです。
 当時の家は、峠を越さないとどうにもならないようなところだったんです。親父は、自転車で山を越えていました。防空壕に住み着いていたこじきと芋を食べていた親父を、登校中のバスの中で見かけたこともあります。自分はボロボロの服を着て、きょうだいからボロクソに言われても気にせんで、本当に根性のある親父でした。事情とかを説明してくれるような人ではなかったです。でも根性だけは、本当にありました。それだけは、誰にもまねでけへんと思いますよ。

小学・中学生時代

 僕が鹿児島市立吉野小学校に入学した昭和22年というのは、6・3・3・4制の義務教育が始まった年でした。当時はずっと新聞配達をしていて、昭和28年に「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」と書かれた表彰状をいただきました。新聞配達でもらえるお金は、月に200円ほどです。かっぱも防寒具もないし、配達先はあっちこっちにあるし、いい思い出は1つもないですね。でもお金を稼ごうと思って、一生懸命配達しました。
 昭和28年に吉野中学校に入学しました。このころは、とにかく走るのが得意でしたね。運動会では僕が1番でしたよ。僕はね、外側からごーっと入って抜くのが好きでした。それで必ず、1位か2位を取っていました。中学校では成績が100番まで廊下に張り出されるんですよ。僕は成績がいいから公立の上の方の高校にも進めたんですが、私立の照国商業高等学校に入学しました。理由は校舎の形です。円形校舎が当時は珍しくて、憧れたんやね。

充実した高校時代

 高校には、奨学金をもらって通っていました。そのころにはある程度、親父の収入もあったんやと思います。親父が一生懸命やったおかげで門徒さんも増えていったころですね。僕はまだ子どもだったので、奨学金をもらったらつい友達だちと回転焼きを食べにいったりしちゃうんです。そんなことをしていたら、退学という話が出てきてしまって、それからは親父が自分で授業料を持っていって納めていました。
 高校は、1回も休まずに通いましたよ。僕は成績トップやったんです。英数国はよくって、特に歴史は中学生のころから好きでしたね。あとは、習字と硬筆がだめでした。運動も好きで、部活はバレーボール部に入りました。昔は9人制でね、前衛中衛後衛とあって、位置は固定なんです。僕は中衛だったので、アタックを打ったりすることはなかったですね。
 高校2年生からは、生徒会長を務めました。きっかけは、その前にやった「I want to see the king(王様に会いたい)」っていう英語劇です。その英語劇のおかげで僕は校内でも顔が広くてね、先生から、「生徒会長に立候補せい」と言われました。それで立候補して選挙して応援演説してもらったら、当選したというわけです。そのころから、人前に立って話すということになんの抵抗も覚えなくなりました。いろいろとある人生の中でも、よく覚えているのはやっぱり、この高校時代ですね。

大阪での就職

 当時は、いい家でないと大学には行けないような時代でした。僕もとにかく早く仕事をして稼ぎたいという気持ちがあったので、学校経由で求人があった、大阪・船場の繊維会社に入ったんです。
 昭和34年の3月から、卒業式にも出ないで働き始めました。親父が代わりに卒業式に出てくれました。会社には寮があったんですよ。会社の3階に住めるようになっていて、おいしいご飯を食べさせてもらいました。最初は経理として入ったんです。でも実際にやっていたのは荷造りでしたね。巻いた反物を3つくくって、自転車や車に積んで配達をするんです。単車の免許も取れましたよ。昔は、ミゼットという小さい3輪の車がはやっていました。配達のとき、それに乗るのが楽しみでしたね。
 寮の前に中華屋があって、そこのラーメンをよう食べていました。もちろん、給料は少ないので毎日ではないですよ。給料は月に3500円。だから普通は、寮のご飯を食べていましたね。その寮で、麻雀を教えてもらいました。あとはタバコも覚えましたね。ゴールデンバットとしんせいっちゅうタバコから吸い始めました。
 そこには、2年弱勤めました。辞めた理由は何かもめたからかな。僕は気が短かったからね(笑)。
 辞めたあとは鹿児島に帰って、1、2カ月間失業保険をもらって過ごしました。それで、昭和36年から鹿児島市役所の税務課に、アルバイトで務め始めました。税金の計算をしとったんですね。そのまま公務員になるという道もあったんですけど、翌年に辞めて、割烹料理屋に経理で入りました。そこで2年9カ月働きました。

縁が結んだ質屋

 その料理屋に、事務員のお姉ちゃんがおったんですわ。その人の妹が大阪にいると紹介してもらったんで、「ほな、わしそこに行くわ」と大阪に出ました。本当は1晩だけ泊めさせてもらうはずだったんですが、僕はそのままそこに転がり込んじゃったんです(笑)。そんなことをして過ごしていたら、たまたま隣のアパートに住んでいた質屋の番頭さんが「俺んとこ来いや」って言ってくれました。それが、東淀川区淡路本町の質屋さんですね。そこで、ご飯付きの住み込みで働き始めました。
 質屋で働き始めた昭和39年というと、東京オリンピックの年なんですよ。質屋にはテレビがいっぱい入っている倉庫があって、そこでオリンピックを見ていた記憶があります。いい思い出ですね。
 質屋では、お客さんが持ってきた物を担保にしてお金を貸します。利子は9分だから、1000円で質入れしたものなら、1090円払ってもらわなならんのです。当時の僕はまだ物の価値はわからないんですけれども、同じ物を質入れする人っているんですよ。それなら前につけた値段がわかりますから、僕にもお金が出せます。そうやって仕事を学んでいきました。
 のちに、その質屋さんが貸衣装を始めました。打掛、留袖とかの花嫁衣装ですね。それを一生懸命やっているときに、お母さんが質屋の担保で入ってきた……というのは冗談ですね(笑)お母さんは、貸衣装を衣装箱にセットする仕事で質屋に入ってきました。
 貸衣装の仕事では、パーマ屋さんと提携してました。花嫁衣装を着る人は、髪の毛もセットしますから。パーマ屋さんにパーセンテージでお金を払って、貸衣装を配達するんです。当時は8時から夜11時まで働きましたよ。今やったら労働基準法違反でしょうね。

結婚と独立

 昭和43年2月7日に結婚しました。結婚するときに一番よかったのがね、仕事が貸衣装だったから、衣装代がいらなかったことです。仲人も社長夫妻にしてもらいました。いるのはお母さんの頭のセット代だけでしたね。
 そのあと、6月12日に質屋を辞めました。辞めるときは、社長に「辞めんといてくれ」と止められましたよ。社長には好かれていたと思います。おかげで、退職金も50万円もらえました。
 質屋を辞めたら、何か資本金をかけないことをしようとお母さんと相談していたんです。貸衣装やっているときにアイロンを頼んでいたおばちゃんが、果物屋が簡単でええでと言うんです。それで果物屋を始めました。
 果物屋は、11年やりましたね。辞めたきっかけは、スーパーです。商店街の入り口にスーパーができて、売り上げが減ってしまったんですよ。だからぱっと辞めました。商店街の中でも、僕たちが一番早かったね。未練もなく辞めました。

39歳で始めた最後の仕事

 そのあと始めたのは、婦人服プレスの仕事でした。友だちが婦人服プレスの仕事をやっていてね、その得意先を紹介してもらいました。果物屋のときもそうですけど、どんなときでも、僕は人に助けてもらってるんですわ。
 その紹介してもらった得意先に、「わしは長いことやっているからなんでもできますねん」って言うて始めました。何もできないのにね(笑)。婦人服プレスをやっている友だちは近くに住んでいたから、手取り足取り教えてもらいましたよ。
 最初の家を買ったのもこのころですね。果物屋のときは借家だったんですが、子どもも生まれて狭くなってきたし、人生で最初の家を買いました。小さな二階建ての家でした。仕事も順調に軌道に乗り、お店と家と2重に家賃払うんやったら家を買って仕事場と一緒にしようということになりました。昭和58年だと思います。3階建ての家を買うて、下を仕事場にしたんです。そこに11年住みました。でもやっぱりだんだん狭くなってきたから、平成7年に今の家を購入して越して来ました。

婦人服プレスの仕事

 婦人服プレスの仕事はね、お客さんは個人じゃないんです。服の会社が縫製し終わったものをうちに持ってきて、プレスしてハンガーにかける。そのハンガーにかけたやつにカバーをして、問屋さんに卸して、お店に並べるんですね。
 4歳下の妹がずっと手伝ってくれました。決まった休みはなかったです。朝8時から、夜の11時まで働きました。この仕事はね、1日中立ってるからしんどいんですよ。3、4時間もやってたら疲れてくるし、夜になったらぐたっとなります。でも仕事ですから、それがつらいとは思わなかったですね。
 当時は問屋さんにもよく文句を言いました。ときたま、「はよせい」って言われたら、「そんなんできるか!」って言い返したりね。偉そうなものいいをする相手は放り出したこともありますけど、そんなことしてもまた来てくれます。今考えたら、ありがたかったと思いますね。
 仕事で大事にしていたことは、「すみません」と「ありがとう」と言うことです。文句を言っても、おおらかな妻がいて、何回も救われました。いろんな遊びもしたけど、なにかあれば妻に救われている。普通の嫁さんだったら別れていると思いますよ。でも、なんとか今日まで過ごしてくれているんです。
 令和4年の12月23日に仕事を辞めたんです。43年続けました。そうしたら最後の日に、下の仕事場で家族が祝ってくれました。子どもたちも孫もみんな来てくれて、花束を贈ってくれました。僕、人生で初めて泣きましたよ。あんなことをしてくれるって思いませんから。本当に、最高でしたね。

半生を振り返って

 昔は気が短かったですけど、70を過ぎてきたら性格がまるくなりました。学生のころのように、人を抜いて前に立ちたい、という気持ちは今はないですね。とにかく、「ありがとう」「すいません」です。この2つがあったら喧嘩になりませんから。
 最近は、本当に1日が長いんですよ。仕事をしていたときは、5時とか5時半に起きて仕事をしても1日があっという間だったけど、今はとにかく長いですね。
 振り返ってみると、博打もようしましたね。パチンコ、ゴルフ、麻雀、競艇などは40歳ごろまでやりました。博打はぜんぶ、きっぱりやめました。僕は、やるときはとことんやるんですが、やめるって言ったらすぐやめるんですよ。72歳まで吸ってたタバコも、1週間でやめました。今も続けている趣味はパークゴルフです。今週も2回行きました。広いところを登ったり降りたりして、夫婦で行くこともあれば、1人でも行くこともあります。よくテレビも見ていますよ。好きなテレビ番組は、ゴルフ、バレーボールと時代劇です。ゴルフやバレーボールは昔やっていたというのもあって見ていて面白いですね。時代劇は昭和30年代に映画館でよく見ていたんですよ。市川右太衛門さんや片岡千恵蔵さん、大川橋蔵さんとかがいて、今、当時の人が出ている時代劇や昔からある時代劇、たとえば銭形平次や水戸黄門やらをやっているので、そういうのを夫婦で見ています。旅行の趣味がなくて、妻に怒られていますけどね。息子が住んでいる軽井沢に数回一緒に行きましたけど、家にいることの方が好きなのかもしれません。遊ぶこともたくさんしてきたから、我が人生に悔いなしです。満足していますね。
 もし心の中に欲が出てきてもね、『不自由も常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したるときを思い出すべし』と言うてます。その言葉が、僕の中に常々ありますね。昔の困窮しているときを思い出したら、どんなに貧乏をしても耐えられますよ。「どこか行きたいけど金がないな」と思っても、「貧乏なときは飯も食われへんかったんやで」と思う。「不幸やな」と思うても、昔のことを考えたらどうもないです。
 こんにちまで、僕は本当に、人に恵まれてきました。困ったときはいつも誰かに助けてもらっています、神様がいたんかな、と思いますし、そうやって助けてもらえるのは、僕も誰かを助けてきたからかなとも思います。与えたら、与えてもらえる。やっぱり、ギブアンドテイクです。最初からそうやって、ずっときていると思いますね。
 お母さんとも助けたり助けられたりで生活していますね。僕はね、掃除機をかけたり、布団を干したり、茶わんを洗ったり、そういうことをするのが嫌いじゃないんですよ。お母さんが洗濯を干している間に風呂を洗ったりね。言われてやるんじゃないですよ。言われたら嫌になりますから。これも、ギブアンドテイクです。
 僕は本当なら今、死んでるんですよ。令和3年7月、大阪の病院で余命半年と言われていました。肺がんだったんです。でも、息子が東京でいい病院を見つけてくましてね。去年の1月14日から肺がんの治療をして、もう2年目になります。おかげで長生きできています。息子にはいろんなことで感謝しているんです。娘も近所にいて、毎日顔を見に来てくれていて、ありがたいですね。
 一日一生だと、そう思いながら生活しているところです。

 

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