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THE飯田和男

令和4年1月発行 / 千葉県出身・昭和16年生まれ

あせるな、おこるな、いばるな、くさるな、まけるな

飯田和男として生きてきて

令和3年10月28日。
「THE飯田和男」創刊号発行にあたり、飯田和男氏にインタビューを行った。 共働きの両親のもと、8人きょうだいの三男として幼少期を過ごす。 働きながら大学を卒業したのち、労働基準監督官として働き、 松戸市でおきたトンネル水没事故の際も尽力した。 地元を愛し、家族を愛する彼の、半生を追う―。

  PROFILE●飯田和男
  生まれ年:昭和16年
  趣味:囲碁 散歩
  好きなテレビ番組:小さな旅 ブラタモリ
  好きな食べ物:果物 刺身 ウナギ
  好きな本:オー・ヘンリー短編集 史記
  尊敬する人:勝海舟
  座右の銘:中庸 あおいくま(あせるな、おこるな、いばるな、くさるな、まけるな)

生い立ち

 昭和16年12月3日、千葉県茂原市で生まれました。茂原市は外房線で千葉から九十九里の方に向かって10個目に駅があって、九十九里平野にある天然ガスが埋蔵されている南関東ガス田で知られているところです。大きな生産量ではないんですけど、内陸工業地帯としては県内で栄えたところです。昔のテレビはブラウン管とか真空管を使っていて、それを作るのにエネルギーが必要でしょう。天然ガスは安いし、多量にでるので、日立製作所が進出してきて、日立企業城下町みたいに割合と栄えていたんですよ。他にも、東芝の子会社なんかもありましたね。それから、茂原は今では七夕でも知られているんです。日本三大七夕といえば、仙台・平塚・茂原なんですよ。全国の桜百選でも知られていて、立派な桜並木が河川敷にあって、観光客もたくさん来ていたんだけど、残念ながら一宮川の浸水対策で伐採されちゃったんですよね。

 子どものころは飛んだり跳ねたりしていました。夏は九十九里の海岸へ海水浴によく行ったんですよ。勝浦とか御宿のような波が穏やかな海岸には行かないで九十九里の波の荒いところに行きましたね。経済的な理由でもありましたがね。九十九里の海岸では地引き網が行われていて、漁船を引っ張り上げて網で浜にあげる途中に小さい魚がこぼれるんですよ、それ目当てだね(笑)。商品にならないような小さなアジだとかがこぼれてくるから、拾うんだけど、漁師さんからは文句なんて言われなかった。今は九十九里はサーフィンのメッカになっていますね。

 隣の一宮の方は河口付近は別荘地になっていて、波が穏やかだから組んである櫓(やぐら)から海に飛び込んだりして遊んだんです。長い時間遊んでいたから真っ赤に日焼けするし、砂浜は熱くてつま先でも立っていられないくらいでね。よく病気にならなかったなと自分でも感心しているけど、やっぱり慣れていたし、ある意味、鍛えられたのかもしれないね。

 そのころは、ウサギとかニワトリそれからメジロなどの鳥獣を飼っている家が多かったんですよ。うちでもメジロを飼っていました。声がきれいな鳥なんですよ。「さしこ」っていう竹でできた鳥かごを、見よう見まねで作っていましたね。材料の竹はお隣の籠屋さんからもらって、キリなんかの道具を使って作ったんですよ。メジロの世話をするのに水浴をさせたりしていると、しょっちゅう飛んで行って逃げられちゃうの。その逃げたメジロを他の誰かが捕まえて近所の家で飼われ始めたり、ってこともありましたね。わが家もさしこに仕掛けを作って、飛んできた鳥を捕まえたりしましたよ。

きょうだいと両親

 私のきょうだいは8人で男は3人、女5人です。一番上の兄は運動神経がよくて、山バトを撃ちに行ったりしていました。山バトの肉は鳩胸っていうくらい、いい肉でおいしいんですよ。

 それから、男3人きょうだいで次男とはビー玉とかめんことかベーゴマだとかでも遊んだけれど、長男は年が離れていたこともあって、ビー玉やめんこなどで一緒に遊んだ記憶がないな。長兄が悪童に誘われて遊びに行くと、持っていたベーゴマなんかをみんな巻き上げられちゃったりするんだよね。あの当時はビー玉とかめんこは大した価値がなかったんだけど、ベーゴマは高くて1個5円くらいしたんですよ。でも、小遣いなんかほとんどもらってなかったから、自分の腕で稼いでいました。そのままだったら弱いベーゴマでも、加工すると強いコマになる。そういう上物(じょうもの)を作って稼いでいました。

 手先が器用っていうほどではないけど、何か作るのは嫌いじゃなかったね。さしこなんかも自分で作ったし、カシの木からたことかまんじゅうゴマなんかも作ったんですよ。カシの木を切っていたら、その山の持ち主が後ろに立って見ていたってこともあったね。木を削る機械もなかったし、丸く加工するのが難しかったよ。

 あのころは珍しかったけど、両親は共稼ぎで、私たち8人きょうだいを養っていました。おやじは木更津の方の農家の三男坊で婿養子でしたね。私は親に怒られたことはないんだけど、女きょうだいから、はっぱをかけられたことはありましたよ。就職するときに、姉から「和男、今までみたいにのほほんと生きていたら、社会に出ても生存競争に勝てないよ」って言われたんです。生存競争なんていう大人びた言葉を使ったことなんかなかったし、言われたこともなかったからびっくりしたよ。けど、親の代わりに言ってくれたんだよね。その姉は強かった。中学生のころに重病を患い、片方の腎臓を取っちゃった体で私なんかよりずっと仕事を頑張っていましたよ。長兄が悪童たちに巻き上げられたベーゴマなどを取り返してきたんですよ。殖産住宅でセールスマンをしていたんですが、私よりもずっと稼いでいたんじゃないかな。

小学校、中学校、高校時代

 私は人前で話したりするのが苦手な子どもでしたね。おふくろがたまに学校に来ると、「和男君はいつも隅の方にいて手を挙げない」って先生から言われたって言っていたけれど怒られはしなかったね。中学のときに3回くらい大ゲンカをしたことがあるんですよ。当時、そろばん塾がはやっていてね、どの家の子どももそろばん塾に通わされていたんだよ。上の妹は1級を取って全国大会にでるくらいでしたけど、自分はだめでしたね。でも、就職するときに有利になるだろうってことで通うことになりました。

 家の近所にそろばん塾がなかったから、ちょっと離れたところのそろばん塾に友達と3人で通っていたんです。早めに行って前の方にあるいい席を取って、荷物を置いて始まるまで外で遊んでいたんですよ。ところが、教室に戻るとなぜか自分たちの荷物が一番後ろの席に移動されてる。どうやら、同じ塾にいた地元の連中が、隣町から来た俺たちに腹を立ててやったみたいなんだよね。俺もそれが頭に来ちゃって、上から乗っかって逃げられないようにして、相手をボコボコにしちゃったんだよ。そしたら帰りに、向こうのガキ大将に神社の境内に呼び出されたんです。だけど、一緒にいた友達2人は巻き込まれたくないからって言って帰っちゃった。俺は、ボコボコにされるのを覚悟して1人で神社に行って、「殴ったのは悪かった」と素直に認めたんです。そしたら、そのガキ大将が俺を気に入ったみたいでね。それで、そのガキ大将が解決策として「じゃあ1回だけ殴らせろ」と言って、本人が本当に殴ってきたよ。ところが俺の頭の一番固いところを殴って、手がしびれちゃったみたいで、「今日はこれで終わりだ」って言うからその日は家に帰りました。

 親にはこんなことがあったんだって言ったら、そのそろばん塾にはもう行かなくていいってことになって辞めちゃったけどね。だから今でもそろばんはダメなんですよ。就職に役に立つようなレベルにはならなかったですね(笑)。

 高校は千葉県立長生高校に行きました。家は茂原駅の近くにあったんですけど、そこから歩いて20分くらいのところにある学校でした。兄弟姉妹8人中、女2人が長生高校の同窓生です。高校時代もやっぱり勉強は嫌いだったな。

 長生高校では体操部に入っていました。男子学生に人気があって、結構多くの人が入部したんですよ。その理由はただ一つ、美人の女学生がいたからなんだけど(笑)。でも、みんな鉄棒とかつり輪だとかが怖くて、1年もたたないうちにやめていきましたね。私は最後まで続けました。夏は合宿もあったりと、充実してましたよ。後輩がつり輪をやっていたときに、手を滑らせて落下して骨折したこともあったな。危険なことも多かったんです。私はほどほどにやってましたので、床体操しかできませんでしたよ。

仕事と学業の両立

 高校を卒業してからTDK市川工場に勤めたんです。当初は技術系ではなく労務関係の仕事をしていました。独身寮に入って、山形とか秋田から来ている人たちと一緒に生活をしました。彼らの何人かが大学の夜間部に通って勉強していたので、自分だけ取り残されたような気がしちゃってね。それで2年遅れで中央大学の夜間部に行くようになったんです。中央大学はお茶の水付近ににあって交通の便がよかったんですよ。そのときも姉からの「生存競争に勝てないよ」という言葉が心に残っていて、焦っていたんだろうと思います。2年も遅れて勉強を始めたけど、なんとか卒業できたことはうれしかったですね。

 夜間大学では、卒業するための必須科目があって、その中に体育があったんですよ。冬の寒い時期に跳び箱をやらされてね。若い昼間の学生もいたんだけど、われわれ夜間学生の中には年配の人もいたんですよ。年を取ると寒い日の跳び箱は大変なんです。飛んだ後にマットに着地すると足が痛んだりするからね。年配の学生の中には、「あんな若い学生に何だかんだ言われたくない」って頭に来ちゃう人もいて。みんなでなだめるなんてこともありました。

 大学では単位を取るために1年遅れてワンダーフォーゲルをやり、無事卒業することができました。ある日、戸隠の「蟻の戸渡り」という尾根の両側が切り立った細くて狭い崖に行ったんです。横ばいにならないと歩けないような場所でしたね。そこを進んでいたときに雨が降ってきたんですよ。それでテントに引きあげたんです。5人用くらいの大きなテントでした。その周りに水を抜くための排水溝を作ったんですが、年上の銀行マンみたいな学生が頭にきたみたいで「なんでこんなことをやらなきゃいけないんだ、俺はもう下山する」って言い出して。途中で止めちゃったら単位が取れないし、卒業もできないでしょう。そこでも、みんなでなだめて、頑張って下山しましたね。あの日、もっと雨が激しく降っていたら、難しかっただろうな。

 仕事と学業の両立は大変だったけど、大きな卒業証書をもらったときは、達成感もありうれしかったですね。

労働基準監督官として

 TDKで7年くらい働きましたかね。大学を卒業してからは、労働基準監督官になったんですよ。たまたま新聞で募集広告(公募2期)を見て応募しました。特別な試験問題もあったんだけど、私はTDKで少し労務関係の仕事をしていたから、ある程度の予備知識があったんですよ。採用されてからは、研修などで出会った年配の人たちと飲みに行ったりして楽しかったですね。仕事は求められる質も高く、大変だったけど面白かったな。

 労働基準監督官っていうのは、労働基準法だとか労働安全衛生法だとか最低賃金法とか、そういった法律の下で特別司法警察官として権限を行使することもできるんですよ。労働基準法や労働安全衛生法が守られているかや、賃金の違反がないかなどを捜査したり、現場に入って行って指導したりするんです。昔は京葉臨海工業地帯で石油コンビナートの爆発事故や工事現場なんかでの死亡事故が多かったんですよ。そういったときにも、原因究明と再発防止指導のため現場に入っていましたね。

 平成3年9月、松戸市の国分川分水路トンネル工事現場でトンネル水没事故が発生し、作業員7名が亡くなるという大事故(労働災害)が発生しましたが、私が柏署にいたとき、このトンネル水没事故の捜査に関わったことがありました。これは7人も亡くなる大きな事故で、責任追及などの決着がつくまで2年くらいかかりましたね。労働安全衛生法に関する違反があるということで、権限に基づいて立件したんです。この工事は千葉県が発注者で、県職員が関係してたから特殊な案件だったんですよ。ゼネコンの責任者を署長であった私が直接取り調べました。「未必の故意」という難しい問題もありましたが結局、被疑者は有罪になりました。なお、受注ゼネコン(元請)は被災者7人の遺族へ総額6億円に上る補償金を支払ったとされています。

 私は労働基準監督官として、常に責任を持って仕事をしていましたよ。

妻との出会い

 妻とは、いとこの紹介で知り合いました。いとこは職業安定所に勤めていたんですが、当時、労働基準監督署と職業安定所の組合は一緒だったんです。そこで私が30歳までに結婚したいんだっていう話をしたら、ちょっと付き合ってみないかと言って妻を紹介してくれたんですよ。結婚式は30歳を半年過ぎたころに挙げたので、残念ながら30歳までには間に合わなかったけどね。

 妻には一目ぼれだったんです。彼女は都会の人間だったから、私のような田舎の人間とは違っていたね。上の子が生まれるとき、難産で結局、帝王切開になったんです。2人目はまた難産になるかもしれないし、無理だろうと思っていたんだけど、どうしても欲しいということで頑張ってくれました。難産だったけど、帝王切開にはならなかったのはよかったです。

 そんなこともあってか、子どもたちをしっかり育てようという意識があったみたいだね。妻は、子どもたちをしょっちゅういろんなところに連れて行ったり、海外旅行を経験させていました。落ち着きがなかったり、仕事も定職がないような子にはしたくなかったんだと思いますよ。上の子が高校で下の子が中学校1年生のときに、子どもだけで海外に行かせるというツアーがあって、それにも申し込んだんです。英語が話せるわけでもないから、私は心配でしょうがなかったですけどね。無事に帰って来たときは、よく行かせたなと思って妻を見直しましたよ。

 子どもを産んだとき相当体力を消耗したし、その影響なのか最後は後腹膜線維化症という病気になってしまったけれど、とても頑張り屋でしっかりしていて、子どもたちの教育に熱心でした。

子どもたちのこと

 子どもたちは私に似ているところもあれば、亡くなった妻に似ているところもありますね。小さいころは、昭和の森っていう公園に連れて行ったり、近所を散歩したりしましたね。牛を飼っている農家が結構あって、散歩にはいいところでしたよ。下の子は小児ぜんそくを患っていたので、千葉にあるスイミングクラブに通わせました。おかげで健康になってくれたね。体を動かすことも好きだったんじゃないかな。

 私が監督署を退職した後、子どもたちが声を掛けてくれて、いろいろなところに行きました。上の子がスペインで結婚式を挙げたときにはそこに連れて行ってくれたし、ハワイなんかも一緒に行ってくれましたね。上の子は、旦那の転勤の関係でボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアなどアメリカに10年近く住んでいました。ボストンにいるときにも呼んでくれましたね。ハワイにも招待してくれたな。コンドミニアムを手配してくれたり、なかなかの実行派ですよ。下の子も日本の観光地をいろいろ案内してくれました。家族で行った旅の思い出がたくさんあります。

 娘たちは自律精神が高く、しっかりしていますね。私がいろいろ心配して口を出すと、下の子から「お父さんの趣味は心配症だ」って言われるんですよ。家を処分したときも、娘たちがいろいろ動いてくれたんです。ここのホームは地元だし、駅から近いというのがあって選びました。結構やることが多くて、手続きが大変だったんですよ。でも、娘たちがみんなやってくれました。ありがたい話です。これも亡くなった妻の教育がよかったからでしょう。

人生を振り返って

 私は運がよかったなと思っています。ピンチのときは不思議とそれを補てんしてくれるようなことが起こるんですよ。私が動かなくても周りの人がいろいろ助けてくれたり、味方になってくれる人が現れたりね。例えば、家のことも、私の代わりに娘たちが動いてくれたでしょう。まさかこんなにテキパキやってくれるとは思っていませんでした。

 座右の銘は「あおいくま」です。あせるな、おこるな、いばるな、くさるな、まけるな、この五つの頭文字をとって、「あおいくま」ということです。お笑い芸人のコロッケさんが言っていて、心に残りました。ここでいう「まけるな」は戦いの負けということではなくて、誘惑に負けるなということだと思います。この「あおいくま」という言葉を思い出すと、踏ん張れるんです。踏ん張っているうちに必ず味方が何人か出てきて、手を差し伸べてくれる。そういうことで大切にしている言葉です。娘たちにもこの「あおいくま」を忘れてほしくないと思っています。

 今はいろいろ大変なことがたくさん起こっているけど、楽しめることもいっぱいあるでしょう。娘たちには、そっちに目を向けて、一生懸命働いて、周りの人を大事にしてほしいですね。

Family’s Photo

ご家族メッセージ

お父さんの80歳の記念に

お父さん、今まで育ててくれて、そして見守ってくれてありがとう。私たちは本当にお父さんの娘で幸せでした。最期の日々を家族3人で一緒に過ごすことが出来たことに感謝します。また、この春には褒章・位階を拝受いたしました。様々な方々より頂いたご厚意は、父の誠実で愛嬌のある人柄の賜物でもあり、そう思うと亡父が一層偲ばれます。親の雑誌は、亡くなる一年ほど前に完成しました。作成して本当によかったと思っております。

子どもたちより

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